星降る森

 2001 A.D.――――
 Sleeping Forest

「…どうした?」
 額に手を当てられて、高階マサキは我にかえった。
「…ああ、夢を、見ていた。昔の夢だ。…夢…というのも違うのか? 多分、眠っちゃいなかったと思うし…」
 荘重な寝椅子カウチから身を起こして、脚を降ろす。
 マサキはまだ、封印柱に囲まれた中での生活を余儀なくされていた。館の敷地程度には結界を広げることが出来るようになっていたが、そこから先はまだ実験段階だ。
 寝椅子のすぐ傍に立つ、190㎝近い長身を見上げて…マサキは嘆息する。
「…よくも、出会いがしらに殴り倒されなかったな…」
「あんたは俺の知らないところで、殴り倒されなければならないようなことを仕出しでかしたのか?」
「そういじめるな。さすがに時効だろう」
 低く笑い、立ち上がる。今のマサキの身長は170㎝に届かない。立ち上がったところでイサナの肩にようやく届くかというところだ。どうしても見上げるようにはなる。
「ここのところ、微睡まどろむ度に膨大な情報が書き加えられる感じだ。予備知識がなかったら気が狂いかねないな。あの無茶苦茶なカリキュラムも今なら理解できる。助かったよ、イサナ」
 言われた方はやや戸惑ったようだった。
「…慣れんものだな」
可笑おかしいか? …あの頃だってお前のほうが背は高かったと思うが」
「身長の話じゃない…まあ厳密にはそれも入るが。その風体で言動が老成してると…まあ違和感はあるな。慣れてしまえばそれまでなんだろうが」
 セカンドインパクトで摘み取られかけて以降、それまでマサキ自身懐疑的だった〝魂の記憶〟というものが日々追記されるようになった。お陰でマサキとしてはそれまで感じていた微妙な心地悪さが解消されてきつつあったのだが、それはそれでここに至るまでの経緯を思い出すと苦笑を禁じ得ない。
「そうは言うが、助かったのは本当だぞ。ただ、俺だってお前を敬称さん付けの苗字で呼んでたなんて…知らなかったとはいえ、お前もさぞかし心地悪かっただろうなと思うと可笑しくて」
「…やっぱり面白がってるな」
 イサナが困惑気味に眉を顰める。マサキはそれを微笑って見遣り、開けたままだった窓の方へ足を向けかけてふと問うた。
「そういえば、用があったんじゃないのか」
「用というほどのものでもない。結界内とはいえ、封印が完璧とは限らんから、様子を気に掛けておいてくれと頼まれてるだけだ。…監視されてるようで不快かもしれんが」
「なるほど、仮寝うたたねしてるんじゃなくて抜け殻になってた、なんてことになったら目もあてられんからな」
「何を他人事ひとごとのように…」
「大丈夫だ、理解わかってる。踏みとどまるだけが、今の俺に出来る唯一のことだからな。等閑なおざりにするつもりはないさ。ただ、深刻ぶっても始まらんし、息も詰まる」
 窓枠に手を掛け、マサキは身を乗り出すようにして深呼吸する。今度はイサナが苦笑する番だった。
「どんな姿であろうと…あんたのそういうところだけは、相変わらず太刀打ちできる気がしないな。
 …ああ、リエがもうじきタブハへ上がると言っていたから、あんたにも伝えておこうと思ったんだ。そのつもりでここへ来たのに、忘れるところだった」
「リエが?…そうか」

***

「あぁ、サキ? おっ、まだ生きてるわね。結構々々けっこうけっこう
 自室で荷造りの最中だったリエが振り返っての第一声がこれである。
 深海リエ・レベッカ=ランバートは、いくつかの名前を使い分けつつ人類リリンの中で相応の地位を築いている数少ないライゼンデであった。世間的にはコンピュータシステムの基礎研究で知られるが、第一始祖民族の遺産をリリンの技術で制御する研究でも第一人者と目される地位にいた。
 尤も後者は、知る者が著しく限定されているが。
 ミサヲが傍目には魔法としか言いようのない…第一始祖民族本来の手法でその技術を行使するのとは対照的であったが、そのミサヲとも古くからの友人であった。
 180㎝を越える長身。大概は結い上げているがほどけば腰ほどの長さがある豊かな黒髪は、常に濡れたような艶を湛える。雪肌紅唇せっきこうしんの歴然たる美女だが、その黒曜石の双眼があまりにも勁烈だから大抵の男は見惚れるよりも先に畏怖で俯く…というのがその〝大抵〟に属さないマサキの感想であった。
「お陰様でまだ踏み留まってるよ。…タブハへ上がるって?」
「ええ、そのつもり」
 スーツケースを両手と膝で押し込むようにして閉め、ケースのロック音を確かめてマサキの方へ向き直る。そのまま傍らの椅子に腰を降ろして、一度床に視線をおとしてから顔を上げた。
「…それでね、サキ。ミサヲにも話したんだけど、タカミは私のほうで預かるわ。タブハへ連れて行って、当面向こうタブハベースの遺構解析に当たらせようと思うの。本人の同意がとれたとは言い難いけど、このままじゃおそらくLCLに戻すより他…選択肢がなくなる」
 マサキがわずかに眉をひそめ、ややあって何かを追い払うように頭を振った。
「生存にすら差し障るレベル…ということか。さしあたって、やることが目の前にあったほうがいい…だろうな」
「まあ、そんなところね」
「…会えるか?」
「問題は無いわ。ただ…ツラいわよ、多分」
「覚悟はしてる…一応」
「了解…」
 リエは立ち上がり、続き部屋のドアを形ばかりノックする。いらえはなかったが構わずリエは扉を開けた。
 続き部屋には穏やかな陽が差し込んでおり、置かれたベッドの半分ほどはその光の中にあった。だがもう半分は、濃い闇のなかに沈んでいる。
 その闇の中に、片膝を抱えるようにして蹲る人影がある。扉が開けられたことに僅かに反応し、こちらを向いた。
 縋るような眼差しとともに、丸めていた痩躯をこちらに向ける。…が、現れた感情の揺らめきは一瞬で消え失せてしまった。
 カヲルを待っているのか。先刻のリエの言葉の意味を今更痛感しながら、マサキはゆっくりと近づいた。その肩幅は今のマサキよりはすこしだけ広かったが、痩せた所為もあってひどく小さく見える。
 俯いてしまったタカミの視界に入るように、マサキは膝をついた。緑瞳は開かれてはいたが、その色彩は傷ましいまでに昏く淀んでいて…思わず掛けるべき言葉を失う。
「…挨拶、しとかなくていいの?」
 腕組みをしたままドアに身を凭せかけているリエの言葉は、タカミに向けられたものだった。電圧の不安定な回路に繋がれた電球のように、タカミの双眼に光が灯る。
「…サキも…行ってしまう・・・・・・んですか?」
 ひどく心細げな…か細い声でタカミは言った。はるか昔のことでありながら、つい先程読み込んだばかりの記憶が去来する。色こそ違え、おさまりの悪さはカヲルのそれと変わりない…その髪に手を置いて、マサキは思わず苦笑した。
「知ってるだろう、俺は此処から動けない。でも…大丈夫、また会える」
 自身が嘘吐きになってしまわないことを祈りながら、マサキはそう言った。
 それを見たタカミは見開かれた双眼から透明な雫を零しながら、それでも言いかけた何かを呑み込んで…唇を噛んだ。一度瞑目したあと…先程のフィラメントが灼き切れる寸前の電球のような危うさでなく、確乎とした意志の光を宿して緑瞳が見開かれる。
「…僕も、僕に出来ることをします。だから、必ず踏みとどまってください、サキ」
「努力してみる…」
 その時、小さな吐息が聞こえてマサキは後ろを振り返る。リエが扉から身を離して立っていた。
「どうにも、違和感のある構図ね」
 マサキは嘆息した。
「…そんなわかりきったこと、腕組み仁王立ちでぼやかれてもなぁ。さっきもイサナに同じようなことを言われたが、こればっかりは仕方ないだろう。これが今の俺の在り様なんだから」
「わかってるわよ…」
「俺が今この姿で在ることだって、きっと何か意味があるんだろう。それが何なのか、また理解る時も来るさ。もしそうじゃなかったら受け容れるだけだ」
「一部の隙もない真実というべきだわね。全く、どうやったらそこまで達観できるの」
「達観なんぞしてないが…」
 マサキは立ち上がった。つられるように、タカミも顔を上げる。それを見て、マサキは微笑った。
「できるように、なるように。でも俺は決して抗うことを諦めたりはしない。最後までな。…それがあいつとの約束だから」
 タカミが顔を上げたまま、小さく頷く。そして、マサキが部屋を出るまでもう俯くことはなかった。

***