ひかりのどけきはるのひに

しづこころなく 花の散るらむ

ひかりのどけきはるのひに

~Beautiful world another version~

 今年は開花が早かったから、校舎の周りの桜はもう葉桜に近い。だがその分だけ、少し強めの風に煽られて盛大に桜吹雪が舞っていた。
 次々と構内へ入ってくる車からは、少し大きめの制服に身を包んだ新入生と、フォーマルを纏った大人たちが降りてくる。
 新入生達は緊張し、あるいははしゃぎながら校舎へと入っていくが、定刻までまだ時間がある。カヲルは車を降りた後、校舎の周囲をゆっくりと歩いているのだった。
 校舎があるのは海のすぐ近く。小高い丘…というより、傾斜から言えば崖の上というのが相応しいだろう。だが、急な斜面は緑に覆われ、海岸へ降りる道も細いながら整備されているから、さほど急峻な印象を与えない。
 ただ先程から、少し強い海風が崖を覆う緑を撫でながら吹き上げてきて、散り際の花を舞い上げているのだった。
 制服が大きめだ、ということに関して言えば、カヲルとて決して他人のことが言えた義理ではない。まだ肩幅に余裕のあるブレザーは必要以上に風を捉えてしまって、油断すると煽られるのだが…その感覚が楽しい。
「寒くないの?」
 声をかけられて、カヲルは振り返った。
 左頬の泣き黒子が印象的な美貌。脱色した髪はベリーショートにしてしまったけど、やっぱり綺麗だ。ショート丈のタイトスカートにノースリーブのカットソーという姿を見慣れてしまっているから、マーメイドラインのフォーマルワンピースにジャケットという姿を見ると一寸吃驚してしまう。いつもの紅い菱形のピアスは、フォーマルだからか今日は大きめのパール。
「大丈夫ですよ、リツコさん」
 車で待ってた筈だけれど。カヲルがあまりにも帰ってこないので心配して見にきたというところだろう。幾ら心地好くても、礼装フォーマルの彼女をこんな風の強いところまで来させるわけには行かない。カヲルは踵を返した。
「寒くなんてないですよ。ただ、風が気持ちよくて」
「すべてが新鮮、ってとこかしら?」
「ええ、とても」
 カヲルは笑った。つられてリツコも微笑をうかべるが、満開の笑みというわけにはいかなかった。
「あなたが望んでのことだし、この期に及んでとは思うけど…本当に、大丈夫なの?」
「やだなぁ、あなたまでそんなこと言います? 検査データ上は問題ないって言ってくれたの、リツコさんでしょ」
「それは…そうだけれど。いきなり寮生活、っていう話になるとは思わなかったから。高校なんて、近場でいくらでもあったし」
 リツコの言葉は決して非難がましくはないのだが、カヲルとしてはやはり心が痛む。思わず少し目を伏せてしまった。
「我儘言ってすみません、いろいろ面倒をかけてしまって…」
 リツコは慌てたように手を横に振った。
「ああ、面倒なんて何もなかったわよ。あなた、資料の取り寄せから願書、試験、みんな自分でやっちゃったじゃない。私は名前書いて印鑑押しただけじゃなかったかしら?
 …ただ、急に環境が変わるから心配になったっていうだけよ。家から通うなら何かあっても私がすぐ対処出来るけど、寮じゃそうもいかないから」
 あ、やっぱり心配されてるのか…。などと、思っても口に出せるわけはなかった。

 カヲルが生まれた頃、大きな災害があった。
 たくさんの人が死んで、たくさんの街が壊れた。孤児となったカヲルは施設に入ることになったが、身体が弱かったために施設生活は長続きせず、すぐに入院することになってしまった。結局そのまま、その政府系…有り体に言えば軍の病院と付属の療養施設とを行ったり来たりする生活をしていたのだった。
 その病院も療養施設も、災害対策として臨時に建造されたものだったから…災害の爪痕が薄れてきた頃には閉院・解体という話が持ちあがった。カヲルは一応まだ義務教育期間ではあったから、普通なら一般の施設入所という話になる筈だったのだが…病院のスタッフであった彼女…赤木リツコが、カヲルをひきとってくれたのだった。

 医師である彼女は、カヲルが収容されていた病院に勤務する間は官舎を利用していたが、その病院を離れるにあたって実家に近いところで仕事を探すことにしたのだそうだ。災害で家族も亡くなっていたし、独りで住むには広いから、と彼女が手を差し伸べてくれたのだ。身体の方は概ね人並みの生活ができるようになっていたから、カヲルは彼女の家から学校に通うことになったのだった。

 リツコの実家というのは広壮な旧家だった。

 確かに片田舎ではあったし、それほど便利な土地というわけではなかったけれど、静かで穏やかなところだ。
 偉い先生にも期待されている優秀な医師だということで、閉院の時には引く手あまただったらしい。そんな彼女がどうして災害孤児をひきとって片田舎に引っ込むことになったのか…いろいろ憶測が流れたようだ。

 何か、辛いことがあったんだろうな…ということだけはカヲルにもわかる。だが、寄る辺のない身としては願ってもない話であったから、余計な詮索はしないことにしていた。

 それでも、一緒に暮らし始めると…完璧にスルーすることは難しい。
 いつもきびきびと立ち働く彼女が、あるときふと動きを止めてその眉目に愁いの翳りを落とす。病院では見ることのなかったその様子が、気にならなかったわけではない。しかし、その理由わけを無邪気に訊ねられるほど…カヲルも子供ではなくなっていた。

 元の病院にいたときの彼女は理知的で、仕事ができる玲瓏美人クールビューティで通っていた。冷静な物言いを常としたから、ともすれば冷たいひととも見られていただろう。だが、噂ほど冷徹でもないことを、カヲルは知っている。
 ただ、どうしてカヲルをひきとってくれたのかは、いまだにわからない。
 確かに当時、孤児は世に溢れていたから…ある程度生活の安定した大人がそういった孤児をひきとることは、政府によって推奨されさえしていたから決して珍しくはなかった。当時軍籍にあった彼女がその方針に従ったとしても当然だろう。
 しかし、閉院の噂が流れ始めたある日、診察の後で彼女に声をかけられたときには、正直驚いた。
『もう知ってると思うけど…この施設、もうすぐ閉鎖になるの。今、施設側で受け容れ先はいろいろ探してる最中みたいだけど…カヲル君、よかったら私の家に来る? あまり便利なところじゃないけど、部屋数だけはあるから』
 時間にしてどのくらい固まっていたものか。
『…いいんですか?』
『あなたさえよければね』
 その時の彼女はただ静かに微笑んでいたから、何も読み取れなかった。強いて言えば、一抹の寂しさ、とか…?

 綺麗なひとだ。確かにいつも冷静。だが時折見せる、その愁色。

 ――――涙の通り道に黒子がある人は、一生泣き続ける運命にある。

 そんな、一歩間違えるとただの口説き文句のようなジンクスを聞いたのは、やはり病院の事務方にいた加持という男からだった。
 軍病院の事務方ということは、彼もおそらく軍人ではあったのだろうが…いつも言っていることが本気なのか冗談なのかよく判らない人だったから、案外本当にただ常套の口説き文句だったのかも知れない。実際、歯の浮くような台詞で…彼女リツコだけではなく見る度に違う看護師を口説いていたものだ。

 だが、なんとなくそんなことを思い出してしまうのだった。

 桜並木の下を、二人で一緒にゆっくりと校舎の方へ向かって歩いていると、彼女が不意に口を開いた。
「…ひょっとして、居辛いづらかった?」
 一瞬何を言われたのか解らなくて、カヲルは思わず歩みを止めてしまった。
 その直後、その陰翳ニュアンスに気づいて…激しく首を振った。リツコの家での生活が気詰まりで、進学先として寮のある学校を選んだ…と?
 とんでもない誤解に、眩暈すらしそうだった。
「違いますよ!どうして、そんな…!」
 そう言って彼女を振り仰いだとき、彼女はいつかと同じ…一抹の寂しさのようなものを含んだ静かな微笑を浮かべていた。
「そう、それならいいのだけれど…」
 そう言ってリツコが歩き始める。ああ、また気を遣わせちゃったのか。カヲルはそれに追随しながら、思わず唇を噛んで俯いた。
 だから、続けられた言葉に…思わず息を呑んでしまう。
「ごめんなさいね。私はあなたに、しらじらしい家族ごっこに無理矢理付き合わせたんじゃないかって、時々思っちゃうの。しかも、恩着せがましく…ね」
 そうだ、なんとなく気づいてはいた。
 彼女は、カヲルの知らない誰かの代わりにカヲルを傍に置いてくれている。しかもそのことに、引け目を感じながら。…それでも、カヲルは彼女の傍にいようと思った。過去、どんな哀しみの記憶を背負っていたとしても…彼女にとっては大切な縁だったのだろう。だったら、カヲルもそれに応えようと思ったのだ。
 それはカヲルにとっても、いつかきっと大切な縁につながっていくから。
「…私には、幸せのカタチがみえていないんだそうよ…。何かしらね、幸せのカタチって」
 自嘲の色濃い苦笑を聴いてしまったら、もう止まれなかった。
 足を速めて彼女の前へ回り込んだのは、多分…手を伸ばして、触れる勇気がなかったから。
 そうして彼女の足を止めさせておいて、思い切って顔を上げる。

「そんな哀しいこと言わないでください。あなたと暮らせて、少なくとも僕は、心から幸せでしたよ?…っていうか…まだ、その、過去形にするつもりありませんから!」

 彼女が目を瞠って立ち尽くすところなんて、そうそう拝めるものでもない。しかし、この時のカヲルにそれを賞玩する余裕など1ミリもなかった。ようやくそれだけ言い切ると、思わず俯いてしまったからだ。

「今日は珍しいものが見られる日ね。あなたがそんな顔して大きな声を出すところなんて、初めて見た気がするわ」
 目を丸くしたままのリツコにそう言われて、カヲルは思わず口を覆う。
「…すみません」
「いいのよ、そう言ってもらえると嬉しい」
 そう言って、彼女は先程のような苦笑ではなく、ごく穏やかに笑ってカヲルの頭に手を触れた。そうして自身の肩に引き寄せたカヲルの額をこつんとぶつける。カヲルもだいぶ背が伸びたが、もともと長身のリツコには一歩及ばない。
 平生へいぜい、この手のスキンシップとは疎遠なだけに…カヲルは跳ね上がった心拍が彼女に聞こえてしまうのではないかと心配になった。それを知ってか知らずか、彼女は至って軽い調子で言葉を続ける。

「心配しなくても、あなたが就職するまでは放り出したりしないわよ。安心して、しっかり勉強してらっしゃい」
「はい…」
 そんなことを心配したつもりは、なかったのだけれど。
 カヲルの頭に手を置いたまま、彼女は空を仰いだ。

「いいね。随分とあったかくなったわ。お陰で、桜は全部散ってしまいそうだけど。
 なんだったかしら、〝光のどけき春の日に…〟」

 カヲルはくすりと笑って、顔を上げた。
「ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ、ですよ。古今集、紀友則」
「さすがね」
「現役高校生、ナメないでください」
「なるほど。じゃあ何故、静心しづこころなく花は散るのかしらね。今年も早いわ…残念、もう少し見ていたいのに」
「それは…」
 何故だろう。カヲルもまた、蒼天に舞う薄紅うすべに色を仰ぐ。
「…命芽吹く季節が来るから」
 少女の声で卒然と返された答えに、二人して校舎の方を振り向く。
 そこにいたのは加持だった。三つ揃いのスーツを着込み、大抵は締めるというよりぶら下げていたネクタイを、今日はきっちりとダブルノット1で結んでいる。その傍に、声の主と思しき少女がいた。
 青みがかってさえ見える、銀色の髪。紅い双眸の小柄な少女。やはり大きめのブレザーに身を包んでいた。
「よう、お久しぶり」
「あら、リョウちゃん」
「相変わらず綺麗だねぇ、リッちゃん。ブラックフォーマルがまた一段と色っぽい」
「ありがと。珍しいところで会うわね。仕事でもしないようなマジメな格好で、今日はどうしたの?」
「仕事絡みには違いないんだが、一応今日はオフだよ?ワーカホリックの上司に泣きつかれたもんで、今日は保護者代理って次第さ」
「呆れた。入学式ぐらい、休みとればいいのに。あなたが代わりに仕事に出れば済むことじゃないの」
「俺、信用ないからねえ。…う-ん、なのになんでその割に扱き使われるんだろうな」
 加持がそう言ってへらりと笑った。
「娘を預けられる程度には信用されてるみたいね。どうせその上司・・が、こういう場所は苦手ってだけでしょう」
「…まあ、そこは察して。リッちゃん」
 大人二人は少々トゲのある会話に興じる間、カヲルはその小柄な少女から目を離せずに立ち尽くしていた。ややあって、ゆっくりと少女に歩み寄る。今度こそ、相手に聞こえてしまいそうな…頭に響くほどの鼓動も、もはや意識に上らない。ただ注意深く、言葉を択んだ。
「君も、新入生…だよね?」
「そう」
 少女は簡潔に応えたが、ややあって補足の必要を認めたものか、少し俯いて考え、そして顔を上げてゆっくりと口を開いた。
「命芽吹く季節がすぐそこに来てるから、花は咲いたら散って葉を茂らせる。光と水を芽吹いた葉にいっぱいとりこんで、命を養うんだって…教えてもらった」
 訥々とした答えは、カヲルの問いに対するものではなく、先程の補足だった。だが、素朴な説得力を持っていて、カヲルは思わず口許を綻ばせた。
「次の命を迎えるために、花は急いで散っちゃうのか。言われてみればそうだね。教えてくれて、ありがとう。
 僕はカヲル。渚カヲル。君の名前を、教えてくれる?」
 少女はそう問われて、少し驚いたようだった。だが、少し考える間を置いて応える。
「…綾波レイ。でも、一週間前から碇、っていう苗字になった」
「まだ、なんとなくしっくりこないんだね?」
 少女は頷いた。カヲルはひきとられたからと言って名前を変えてはいない。ただ、これは引取り先によって事情が違うのを、カヲルは知っていた。そうか、彼女もまた、ひきとられてきたのだ。
「じゃあ、君のことはレイって呼んでいい?僕も、カヲルでいいから」
 おずおずと、レイが頷く。
「ありがとう。クラス、一緒になるといいな。君と、もっと話がしたいから」
 レイはもう一度頷いて、今度はあえかに微笑んだ。
「うん。私も、話がしたい」
 その時、生徒へ教室に入るよう促す放送が流れた。
「行こうか。…クラス表、もう見たの?」
 レイが頭を横に振った。
「じゃあ、一緒に見に行こう」
 そう言って、手を差し伸べる。レイは戸惑ったように差し伸べられた手と自分の手を僅かなあいだ見比べて、カヲルの手を取った。
「――うん」
 そして歩き出す。
「リツコさん。じゃあ僕、そろそろ教室へ入ります」
「ええ、いってらっしゃい」
 リツコが手を振る。加持がいつもの剽げた調子で敬礼をして見せた。
「では渚司令、姫の護衛任務は引き継ぎましたので、小官はこれで失礼してリッちゃんとデートでも…」
 カヲルは笑った。
「何ですかそれ。敵前逃亡は重罪ですよ。諦めておとなしく父兄席で座っててくださいね。それと、リツコさんに変なちょっかい出したら、上司に通報しますから」
「うーんキツいな」
 加持をして切り返しに窮させておいて、カヲルは改めてレイの手を取った。
「行こう」
「うん」

 少し穏やかになった風の中で、薄紅色の花片がくるくると舞う。ひとひらだけ、重力に逆らっていく花片があると思ったら、蝶だった。

 ――――よかった、また逢えた。

 無限の円環を生きる。それでも構わない。

 それが何度目であろうと、こうしてまた出逢う希望があるのだから。

  1. ダブルノット…初心者向けと言われるプレーンノットよりも一回り大きな結び目のできる結びかた。