遠い空の下

――あなたの幸せを、祈っていますよ。遠い、空の下から。

EVER AFTER

遠い空の下

 2004 A.D.――――
 欧州・英国

 真希波・マリ・イラストリアスは、ソファに身を沈めたままぼんやりとその葉書を眺めていた。
 暖炉で揺らめく炎。それはマリの指先にある葉書に微妙な、そして絶えず動き回る陰翳を与えるから、印刷されたメルヘンティックなタッチの天使がときおりゆらりゆらりと踊っているように見える。
 窓の外は雪。つい先程まで城を埋める勢いで降り続き、今は止んだものの窓の桟にも雪が積もっている。地軸遷移により日本は恒常的な夏となったというが、逆に欧州は冬の国となった。
 城のインテリアに釣り合った重厚な暖炉には赤々と火が焚かれ、マリが座を占めるソファの周囲は十分に暖かい。だが、同じ室内でも窓の傍に立てばひんやりとした空気が降りてくるのだ。
 この国の好もしい初夏が失われたことは寂しい。だが、この葉書が報せてきた事実もまた、マリの胸奥にささやかな寒風を送り込んできた。
「…寒い?暖房強くしようか?」
 俄にかけられた声に、マリの指先がぶれた。指先からすり抜け、ひらりと舞って暖炉の炎へ向かって舞い落ちようとしていたそれを、器用な別の指先がぴたりと捉える。
「…あ、ありがと…」
 差し出された葉書を受け取る。拾ってくれたのは20代後半と見える青年。だが、ライゼンデである以上、外見的な年齢などあてにならない。脱色した髪をバイオレットアッシュに染めているその青年は、雨宮ナオキと名乗っていた。フェリックスという名もあるらしいが、さしあたってはそう呼んでくれと言われている。
「ゴメン、吃驚させる意図はなかったんだけど。…結婚のお報せか…ひょっとして、昔の彼氏とか?」
「…まさか!」
 思わず口調が尖ってしまい、かすかな後悔に胸を咬まれる。

 遠い空の下から、ゲンドウくんとの幸せを祈ってますよ。そんな小利口な別離の辞を口にして日本を出たことを、マリは悔いている訳ではない。
 ただ、その後はひどく目まぐるしかった。いろいろなことが起こりすぎた。自分の身体の変化。地球の変化。人間関係の変化。
 だから、物流事情の悪化で遅れに遅れ、今になってユイからこんな葉書が来ても…胸腔に冷たい風を感じただけで…それほどショックではなかった。判ってはいたけれど、噂では聞いていたけれど、いざ突きつけられるとこたえるだろうな。そんなふうに思っていたのに、自分が思いのほか動じなかったことに…すこし失望しさえした。
 マリはさらりとその葉書を手許にあったハードカバーの栞にして机へ置き直した。ハードカバーの表紙に手を置いたまま、呟く。
「…そうだね、どうにもなりようがない片恋の形見、ってやつかなぁ…」
「えーと…」
「はっはー、ウソ嘘。タダの旧い知り合いだよ」
 居心地悪そうなナオキに軽く手を振ると、マリは葉書を挟み込んだ本を持って立ち上がった。
「ナオキってば、デリカシーないぞっ!」
 やにわに伸び上がってナオキの後頭部をはたいたのは、元気のよい銀髪の少女であった。
「痛えぞミスズ!」
 些か大仰に身を折って頭を抱えるナオキや、それを両手を腰に当てての仁王立ちでにらみつける小柄な少女の所作を見て…マリは思わず笑う。少女はマリを振り仰いで言った。
「ねえマリ、こーんな女心の理解んない奴の世迷い言はさておくにしてもさ、逢いに行けば?ゲヒルンの人なんでしょ。最近は少しずつ極東ファーイーストとの往来もできるようになったしね…なんならあたしが段取りしたげるよ?」
 少女が小首を傾げて覗き込んでくる様子は、お節介だとは思いながらどこか憎めない。葉書の差出人は連名になっているから、この少女もナオキと同じような解釈をしたのだろう。
「ありがと、でももう、随分前のことだし…噂で子供も産まれたって聞いた。きっと、忙しいよ」
 葉書に記された日付はもう3年近く前のものだ。未だに郵便物より風の噂の方が早く届くというのは、今の世界では厳然たる事実だった。
 綾波ユイ。今は、碇ユイ。遙か遠い真実を見つめるような、透徹したまなざしを持っていた。
 好きだった。綺麗で可愛いところも。頭脳明晰なところも。ちょっと抜けてるところも。優しすぎるところも。マリの気持ちに気づいても、態度が変わらなかったところなんかも。
 才能も実績もあり、大学生の頃から政府直属の研究機関から声がかかっていたという。
 天衣無縫、という言葉はああいうひとを形容するためにあるのだろう。冬月教授から将来について訊かれた時、就職や、研究室入りだけでなく、「家庭に入る」という選択肢を〝いいひとがいれば〟という留保つきでさらりと開陳してみせるようなひとでもあった。冬月教授が返答に窮したというのも無理もない話だ。あまりにも勿体ない…というか、どちらかというと諸々心配になる選択肢ではあるまいか。
 頭脳明晰なくせに大事なところが抜けていて、時々とんでもないドジをやらかすユイを見ていると、遠からず家が火事になるかゴミ屋敷になりそうな気さえしたものだ。
 そのユイが、既に母親だという。時間は流れているのだ。マリを置き去りにして。
 結婚し、出産しても研究自体は続けていて、既にある・・プロジェクトにおいて主導的立場にあると聞いた。
 地上の命の基となった存在…始祖生命体リリスの解析である。
 形而上1生物学を形而下2で実証できるという画期的なプロジェクトは、既に始祖生命体の複製体コピーに対する直接接触ダイレクトエントリー実験のプランが取り沙汰される段階にまで来ている。

 遠い世界のことのような気がするが、実のところそうでもない。

 自身がライゼンデと呼ばれる特異体質者であることを知らされてから…マリは自分をセントフォード大学へ招いてくれたアレックス教授…高階ミサヲ・アウレリア=アレックスのもう一つのかおを知ることになった。
 ライゼンデの庇護者、眠りの森の妖精女王ティターニア ザ プロテクタ オヴ スリーピングフォレスト
 彼女の庇護下に入ることで、今まで一般的には理論上の存在であり、その実在が極めて限定された人々にしか開示されてこなかった、始祖生命体リリスについて識ることが出来た。そして現生人類リリンとは異なる系統に属する、第一始祖民族と呼ばれる人々とその技術テクノロジーについての研究に携われることになったことは望外の幸運だったが、それは同時にゼーレの存在とその闇を知ることでもあった。
 自分を含むライゼンデが背負わされたあるリスク・・・・・に直結する…闇。
 その昔リリスと人類の間で交わされたという契約。運命の日…2000年9月13日まで、それは実に曖昧にしか理解されていなかった。それが…セカンドインパクトの災禍によって一気に現実味を帯び、生存を賭けて人類同士がしのぎを削る悲惨な時代に突入してしまったことで、加速度的に研究が進められるようになったのである。
 立場は違えど、求めるものはひとつ。ならば、研究を続ける限りまた逢える日もあるだろう。今はただ、そう思って自身のできることをやるだけだった。
 セカンドインパクトからこっち、世界中で物資は逼迫している。形式上はゼーレの庇護下にあるライゼンデ達は比較的恵まれた環境にあるといえたが、生活物資はともかく研究のための資材調達は楽ではない。現在のマリはそのための折衝に欧州中を駆け回る立場にある。3年も葉書を受け取り損ねた原因のひとつもそこにあったが、マリはそれを苦にしたことはない。忙しいのはいいことだ。
「じゃあそろそろ、行くね。島へ送る資材、来月までにはきっといい報せ持ってくるから」
「あ、よろしくな」
「ごめんね、ありがとー。気を付けて」
 ナオキとミスズに手を振って、マリは部屋を出た。
 マリは廊下でふと立ち止まり、雪で半分近く視界が埋まってしまっている窓の向こう…なお雪を抱いた曇天を眺める。
 ふと、蝉の泣き声がかまびすしい日本の夏を思い出した。――あの、夏色のエデン。
 遠い空の下から、貴女の幸せを祈る。今はそれでいい。

  1. 形而上…形を持たないもの、形を越えたもの、精神的・理念的なもの。英語ならmetaphysics。
  2. 形而下…形をそなえたもの、物質的なもの、感覚で捉えられるものという意味。英語ならphysics。これは物理学と同義。形になっちゃった時点で形而上ぢゃないぞ、というツッコミはご勘弁。