Color My World

「アタシ知ってる。…こーいうの、カントリー・ハウスとか、マナー・ハウスとかいって、イギリスのお貴族サマの邸宅よね。
 …ちょっとまってよ、ここはハドソン・バレー1でしょ!? マンハッタン、すぐそこなのよ? なんでここにこんな建物があるワケ!?」
 アスカが緑の丘陵のむこうに鎮座する屋敷を見て、声を跳ね上げる。
「えーと…近くには観光名所にもなってるカイカット2があったりして、結構時代のついた建物があるらしいよ。このあたり、割と古い土地だしね」
 一瞬、何に驚いたのか判らなかったカヲルが些かガイドブック調な説明を加えると、シンジがなにやら怖々といった態で訊ねる。
「あの、カヲル君の親族って…いろいろと凄い人が多いよね…ひょっとして」
「シンジくん、ひょっとしておじいさまのこと言ってる? 大丈夫、あそこのオーナーは至って常識的な女性ひとだから」
「そーじゃなくて…! だから、その時代のついた建物・・・・・・・・で実際に住んでるって、一体どういう種類の人間って話!」
アスカが畳み掛ける。
「どういう種類って…」
 カヲルは困惑を載せた両肩で緩やかにハンドルを切った。
「…まあそれは、確かに大昔は伯爵Earlだか侯爵Marquessだか爵位あったらしいけど、今は返上してるって聞いたよ? 普通に堅気なピアノ奏者ピアニストとちょっといい加減なヴァイオリン奏者ヴァイオリニストが住んでるだけだって!」


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「I wish your happiness Ⅸ」

Color My World

「ようこそ。長旅ご苦労様」
 荘重な玄関扉が開かれたとき、繊細なヴァイオリンの音と共に彼等を出迎えた女性は、鹿鳴館調のドレスに身を包んだりはしていなかった。至ってこざっぱりしたシャツとスラックス姿で、少し色の淡いストレートを横髪を少し残して結い上げてはいたが、それとて格別大時代的なふうでもない。ただ、城の奥様、といっても全く違和感のない貫禄は備えている。
「高階ミサヲです。自分の家だと思って寛いでいってね」
 アスカが一目見て溜息をつきながら言った。
「うっわー…リアル・メラニー=ウィルクス3…」
「それって褒められたと思っておいていいのかしら?」
 ミサヲはくすくす笑いながら遠来の客人を迎え入れた。
「おひさしぶりですー。お世話になりますねー♪」
 いつものように屈託ないレイがぺこりとお辞儀すると、その頭を軽く撫でてすこし感慨深げに言った。
「ローレンツ先生のバースディ以来かしら?ほんとにおっきくなったわねー。
 ええとそれから、碇・・・シンジくんとアスカさんだったわよね。そういえばあのパーティでもお会いしてるかしら?」
「あ、はい、あの、すみません。意外と普通な方なんでちょっと吃驚して…」
 アスカの無遠慮な口を塞ぎ損ねたシンジが汗をかきかき後に続くが、その実フォローのようでフォローになっていない。ミサヲは最後に入ったカヲルの耳を軽く引っ張って、少し声を落とした。
「…ちょっとカヲル君、ウチに関して一体どんな前情報いれてたの?」
「いたた…どんな前情報って何もヘンなことは言ってませんって。…単に前回おじいさまのインパクトが強かっただけだと思うんですけどね」
「あー…成程」
 ミサヲがカヲルの耳を離して天を仰ぐ。
「…そこで納得しちゃうんですね」
「ま、あれは吃驚するでしょ」
「ミサヲさんだってこんなヴィクトリア調の家具調度に違和感なく溶け込んでる時点で、小市民の僕らとしては十分吃驚しますけど」
「何言ってんだか。カヲル君だってセラフィン4がだっこして連れて来てた頃から十分溶け込んでたじゃない。吹き抜けの欄干で一本橋してセラを慌てさせたりとか」
「だからそういう本人も憶えてないような話はもう時効ですって! …ところで、高階さんは階上うえ?」
「ええ…あら、気付いたみたい、ほら」
 それまで低く抑えめに流れていたのは、荘重なヘンデルのラルゴだった。それが、不意に軽快なメヌエットに変わる。きちんと遮音されるレッスン室もあるのだが、近所がないのをいいことにしばしば扉や窓を全開のまま演奏するらしい。
「相変わらず楽しそうですね、高階さんのヴァイオリン。あれ…ミサヲさんがここにいるのに伴奏ピアノが聞こえる…」
「あぁ、イサナもいるから」
「へえ…珍しいな。大概、マンハッタンのオフィスに詰めきりなのに。…っていうか、あの人ピアノもやってたんだ」
「本人曰く、必要に駆られて仕方なく、だそうよ。…ったく、兄さんの突拍子もなさに何人伴奏者が逃げたことか。オケで演るときの半分でも協調性を持ち出したら十分なのにね」
「…“必要に駆られて仕方なく”であれですか。本当になんでもできる人だな」
「そうね、実は兄さん、イサナに演らせたくて駄々こねてたんじゃないかと疑っちゃうくらいよ。練習の時だけだって言って、本業にしないのが残念だわ。まあ、今回はその本業のほうで呼ばれたから来てるんだけど…」
「…え、仕事なんですか?」
「聞いてなかった? …あぁ、タカミからの連絡だったんだっけ。そっか、カヲル君には内緒かぁ…」
 少し悪戯っぽい微笑を浮かべるミサヲに、思わずカヲルが一歩退く。
「…ミサヲさん、ひょっとして何か企んでます?」
「あら人聞き悪いわよ、カヲル君。企んでるのは私じゃないわ」
 あくまでも穏やかに微笑んで、ミサヲは言った。

***

ヴィクトリア調、というよりおそらくは本物のアンティークと思しい家具に囲まれた部屋で午後のお茶の饗応を受けながら、アスカが感心したように呟いた。
「舞台が舞台だけに、アシュリー5が出てくるかと思ったらカーディニ6だったわ。そういえば前にいっぺん会ってるっけ、高階さんって」
 アスカが率直すぎるのは元からにしても、シンジとしては居たたまれない。
「アスカってば遠慮なさ過ぎ。『風と共に去りぬ』ネタはもーいいから。ってか、カーディニって誰…」
「カードマジック程度はできるぞ。やってみせようか」
 そう言って笑ってのけたのは高階マサキ。ヴァイオリン奏者ヴァイオリニストで、 キールに師事した関係でカヲルが小さい頃は練習の面倒を見て貰ったこともある。キール=ローレンツの弟子と呼ばれる人々の中ではいわゆる高弟と呼ばれる程の人物なのだが、素地がそうなのか師匠に影響されたか、名声の割に至って飄然としたものである。確かに音楽家と言うより、奇術師マジシャンと云われたほうがしっくり来るような風貌ではあった。
タカミが遠縁に当たる、と言っていたから厳密にはカヲルにも親戚になるのだろうが、言った当人が『遠すぎてよくわからない』というくらいだからカヲルも深く追及したことがない。ただ、高階の屋敷は母がN.Y.での定宿にしていたので何度か来たことがある。
 …一本橋は記憶にないが。
 ミサヲはマサキの妹で、ピアノ奏者ピアニストである。世界中を忙しく動き回る兄と違って概ねN.Y.に居を定めていた。母と仲が良かったそうで、事故の時にはカヲルとレイをこの屋敷に引き取るとも言ってくれたほどだった。結局諸事情でその話は流れたものの、タカミが帰国できる状態になるまで来日してカヲルとレイの世話を焼いてくれた人物である。タカミが図書館の階段から落ちた一件の時は、実はまだ日本にいたのだった。
 そして…その二人の後ろで立ったまま、静かにティーカップを傾けている青年。彼はカヲルにとっても初対面であった。切れ長の両眼の色彩は判然としない。艶のよい黒髪は少し長めではあるが、髪質が細いためか然程煩げにも見えなかった。
「おっと、紹介が遅れたな。カヲルは何度か電話で話したことはある筈だが、会うのは初めてだろう。イサナだ。鯨吉ときよしイサナ。鬼より怖いウチの番頭さんだ」
背後を指しながらそう言った途端、同時に二方向から叱られてマサキがつんのめる。
「「サキ!」」
「…んだよ、概ね間違ってないだろ」
「何が『鬼より怖い』だ。全力でこき使ってるくせに」
「兄さんってば、人を紹介するときまで余計な茶々いれないの。皆吃驚してるじゃない。
 …ええとね、イサナはウチの音楽事務所の顧問弁護士で、まぁ実質仕切ってもらってるようなものね。何せ代表取締役わたしがただの置物だから」
やかましい置物もあったもんだ」
「そこ、うるさいわよ。まあ…高階の家の弁護士としても動いて貰ってるし…確かに番頭さんかなぁ。イサナがいなかったら私、とてもじゃないけど家を空けられないものね。
 そうそう、レイちゃん。例の件はイサナに頼んであるからね。詳しいことはまた後で」
「あ、ありがとうございます!」
レイが頬を染めてミサヲに手を合わせる。
「…?」
 誰だか知らないが『何か企んで』いるのは確かだったから、カヲルとしては『例の件』とやらが気にかからない訳ではなかった。しかしそれを口にしかけたとき、イサナが歩み寄って来たので流さざるを得なかった。
 イサナが身長に見合った大きな手を差し出す。
「まずは1stアルバムの成功おめでとう。…N.Y.へようこそ」
 カヲルの作曲した楽曲をミサヲとユキノで演奏したCDが先月発売になった。そのマネージメントをしてくれたのが高階の音楽事務所であった。
「ありがとうございます、鯨吉ときよしさん」
 カヲルはソファから立ち上がって握手に応じた。そうしてみるとたっぷりと自分より頭一つ分高い。そういえば部屋に入ってきたときも、マサキより頭半分くらい高かった気がする。
 何せ相手はカヲルが所属するレーベル7の統括者でもあるから、自然と背筋を伸ばしてしまう。高階兄妹はどっちかというと身内に近い感覚があるが、鯨吉イサナに関しては初対面でもあるしそうは行かない。
 それに気付いたか、イサナが微かに口許を綻ばせた。
「そう硬くなるな。イサナで構わんよ。全く、サキの奴…俺に関して何かあることないこと吹き込んでないか?」
 確かに黙って立っていると他者を寄せ付けない印象はあるが、相好を崩すと決してそうでもない。
「いえ…タカミがあなたからの電話っていうと、必ず一度青ざめてから受話器をとってたものだから、もっと怖い人なのかと思ってました」
 イサナが苦笑を閃かせる。
「それはあいつが、自分で自分の首を締めるような仕事の取り方をしてるからな。興味の赴くままにあれこれ手を出しすぎるなといつも言ってはいるんだ。…しかしこれが、返事はいいが行動が伴わん」
「あー…」
 状況が容易に想像がつく。人当たりが良くて多芸な叔父がいつも忙しそうにしている理由の一端が見えた気がした。
「まあ今回、君は仕事じゃないんだろう。のんびりしていくといい」
 あなたはお仕事と伺ってますけど…と言おうとして、カヲルは躊躇った。思っていたより話し易い人物というのは理解ったが、訊いていい部分かどうかをはかりかねたのだ。ミサヲやアスカと談笑するレイの横顔を…一瞬だけ視界の隅で捉える。先程のミサヲの、悪戯っぽい微笑が頭の隅を過ぎる。曰く、『カヲル君には内緒』。
 …まあ、明日には判ることなんだろう。カヲルは敢えて訊かないことにした。
「ありがとうございます」

***

「…広いねえ」
 シンジの感想はあまりにも平凡であったが、カヲルとてあまり語彙豊富に語れるような感慨を持ち合わせなかったので、曖昧に賛同するにとどめた。見渡す限りよく整備されたブドウ畑と牧草地。間に小さな木立や時代のいった建物が点在する風景は、確かにここがマンハッタンから二時間を要しないというのが信じ難くはあった。
 翌日である。折角ハドソン・バレーに来たのだからワイナリーツアーだろう、というマサキの提案に、アスカは飛びついた。アスカが旗幟鮮明である以上、シンジの選択肢は決まっている。カヲルはそれほど乗り気というわけでもなかったが、特に行きたい場所があるわけでもない。だが、レイに問うてみると、案の定というか…『ごめんなさい』という返事であった。
『イサナさんがこの日しか空けられないんだって。ごめんね。ちゃんと形にできたらカヲルにも話すから』
 こう言われては、訊くこともできない。いまひとつ釈然としなかったが、結局水色に近い銀の髪を撫でて『行っておいで』と言うしかなかった。
 ワイナリーの見学コースを一通り終えての休憩時間。アスカは早速というか試飲に及んでいる。酒に強くないシンジはやや及び腰でそれに相伴していた。
「高階さんも試飲してきたら?帰りくらい僕が運転しますから」
 ここまでの案内と運転をしてくれたマサキにそう言うと、
「そうか? …じゃ、少しだけ」
 と嬉しそうに試飲コーナーへ足を向けていった。少しで済むとは思ってないけどね、と内心で呟きながら、カヲルはそれを見送った。案内料としてはささやかすぎるかも知れないが、試飲という気分でもないカヲルとしては、マサキに相応の返礼をしておく機会と思ったのだ。
 そして、眼前に広がる風景を前に深呼吸する。
 天気は良いが微かに風が吹いている。日陰はやや薄ら寒いかも知れないが、日向にいる分には十分暖かかった。
 先月、CDの発売日にレイが仕組んだサプライズ。レイとしてはただの悪戯以上の意図はなかったようだが、タカミといい、周囲の人間は明らかにカヲルの気持ちを試したらしかった。
『・・・・どう?少しは素直になれそうかい、カヲル君?』
 自身の演奏に対する評価を待つような顔で訊かれ、カヲルは表情を選びかねて天を仰いだ。
『・・・ったくお祖父様といい、高階さんたちといい・・・どうしてもそういうこと・・・・・・にしたいんだ?』
『違うのかい?』
『・・・そうじゃなくて・・・』
 勘違いで落ち込でしまったところを晒した手前、ごまかしはきかなかった。レイへの気持ちが初夏の頃とは変わってきていることを、認めざるをえなかった。
ずっと一緒にいた。これからも一緒にいる。そのことは動かない。でも、その気持ちにどんな形を与えたらいいのだろう。お互いの道を尊重しつつ、協力しあって演奏と会社と高階の家を守っているあの兄妹のような?それとも…。
 レイはどう思っているんだろう。
 …ここが、このままがいい…。
 あの言葉が、カヲルを迷わせていた。
『カヲルの花嫁さんが来るのよ』
 レイが来るとき、母はそう言って笑っていた。何処まで本気だったのか、今となってはわからない。また、母が本気だったとしても…そんな大昔の約束でレイを縛れない。レイが『このままがいい』と言うなら、今までと同じように家族として暮らせばいいことだろう。
 でも…。
 祖父キール・ローレンツに焚き付けられたからじゃない。
一緒に過ごす時間なんて持てているのかと思うぐらい互いに忙しそうなのに、いつも幸せそうなタカミにあてられた訳でもない、けれど…。
 ふと、風に乗って愉しげなヴァイオリンが聞こえて来た。
  ”Caprice No.24″…
 非の打ち所がないほど精確な演奏技術に、どういうわけかちゃんと感情が載っている。こんな演奏者は…。
 芝生に置かれたカフェテーブルにワイングラスを置いたまま、マサキがヴァイオリンを弾いていた。
「…った、あのひとは…一杯加減で何てモノ弾いてるんだか」
 昔…ある作曲家が、自らの演奏技術を誇示するために自分にしか弾くことのできない練習曲を作曲した。これでもかというくらい多彩な技術が盛られている上に緩急も激しく、弾きこなすのはかなり骨が折れる。まかり間違っても一杯ひっかけて挑むような曲ではない。
 でも、楽しそうだ。あ、ピッツィカート8失敗しくじったな。巧くごまかしたけど。
 それでも弾き終えると次はバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ。映画のサントラから終いには耳コピと思しいポップスのナンバーまで、自由自在だ。弾きたいものを次々と、弾きたいところだけっている感じ。
「どこから持ってきたんです、そのヴァイオリン?」
マサキが弓を置いたのは、疲れたからと言うよりグラスに残ったワインを手に取る為のようだった。グラスの中身が放つ香気に口許を綻ばせて応える。
「あぁ、ここのオーナーのを借りてきた。時々ここで一緒にミニコンサートしてるし。…忘れてるかも知れんが、ここのオーナーってユキノちゃんだぞ。まあ、今は留守だから無断借用なんだが」
「…そうでしたっけ」
 それでどうにも景色に見覚えがあったわけだ。多分、何度か来ている。
「相変わらず、楽しそうですよね。高階さん」
「そりゃお前、楽しまなくてどうするよ。…弾くか?」
 マサキがヴァイオリンを差し出す。カヲルは苦笑した。
「遠慮します。…指が、もう動きませんよ。知ってるでしょ?」
「だいぶ握力戻ったって聞いたぞ。長いこと触ってないだろうが、そう簡単に指が忘れるもんか」
「…それはそうなんですけど…。さっきあんなもの聞かされたら、とてもじゃないけど」
「お、本音が出たな。弾きたかったら弾けばいいじゃないか。 …誰が何言おうが関係ないさ。それで金銭かねとろうってんじゃないんだし。
 …音楽なんて楽しんでナンボだぞ。若いくせに枯れたこと言ってんじゃない」
 絶対にそんなことするわけがない、と判っていても、今にもヴァイオリンを放ってきそうなマサキの仕草に思わず手が出る。
「ほれ。好きに弾け」
 なし崩しに弓も受け取ってしまい、暫くカヲルは立ち尽くした。マサキはといえば空になったグラスを片手に、踵を返してさっさと試飲コーナーの建物へ戻ってしまう。
 懐かしい手触り。匂い。知らず…構えていた。
 弦に指を当てた。忘れるわけがない。…“そう簡単に指が忘れるもんか”。
 弓を滑らせる。
 …パッヘルベルのカノン。1st…
 知名度の高い曲だから、シンジ達と四重奏カルテットをやっていたときは定番中の定番だった。文字通り、目を瞑っていても弾ける。
 そう、弾きたかった。
 すぐに力を失い、思うように動いてくれない腕に焦れて、いつか諦めていた。…でも、ずっと弾きたかった。
『そりゃお前、楽しまなくてどうするよ』
 誰かに褒めて欲しいからでも、仕事だからでもない。ただ弾きたい。
 目を開ければ、ただ広い…見渡す限りの緑。その色彩が、先刻と何か違う。新しい何かが加わったわけではないのに、すべてが新しい。遠くに見える山並は、子細に見れば晩秋の装いを凝らしている。広がる牧草地もその色は均一ではない。それらが目に痛いほど鮮烈で、カヲルは知らず、また目を伏せていた。
 カヲル自身としてはもどかしいような1stを、いつの間にか2ndヴァイオリンの旋律が支えている。視線をあげなくても誰の音か判るから、そのまま視覚の奥に残る鮮烈な色彩と、心地好い音にすべての感覚を預けた。
 …弓を止めたとき、カヲルは自分が笑っていたことに気づいた。
 カヲルの両腕は愚痴をこぼすというより全力で不平を並べ立てていたが、以前のように悲鳴をあげてはいない。ヴァイオリンをカフェテーブルに置かれたままのケースにそっと戻すことができた。
「一体何挺置いてるんです、楽器」
「そりゃ五重奏クインテットができる程度には」
 もう一挺のヴァイオリンを置きながら、マサキが笑う。
「いい表情かおしてんじゃないか。本当は、弾きたかったんだろう? …無理に諦めようとするから、嬢ちゃんが心配するんだよ」
 ゆっくりと掌を握ったり開いたりしていたカヲルが、はっとして顔を上げた。
「…レイ、が?」
「多分、弾けるくらいの力は戻ってるのに、ヴァイオリンに触れようとしないのは自分の所為じゃないかって気にしてたぞ。事故の後で、何かあったんだろ」
 思わず、呼吸を停めた。心当たりはある。
『・・・・・ごめんね・・・・・ごめんねカヲル・・・私・・・悲しいのに、どこかでほっとしてる・・・・これでもう、カヲルが何処にも行かないって・・・・ごめんね、私、最低だ・・・・・』
 謝らなければならなかったのはカヲルの方だったのに。ヴァイオリンよりも 大事なものがあることを、あの事故が気付かせてくれたのに。
「ま、プライドの高いお前さんとしちゃ、自分として不完全な演奏なんて誰にも聴かせたくないのかも知れないが…。未完成だろうが不完全だろうが、誰かの為に弾くってのは楽しいぞ。言葉ってのは難しくて、どうにも巧く伝わりにくいもんだが…そのあたり、音楽ってのはいい。…勿体ないぞ、それだけの技術うで
 別に、活動を再開してみろって言ってるわけじゃない。自分が楽しんだり、自分の大切な人間に何かを伝えるためのヴァイオリンまで棄てるこたないだろって話さ」
 それだけ言うと、マサキはもう一度ヴァイオリンをとった。
 奏でたのは、カヲルの知らない曲だった。旋律からすると、ポップスのナンバーかとも思うが…今日の空の色のような爽やかさと、そっと支えるような暖かさ。
「僕は…ただ…レイに…もう寂しい思いはさせたくなくて…」
 掌を見ながら、呟くようにカヲルは言った。
「そう思うなら嬢ちゃんにそう言ってやるんだな。言葉にするのが難しければ別の手段を探せ。幸いなことにはお前、それに関しちゃ超一流Super classe技術うでを持ってるじゃないか。何たってお前、俺の弟子だからな」
 弓を停めないままに、そう笑う。だが、つられたカヲルが浮かべたのは苦笑だった。
「一曲弾くのがぎりぎりだよ…」
「千の言葉よりも、5分に満たない演奏が心を伝えることもあるさ」
「…それは、経験則?」
「あー、俺の場合はそんなイイ話じゃない。事故のショックで全緘黙症になっちまった奴をもういっぺん喋らせようと思ったら、毎日8耐レース並に弾き続ける羽目になっちまったっていうだけだ。思いつくもの片っ端から弾いたぞ。ガットを何本切ったかな。薬が効きすぎたのか今じゃ取り戻すみたいによく喋るが」
 誰のことを言っているかに気づいて、今度こそカヲルは笑った。そういえば退院してから帰国するまでの数ヶ月間は、高階の屋敷で療養していたと聞く。
「贅沢な話だね」
「俺だけじゃないぞ。ユキノちゃんとか、セラと旦那が死んじまって、落ち込んでた連中が入れ代わり立ち代わり…今考えると結構なメンバーだったなぁ。ああ、イサナの奴がピアノ演るのもあの時初めて知った。あれだけピアノ向きな手ェしてるくせに大勢の前で弾くのはイヤだと抜かすから、今でもウチでぐらいしか弾いてないけどな」
 カヲルは、ケースの中で鎮座するヴァイオリンにそっと触れた。ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「僕は…弾きたい…でも、レイに聴かせてあげられたら…それでいい…」
「…上等だQuite so。ようやく言ったな」
 どうやら即興らしい間奏を挟んで、メインの旋律へ戻る。
「嬢ちゃんだってもう子供じゃない。色々考えてるぞ。傍にいることに安心してないで、必要なことはちゃんと伝えるんだな」
 どうやら嵌められたことに気づいて、カヲルが顔を上げる。
「…やっぱり企んでたんだ?」
 マサキが少し意地の悪い笑みをしてみせる。
「さて…言っとくが首謀者は俺じゃないぞ?」
教えてくれるつもりはないらしい。カヲルは笑って、少し強い風の中で凜と流れる旋律に耳を傾ける。
「…いい曲ですね」
「“Color My World”」
Color My World私の世界に色を…」
つい先刻、奏でながら見た風景の色合いの変化に思いを馳せながら、カヲルはそのことばを口ずさんだ。

***

一行が帰宅すると、パーティの支度が既に調っており…レイがすこしはにかみながら…なにやら大事そうに書類を抱いて待っていた。
「就職試験!?」
「それと、職場見学。イサナさんにマンハッタンのオフィス、案内してもらっちゃった。実際に就職するのは日本法人の方だけど」
「…就職って、高階の音楽事務所?」
「うん、勿論。だから、イサナさんとミサヲ姉さんが時間取れる日をえらんで貰ったんだ。私ね、カヲルみたいに演奏も作曲もできないけど、一応法科が卒業できそうだし、事務方マネージメントでカヲルを助けたいの!」
 白い頬をほんのりと染め、紅瞳をきらきらさせながら…レイが差し出したのは内定通知書だった。
「…えーと、ミサヲさん?」
「いーじゃない、本人がやりたいって言ってるんだから。
随分前から話はあったんだけど、まさかカヲル君に内緒とは思わなかったのよね。私としてはレイちゃんだったら、別にあんまりしかめつらしいことしなくたって内定出していいとは思ってたんだけど…ウチの番頭さん、じゃなかったイサナが、本人達のためにもきちんと筋は通すべきだろうって。
そのくせ職場案内してる間にさっさと書類整えさせて、あと私のサインだけって状態でデスクに置いてるんだから、笑っちゃうわ」
 二の句が継げないとはこのことだろう。カヲルは絶句したまま、ころころと笑うミサヲの後ろで、やはり立ったままコーヒーを啜っているイサナに視線を移す。それに気づいたか、やや居心地悪げにイサナが言った。
「昨日の時点では君が知らされてないとは聞いてなくてな。…別に、敢えて黙っていた訳ではないよ。基礎知識に問題はないし、意欲も十分。実務については当面、葛城チーフ9の下について勉強してもらえば問題ないだろう」
 いや、そういうことじゃなくて。嬉々として並べたグラスにワインを注ぎ分けているマサキの方を見やると、チェシャ猫のような笑いを浮かべている。
「だから言ったろ、お嬢ちゃんも色々考えてるぞって。じゃ、とりあえず今夜は内定祝いってことで…乾杯!」
「乾杯―!」
 ひょっとして知らなかったのは自分カヲルだけではなかったかと思うような自然さ で、シンジとアスカがワイングラスをとって唱和するものだから…もう天を仰ぐしかなかった。
「…駄目、かな?」
 カヲルが何も言わずに突っ立っているものだから、レイが少し不安げに見上げてくる。
「…滅相もないね」
 カヲルは微笑んで、レイを抱き締めた。
「レイが傍にいてくれるなら、こんな心強いことはないよ。ありがとう。それと、おめでとう」
「ありがと、カヲル。邪魔だって言われたらどーしようかと思ってたんだ。
 私ね、どうしたらカヲルの傍に居られるかなって、ずーっと考えてた。…でね、私で出来ること、色々探してみた。まだ、とりあえず場所が見つかっただけで…私、何にもできないけど…カヲルが作曲だけじゃなくて、いつかまたヴァイオリン持てるようになったら…私、カヲルの好きに弾けるように頑張るから!
 だからまた…弾いてくれる?」
「レイ…」
 言葉を探して、カヲルは何度か口を開きかけた。しかしその度に言いかけた何かは霧消してしまう。
 職業的な演奏者になんて戻れなくてもいい。ただ、レイの為に弾くことができるなら。そう言いたいのに、巧く言葉が見つからない。
 どうしたらいいんだろう…。

***

【…とまあ、なかなかいい雰囲気ではあったがな。さて、踏ん切りついたかどうか】
「駄目だなーカヲル君も…女の子にそこまで言わせといて保留なんて」
タカミはくすくす笑いながらダイニングテーブルからティーカップを取った。携帯はスピーカーモードのままテーブルに置かれている。
【ま、とりあえずお嬢ちゃんの就職の件はきちんとできたから、これであの爺さんも納得するだろ。ま、ちっとばかりあざといが…折角カヲルが順調に回復してるんだから、碇のおっさんあたりに余計な雑音入れさせたかない、ってのは俺も同感だからな】
四重奏カルテットのときは碇の坊ちゃんが一緒だったから、まぁ仕方ないなとは思ってたんだけど。あそこネルフは無茶苦茶だ。あんな酷いスケジュール、僕がマネージメントしてたら絶対蹴らせてたよ。…挙句、あんな事故だ。そりゃ、事故自体があのおじさんの所為とは言わないけど…ああ腹が立つ!」
【とりあえず落ち着け。お前、そういうとこはセラに似てきたぞ。ってことはやっぱりあの爺さんの血か…】
「さらっと怖いコト言わないでください。大体、サキだってそう思ったから新レーベルまで立ち上げてカヲル君を誘ったんでしょ。ひどいなぁ、あそこまで企画が具体化するまで僕には一言もなしなんだから」
【あの件の文句はキール爺さんに言えよ。情報を流してきたのは爺さんだし、動いたのはミサヲとイサナだ。俺なんて最終的に演らせてすら貰えなかったんだぞ。自分に弾かせろってユキノちゃんに詰め寄られちゃ、退くしかなかったけどな】
「何はともあれご苦労様。…楽しそうだった?カヲル君」
【そりゃぁいい表情かおしてたぞ。演出の都合上、嬢ちゃんに見せてやれなかったのが残念だが】
「なんか口惜しいなぁ。なんで撮っといてくれなかったのさ」
【そう思うならお前も上手にそそのかせ。やっぱり、嬢ちゃんに遠慮してた風だったからな。弾きたいことは弾きたかったんだ。…小さな行き違いだが、降り積もるとキツいもんさ。でもこれからは…】
 不意に電話の声が途切れる。椅子のスプリングの音…そしてかすかに窓の軋る音。
「どうかした…?」
 タカミはカップを置いて携帯を取り上げた。…だが聞こえたのは、低く抑えた笑声。そして幽かな、そして繊麗なヴァイオリンの音色。
【…どうやら早速やってる。俺も聴きたいから切るぞ】
「あ、待って!僕にも聴かせて!…ってもう切れてるし。狡い!サキのいけず!」
 沈黙してしまった携帯に向かってタカミが文句を並べ立てていると、その肩越しに丁寧にブローされた金髪が覗き込んだ。出勤の準備は終わったらしい。N.Y.むこうはこれから夜だが、日本は出勤時間帯だ。
「なぁに?朝っぱらから賑やかね」
「あはは、ごめんなさいリツコさん。とびっきり上等の小夜曲セレナーデを聴き損ねちゃったもんで、つい…。もう時間?」
「ええ。…その表情かおだと、いい方向の進展があったみたいね?」
 そう言いながら玄関ドアに足を向けるリツコを見送るために、タカミは携帯電話を置いて立ち上がった。
「どうやらそうらしいんだ。カヲル君達が帰ってきてから、どんな話が聞けるか楽しみだよ。…うわ、結構寒いね」
 開いたドアからは、刺すようなとは言わないが身が引き締まるような風が吹き込んだ。
「ええ、もう師走だもの。…いいわよここで。外は寒いし」
「そー言わずに送らせて。寒いけど、すごく天気良さそうだ」
結局ガレージまでついて出て、車が角を曲がるまで見送った後…タカミは澄みわたった初冬の空を見上げた。
 初冬のよく晴れた空の色も、また美しい。思わず微笑が零れる。
「ほんと、いい天気…」
 踵をかえしながら、タカミはゆっくりとその旋律を口ずさんだ。

As time goes on, I realize
Just what you mean to me
And now, now that you`re near
Promise your love that I`ve waited to share
And dream of our moments together

… Color My World,with hope of loving youあなたを愛するという希望で、僕の世界を色づけて….

――――――Fin


後書き、らしいもの


おかげさまで21周年!
…はい、申し訳ありません。21周年って既にして半年近く前の話ですが、ここはひとつ年内ということでご寛恕賜らんことを。この度畏れ多くもさるお方から21周年記念リクエストを頂きましたので、気合いと根性入れてみました。
曰く…
『「I wish」シリーズで、カヲレイ激甘、使徒勢出張る、イサナさん初登場。
結婚前のじれったい時期で、キールおじいちゃんとか皆が2人を応援してる頃のお話』

如何でしょう? リクエストにお応えできましたでしょうか?
本当のラストはレイちゃんだけを観客にして月明かりの窓辺でヴァイオリン弾いてるカヲル君。余計な科白もト書きも要りませんね。…ってか、神々しすぎて結局文章にできませんでしたわ。(<あっ逃げた!)

時系列としては「Snow Waltz」と「愛にもかたちを」に挟まるお話となります。このあと、自分の気持ちにも気づいて、レイちゃんが自分のことを大切に思ってくれてるのもわかって、それでもレイちゃんに何て伝えたものか考えあぐねたカヲル君がタカミ君の処に転がり込んで延々とうだうだやった結果、タカミ君は見事締め切りをぶち破ってミサトさんに叱られたという流れ(笑)

このシリーズ初登場のイサナ君。本来前面には押し出しにくい御仁なので、高階さんの番頭さん♪ということでご出演願いました。ピアノも弾ける弁護士で実は(書き損ねたんですが)フルートも吹けたりして(<元ネタの判る人だけ笑って…)。『I wish』シリーズでは密かにミサヲちゃんといい関係だったりします。
サキ、前の出演(『PRINCESS PRIDE』)の時にさらっと済ませてしまったので今回出張ります。えらくしょってるし、一人でいいトコごっそりさらってった感じですが…昨今は間借人某が裏で好き勝手やってる所為でエラい目に遭ってるので…ここはひとつ赦してやってくださいまし。
で、多分今回の首謀者(笑)タカミ君の『ちょっぴり甘い朝の風景』ってやつ。…幸せ真っ最中、なにをかいわんや。朝っぱらからなに惚気のろけてんでしょうね。はい、ここは柳が書きたかっただけですごめんなさい。

タイトル『Color My World』は例によって例の如く池田さんですが、タカミ君が口ずさんでいるのは同タイトルの洋楽から。『Color My World』で検索するとまずこの洋楽のほうが先に出てきますが、この詩がステキなので思わず。曲は全く別物です。
池田さんの『Color My World』はまだアルバムには入っていないと思うのですが、シングルのカップリング曲にはストリングスバージョンが入ってます。サキがかっこいいこと言いながら弾いてたのはこっちのイメージですね。あ、でもソロでは無理かな?…や、サキなら何とかするでしょう。

相変わらず砂糖菓子のシロップ漬けチョコレートトッピング120%ではございますが、皆様のお気に召す料理になったことを祈りつつ…
今後とも、『千柳亭書房』をよろしくお願いいたします。

2018.11.4


 

  1. ハドソン・バレー…ニューヨークはマンハッタンからほど近い、ニューヨーク州ハドソンリバー地区あたり。ワインで有名。
  2. カイカット…大富豪・ロックフェラー家が3代続けて別荘として使用していた豪邸。
  3. メラニー=ウィルクス…「風と共に去りぬ」に登場するスカーレット=オハラの義妹。ちょっと影薄いけど心優しく純真で健気、包容力の権化。
  4. セラフィン・渚=ローレンツ…カヲルの母。飛行機事故で他界。同じ事故でタカミも負傷した。
  5. ジョージ・アシュリー=ウィルクス…「風と共に去りぬ」でスカーレットが思いを寄せる紳士的な美青年。名家出身で教養もある、メラニーの夫。
  6. カーディニ…二次大戦前後、主にステージマジックで活躍したプロマジシャン。カード、シガレット、時計、ボールといった品物を使用し、ほとんどを手練(スライハンド・マジック)だけで成立させたショーを確立。燕尾服・シルクハットといった紳士の姿で演技した。
  7. レーベル…レコード会社自体やレコード会社により分けられた個別のレコード事業部門。
  8. ピッツィカート…バイオリンなどの弦楽器で,弓を使わず指で弦をはじく奏法。“Caprice No.24 ”では更に左手で弦をはじきながら弓でも弾くという高度な技術が使用されている。
  9. 葛城チーフ…他じゃないけどミサトさんのこと。タカミの云うところの「こわぁいプロデューサー」。「愛にもかたちを」参照。