星降る森

 四方を本棚で埋められた部屋、その中央に古風な机があり、その上にはうずたかく積まれた書籍がある。否、それは膨大な手書きのメモを綴じたもので、今なお休むことなくつづられ続けていた。
 机の主人は、机に相応しく重厚な椅子に座してその背凭れに身を預けていた。特に人目を惹くような容姿というわけではないが、20代にしか見えないのに侵し難い威厳と気品を纏う女性であった。
 軽く眼を閉じているが、眠っているわけではない。
 高階ミサヲ・アウレリア=アレックス。彼女は最年長のライゼンデであった。その実年齢を知るのはもはやゼーレぐらいだろうと言われている。
 往古むかしはゼーレのメンバーであったとの噂もあるが、現在はゼーレとは一定の距離を保ち、第一始祖民族の遺構の解析を行う傍ら、ライゼンデ達を庇護してきた。
 ライゼンデは眠らない、というのはあくまでも人類リリンの尺度であって、そのスパンが数十年に渡るというだけのことである。パターンはそれぞれであるが、休眠期に入ったライゼンデは数年から数十年の単位でひたすら眠り続ける。身体が安定してしまえば大凡おおよその予測がつくが、完全に変化する前は急激な眠気に襲われて突如昏睡することもあった。
 リリンとは言わば時間の流れを異にするのだ。その為、ライゼンデは往々にして孤立し、共同体から閉め出される傾向にある。そうした環境で昏睡に陥ると、それが命の終焉に直結する危険さえもあり得た。
 食事を摂らず、眠ることもないうえに歳をとらない。そのうえ共同体からはみ出している者の存在は…しばしば、中世であれば魔女狩りとも呼ばれた憎悪ルサンチマンの対象となってきたからである。
 彼女はそうしたライゼンデに、密かに居場所を与えてきたのだった。匿い、逃がし、場合によっては身を守るためのすべを与えた。しかしライゼンデ達とて不死身というわけではないから、理不尽な憎悪に駆られた人々から排斥され、武器をもって襲われ、傷ついたり命を落としたりすることも稀ではなかった。

 それでもライゼンデ達がなんとか生き延びてきた理由のひとつに、常に彼らの傍らにあった銀髪紅瞳の協力者の存在がある。

 少年だったり、青年だったり、時代によってその姿はまちまちであったが、ゼーレから鄭重に敬し遠ざけられていたその人物は…20世紀後半には〝渚カヲル〟の名を持っていた。
 誰もその正体は知らず、だが何者であるかは誰もが薄々気付いている。しかもそれに言及することを誰もが畏れる。…そういった奇妙な立ち位置。その彼が一貫してライゼンデ寄りの立場をとり、ライゼンデの庇護者たる彼女を支援してきたのだった。
 ――――だが、2000年9月13日。セカンドインパクトに際して〝渚カヲル〟は姿を消している。
 彼女はにはそれが、彼が一時的にようを変えただけであることが理解っていた。カヲルは今、この世界の何処にもいないが、何処にでもいる。感覚を研ぎ澄ませば、この絶海の島にいてもその存在を感じることがある。
 だが今、感じるのは…。
「…大丈夫か?」
「平気よ。考え事してただけ」
 気遣わしげな声と一緒にそっと肩に置かれた手に、ミサヲは指先を重ねた。入ってきたことに気づかなかった訳ではない。通気のために開け放たれた扉は律儀に叩打ノックされたのだが、感覚を研ぎ澄ますことに集中していたミサヲが咄嗟に声で返答できなかっただけのことだった。
 それでも、叩打ノックしたほうにしてみれば心配にはなるだろう。
「…顔色が良くない気がする」
「この古ぼけた照明の所為ね。…テラスへ出ない? サキ」
「いいのか?」
「ええ、一段落ついてるから」
 そう言ってミサヲは立ち上がった。まだ違和感が拭いきれない身長差に、マサキが微妙な表情をしたのを盗み見て…ミサヲがこっそりと笑いを噛み殺す。
 寄り添うようにしてテラスへ続く廊下を歩きながら、マサキが嘆息混じりに言った。
「…済まないな。俺がまだ殆ど何も出来ないから、お前ひとりに負担がかかる」
「研究には加わってもらってる。そうじゃなくても、帰ってきてくれただけで十分だって言ったでしょ。いい加減くどいわよ」
「そうは言ってもな…」
 ミサヲが敢えて拗ねる寸前の口調をしてみせると、それもよく判っているマサキはそれ以上何も言えなくなる。それを揶揄からかうのも楽しくはあったが、さしあたってミサヲは話を変えた。
「…タカミのこと、聞いた?」
「ああ、月へ上がる件か。先刻会ってきた。タブハベースにあるモノを考えれば、諸手をあげて賛同もしにくいが…まあ、今はリエに任せるのが正解なんだろうな」
「まあ、荒療治といえばそうなんだけど…あれ・・ともう一度向き合うことができたら、あの子自身も納得できるんじゃないかと思うの。あの子は確かに昔、あそこにいたけど…今はもう、別の存在ものだってこと。立って歩き始めたら、揺籠には戻れないってことも」
「いつもながら厳しいな」
「あなたはタカミに甘すぎよ。まあ、それが判ってるから同意したんでしょ」
「…全く以て仰せの通り」
 午後の柔らかな陽が降り注ぐテラスへ出ると、マサキが天を仰いだ。ミサヲもまた青銅ブロンズ椅子ガーデンチェアに腰を下ろして空を見上げる。
 空は、木々の深い緑に縁取られていた。
 かの古城はヒースの荒野に建っていたが、この洋館の周囲は森であった。小さな島の殆どはこの森に覆われている。圧倒的な数の星が降る、木々の影に縁取られた紺青の夜空…その記憶に囚われそうになり、ミサヲは軽く頭を振った。
「L結界浄化無効阻止装置は今のところ一応そこそこの性能を発揮できてる。同期が不完全だからまだ私の結界で出力を底上げしないとこの島を維持できないけどね。装置だけで完全に同期できるシステムを組み上げることができれば、量産の目処も立つ。そうすればまだL結界に呑み込まれていない生態系をわずかなりとも保存していけるわ」
「済まない、ミサヲ…これでは、まるで…」
 マサキが言いかけて呑み込んだ言葉は、聞かなくても判っていた。〝まるで人柱ひとばしら〟。
 海の〝浄化〟が押し寄せたとき、彼らに出来たのはひとつの島とその周辺海域に結界を張ることだけだった。機械装置による結界をミサヲの方術で統合して、ようやくこの小さな世界を維持している。
 L結界浄化無効阻止装置と呼ばれるそのシステムは、未完成なのだ。努力は続けられていたが、今のところ術者であるミサヲの存在がシステムを支えていた。このため、彼女はこの島から一歩たりとも出ることは出来ない。最初にこの状況を、〝人柱〟と言い切り激しく憤ったのは他ならぬリエである。己の持つ技術の総てを投じても、友人ミサヲをその立場から自由にできないことの苛立ちがそうさせたのは皆が知っていたが、ミサヲ自身はこの状況を然程悲観してはいなかった。
「…座らないの?」
 ミサヲは隣の椅子を勧めたが、マサキは先程と同じ複雑な表情をして、立ったまま苦笑と共に軽く手を挙げた。
「この位置ポジションでもないと、どうしたって見上げるようになるからな」
「つまんないことにこだわるのね?」
「何とでも言ってくれ。認識することと理解すること、そして納得することは同一じゃない。…それと、いまはこの風が心地好くて…な」
 そう言って木々の彼方を見遣るマサキの横顔を眺めながら、ミサヲは思う。
 ミサヲはこの島から出ることは叶わないが、それは結界の裡に身を置くことで、使徒として摘み取られることを免れているマサキも同様だった。だから、この静穏が守っていけるなら…自分は人柱だってかまわない。こうして、静かな時間を共に享受することが出来るのだから。…そんなことを実際に口にすれば、マサキがまた困惑するのが目に見えているから…彼女が言ったのは別のことだった。
「寒くない?」
「涼しいさ。ここなんてまだあったかいもんだ。地軸が動いたんだろうな。日本から冬がなくなった代わりに欧州から夏が失われそうだが…気温の変化もまたこの星が生きている証だ。…生物は惑星の環境変化に順応するものだけが生き残る。俺たちはこの星の変化にどう対処するかを考えればいい。
 …そうじゃないか?」
「そう、ね…」
 ミサヲは微笑んだ。
「〝ただ強く在るより、しなやかであれ…〟」
「誰の言葉だったかな…ここのところ記憶の追記ダウンロードが多くて、わからなくなる…」
「存外、あなた自身の言葉かもしれないわよ。何度でも生まれ、何度でも出逢う間で、交わされた言葉はお互いの中へ沁み込んでいく。そしてお互いを捜し当てる寄処よすがえにしとなる」
エンが俺たちを導く…か」
 だが、その言葉にミサヲは僅かに表情を硬くする。前にマサキが彼女の前から消えたときも、そんな遺言めいたフレーズを聞かされたからだ。
「…忘れないで。摘み取られ・・・・・たら、はない。生命の書は神ののりであるがゆえに神ののりを越えることは出来ない…というのが、私の見解よ」
「わかってる」
マサキがゆっくりと歩み寄り、華奢な肩を背中から包み込む。
カヲルあいつに課された時間を思えば、俺たちの時間なんて須臾1ほどのものさ。だが…だからこそ、その間にできるだけのことをしよう。
 俺たちが此処にいることは、きっとそのために意味があることだから」
 回された腕にそっと指を重ねて、ミサヲは言った。伏せた睫の震えを止めることができないのを、すこしだけくやしく思いながら。

「そうね…今度こそ、カヲルが幸せを見つけることができるように…」

――――To be continued

  1. 須臾…ほんの僅かな間。