第Ⅶ章 Air

原初の海

Senryu-tei Syunsyo’s Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


A-801

 

 特務機関NERVの特例による法的保護の破棄、
及び指揮権の日本国政府への委譲


第Ⅶ章 Air
B Part

『状況は?』
 鉄砲玉上司からの待ちに待った連絡に、抑えてはいても日向の声が活気づく。
「おはようございます。先程、第2東京からA-801が出ました」
『801?』
「最後通告ですよ。ええ、そうです。現在MAGIがハッキングを受けています。・・・・かなり押されています」
 日向の報告に、ミサトの声が途切れる。侵攻に晒された直後の発令所の面々と同じ危惧がそうさせたのだ。・・・だが情報を補うべく、伊吹マヤが受話器にかじりついた。
「伊吹です。今、赤木博士がプロテクトの作業に入りました!」
 先刻までの、手も足も出ない状況とは違う。その思いがマヤの科白に力を与えていた。
「・・・・リツコが!?」
 にわかに近くなった声に、日向とマヤが上がってきたエレベータを振り返った。驚きと安堵と疑念がない混ざった表情のミサトが携帯電話を握りしめたまま現れる。
「葛城さん!」
「それホント?」
「ええ、つい先ほど・・・・」
 ミサトが日向の肩越しにディスプレイを見る。門外漢のミサトが見ている間にも、僅かずつではあるが侵攻が弱まるのが判った。
 ミサトの口から小さくため息が漏れる。さらに階下を見ると、カスパーが開かれ、その内部へ無数のケーブルが引き入れられているのが見えた。
「リツコが戻ったんなら、とりあえずMAGIに関してはセーフってとこか・・・」
 プロテクト作業の支援に回っている伊吹や日向はコンソールを離れられなかったが、殊この手の戦いに関して、言ってみればすることのないミサトとしては、発令所後部のコーヒーメーカーのスイッチでもいれるしかなかった。
 コーヒーを沸かす間にも、発令所全体の空気がゆっくりと和らぐ。第11使徒侵入の時のことはまだ記憶に新しい。あの逆転劇を誰もが信じているのだ。
「あと、どれくらい?」
「間に合いそうです。さすが赤木博士・・・・120ページ後半まであと一分、一次防壁展開まで2分半程で終了しそうです」
 報告する日向の声のトーンもだいぶ緩やかなものとなっていた。だが、ミサトの心中は決して穏やかにはならない。
「マギへの侵入だけ?・・・そんな生易しい連中じゃないわ、多分・・・」
 ミサトの目には、MAGIへのハッキングは前哨戦としか映っていなかった。下手をすれば陽動の可能性すらある。
 使徒が消えた今、NERVは用済みなのだ。連中ゼーレにとっては・・・。
 それについては同様の認識を持つ二人の男が、発令所の上後方で沈黙を守ってディスプレイを見ている。

***

『・・・MAGIへのハッキングが停止しました。Bダナン型防壁を展開。以後62時間は外部侵攻不可能です』
 電子音声がfreezeを繰り返すカスパー内部。リツコはひとまず肩の力を抜いた。
「・・・私、莫迦なことしてる・・・? ロジックじゃないものね、男と女は」
 キーボードを置くと、第11使徒の一件で穴をあけた場所・・・・修復痕の残るそれに手を触れる。
「そうでしょう、母さん」
 リツコの面には、どこかたがの外れかかったような、それでいてひどく静かな笑みがあった。
 一度置いたキーボードを持ち直し、指を滑らせる。次の対応に追われてか、仮釈放のはずのリツコの身を拘束しに来る者はいなかった。
 彼女は悠々と作業を終え、ケーブルやキーボードもそのままにカスパーの内部から出た。
「母さん、また後でね・・・・・・」

***

 ヴァイオリンを携えたまま、カヲルは朝日のなかに立ち尽くしていた。
 背後で瓦礫が音を立てる。振り返ると、加持が眩しそうに空を見上げていた。カヲルが注視していることに気づいたか、邪気のない笑みをする。
「・・・・いい天気になりそうだな」
 カヲルはそれに答えを与えず、ゆっくりと瓦礫の山に視線を戻す。だが加持は格別気分を害した風もなく、僅かに肩を竦めただけだった。そして暫く天を仰いだ後にゆっくりと口を開く。
「・・・・説明が、必要かい?」
 誰に。何の。そういった最も重要な部分を意図的に抜かした問いかけは、彼にしては珍しく正直な逡巡の現れであったかもしれない。
「・・・いいえ・・・」
 カヲルはやや緩慢な動作で、ヴァイオリンを焼け焦げたサイドボードの上に置いた。
「・・・・必要ありません。先刻、全部判ってしまったから・・・・・」
 伏せたまま紡いだ言葉は、震えてはいない。
 多分、これと似た場面を見たことがある。加持はそんなことを考えた。
 第14使徒襲来。第二次ジオフロント攻防戦。
 企んだことではないにせよ、自分の言葉があの少年の背中を押してしまった。その結果に思いを致したとき、加持は確かに罪悪感に酷似した気持ちの悪さを覚える。
 何ゆえか時代は、事態を掌に載せる大人達でなく、運命を仕組まれた子供たちにこそ残酷な決断を強いる。
 今、ここでも・・・・・・。
 ただ、目の前にいる14、5歳の子供の姿をした存在が、決して見かけ通りの年齢ではないことを、加持は十分に承知していたつもりだった。
 高階ミサヲと名乗る女性から話を聞かされた当初、かつがれているのではないかという疑念を拭えなかった。だが、彼女が姿を消した後、不思議な透明感を持つ紅の球が、まるで天使が孵るように人の形をとる光景を目の当たりにしてしまってはそうもいかぬ。
『私達は、あなたがたが「使徒」と呼んでいる者』
 一笑に付すことを許さない真剣さがそこにあった。もとより、確実に致命傷であったはずの銃創を信じ難い速度で回復させたことが、有無をいわせぬ信憑性を与えていた。
『この珠が何の変化も起こさず、ただ赤土のように崩れてしまったら、その時点を以て契約は終了。悪いけれど、ここからは自力で脱出して』
 硝子管に満たされた不思議な液体。その中の紅い球を示して、彼女は言った。
『でももし、鼓動がもう一度動き出すなら・・・・この子を・・・・この子の望む道を助けてやって』
『俺に何が出来るとも思えないが』
『・・・・あなたNERVの人でしょう』
『用済みになったらしいがね』
 加持の苦笑に、彼女は反応しなかった。
『だったらジオフロントの道案内くらいはできるでしょう。・・・・こう言っては何だけど、あなたにあまり多大な期待をかけてるわけじゃないわ。
 ただ、あの子がもう一度生きることを望むなら、生きるための戦いを是とするなら・・・・たとえ余計なお世話と言われても、そのための道はなるべく広く空けておいてあげたいの』
『生きるための戦い・・・・』
『・・・「人類補完計画」』
 彼女が静かに投げた言葉は、加持の心を動かすのには十分だった。
『リリスが遺した「死海文書」に従い、リリンをこそ神の後継となさんとする計画は、サードインパクトと同義。現在のリリンのあり方を否定するものよ。
 あなたがたがそれを是とするならしかたない、でももしそれに反発を覚えるなら・・・・・』

「行くかい、ジオフロントへ」
 カヲルの肩が僅かに震えた。
「・・・あなたには、関わりのないことでしょう」
 紡いだ声は冷たい。しかしその冷たさは、毅然を装うためのものであるようにも思えた。
「だが・・・」
 こちらは依頼された身で、と言いかけた加持の言葉は、轟音と閃光に遮られた。
「・・・・始まったか」
 加持が呻く。
 カヲルは、ただ呆然とそれらを見ていた・・・・。

***

『第8から、第17までのレーダーサイト、沈黙!』
『特科大隊、強羅防衛線より侵攻してきます!』
 自分たちが敵と見なされた、という衝撃を受け止めるいとまもなく、発令所は対応に追われていた。
 地上のレーダーサイトは次々と失われている。もともと対使徒の迎撃要塞都市として築かれたはずの第三新東京市は、その攻撃機能のほとんどを第16使徒戦で失ってしまっていた。
 つまり、侵入者に対して取りうる防衛措置などほとんどなかったのである。
 加えて、NERVは使徒と戦うための組織であり、相手が人間の軍隊ではその反応が鈍くなるのは当然のことであった。
 碇司令が戦闘配備を宣した時も、現に攻撃にさらされつつも戸惑う空気があった程だ。
「相手は使徒じゃないのに。同じ人間なのに」
 伊吹マヤのそれと同じ呟きは、発令所内でさえ少なくはなかった。だが、それを聞いた日向の言葉が、今の現実を言い当てていた。
「・・・・向こうはそう思っちゃくれないさ」
 これはもはや戦争。対象を人間と見なさず、数と見なす、ヒトに特異的とも言える殺戮の行為。
「西館の部隊は陽動よ!」
 事ここに至るまでなにもできなかった自分に歯がみしながら、ミサトが怒鳴る。こんな絶望的な戦いを、何故回避できなかったのか。戦う前から勝敗の見えているミサトの裡に、回避の努力を怠った司令官への怒りがこみあげる。
「本命がEVAの占拠なら、パイロットを狙うわ。至急、シンジ君を初号機に待機させて」
 ミサトは軽く頭を振った。いまさら司令をつるし上げた所で何の益もない。それよりも自分自身でできることに、全力を尽くさなければ。
「アスカは?」
「303号病棟です」
「構わないから弐号機に乗せて」
「しかし、いまだエヴァとのシンクロは回復していませんが」
「そこだと確実に殺されるわ。匿うにはEVAの中が最適なのよ」
「了解・・・パイロットの投薬を中断。発射準備」
「アスカ収容後、EVA弐号機は地底湖に隠して。すぐに見つかるけど、ケイジよりマシだわ。・・・・レイは?」
「所在不明です。位置を確認できません」
「殺されるわよ。捕捉、急いで!」
「弐号機射出。8番ルートから水深70に固定されます」
「続いて初号機発進。ジオフロント内に配置して」
「駄目です!パイロットがまだ・・・・」
 青葉の声に、ミサトが振り返る。指し示された画面に、機械室の階段の下で蹲る少年の姿が映っていた。
「・・・・・なんてこと…」
 この瞬間で、ミサトがただ一つ希望をかけていた策もついえた。今、この都市でまともに機能するたった一つの戦力が初号機なのだ。
『戦力・・・!』
 その言葉に、ミサトはぎくりとする。・・・この期に及んで、自分はあの子を道具として見ていたかと。唇を噛み締め、上後方を見る。だが、そこに責任をとるべき碇司令の姿はなかった。

***

 同刻、一人の少年が芦ノ湖畔へ辿り着いていた。
 かつてフォースチルドレンとして登録されていた、鈴原トウジ。
 彼の家もまた第16使徒の自爆で湖底に沈み、それでなくても避難命令が出て、この都市にはもう立ち入れない筈であった。
 実の所、彼自身、何故ここに来たのかが判らない。遠く離れた疎開地から、不自由な足でこの第三新東京市の廃墟までどうやってきたのかさえも。
 自分はそんなにヤケになっていただろうか、とぼんやり自問する。
 退院してから、三号機の事故に前後して妹の容体が急変、短い命を終えていたことを知った。それに追い討ちをかけるかのように、第16使徒の件で父母が殉職した。ほとんど惰性で、指示されるままに疎開地へ行った。・・・行くより他に、身の処しようがなかったといったほうが当たっていたかもしれない。
 それが何故、こんな所に来ているのだろう。
 不思議なのは、連れてこられたという感覚がないこと。紛れもなく自分の意志で、トウジはここに立っていた。・・・では何のために?
 その時、不意に叢の中から現れた鉄の棒に横面を張られてよろめく。
「こらぁ! 何しくさるんや!!」
 しりもちをついた格好で、思わずそう声を張り上げる。その次の瞬間、トウジの鼻先に紛れもない銃口が突きつけられた。
「ぼうず、お前こんなところで何してる?」
「・・・はぁ?」
 状況が呑み込めず、トウジが両目を瞬かせる。顔にまで迷彩を施したその男の軍服が戦略自衛隊のものであると、トウジは知っていた。
「一般人の立ち入りは禁止になってるはずだ。身分証を出せ」
 威丈高な奴と思いながらも、立ち入り禁止と知りつつ入り込んだ手前、素直に身分証を出す。だがそこで、男の顔色が変わった。銃口でトウジを威嚇しながら、通信機を出す。
「・・・フォース発見。指示を請う」
「待てや、わいはもうおりたで」
 トウジの言葉にきく耳は持たず、ただ通信機からの答えだけを待つ。
『・・・排除せよ』
 その言葉の意味する所をトウジが悟ったのは、男がそれを復唱しながら取った動作によってであった。
「了解。これより排除する」
 冷たい銃口を額に押しつけられ、トウジが身を硬くする。だがそれも一瞬のことだった。
「あほぬかせ!なんでこんな無茶苦茶がまかりとおるんや!? 冗談やない、なんでこんなとこでこんな死に方せなあかんのや!」
 昂然とした態度は、あるいは恐怖の反動であったのかもしれない。だが理不尽に対する至極まっとうな抗議は、兵士の耳を素通りしたようだった。
 表情を変えることなく安全装置をはずす。さすがに、トウジが呼吸を呑んだ。

 生きていたい。
 死にたくない。
 まだ、何も知らない。何も分かってない。
 何も知らないまま、ただ殺されていくのはイヤだ・・・・

 不意に、左足の断端部の傷が痛んだ。左足を押さえたトウジに、兵士はそれを回避行動ととったか引き金にかけた指に力を込めた。
 しかし兵士は、引き金を完全に引くことはできなかった。

***

 遠い花火のような爆発音の連続。その中で、初めて衝撃波を伴った音が廃墟を一撃した。
 加持に光の十字架を示されるまでもなく、カヲルには何が起きたか判っていた。
「・・・・Bardiel・・・・」
 風がおさまった後に洩らした低い呟きは、誰にも届かなかった。だが、光を失っていた紅瞳が、ゆっくりと光を集めるように焦点を結ぶ。
 カヲルが虚空に打ち立てられた光の十字架から、地上の廃墟へ・・・その焦点を移した。
 衝撃波が地上を撫でた時、サイドボードの上から落ちたヴァイオリンとそのケース。それを拾おうとして身を屈めたカヲルは、サイドボードの陰に小さなむくろを見つける。
 先程の衝撃波で上に重なっていた瓦礫が動いたのだろう。
 ヴァイオリンをケースに収め、カヲルはその小さな骸の傍にひざまづいた。
 ・・・仔猫。まだこんな処にいたのだ。
 あれから結局、この家のどこかに潜り込んでいたのだろう。親とはぐれていたようだから、住処はあっても結局こうなるしかなかった。あるいは、この家を灼いた炎に巻き込まれたのか。
 カヲルは静かに、小さな骸を傍にあった炭化した板きれや焼け残ったソファカバーで覆った。その傍に、ケースに収めたヴァイオリンを置く。
 そして、立ち上がった。
「君以外にも、使徒が・・・?」
 カヲルの動作に暫時の呆然から解かれた加持が、問いとも独白ともつかない言葉を呟く。
 使徒・・・紛れもなくヒトと同じ姿をした少年を前に、今更ながらその言葉に違和感を覚える。
 高階ミサヲを名乗る女性、そして有耶無耶のうちに葬られたMAGIハッキング事件で失踪したあの人物。それらを考えに入れるとしても、素直に受け入れるにはまだ少し時間が必要に思えた。
「アダムの子は殲滅されました。・・・僕を除いてね」
「・・・じゃ、あれは・・・・」
 加持に答えを与えることなく、カヲルは第3新東京市の方を向いた。
「・・・行くのなら、同行させてくれないか」
 その言葉にカヲルが加持を一瞥する。
「・・・僕が何者が理解っていますか?」
 その双眸にある光は、苛烈とは対局にあった。しかし、先刻までの呆然は既に無い。
「そのつもりだが」
「・・・なら御自由に。ただ、僕はヒトの思惑に頓着しませんよ。僕は僕の思うようにしか動かないですが、それでもよければ」
「かまわんさ。契約のうちだ」
「・・・それがヒトの破滅につながっても?」
 さらりと言い放たれ、加持がさすがに答えに詰まる。
「・・・君はヒトの破滅を望んでいるのかい?」
 一族を鏖殺された者に対する問いではないな、と加持は思った。ヒトは生き残るために、この少年からすべてを奪い去ったのだ。
 だが、端正なおもてにあるのは憎しみではなかった。唯々、静かな悲しみ。
 もう一度彼方の空を見て、呟くように言った。

「・・・・僕は、 あがないたいだけです」

***

「第2グループ応答なし」
「52番のリニアレール、爆破されました」
「・・・タチ悪いな。使徒の方がよっぽどいいよ」
 日向のぼやきを耳にしたミサトは、改めてNERVがヒトを相手に戦う組織ではなかったことを痛感する。
「・・・・ムリもないわ。皆、人を殺すことに慣れてないものね」
 NERVは国連軍の一部という体裁はとっているものの、その実態は軍隊と言うより研究機関に近い。実際、研究機関であったゲヒルンを母体にしている以上、それを引きずるのは仕方ないことかもしれない。
 そしてまた「人類の敵と戦う機関」であることに誇りを持つ気風は、軍隊としてヒトと戦うことに一抹の抵抗を感じさせずにはおかないだろう。
 ―――――大体が、何ゆえにヒト同志で再び殺し合わねばならないのだ?
 狡兎死して走狗烹らる。そんな辛辣な譬えがミサトの脳裏を過ぎったが、口にした時はもう少し穏当であった。
「・・・全く、ひどいことになったもんだわ。使徒の侵攻があったころはまだしもヒトとしてのまとまりがあったのにね。おびやかすものがなくなったらコレだもの。現金なものだわ」
 それを、この上司一流の余裕の現れととった日向が、苦笑して応じる。
「やだなぁ葛城さん、それじゃ使徒がいたほうがいいみたいに聞こえますよ」
 冗談じゃないわよ、と笑い返したものの、ミサトはふと口を噤む。ヒトはそういった目に見える制限を受け容れながら生きた方が、もっと謙虚でいられたのかもしれない、と。
 ・・・・あるいはそうであれば、補完計画などという代物に血道を上げることなどなかったかも。
 そのとき、本部が震撼した。不意を突かれてミサトがよろめく。オペレーター席の背もたれにつかまってようやく堪えた。
「何!?」
「ATフィールドです!第17レーダーサイト付近と思われますが・・・・データが不足して」
「・・・・!」
 そんな莫迦な。皮肉としか言いようのないタイミングに、さしものミサトが一瞬声を失う。
「映像、出せる?動きは?」
「地上レーダーサイトとの通信が寸断されていて、これ以上は・・・・!」
 ミサトが唇を噛む。だが、その瞬間にも事態は進行していた。
「第3層Bブロックに侵入者!防御できません!」
「Fブロックからもです。メインバイパスを挟撃されました!」
「・・・第3層まで破棄します。戦闘員は下がって。803区間までの全通路とパイプにペークライトを注入!」
「はい」
 冬瓜とうがん頭どもが。このときミサトは初めて戦略自衛隊を憎んだ。
「第703からベークライト注入開始。完了まで30」
「・・・これで少しはもつでしょう」
 日向が言い難そうに振り返る。
「三佐・・・」
「わかってるわ。でも、仮に使徒だったとして、今私達には対抗しうる手段がない」
「しかし、あれは確かに・・・・」
 青葉も同調したが、ミサトは首を横に振った。
「本物だったら戦自の手には負えないわ。その時は必ず攻撃が緩む。悔しいけど、今は堪えるしかないでしょう」
「はい・・・・」
 この世は皮肉に満ちている。よりによってNERVが、新たな使徒の出現をアテにする羽目になろうとは!
 ミサトの思考は、日向のうわずった声に遮られた。
「葛城三佐、ルート47が寸断され、グループ3が足止めをくっています。このままではシンジ君が・・・!」
 ミサトの頬が僅かに引き攣った。グループ3には、動こうとしないサードチルドレンの後送を指示していたのだ。
 逡巡は数瞬。ミサトは抽斗から拳銃と予備弾倉を掴み出した。
「非戦闘員の白兵戦闘は極力避けて。向こうはプロよ。ドグマまで後退不可能なら、投降した方がいいわ」
 スライドの動きを見てから弾倉マガジンの弾数を確かめ、押し込む。
「・・・・ごめん、あとよろしく」
「はい」

***

 しかし戦略自衛隊側に出された命令は、ミサトの思惑を越えていた。
【エヴァパイロットは発見次第射殺。非戦闘員への無条件発砲も許可する】
 もはや国際法1も何もない。武器を捨てて投降したものにまで、銃弾は容赦なく降り注いだ。
 かつて職員達の雑談の場であった自販機コーナーも、今は累々たる死屍と破壊された機材で埋め尽くされている。
 その中を、一人の女性職員が泣きながら同僚の遺骸を引きずっていた。
 嗚咽と物音と、どちらが聞きつけられたかは判らない。移動中の戦自隊員が不意に足を止め、自動小銃の弾を浴びせて何事もなかったようにそのまま走り去る。
 右の肩口から左脇へ数発を受けて倒れた時、彼女にはまだ意識があった。暗くなってゆく世界のなかで、ぼんやりと思う。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 痛みよりも、憎しみよりも、ただ混乱。
 このまま死ぬのだろうか?
 何故?
 遠くなっていく聴覚が、靴音を捉える。だが軍靴とは異なる音であることに気づく余裕はなかった。
 怖い・・・・・怖い。逃げなければ。
 靴音が止まった。だがそれに気づけないまま、這ってその場から逃れようとする。
 彼女の視界は既に自然な色彩を失い、あるのはただ紅。そして紅の奥から押し寄せる、永劫の闇。
 “死”の名を冠した闇。
 いや。こないで。
 彼女はそう言ったつもりだった。だが漏れたのは血泡だけ。
 怖い・・・・・怖い・・・・・怖い・・・・・怖い・・・・・怖い・・・・・怖い・・・・・怖い
 上半身を支えていた肘が、傷口から溢れたもので滑る。それでもなお、必死にもがき続ける。
 その額に、誰かの手が触れた。
『・・・・・・・・・。』
 優しい言葉。それが果たして声であったのかどうか・・・彼女は既に判別がつけられる状態ではなかった。だが、引き攣った表情は確かに緩み、空しくあがいていた四肢から力が抜ける。
 そして、そのまま動かなくなる。

 ゆっくりと立ち上がったその人物の風体は、場違いとは言えないにしろ見る者にちょっとした違和感を抱かせたかもしれない。
 NERV士官の制服を着てはいたが、どうにもサイズが合っていないようで、上衣の肩は落ち気味だし袖はシャツごと肘近くまで捲ってある。おまけにカッターシャツの上に詰襟の制服を引っかけている所為で、襟元のおさまりがひどくわるい。その背に届こうかという銀の髪はゴムでも紐でもなく、薄手のハンカチで無造作に括られていた。
 これだけは確かに場違いなライトグリーンのリュックは、左肩に引っかけている。
 緑柱石に似た光を持つ双眸で凄惨な光景を眺めわたし、彼は小さく吐息した。
「・・・・・ひどいことになったな」

  1.  ここでは戦時国際法の意。戦争法規とも言う。戦争一般に関するものとして開戦,捕虜,非戦闘員・文化財の保護,集団殺害の防止・処罰に関する条約がある。非戦闘員への発砲は無論違法。