第Ⅶ章 Air

原初の海

Senryu-tei Syunsyo’s Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


 血臭のする液体の中にたゆとう。
 ――――――――何故、僕はまだここにいる?
 漠とした問い。生まれては消えてゆく気泡。
 ――――――――何故、僕はまだ生きている?
 かすかな光を感じている瞼を、強く閉じる。外の景色を認めたくなくて。


第Ⅶ章 Air
A Part

 ひどく明かりの弱い、ちらつく蛍光灯。くすんだ天井。
 モニターの信号音。空調機械の唸り。点滴の落ちる音。低いブザーに続いて、血圧計のマンシェットを膨らませる空気音。
 薬品臭。左腕を締めつける、不快な感触。ごわついたシーツ。
 マンシェットが緩み始める。耳を覆いたくなるほどに誇張された拍動。・・・しかしそれから逃げることはできない。それは紛れもない、自身の心臓が刻む律動だから。
「・・・・・・まだ、生きてる・・・・」
 声は掠れていた。喉はからからに渇いていたのだ。
 シーツの中の掌を握りしめる。・・・感覚は、あった。
 ゆっくりと身を起こす。いつかのような眩暈はない。その動作が肩からごわついたシーツを滑り落としたが、寒さは感じなかった。
 室温そのものはきちんと調整されていたが、その部屋の光景はひどく寒々としていた。おそらくは地下室。ベッドのほかにあるのはモニターくらいか。部屋の隅に、もう使われなくなって久しいとおぼしき器械類がほこりにまみれたシートを被せられていた。
 本部地下にあった部屋に似ている。そんなことを思う。
 そして両手を見つめた。手・・・白い手・・・・。
 やや緩慢な動作で、身体にまとわりつく端子を引きはがす。最後に血圧計のマンシェットを外そうとしたとき、不意に重い鉄扉が開いた。
「気がついたかい?」
 深い紅瞳にとらえられ、入ってきた男は一瞬声を失った。
「・・・・あなたは誰」
 抑揚に乏しい声だった。噴き上げる感情を抑えつけているようでもあった。問われた男は傍目には鬱陶しい程の長髪をかきまわして、あらぬ方を眺めやる。
「話せば長いんだが・・・まあ、そのごたごたした機械をとりあえずどけようか」
 男が言うのを器械類のことだと思っていた彼は、不意に腕に触れられたことに皮膚を粟立たせた。
「・・・・僕に触るな!!」
 まとわりついていたマンシェットごと、彼は男の腕を振り払った。だがその瞬間に、触れた手から情報が流れ込む。
「・・・・っ!!」
 額を押さえて身を折る。男は慌てて手を引っ込めたが、今更どうなるものでもない。
「・・・済まない、大丈夫かい・・・? 言われていたのに、気がつかなかった。悪かったよ」
 覚醒直後はエンパシーの制御が不十分で、彼は接触によって好むと好まざるとに関わらず膨大な情報を読み取ってしまう。・・・・それを、この男に教えたのは・・・・。
「Armisael・・・」
 彼が呟いた言葉を、男は聞き損ねたようだった。
「大丈夫かい、横になった方が・・・」
 だが、彼はやおら身を起こすと差し伸べられた手を振り払った。
 ―――――――手を使わずに。
「うわっ!!」
 決して小柄でもないその男が、ゆうに3メートルは吹き飛ばされ、鉄扉に叩き付けられる。それだけに終わらず、無形の盾を押しつけられたかのように鉄扉に縫い止められていた。
 彼の手元で、黄金の八角形の残滓がゆっくりと空気の中へ溶けていく。
「・・・ぐ・・・・」
 男の苦鳴にも、彼は眉一つ動かさぬ。手を伸べて無形の盾をさらに押しつけた。鉄扉が軋む。
「・・・酷いひとだね、あなたは」
 それを怨嗟と言うには、こめられた感情が希薄であったかもしれない。
 だがひどく冷えた両眼が視界の一隅にあるもの・・・・を認めたとき、ふと気が逸れ、男は無形の盾から自由になった。
 鉄扉の下に蹲り、男は喉に手をやって大きく息をつく。
 彼は少し俯いたまま、かすかに口を開いた。
「・・・てください・・・」
 だが荒れた呼吸に、男は彼の言葉を聞き損ねた。
「・・・何だって?」
「・・・・しばらく、一人にしておいてください」
 少しだけ顔をあげて、区切るようにして発せられた言葉から感情は窺えず、ただ透明。先刻の殺気立った様子はすでに微塵もない。
 男は突然の仕打ちに何も異を唱えるでなく、軋む身体で立ち上がった。
「判った、服はそこに・・・。何かあったら呼んでくれ。済まなかったね、聞いていたことなのに、注意が足りなかったよ」
 男は心底済まなさそうに言い、少し歪んでしまったらしく、開きにくくなってしまった鉄扉をこじ開けた。
「・・・・まだ、名前を聞いていません」
 出ていく寸前にかけられた言葉に、男は少しきまりわるげに頭をかく。
「・・・・加持、加持リョウジだ」
 しかし男が言い渋ったほど、彼は聞いた名前に格別の感慨を持った様子はなかった。
「・・・・すみませんでした、加持さん」

***

 ATフィールド。まさか身をもって経験することになるとは、ほんの一年前には想像も出来なかったであろう。正直な話、あばらを折られたかと思った。
 加持リョウジは、やはりちらつく蛍光灯が一本だけのその部屋で最後のガーゼを剥がした。ガーゼの下から、瘢痕化した銃創が現れる。胸骨の中下1/3。至近距離ならゆうに胸骨を撃ち抜いたはずの傷である。
『・・・生きたい?』
 妙に、現実感を欠いた調子の問い。だが加持は一も二もなく肯定した。力不足は認めよう。だが、何も掴めないまま、ただ殺されていくのは御免だ・・・・。
 それから後の記憶は部分的に欠落している。はっきりしているのは、ここへきてからのことだけだ。その頃には、傷はもうほとんど塞がりかけていた。
 その女性は、高階ミサヲと名乗った。
 女性としては少し低い声。どこかぼうっとしているようにすら見える容貌だが、それはむしろ超然という言葉に置き換えられると加持は思った。
 クリーム色のロングタイトとジャケットはところどころ煤とみえる汚れをつけていた。雨に濡れ、そのままではひどく惨めな格好と見えたはずなのに、その立居振舞いはそんな形容と完全に決別していた・・・・。
 彼女は加持にここがどこであるかを教え、ある契約をもちかけた。
 不思議な紅い珠を見せられたときには半信半疑であったが、他に択べる途もなかった。
 そして、一つの契約が成立したのだ・・・・。

***

 誰もが突然過ぎる「戦いの終わり」とやらに虚脱状態に陥っている。すべての使徒を殲滅したはずでありながらいまだ第一種警戒体制のままの第3新東京市は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
 すべての使徒の殲滅。それはとりもなおさず、人類の勝利を意味していたはずだ。だが今「人類最後の砦」を覆うのは、猛禽の飛来に怯え叢に伏せる兎の沈黙にも似たものだった。
 その都市の一隅で、一人の少女が誰のそれとも違う沈黙を抱えて月を見ている。
 少女には綾波レイという14歳の少女の名前と戸籍が与えられていたが、彼女自身には半年前の記憶さえもなかった。
 彼女に与えられたのはデータだけ。
 自分が何者なのか、何故ここにいるのか。
 データを超えた「意味」を、彼女は模索していた。きっかけはそう・・・・「渚カヲル」の名を与えられた少年が、第17使徒として「殲滅」される瞬間を見届けた時。
 ――――――――――あなたは誰。私を自分と同じだと言う、あなたは誰。
 彼女の問いに、彼が口を開くことはついになかった。
 ただ、彼女にとっては不可解としか映らない微笑を残しただけ。
 使徒は殲滅する。それが命令。・・・しかし、最後の使徒が消滅する場面を見届けた彼女の裡に残ったのは、得体の知れない、だが取り返しのつかぬ悔恨。
 彼女は目を開けた。
 暫時 しばたたく。ゆっくり身を起こして。外を見た。晴れてはいたが、雲塊がすこし強い風に流されてゆく。その雲の厚ささえも圧して、月が皓々と輝いていた。
 彼女は立ち上がり、殺風景なその部屋の、数少ない調度の一つ・・・・机に歩み寄った。
 後生大事にケースへ納められた、歪んだ眼鏡。その意味を、彼女は知らない。与えらえた「データ」の中に、それに関する情報が含まれていなかったから。
 だがこれが呼び起こす感情に、彼女はデータ以外の情報の存在を知った。・・・例えば、「涙」。
 ―――ありがとう。助けてくれて
 ―――何が?
 ―――何がって・・零号機を捨ててまで、助けてくれたじゃないか。綾波が・・・
 ―――そう、あなたを助けたの
 ―――うん、憶えてないの・・・・・?
 少し怪訝そうな、それでいてその戸惑いを必死で押し隠そうとする黒い瞳。
 サードチルドレン・碇シンジ。EVA初号機専属搭乗者。それが与えられたデータ。しかしその面影を見る時、この眼鏡を手にしたのと同じように不思議な感覚にとらわれるのだ。
 正体の判らない痛み。・・・・それが苦しい。
 手の中の歪んだ眼鏡が、軋んで耳障りな音を立てた。気がついて手を緩めるのより僅かに早く、レンズが砕ける。
 ぽろぼろと手の中から転げ落ちるレンズのかけらを、表情のない目で見つめる。だが、ややあって少女は手の中のものをその場に打ち捨て、踵を返した。

***

 制服に袖を通す。
 結局「学校」など一度も行く機会はなかったのだが、この没個性的な服装は最初から彼に与えられていた。
 あるいは「没個性的」であることが、なるべく目立たないためにという誰かの配慮だったのかもしれない。誰か・・・・サキエルか、アルミサエル以外に考えられないが。
 予測していたのだろう。彼が、あの家を離れて出歩く事態を。
 彼は立ち上がった。歪んでしまった鉄扉を一瞥し、僅かに表情を曇らせる。
 触れた瞬間に判っていた。それでも感情に任せて力をふるってしまったことが、彼の眉を曇らせていた。
 加持といった、あの男が悪い訳ではない。あの男は助命の代償として、言われた通りに事を運んだにすぎないのだから。・・・些細な不注意はあったにしても。
 部屋の隅に、家具としてはひどくありふれたものなのに、この部屋ではひどく異彩を放つ木製の棚がある。蛍光灯のちらつきと、壊れてぶら下がったシェイドの影で見えにくくなっていて、起きた時には気がつかなかった。
 棚のほとんどは埃ばかりだった。その中にぽつんと置かれた黒いケース。
 開けてみるまでもない。あの家にあったヴァイオリンだった。僅かに土埃らしいものを被ってはいたが、疵ひとつない。
 何故ともなく、両手を伸べてケースをかきいだく。
 歪んだ鉄扉を開ける。その歪みゆえに完全に閉まりきってはいなかったから、彼の腕でも十分に開いた。
 照明のない廊下。土埃にまみれたリノリウムの床。両側にいくつかの部屋を配し、その突き当たりに階段があるのが判る。
 階段の前までくると、彼は顔を上げた。先刻の鉄扉など比較にならない、重厚な扉が階段の先にあった。シェルター仕様と言ってもいいだろう。
 近づいて調べると、キーか暗証コードで開くタイプだと知れた。同様の扉を彼は知っている。あれは・・・・。
 暗証コードはともかくキーはこの地下室を探せば出てくるだろう。しかしこのとき、彼はそんな迂遠な事をする心境ではなかった。
 彼は片手を差し伸べた。その手の中で、オレンジ色の光が瞬きはじめる。
 地下室を揺るがす轟音。構成物の一部を無理矢理吹き飛ばしたのだから当然だ。
 吹き飛んだ扉の跡、ぽっかりとあいた穴の向こうに空が見えた。
 昼間でもないのに、妙に薄明るい。彼はゆっくりと階段を上がり、外へ出た。
「・・・・・・」
 思わず、声を詰まらせる。
 さやかな月光に浮かび上がる遥かな稜線。
 黒々とした森の影。
 みはるかす限りの敷地は、瓦礫の山と化していた。焼け残った木材や焦げた煉瓦が散乱する中に、かつてここに生活した者達の存在を窺わせる調度の破片が埋もれている。
 瓦礫の間を行く。いくらも歩かないうちに、その昔ソファであったらしい炭の塊に気がついた。
 雨に打たれ、見る影もない。すぐ側に、かつてはテーブルであったとおぼしきものもあった。僅かに視線を移すと木っ端微塵となったアクアリウムの残骸が散らばっていた。
 サイドボードは比較的よく形をとどめていた。
 その上にケースを置き、ヴァイオリンを取り出す。簡単に調弦して、ゆっくりと弓を当てた。


 月の光さえも痛い。

 夜の静寂に呼吸が詰まりそうだった。

 Georg Friedrich Handel ――――――「Largo」。

 イスラフェルが好んだ曲。そして彼も。
 ここから連れ出された日、この家が炎上する姿をカヲルは見ている。だが、その本当の意味を初めて悟った。
 ゼーレから地下室の存在を隠すため。
 すべてを焼き払ったように見せかけ、この場所の安全を確保するため。
 目的があるとはいえ、どんな気持ちで、アルサミエルはこの家に火を放ったのだろう。そうまでしても・・・・・。
「・・・・そうまでしても・・・・僕は生きていなければならなかったのか・・・・!?」
 弦が滑ったことに気づいて手を止める。その時初めて、彼は自分が落涙していたことに気づいた。
 ヴァイオリンと弓を下ろし、瓦礫の中にただ立ち尽くす。
 月が没する姿をただ瞳に映して。

***

 人が立ち入るようにはなっていないその部屋――部屋と言うのもあるいは不適当だが―――は、コンピュータの稼働に最適な温度湿度を保つためにひどく寒い。だが葛城ミサトはそんなことは全くお構いなしに、キーボードを叩き続けていた。
 加持が残したパスコードを使って、今まで入り込めなかった領域まで調べることが出来るようになった。だがそれは同時に、アクセスしたことが露見すれば彼女と言えど即刻消されるであろうレベルの情報だったのだ。
「そう、これがセカンドインパクトの真意だったのね」
 記録コピーをとるヒマはない。あるいはゼーレを断罪する資料ともなりうるだろうが、もうそんな時間はないはずだった。
 不意に、警告音と共にディスプレイがDELETEの赤文字に埋め尽くされる。
「気づかれた!?」
 足元のコーヒー缶を蹴り飛ばし、銃把に手をかけた。だが周囲は相変わらず警告音ばかり。
「いや、違うか・・・」
 そのとき、警告音さえも消えた。すべての電源が一斉に落ちたのである。
「――――始まるわね」

「第6ネット音信不通」
「外部との全ネット、情報回線が一方的に遮断されています」
「全ての外部端末からデータ侵入。MAGIへのハッキングを目指しています!」
 発令所の至るところで、赤ランプが明滅していた。
 誰もがその正体を訝しみながら、やはりという気持ちを禁じえなかっただろう。それがMAGIの占拠という明確な形をとって現れた今、彼らの目先から何故という言葉が消えていた。
「やはりな。侵入者は松代のMAGI2号か?」
 冬月副司令の声も、常より硬い。
「いえ、少なくともMAGI-TYPE5基・・・ドイツと中国、アメリカからの侵入が確認できます」
「ゼーレは総力を上げているな。彼我兵力差は1:5・・・分が悪いぞ」
 MAGI-TYPEといえど、必ずしもオリジナルと同等の性能というわけではない。オリジナルの製作者の、文字通り直系の後継者が相当なシステムアップを行っている。そうやすやすと陥落することもないだろうが、MAGI-Originalの面目を維持していた彼女を欠いている以上、いずれ時間の問題である。
「第4防壁、突破されました」
「主データベース閉鎖。ダメです、侵入をカットできません!」
「予備回路も阻止不能です」
 報告のトーンがだんだんと悲壮になってくる。
「・・・まずいな。MAGIの占拠は本部のそれと同義だぞ」
 冬月の言葉は、明らかに碇司令へと向けられていた。

 暗い独房に、扉の形に光が差し込む。それでも彼女はぴくりとも動かなかった。
「わかってるわ。MAGIの自律防御でしょ」
 用件よりも先に返事を聞かされたことに、保安部の係員は僅かに動揺した。
「はい。詳しくは第2発令所の伊吹2尉からどうぞ」
 青いカットソーの背中がゆらりと動いて、彼女は緩慢に立ち上がった。
「必要となったら捨てた女でも利用する。・・・エゴイストな人ね」
 監禁されていたのは一日二日ではないはずだが、彼女はしっかりした足取りで独房を出た。
 道をあけた保安部員は、彼女が側を通り過ぎた一瞬、訳もなく戦慄した。

 ―――――彼女は、薄い笑みを浮かべていた。
      嘲笑うような。あるいは哀れむような。