第Ⅳ章 存在のかたち

ある晴れた日に

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


その時、「夜」が、ゆっくりと舞い降りた。


第Ⅳ章 存在のかたち
C Part

  彼女レリエルの中には海がある。
 全てが無に還る、虚数空間。俗に「ディラックの海」という。
 その中でさえも、彼はその存在を保つことができる。彼の同胞をして畏怖せしめるほどのATフィールドが、それを可能にしていた。
『ここには位置がない。だから、一つ間違えば・・・・無に還ることはなくても自分を見失い、結果的にいつか無の海に溶けることになる』
 絡めた指先が、唯一の浮標。
『・・・・・私が見える?』
 丈なす黒髪の女性の姿は、いまここにはない。在るのは永劫の闇、そして彼、彼が差し出した指先に絡む、細い指。しかし手首が続くべき場所に手首はなく、ただ闇があった。
 ――――――まだ、もうすこし。
 見えるものが全てではない。感じなければ。
 位置の無い空間に、位置を求めることは不可能だ。だが、存在を感じ取ることはできる。・・・赤い・・・・赤い玉。無の闇の中、生命の可能性を包んだ紅の玉が、ある。
 ――――――そこだね、レリエル。
『・・・・・いいわ、戻って』
 唯一つの浮標を手がかりに、無の海をわたり、水面へ。不意に抑えた灯りに照らされた、乱雑な部屋の光景が浮かび上がる。
 その灯りすら眩しくて、カヲルは僅かに目を細めた。
およそひとの住処とは思えない・・・というか、逆にこの家にしては人の気配がありありと感じられる室内ではあった。
 殺風景なフローリングの部屋。ソファベッドの周囲には、頁が開いたままの本やら飲みかけの缶が散乱し、CDデッキのリモコンが枕の下敷きになっているかと思うと、ヘッドフォンが足下から蹴り落とされていたりする。
 およそ彼らはお互いのことに不干渉ではあったのだが、それでも彼女が占有したこの部屋に立ち入る者が一人としていなかったのも道理といえば道理だ。
 もっとも、うかつに入り込む者があれば間違いなく虚数空間に放り込まれているが。
 カヲルがこの部屋に入ったのは、他でもない主の招きによるのだが、さすがに部屋を眺め渡して言葉がなかった。カヲルの行動範囲内は、通常、生活感がないほどに整頓されていたからだ。
 「・・・・・大丈夫?」
 その膝にカヲルの銀色の頭を乗せ、壁に身を凭せ掛けるレリエル。指を解き、問うた。
「・・・・・少し、目眩がするだけ」
「”感じ”はつかめたかしら?」
「多分・・・・・・・」
「頼りない返事ねえ・・・・・・でもまあ、いいわ。どうせ、あなたのATフィールドなら、これくらいは創れるはずよ」
 事も無げな一言に、カヲルの唇が僅かに歪む。
「空間を支えるほどのATフィールドが、僕に?」
 それに対するリアクションは、およそ今までの誰とも違うものと言えた。
「・・・・・・澄ましまくった笑いしてんじゃないわよ、子供の癖に。別にさしたる出力が必要な訳じゃない。要領なのよ」
 畏怖するでなく、嫌悪するでなく、かといって息苦しいほどのいたわりもなく・・・・それでいて、感情と訣別した訳でもない。カヲルは確かにこの時、当惑していた。
「・・・・・・・・」
「分からないって顔ね。ま、いいのよ。何もあなたにやれってんじゃないんだから」
 カヲルは身を起こし、ベッドから足をおろした。
「・・・どうして、ここまで?」
「知りたい?」
 悪戯っぽく、彼女は問うた。
 カヲルは返答に詰まり、俯く。
 ややあって、彼女はふと顔を上げた。
「・・・・目を逸らさないことね。その綺麗な目、しっかり見張って・・・・最後まで見てなさい。あなたにはそうする義務がある」
 柔らかな口調で、しかし確固とした響きをもった声で、レリエルはそう言った。
 運命が変わるか変わらぬか。そんなことは関係ないと彼女は言う。
 最後まで己の選択を貫けるか。それだけだと。
「・・・・・・・空間上に影をつくることになるだろう?」
「おそらくはね。でもそれだけでは向こうも様子を見るでしょう。出てくるとしたら、あのエヴァよ。それがチャンス」
「出てくるのか・・・・あれが」
「出て来て貰わなきゃ、困るわよ」
「あなたは・・・・・・・!」
「間違えないで。私達は生き残るための戦いをしているのよ。エヴァがあくまでも私達を滅ぼすというなら、私達は戦うだけよ。ただ、がむしゃらに立ち向かったんじゃ無駄死にだわ。
・・・・・あれを私達はエヴァと呼んだけれど、私達が持っているエヴァの概念から外れるモノであることは間違いない。でも、判断材料が少なすぎるわ。・・・・自分の役目、忘れないでよね」
「理解っている・・・」
 サキエルが滅ぼされた時、エヴァの中にいた・・・もう一人の誰か。知っている者は、滅ぼされた者達を除けばカヲルしかいない。
 父なる方の意志プログラムに呑み込まれる前に、それを確認しておきたいと言ったのは彼女だった。そのために、カヲルの力を借りたいと。
 断るほどの理由がなかった。だから、承知した。
「当然理解っていると思うけど、帰りの保証はないわ。サハクが消え、イロウルが消えたと言うなら、次は私。そうなったとき、カヲル、あなたの帰り道を保証してあげることは出来ないのよ。いいのね?」
 帰りの保証があろうが無かろうが、ここまできて、今更否やのあろうはずがなかった。緻密なのか、大雑把なのか、いま一つつかみづらいひとではあった。
「・・・・・・これでもね、あなたには生き残ってもらいたいと思ってるのよ。一応はね」
 そういって、笑う。カヲルの当惑を、愉しんでいるかのようでもあった。
「・・・・・・じゃ、いってくるわ・・・・・・

そして、白昼の第3新東京市に「夜」がゆっくりと舞い降りた。

【消えた!!】
【何!?】
【パターン青!! 使徒発見。初号機の直下です!!】
 第3新東京市に、虚無の海が広がる。

 レリエルの誘導で辿り着いたそこで、一つの物体がゆっくりとカヲルの眼前に沈んでくる。
 彼らリリンが、EVAと呼ぶもの。
 本来、魂が無いもの。
 それゆえに自壊したはずのもの。
 ではあのとき感じたのは何だったのか。
 カヲルは、腕を伸べてそれに触れた。
 電源が落ちている。ケーブルが切れた段階で、おそらくは生命維持モードに切り替えたのだろう。ここが何処かも解らなかったにしては賢明な選択だ。
 サキエルに喰いかからんとしたあの狂暴な意志は感じられない。EVA自体が停止しているからか。だとすれば、あれはEVAの意志だったのか?
 しかし今、カヲルの興味は別の所にあった。EVAの中のもう一つの意識。自分と同年代の、少年。EVAに同調することのできるこころ。
『・・・・君は、誰?』
 エントリープラグ、LCL・・・・隔てるものは厚い。しかし、耳を澄ますように、心を澄ます。声を、聞く。心の声。
『・・・・君は、誰?』
 心が閉じている。外側からの干渉は難しいかも知れない・・・。
 ヒトのATフィールドは、彼らほど意図的に行使できない。外部からの物理的な侵害に対する防御能力はないに等しいが、心を閉ざすことにかけてはおそろしく強固だ。
 せめて、直接触れることが出来れば。LCLの精神防壁がないだけでも少しは違うはずだが・・・・・。
 その時、耳をつんざくような声に思わずカヲルは身体を折った。
 無論、この空間で音が伝わるわけはない。心の、叫び。
 意味をなさない、絶叫だった。
 ボリュームを最大に上げて、かすかな音を拾っている最中に銃声がしたようなものだ。頭痛に似た感覚の中で、ようやく声を拾う。
『出して・・・ここから出してよ・・・・!!』
 外の時間で言えば、もう10時間以上が経っている筈。そろそろ生命維持機能も限界近い頃だ。パニックを起こしかけているのかもしれない。
 やはりそうだ。自分と同じくらいの、少年。自分に近い何かを感じる。それは不思議な感覚だった。
 外側へ向かって無制限に発信される声が、急速に内面ヘ収縮していく一瞬を捉える・・・・・。
『誰?』
『碇シンジ』
『それは僕だ』
 彼のなかの言葉を使って、カヲルは答えた。いや、問うたのはカヲルだったのか。
―――――――僕はいらない子供なの?
―――――――嫌な事には目をつぶり、耳を塞いで生きてきたんじゃないか!
―――――――イヤだ、聞きたくない!
―――――――ここは嫌だ・・・・一人はもう、いやだ・・・・・
 痛みに満ちたこころは、触れたカヲルにも痛みを与えた。
 何も知らず、教えられも、自らも知ろうとはせず・・・・・ただ自分の居場所を得るためだけに、この恐ろしいものに乗っている、ただの子供。あわれな子供・・・・・・
 意識が急速に薄れている。維持システムが限界に近づき・・・・・・窒息しかかっているのだ。
―――――――もういやだ・・・・もう何も、考えたく・・・・・・な・・・・・
 虚無の闇に沈みつつあるこころ。それを引き留める術を、カヲルは持たなかった。
 まだ何も話していない。まだ何も聞いていない。初めて心に触れたときの、不思議な感じの理由もわからないままに。
 思わず手を伸ばす。しかしその手は何にも触れることはなかった。
『だめ・・・・・逃げて!!』
 レリエルの声。それで我に返る。
 気がつくと、EVAが起動していた。
『・・・・誰・・・・・・・!?』
 カヲルは、背筋を駆け上る不快感にぞくりとした。何かがいる。EVA・・・・?これはEVAの魂なのか・・・・・・!? いや、これは・・・・・・・!!
『逃げなさい・・・・・・・・カヲル』
 低く抑えたレリエルの声。それは何かを堪えるようでもあった。EVAがその禍々しい双眼をきらめかせてカヲルを見る。それは、確かにサキエルを引き裂いた者であった。
 サキエルのATフィールドを侵食し、その腕を引きちぎり、サキエルを喰おうとした・・・・・・
 カヲルは慄然とした。
 EVAは・・・・・・リリンがEVAの名で呼んでいるものは・・・・・!!
 答えが、喉の奥まで出かかっていた。しかし、最後までそれを絞り出すだけの時間が、カヲルにはなかった。
 EVAがその巨大な手を伸ばす。
しかし手は、カヲルの頭上を通り越して後ろにあった紅の玉を突き刺していた。
『・・・・・・生きなさい。カヲル・・・・』
『レリエル!?』
 鮮やかな紅が、どす黒く変色していく。
『私は、ここまでよ。いいこと、死んだら許さないから・・・・・・・』
 球体から、血のような紅が滴り落ちる。EVAはいったん手を引き抜き、傷口に両手をかけて引き裂かんとしていた。
 カヲルの手の内で、オレンジ色の光がはじける。
『何やってんの! あんたがしなけりゃならないことは、別にあるでしょ!?』
 苦痛を堪えながら、その声は毅然としていた。
 次の瞬間―――――――――。

 突如、黒い海に紅い亀裂が走る。
【何!?】
【すべてのメーターは、振り切られています!】
【まだ、何もしていないのに・・・・・】
 黒い海の上空に浮かんでいた球体からその奇異な文様が消え、くすんだ黒色となる。びくびくと蠢いたかと思うと、球体の内側から鮮血とともに手が飛び出した。
 鮮血は球体を伝い、割れた黒い海に滴り落ちる。禍々しい咆哮とともに、初号機が内側から球体を割り裂いて頭を出した。
【なんてものを・・・・・なんてものを、私たちはコピーしてしまったの・・・・・】
 球体がはじけ、初号機が赤黒い傷口をあけて横たわる黒い海の上に降り立った。
 赤黒く染め変えられた機体。その中でその双眼が炯々と光る。
 危機が回避された。そのことに安堵を覚えているものは、この時点においては皆無であった。
 ただ、初号機があげつづける奇怪な唸りに畏怖するばかり―――――――。

『いいこと、死んだら許さないから・・・・・・・』
 カーテンからもれる光は、夜明けを告げていた。
 カヲル自身は一滴の返り血を浴びたわけではない。だが、消えない血の匂いがカヲルに軽い頭痛と嘔気をもたらしていた。
 なぜ、自分なのだろう。
 何ができるというのだろう。
 自分には託されるなにものもない。そんな資格は自分にはありはしないのだ。
 何もできるわけがないのに――――――――――!!
 もう吐くものなど何もないのに、胃液だけが上がってくる。
 胃液の酸味がさらなる嘔気を引き起こす。身を横たえていてさえ目が回る。
 いっそ意識がなくなれば楽なのに、意識は冴々と保たれている。先刻飲んだ睡眠薬は今しがた吐いてしまっていた。強い薬だ。まるっきり空の胃が受け付けないのも至極当たり前だったが、今のカヲルはそんなことにすら頓着できなくなっていた。
 眠りたいのだ。できることなら永遠に。
――――――静穏を求めて闇の中へ沈んでいこうとした、悲しいこころのことが頭を掠める。
 恐れ、痛み、悲しみ・・・・・そして希望。
 それでもEVAに乗るの? だからEVAに乗るの?
 不思議な感触だった。EVAの起動で断ち切られてしまったが・・・・・・。

―――――――――だがいずれ、彼とも対峙しなければならないのだ・・・・・・。