Minor Collision―接触―

行雲流水 Ⅰ

Minor Collision…車両の軽衝突。接触事故。collisionには対立、不一致の意味もある。

「まあ、確かに凝った建物だよね」
 ミスズが窓外の景色、その気持ちよく晴れ渡った空の只中に佇立する美術館の建物を眺めながら言った。
 親水公園の一郭として整備された、開けた土地である。四方を運河に囲まれ、敷地の中央にも幅15m弱の運河が通っている。分断された敷地に建てられた二つの建物が空中回廊で繋がれているので、上から見ればアルファベットのHに近い形をしていた。
 回廊もそうだが全体にガラスを多用した造りで、採光は良さそうだが美術品が展示・収蔵されている区画はさすがに外光を遮ってある。だから、ユウキの能力でも内部の細かいところまでは判らなかった。
 ミスズ達がいるのは空中回廊を正面から見下ろせるオフィスビルの一室。リエが手を回した架空名義で一週間ほど抑えてある。
「うー、私も行きたかったなーミュージアムカフェ。今回は偵察だけなんでしょ。荒事にはならないって話じゃない。後方援護って要るのかなぁ」
「『荒事にはならないはずだけど』で実際荒事にならなかった例がいままでいくつあった?」
 不満そうなミスズに、ユウキが少し眠そうな半眼のまま、冷静に指摘する。既にして足台付きのリラックスチェアに座を占めて、いつでも翔べる体勢だった。…というか、おそらくもう半分翔んでいる。
「ヤなこと言うね、お前」
 スコープで空中回廊を覗いながら、ナオキが嘆息した。
「カヲルのほうはは本当に今日は様子見、純然たる美術鑑賞みたいなこと言ってたけど…」
「ま、狙撃スナイプポイントを確保したってことは…少なくともリエ姉は警戒してるのよね」
「…件の芸術家ばーさんの周辺を洗ってる最中らしいな。時間経過から察するに、リエ姉としては…今んとこ決め手に欠けるけど叩けば埃が出るに違いないってとこか」
「優しそうなおばさんだけどなー…」
 ネットから拾ってきた『グレース剣崎』の近影を眺めながら、ミスズが首を傾げた。殆ど白くなった金髪の、上品な老婦人のポートレートがそこにある。

「結構賑わってるなー」
「剣崎って人…それほど有名って訳でもなかったような気がするけど」
「ウチの美術部に動員かかるくらいじゃぁなー」
 男女あわせて7名という大所帯が、美術館に着いたのは11時少し前のことだった。
 展覧会2日目。休日ということもあってそこそこ観覧者は多いが、行列が発生するほどではない。入場するのも比較的スムーズだった。
 いわゆる美術館棟と、公共施設らしく美術関係の書籍を集めた資料室や、研修施設、ミュージアムショップが入ったギャラリー棟を空中回廊が繋いだ造りは、一種のアミューズメント施設のようでもあった。
「ふうん、昨日につづいて今日も本人が来るんだ。講演もあるのね」
 入り口で渡された案内を読みながら、ヒカリが呟く。万事生真面目なもので、観ると決めたら丁寧に観るべきだと決めているようだった。
「講演が11時半からでしょ。ざっと観ていくくらいの間はあるんじゃないの?」
 そう言ってアスカが率先して順路通り進んでいく。説明を読みながら注意深く進むヒカリ、ここをおとなしく通り抜ければ後でカフェご飯が待っていると期待する男子二人。物珍しいであちこちでひっかかるレイと、それに丁寧に付き合うカヲル。それに更に付き合うていのシンジ、といった構成である。いずれ、観覧者達の中でそれほど目立つ一行というわけではなかった。

「立体造形もいろいろあるらしいけど…抽象画が抜け出たようなオブジェよりは判りやすいわよね、人物像って」
「あら、私ああいうのも結構好きよ。観る角度によって表現するものが変わってたりとか、面白いじゃない。…それにしても」
 腰まで流れる青みがかったストレートの銀髪と、淡い色のセミロング。長身の美女ふたりという組み合わせは、目立つなという方が無理だろう。
「それにしても…何?」
 ユキノが優しげな造作を少し曇らせて、ガラス壁の吹き抜けをもつエントランスを見回した。
「ええ…多分、リエとかタカミはもう感づいてると思うんだけど、人が集まるところっていうのを差し引いてもすごい量のトラフィックがあるわ。まだ焦点は定まってない」
「何、電波っぽいやつ?」
 レミが訝しげに周囲を見回す。
「私は電波とかそういうの判らないのよ。敵意とは言わないけど、緊張感を持った意志…っていうの?露骨に網張ってる感じの意志の流れを感じるの。なんだか皮膚がピリピリするぐらい」
「私には判んないわよ。そー言えば美術館の警備にしては人相悪いのが混じってるわね。テロ警戒かしら」
 持っている能力から言えば紛うことなきテロ要員のレミが言うと洒落に聞こえない。
「要人警護?まさかね、そんな有名な人が来てるとか聞いてないし。あぁ、くだん芸術家アーティストは来てるんだったわね。こんな警備に囲まれるくらいの女性だとしたら、やっぱり只者って訳にはいかないのかしら」
「…まあ、ボスサキからは今回まだ派手に動くなって言われてるし。とりあえずのんびり美術鑑賞でいいんじゃない? 探り入れるのは感応センサー系に任せるわよ。あぁ、向こうが手出ししてきたら躊躇う理由はないけど?」
「…ねえレミ、ここの収蔵品ってちょっと貴重なフランドル派1画家のコレクションがあるらしいのよ。お願いだから建物壊さないでね。電気系統火災とか、アウトだから」
 本当に心配そうなユキノを見遣って、レミはやや苦い笑みで言った。
「あのねユキノ…私をタカヒロ達と一緒にしないで欲しいわ」

 派手なくしゃみを2連発したタカヒロが、胡散臭そうに宙を仰ぐ。
「絶対、ろくでもない噂されてるよな」
「ただの風邪じゃないのか」
「何でお前、こーゆー時だけ常識的?」
「どういう意味だ」
 憮然とするタケルを放っておいて、タカヒロは空中回廊へ続くロビーの一郭、キッズスペースにあるボールプールからボールを3つばかり失敬してお手玉を始めてしまう。そこら辺に転がっているプラスチック製のボーリングピンやぬいぐるみも拾って、終いにはちょっとしたジャグリングパフォーマンスになってしまい、スペースで遊んでいた子供達から素直な賞賛を受けていた。
「…目立つなって言われた気がするが…」
 タケルのつぶやきはとりあえず黙殺された。タカヒロとしては、とりあえず退屈だったのだ。絵画にしろ立体造形にしろ、少々縁遠いシロモノだったし興味もない。喧嘩の相手もいなければ鑑賞に値する樹木もないのだから仕方がない。
「暇だ…」
「カフェで何か食べるか?」
「それ賛成。もーこれ以上我慢できね。退屈すぎて死にそう」
 二人が空中回廊のミュージアムカフェへ足を向けると、端の方の席に同胞の姿を認めた。だが一応、誰かに見られている場合を配慮して少し離れた席を取る。しかし、向こうは至って無邪気にこっちへ手を振ってきた。
 ユカリである。
 きれいに切り揃えたツヤのよい黒髪、くりんとしたハシバミ2の瞳。その正体を知らなければ、無邪気な小学生が父兄同伴で美術館に来たはいいが、退屈を持て余して食い気に走ったとしか見えないだろう。事実、彼女の前には豪勢なミルフィーユパフェが鎮座していた。
 タカヒロが目立たないように軽く手を振り返すと、ユカリの方も解っているのか、まるで何もなかったように笑ってパフェを征服にかかる。
「アレも美味しそーだけどね…ライトミール系のメニュー、ある?」
 椅子に落ち着いて、先に着席していたタケルに問う。
「サンドイッチとスコーンとミートパイ」
「んー…とりあえずいっこずつ頼んどくか」
「いざって時に腹が重くて動けなかったら笑われるが」
「…あのね」
 この程度、タカヒロにとっては3個ずつ食べたところでいいところおやつである。
「腹が減っちゃあいくさになんないの」
「…なんだ、やっぱり一戦やらかすつもりだったのか」
「揚げ足とるなよ!」
 …などと、平和なやりとりがあった回廊の端…ユカリの横には、タカミがいた。
 ノートパソコンの他に複数のタブレットを置いて、さらには展示の目録を並べている様子は…レポート作成中の学生としか見えなかった。誰が見ても、よもや美術館とその周囲の建物の警備システムをハッキングしているとは思わないだろう。
 ハッキング自体は事前に組んだプログラムでほぼオートで走っている。軽く目を閉じて籐椅子の背に凭れているのは、先刻ユキノが感じたものをより深く追っていたからだ。
「大丈夫、いざとなったら私が全力でブロックしてあげるから! 正体なくさない程度に頑張ってね♪」
 ユカリがにこやかに宣言するものだから、タカミとしては静かに落ち込んだ。
「ユカリちゃん…それって最初っから僕が侵蝕くらうの前提…?」
「やだなー〝いざとなったら〟って言ったじゃない」
 そう言ってころころと笑うユカリは傍から見れば小学生だが、ネフィリム達の中でも随一の防御型ATフィールド展開能力を持つ。攻撃オフェンス向きな能力は持ち合わせないが、物理的防御ディフェンスという面ではほぼ最強と言ってよい。何も知らずにただこの二人連れを見ればタカミの方がおもりに見えるだろうが、実態は逆であった。
「だってタカミってば、がっつり遮断・・するだけじゃなくて、ちゃんと制御・・出来てるかっていうと…ちょっと微妙ってサキが言ってたんだもん。私も心配で」
「…ありがと、ユカリちゃん」
 他に言い様がなくて、そう応じて静かに額に手を遣るしかなかった。
「信用ないなぁ…」

 11時半からの講演は美術品が展示されているのとは反対側、ギャラリー棟の研修室で行われることになっていた。その前に件の天使像だけは見ておこうと、レイの居場所だけは常に視界に入れながらも、カヲルは少しだけ足を速めた。
 事前に紹介のあった展示だけに、そこは少し人が多かった。穏やかな天使の顔や、今にも風にそよぎそうな質感を持った翼は人だかりの後ろからも見えたが、揺籠の中の紅珠は最前列まで出なければ見えそうにない。カヲルは辛抱強く列が進むのを待った。
 程なく、人だかりの理由…そのもう一つが明らかになる。件のアーティスト…殆ど白くなった金髪の、上品な老婦人がまさにその部屋で地元のケーブルTVの取材を受けていたのだ。
 制作者だというそのアーティストに興味がないことはなかったが、とりあえず現物・・を見てみないことにはなんとも言えない。カヲルはその場をするりと抜けて、展示の前へ出た。
 こうしてみると、天使はほぼ等身大だ。
 細枝で編んだ揺籠のような鳥の巣…その中に鎮座する紅珠…間近で見たそれは、やはり紛れもない硝子だった。濃さの違う硝子を重ね合わせているから、あたかも紅の奥にまた紅があるようにも見えるが、よく見ると僅かに細かい気泡が入っている。
 思わず気が抜けて、カヲルはふっと息をついた。
 気がつくと、周囲の人の数が減っている。一斉にギャラリー棟へ移動が始まっていた。時計を見ると、講演の10分前になっていた。
「レイ…?」
 いつの間にかレイを見失っていたことに気づき、周囲を見回す。
「ここだよ、ここ。大丈夫」
 後ろからワンショルダーのボディバッグについたストラップを引っ張られて、思わず笑った。
「あぁ、よかった」
 ごく自然に、手を繋ぐ。
「近くで見ても、やっぱり綺麗ね」
「うん、綺麗だ。でも…これは、硝子だね。紛れもなく…」
 そう言ってカヲルは踵を返そうとした。その時。
「天使の卵…実物は、私の家にあるのよ。綺麗な天使さん」
 女性の声は…とても柔和な調子であったにもかかわらず、雷霆のように響いた。
 カヲルは、思わずレイと繋いだ手を握りしめる。波のように引いていく人々の動きの中で、カヲルとレイ、そしてその上品な老婦人だけが静止していた。
 そして、そのブースに三人だけが取り残される。
「…〝天使の卵〟と仰いましたか?」
 注意深く、カヲルは訊いた。老婦人は穏やかな微笑みを浮かべて頷いた。
実物・・は本当に綺麗だから、表現するのに苦心しましたわ」
 真意をはかりかねて、カヲルが沈黙する。その時、老婦人のポケットで携帯が鳴った。
「あら、いけない。もう行かないと。…よろしかったら聞きにいらしてね」
 スタッフからの確認電話だったのだろう。口で言うほど気に掛けていないのか、素でおっとりしているのか…あくまでも悠然と、老婦人は一礼してギャラリー棟の方へ歩いて行った。
 カヲルは暫く、その場に立ち尽くしてしまっていた。
「…やさしそうな、おばあさんだよね?でも…私たちのこと、知ってるのかな…」
 繋いだ手にもう片方の手を重ね、カヲルの傍に寄り添うようにして…レイがやや困惑気味に言った。
 過剰反応は危険だ。あくまでも、向こうは芸術家アーティスト。比喩で言っている可能性も残されている。それは判っていても、思わず身構えてしまう…。
「…とりあえず、お話・・とやらを聞いてみようよ」
 ふっと息を吐いて、カヲルは言った。
 美術館棟を出て、空中回廊を渡ればギャラリー棟だ。回廊でタカミとユカリ、タケルとタカヒロが待機しているのは知っていたから、それとなく目を配りながら回廊へ出ると、カフェの席にはタカミの姿がなかった。
 周囲はあらかた人影がない。みんな講演の方へ行ってしまったのだろう。カヲルはそっとユカリがひとりで座っているテーブルに近づいた。膝の上に可愛らしいキジ猫3のぬいぐるみを置いている。
「タカミは、どうしたの?」
 パフェを片付けてオレンジジュースにとりかかっていたユカリが、わずかに眉を曇らせる。
「…お手洗い。吐き気がするって」
「…は?」
「んー…やっぱり、サキが心配するの理解わかるわぁ。いろいろ拾い過ぎちゃって、気持ち悪くなったみたい。まあ、わかるけどね。こんな人の多いとこでアンテナひろげちゃうと、ろくでもない思念まで拾っちゃって…わかるでしょ?」
 カヲルは思わず天を仰いだ。
「…ま、大体ね」
「ちょっとは訓練した方がいいんじゃないかしら。きっちり遮断できるんならとりあえず日常生活は大丈夫にしても、何かの拍子に侵蝕されかねないわよ、あれじゃ」        
 ユカリは見た目10歳だが、中身はかくも容赦ない。苦笑いして、カヲルが言った。
「じゃあ僕らは、講演とやらを聞いてくるよ。申し訳ないけど、よろしくね」
「ええ、行ってらっしゃい」
 ユカリがにこやかに手を振る。その表情が、不意に凍った。
「…カヲル!」
「判ってる」
 声でないもの。おそらく、仲間内ネフィリムにしか聞こえないもの。
 離れたテーブルで、タケルとタカヒロが席を立つのが見えた。

『何やってんだ、このくらいで』
 洗面所レストルームの鏡の中に映る…酷く蒼褪めた顔を見て、タカミは自身に向けて毒突どくづいた。
 相変わらず、探索のためにアンテナを広げるとろくなコトにならない。関係のない思念…しかも、負の感情を拾ってしまうと、たちまち体調は最悪になる。昼前だったのが良かったような悪かったような…内容物が殆どない状態で吐けば、胃酸で食道が灼かれる。紅茶ミルクティだけでも飲んでいたのは不幸中の幸いだった。
『もう少しきっちりフィルタリング出来ないと、僕の能力なんか全く役に立たないじゃないか…!』
 不快な酸味を残す口の中を漱いでから、タカミは深く吐息した。
 その時、ふと身体を硬くする。どうしてここまで接近されるまで感知できなかったか。背後に立っていた…ダークスーツに濃色のサングラスという如何にも怪しい風体の男が、広い鏡に映っている。
 先刻から周囲を浮塵子ウンカ4のように飛び回っていた、美術館という場所に不似合いな緊張感、その原因の一端であることは明らかだった。
 距離を取ろうとしたその瞬間に、腕を掴まれる。全力で振り払おうとしたが、腕を容易く背中へ捻り上げられ、動きを封じられる。
 問答無用か。少なくとも、まともなやり口ではない。相当に焦っているか、さもなければ少々のことではコトは荒立たないと確信しているか。
 口惜しいが、捕獲対象としては御し易いと見られたのだろう。だが、自身の運動能力について、タカミは決して過信してはいない。その代わりに、相応の準備・・はしていた。
「…あまり、舐めないで欲しいね」
 利き腕を背へ捻り上げられたままの格好ではあったが、タカミは襲撃者へ昂然とうそぶいた。

「おーいタカミ、無事かっ!?」
 タカヒロが洗面所の扉を蹴破りかねない勢いで飛び込んできた時、タカミは既に洗面台に伏せて両膝を床についてしまっていた。
 タカミの右腕を捻り上げているダークスーツの男が僅かに狼狽たじろぐ。だが、血相を変えて身を退いたのはタカヒロの方だった。意識を失ったように見えたタカミが、不意に両眼を見開くと、いとも簡単にダークスーツの腕をすり抜け、その横腹に蹴りを叩き込んだのである。
 まともに吹っ飛んだ。
「うわ、危ね!」
 避けたタカヒロがいた場所、その背後の壁にダークスーツが派手に叩きつけられる。半分は衝撃を減殺するために自分で跳んだのだろうが、受け身を取るには少々距離が足りなかったに違いない。
「…肩関節の構造上、他動的に過伸展・内旋位を取らせることで対象者の動きを止めることは然程難しくない。ただ、片側上肢のみを抑えて動きを止めるのは、あるレベル以上の対象については現実的でない。なぜなら、上腕骨に対する体幹の位置を変えることにより、簡単に解除できるからだ」
 それは確かにタカミの声ではあったが、やや抑揚に乏しく、言ってみれば無機的であった。
 要は、掴まれた腕を捻り上げられても身体を沈み込ませ反転させることで逃れることはできる。そのまま、低い位置から手と片膝で身体を安定させ、伸ばした片脚で相手の横腹を薙ぎ払ったのだ。
「…うわー、容赦ねえな。外面がおとなしそーなだけ、ある意味イサナより怖ぇや」
 床に滑り落ちたダークスーツをタケルが取り押さえにかかるのを見遣りながら、タカヒロが頭を掻きながらぼやいた。
 視線を移すと、洗面台の下で昂然と片胡座あぐらをしているのが…姿は紛れもなくタカミでありながら、中身・・はそうでないのは明瞭であった。
「おーいタカミ?戻ってこーい」
 近づくが、1メートル半程の距離を取ってタカヒロが手を振る。アレを見た後では少し遠巻きになってしまうのは致し方ない。
『―― I have control.』
 その声は、聴覚以外の何かが伝えた。
 タカミ・・・が軽く頭を振って吐息する。
「痛いなぁ、もう」
 捻られた腕を擦りながら、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、足にも痛みを感じたのか微かに顔を顰めたが、構わず歩き出す。
「タカヒロ、まだ周囲に何人かいるよ。気をつけて」
 その時、タケルに取り押さえられたと見えたダークスーツが、タケルを跳ね飛ばす。
「わ、嘘っ!?」
 タケルもそのまま体勢を崩したわけでなく、すぐに跳ね起きたが、ダークスーツに逃走の隙を与えてしまった。飛んでしまったサングラスの下からは存外若い男の顔が現れる。
 普段穏やかなタケルが低く唸って追撃にかかったが、鋭い声に制止された。
【追うな。ひとまず撤収】
 タケルが動きを止める。タカヒロはダークスーツの逃走を横目で見たものの、一息ついて声がした方を見た。
 声がした方にいたのは、可愛らしいキジ猫。ひとけのない美術館の硬質な床に、首輪もつけていない猫が端然と座している光景は…一種シュールレアリズム絵画のようではあった。
 先刻までユカリが抱えていたものだが、外見に似合わず声に可愛気がない。たった今タカミの姿で講釈を垂れたのと同一のトーンであった。
【ハイ・プリーステスから着信。〝集結するな、そのまま散開して撤収〟】

  1. フランドル派…フランドル地方で栄えた美術の流派。15世紀初頭以降、精妙な写実のもとに北方ルネサンス絵画を展開。ファン=アイク兄弟・ブリューゲル・ルーベンスなどが代表
  2. 榛色…いわゆるヘイゼル。くすんだ赤みの黄色。または黄色がかった薄茶色。
  3. キジ猫…暗めの茶色に黒い縞模様が入っている猫。
  4. 浮塵子(ウンカ)…おもにイネ科植物を食べる害虫。稲作農家にとっては当然イヤな奴であるとともに、自転車なんかで走ってる最中にこの群れに行き当たると非常に鬱陶しい。