約束の刻 第二夜

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「Promised Night」


 彼女がそこへ到着したのは、昼を少しまわってからのことだった。
 車の中はエアコンを効かせていても暑さを駆逐できないが、湿度が低く、風があるせいか車を降りれば意外と涼しい。
 木陰をすり抜ける風は、汗ばんだ肌に心地好かった。落ちかかる前髪をかき上げ、宿舎となるその建物を見上げる。
「ここは――――――――!?」
 初めて地名を聞いたとき、彼女の中で何かがひっかかった。
 しかしすぐに、忘却の淵へ沈めてしまったのだ。
 その校舎のたたずまいは、それを再び浮かび上がらせた・・・・・・。


約束の刻とき

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「Promised Night」


第二夜

『道、分かりにくいから気をつけてねん♪』
 今朝がたミサトから入った電話に一応の覚悟をしていたが、一応看板らしきものは分かれ道ごとに立っており、さほど不安なく辿り着くことが出来た。そもそも、方向音痴のミサトに心配されるようになったら終いだ。
 停止したエンジン音に、生徒たちがばらばらと出てきた。
「赤木先輩!」
 真っ先に飛び出してきたのは、マヤだった。
 およそ、マヤがこの合宿に参加するのは彼女が来るからに他ならない。マヤは第一中のOBであるとともに、彼女の研究室の後輩だった。
「早かったわねー」
 教室の窓からミサトが手を振る。
「このあっついのにそんなとこ立ってないで、はいってらっしゃいよ。ちょうどいいわ、休憩にしましょ」
「そうだと思って、差し入れ持ってきたわよ」
 車の後部座席から、クーラーボックスを引っ張り出す。子供たちの歓声があがった。

 彼女・・・・赤木リツコが持ってきたケーキは、程良く解凍されて食べ頃になっていた。本来は冷蔵庫で数時間かけて解凍する代物だが、暑い車中に置かれたクーラーボックスという微妙な環境のもと、一時間あまりで頃合いとなったものとみえる。
「さすがリツコ、計算するわねー」
 酒の次に甘いものに目がないミサトが、3口で平らげてしまってから言った。
「あのねミサト。私だってそんなにいつも計算ずくじゃ・・・・」
 ないわよ、と言いかけて、リツコは不意に凍りついた。
「どしたの」
 リツコは返事が出来なかった。声がとっさに出なかったのだ。
「リツコ?」
 さすがに怪訝な表情になって、ミサトがリツコの視線の先を辿る。
「・・・あの子は?」
 ようやく言ったのはそれだけだった。しかし、視線の先を見たミサトは一笑した。
 視線の先には、ヒカリと一緒に皆へアイスコーヒーを振る舞うカヲルの姿があった。
「あぁ、彼? 管理人さんの代理だって。渚カヲル君。あんまし美形なんでびっくりしたぁ?」
 ミサトの態度にようやく平静を取り戻し、リツコは笑って見せた。
「そうねえ、あと20歳ばかり上乗せして、人格に深みと厚みが加わったら浮気相手には丁度良いかもね」
「オジン趣味」
「あなたの趣味には負けるわよ」
 どだい舌戦でミサトに勝ち目はない。その時、カヲルがアイスコーヒーのグラスを載せたトレイ片手に近づいてきた。
「形而上生物学の赤木博士? 初めまして、渚カヲルと言います」
 にっこり笑って、彼はそう言った。努めて平静に、彼女は応えた。
「あら、御存じ? ・・・・・どこかでお会いした事があるかしら」
「相田君や鈴原君からお噂はかねがね。第一中のCool Beautyとうかがいました」
 そう言って、悪戯っぽくウインクしてみせる。彼女には、躱されたという感触のみが残った。
「昨日会ったばっかりなのにすっかり溶けこんじゃってねー。良い子よ、とっても。ヴァイオリンも上手くてね。今回休みの一年生のパート、受け持って貰ってるの」
「そう・・・・・」
 アイスコーヒーに口をつける。甘さが抑えめで、渇いた喉には丁度好い。
「3時からもう一回合わせるわよ。いいー?」
「はーい・・・・・・」
 談笑する子供たちの姿を漫然と目に映し、リツコはふと訊ねてみた。
「良くこんな年代ものの合宿所なんか見つけたわね」
「結構いいでしょ。静かだし、空気もいいし、第一涼しくて」
「そうね・・・・・」
「どうしたの、リツコ?暗い顔しちゃって」
「なんでもないわ。そんな変な顔してるかしら」
 そう言って、アイスコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「楽器、持ってくるわ」
「あ、よろしく」
 ミサトは笑って手を振った。音楽部顧問とはいえ、音楽は本来専門外のミサトの頼みの綱は、リツコだった。

 3:00p.m.  定刻―――――――。
 Antnio Vivaldi  Op.8・・・ 「THE FOUR SEASONS」.
  「夏」・・・アレグロ・ノン・モルト。
 燃えるような暑さの中を吹く西の風。そして嵐の予兆・・・・。
 一つの方向・・・ビオラの席を気にして、つい手許が狂いがちになるのを、シンジは懸命に繕っていた。
 今朝起きてみると、レイは何事もなかったように平然としていた。
 トウジやケンスケ達にピアノの音を聞いたかと訊ねたら、こんなボロ校舎にピアノなんかある訳ないだろ、と一笑に付された。
 それはそうかもしれない。
 疲れていて、夢でも見たのかも。
 しかし、あの澄んだ音・・・・・夢でもいい、もう一度聞いてみたかった。

 蛍を見せてあげる、というカヲルの言葉に、全員が繰り出したのは9時を少し回ってからのことだ。
 校舎から、道を隔てた反対側へ少し歩くと小川のほとりに着く。今では写真でしか見られないような、コンクリートで打ち固められていない川の姿がそこにあった。
「草むらには入らないでね。蛇がいるといけないから」
 蛇、ときいて一瞬足が止まる者、数名。しかしカヲルは笑って言った。
「大丈夫だよ、音をさせたら逃げていくから」
「あ、あれじゃない?」
「ライト消してみて!」
 めいめいの懐中電灯を消す。川の流れに添って、光の粒子が乱舞するのが見えた。
「わぁぁっ、すごぉい!! 本物の蛍よ!!」
 はしゃぎ回る子供たち。しかし、大人達にも相応の感慨はあった。
「この国にもまだこんなところがあったんですね、先輩」
「ええ、そうね・・・」
「地図の上だけならそんな山奥でもないのにねぇ」
 一方、マヤへのアタックを試みていた青葉はリツコの存在の前になすすべもなく敗北、撤退を余儀なくされて腐っていた。
 撤退することに半ば慣れてしまっている日向あたりは、遠目に想い人の姿を拝するだけで結構満足に浸っているらしかったが。
 このとき、一番忙しいのはケンスケだった。
 ケンスケのビデオマニアぶりは周知の事実であり、こんな絶好の機会をのがす彼ではなかった。蛍火などという、光学器械で捉えるには難儀な代物をなんとか被写体のバックに入れようと七転八倒。もはや蛍観賞なぞどこかへいってしまっている。
「こいつに風流はわからんやろ」
 自分のことを棚上げにして、トウジが呟く。
「あぁっ!!」
 素っ頓狂な大声に皆が振り向く。
「なんや、ケンスケ。異なげな声あげるんやないわい、びっくりするやろが」
「スペアのバッテリバック忘れてきちまったんだよ。もう電源が・・・・・」
「阿呆、そんなことぐらいで情けない声あげるな。取りに帰れや」
「あ、俺も帰る。もう眠たくなってきたよ」
 いち抜けた、という態で挙手した青葉がそう言った。
「気をつけてね。ライト、どっちか持ってる?」
 がさつなようでもこういう時は意外と気が回るのがミサトである。青葉がライトを持っていることが分かると、手を振って送り出した。
「まぁったく、あいつ何しにきよるんやろ」
「あれが趣味だもの。仕方ないよ」
 シンジが笑って言った。
「シンジ君?」
 名前を呼ばれて、振り返る。そこにはリツコがいた。
 第一中学校の嘱託医であると同時に、シンジの父の部下でもある。本来公立中学の嘱託医などには勿体無い人物と聞いていた。シンジの特殊な事情を知っていて、気に懸けてくれているのか、出会った時にはたいてい一言二言声をかけてくれる。
「だいぶ、友達も出来たみたいね」
「ええ、もう5ヶ月ちかくになりますし」
「そう、よかったわ。レイちゃんとはうまくやってる?」
 俯いて、暫時の沈黙。この暗がりでその複雑な表情までは見えない。
「・・・・・嫌われない、程度には」
 リツコは笑った。微笑ましいものを見た、そんな笑みだった。
「あの子もね、ちょっと不器用なだけなの。だから、誤解されやすいんだけど・・・・・・いい子よ。ま、そんなことは一緒に暮らしてるシンジ君が一番良く分かってるわね」
 そう言って、身を翻す。不意にシンジが顔を上げた。
「・・・・あの・・・・!」
「・・・・何?」
 何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなってシンジは口を噤んだ。・・・・・昨夜のことか?そんなことを、彼女に言ってどうなるのだろう。
「いえ、何でも・・・・・ありません」
 しばらくの、間があった。聞き直すべきかどうか、リツコも迷ったのだ。
「・・・・じゃあね、シンジ君」
 結局、踵を返した。・・・・・なんと、似た者親子であることか。リツコは思わず天を仰いでいた。
 水に負けず空気もきれいなのか、それとも地上に余計な光源がない所為か、目が眩むような満天の星がそこにあった。
「気をつけて!」
 不意に声をかけられ、リツコは我に返った。
「草むらはあぶないですよ」
 あと少しで、草むらに足を突っ込むところだったのだ。注意してくれたのは、銀の髪の少年だった。
「ああ、ありがとう」
「いいえ・・・・吸い込まれそうな空でしょう?眩暈がしそうなくらい・・・・」
 涼やかに笑む。古い記憶に胸を刺され、再び天へ視線を投げた。
「・・・・渚・・・カヲル君だったかしら」
「カヲルで結構ですよ」
「・・・・・昔、何処かで逢ったことはない?」
「さあ・・・・・僕が憶えてないくらい小さかったらわかりませんけど。あなたみたいなきれいなひと、逢ったことがあったら忘れないと思うな」
「あら、上手ね」
「本当ですよ・・・・・」
 そう言って、笑う。悪戯っぽい笑みであった。

「えーっと確かここのコンセントに・・・・」
 明かりもつけていない教室に突入しようとするケンスケを制しながら、青葉は照明のスイッチを捜した。
「慌てなくても蛍は逃げやしないさ・・・・と、ここか」
 蛍光灯が一斉に点く。黒板の下のコンセントに差し込まれたバッテリパックは、充電完了のサインを瞬かせていた。
「おぉっ♪ これこれ!」
「じゃ、気をつけて行け。悪いが先に休ませて貰うよ」
 重い足を引きずりつつ、部屋の隅の収納から布団を引っ張り出す青葉。
「はいはい♪ おやすみなさい。青葉さんも赤木センセがライバルじゃ、旗色悪いとこっスね」
「うるさい、とっとと行け!」
 青葉が投げた枕をひょいと躱して、ケンスケは教室を飛び出した。
 階段を踊り場まで駆け降りたとき、不意につけておいた廊下の照明が消える。
「またァ・・・なにも廊下の明かりまで消さなくったって・・・」
 しかし月の明るい夜だ。別にどうしても明かりが必要なわけでもない。ケンスケはそのまま月を頼りに西玄関まで降りた。
 そして靴を履いているとき、その音がしたのだ。
 それは、水音。しかしそれは、蛙が飛び込んだ程度のものではない。もっと体積のある・・・そう、大きな鯉かなにか・・・。
 中庭に池が掘ってあるのは知っていたが、そう深いものではなかったはずだ。
「・・・?」
 思わず、耳を澄ませた。物音ではない。人の声・・・・・?
 もう一度、ばしゃんという音がした。そして、くすくすという笑い声。
 誰かいる?
 廃校になった木造校舎。あまりにも出来すぎた舞台に相応しいモノを想像し、彼はデジタルビデオカメラを握りしめて中庭に回った。
 さして大きくもないヒョウタン池。一方には中島がしつらえてあるが、昼間見た限りではあまり手入れがよいとは言えなかった・・・・。
 そのとき、足がすくんだ。
 池の、水は・・・・・。
 三度目の水音は、それをたてたものをはっきりと視認することができた。
「あ・・・あ・・・・」
 カメラが滑り落ち、重い音をたてて壊れた。その音に、そのものたちは振り向いた。
 月光に照らされる中庭。淡い光を受ける水面は血の紅。
 紅の池に身を浸す少女の肌も、中島を形づくる岩に腰かける少年の肌も、雪を固めたような白さだった。そのくせその双眸と唇は、水面と同じ色。
 少女は腰までしか浸っていなかったが、その絹のような髪は身体を覆ってさらに紅の水面に広がっていた。
 くすくす。そんなふうに笑い、少年の膝に上体を預ける。
 白い魚の尾が、水面を打つ。それは、少女の下肢があるべき場所であった。
「どうしよう。みつかっちゃったよ?」
「最初からそのつもりだったんだろう?」
「だって、カヲルはいいって言ったよ?」
「仕方ないね・・・・・」
 少年が笑う。片手で膝の上をたゆたう少女の髪を梳き、片手を彼の方へ伸べた。
 彼の喉から、悲鳴はもれなかった。ただ数度、耳障りな空気音がしただけだった。
 次の瞬間、少年の手から清冽な水が迸るように、光の槍が走る。
 槍は、背を向けて駆け出した彼の、右の肺に至る気管支を完全に塞いで突き刺さった。
 自分の胸から生えた光の槍を、彼は理不尽なものを見るような眼差しで見た。
 少年が、槍を手繰る。紅い水の中へ、彼は引き込まれた。
 水深が50cmとない筈の池で、自分がおぼれかけていることを不思議に思う余裕はなかった。
「おあがりよ、ガギエル」
「ありがとう」
 少女の喜色に満ちた声も、自身が啄まれる感触も、もう別の世界のことのようだった。
 静かな中庭に、暫くばしゃばしゃというせわしない水音が響いていた―――――――。