合(conjunction)…地球から見て太陽と他の惑星の位置が重なっていること。conjunction、には接続詞という意味もある。
3時間後。とっぷりと日は暮れ…確保された米国支部の派遣員も連行されていったあと、高階邸は全く別の賑やかさに支配されていた。
リエと共に夕食の買い出しをしてから到着したユカリの号令が響き渡る。
「はい、みんなでテーブルセッティング…始め!」
幸いにして、李は冷凍にならずに済んだ。
結局屋内に踏み込ませることなく全員確保したのだが、一番『後片付け』が必要になりそうな事態を引き起こすタカヒロが高階邸の庭というフィールドを気に掛けた所為か、物理的被害はほぼゼロであった。
ただひとり、レミに携帯を潰されたタカミが貧乏籤を引いたというべきだろう。
「本当に…今回は呪われてるのかと思うくらい酷い目に遭ったなぁ」
ようやくシャワーを浴びる時間を取ることが出来て、一息ついたタカミがぼやく。
「半分以上、タカミ自身のミスだよな?美術館で足を傷めたのってイロウルにパワーコントロール丸投げした所為だし、水槽に落ちたのは鵜の真似をした烏が溺れたってだけ」
今回、オフェンス組が倒した侵入者を確保して回るだけで済んだカツミが悠暢と言うのへ、タカミが控えめに反論する。
「ストーカーに追い回されたのと、同調してるシステムをごっそり抉られてダメージくった件は違うと思うんだけど」
「…そのストーカーってのは、俺のことか」
後ろから声を掛けられて、タカミが飛び退く。セッティングを手伝おうにも勝手がわからないものだから壁際で立っていたキョウヤであった。
「えーと…はじめまして、じゃ、ないね…」
明らかに退き気味なタカミに、キョウヤが憮然とする。初対面の時に横腹に一撃入れられた相手と同一人物とは思えなくて、戸惑っているのは明白だった。
「えーと、君が戻ってきてるってコトは…」
「俺も戻ってる。ほら、そこら辺で突っ立ってないでお前らもテーブル動かせ」
マサキが予備テーブルが収められた収納庫の扉を開けながら言った。
「あ、サキおかえりー」
タカヒロが勢いよく手を振るが、マサキは憮然として振り返り、つかつかと近寄ると徐に金褐色の頭へ拳を捻じ込んだ。
「お前だよお前。全くなんて派手なことやらかしてくれるんだ。たまには繕うほうの身にもなれ!」
「…はい、ごめんなさい…」
これは相当碇博士のところで面倒臭い話になったな、と察したタカヒロは、珍しく口答えしなかった。
「まぁいい、うちの襲撃の件を不問にするかわりに米国支部の研究所の一件は発電システムの事故ってことでケリにしたからな。まあ、最初から〝サンプル〟の件についてはシラを切りとおすつもりではいたが…」
「いつもながら鮮やかだねー。いや、悪辣とゆーか老獪とゆーか」
カツミが手を叩く。
「悪辣で老獪なのは碇博士であって俺じゃないぞ。全く人聞きの悪い」
「わぁ、あんなこと言ってる」
「よく言って窃盗なんだけどなぁ」
「阿呆。拾ったものを猫糞してた連中から取り返しただけだ」
「まあ、スジは通ってるよな。元をただせば俺達のって訳でもないけどサ」
凄まじい会話を聞きながら、キョウヤは黙々と椅子を運んでいた。
マサキと共に碇ユイ博士のところへ行き、一通りの事情を説明されはしたものの…俄に整理がつかなくて、有り体に言えば呆然としていたキョウヤも、タケルがゼスチュアでこのテーブルがあっち、この椅子はここと指示するのでなんとなく準備に参加できていたのだ。このタケルという青年が美術館で一戦交えた相手なのは判っていたが、彼が余計なことを言わないのがキョウヤとしては却って有り難かった。
『使徒』…『天から落ちてきた者達』…それとて本来彼らがそう名乗った訳でもなく、現生人類が…もっと言えばゼーレが死海文書の記述をもとに付けたコードネームに過ぎないことは一応理解できた。
ただ、この至ってお茶の間的風景を見ていると『星を渡る生命』といわれても、なかなか現実感がない。南極で見たもののほうが、まだしもその話に説得力を持っていた。
「ええと、まだ…ちょっと驚いてる? 椅子、何処でも好きなところに座っていいよ? …っていわれても、座りにくいかな。どうぞ」
準備が終わって立ち尽くしているキョウヤにそう声を掛けて椅子を引いたのは、栗色の髪と緑瞳を別にすればあの南極で見たものとそっくりな人物であった。
「…」
キョウヤがどう反応してよいものか困惑しているのを看て取ったか、苦笑をして自分も隣の椅子を引いて座ってしまうと、改めて椅子を勧めた。
「さっきは悪かったね。タカミだよ。榊タカミ…って言っても、名前までばれたわけじゃなかったんだっけ。ああ、気にしないで。君の本当の訊ね人も、もう少ししたら戻ってくるよ」
そう言われ、改めて美術館で見つけたときの衝撃を思い出していた。だが、いまこうしてみると、確かに似てはいるが、人外な雰囲気は欠片もない。むしろ、美術館で見間違えたことのほうが不思議に思えてきた。立っていることが居心地悪くなり、勧められるままに椅子に掛ける。
「…眼が慣れてきたんだと思うよ」
見透かされた、と思って、思わず退き気味に凝視する。だが、相手はいたって穏やかに微笑み、緩やかに横手を振った。
「あぁ、ごめん。確かに僕は精神感応系の能力のほうが強いけど、相手構わず心を読んだりはしないよ? 君の視線の動きとかを見てると、なんとなく判るだけさ。
僕が、シュミット大尉…君が、南極で遭ったひとに似てるんだろう?まあ、他人の空似ってわけでもないんだけど…僕ではないんだ。君がその違いを判るようになってきたってことは、多分眼が慣れてきたんだと思うよ。…ネフィリムとしての眼が…ね」
「俺には、判らない…」
「まあ、無理もないさ。焦らなくていいと思うよ?」
その時、中庭に面したテラス窓が静かに開く。
音は決して大きくはなかったが、その場にいた全員が注意を向けたのがわかった。
テラス窓には、銀髪紅瞳の少年が立っていた。水色がかった銀の髪の少女を伴って。
タカミと名乗ったその青年は即座に立ち上がり、その二人に歩み寄る。
「おかえり…」
両腕で二人を包み込み、無上の慈しみを込めてそう言った。
「ご、ごめんね。心配した?」
水色の髪の少女が少し慌てたようなふうだったが、タカミはただ優しくその髪を撫でる。
「カヲル君と一緒だもの。何も心配することなんてないさ」
カヲルと呼ばれた銀髪紅瞳の少年は、その抱擁をややばつが悪そうに受け容れていた。
「…ただいま」
そうして…すこし眼を逸らしながら、それでもはっきりと少年はそう言った。
そこまでは確かに、至極年齢相応に見えたのだ。だが、タカミに促されてキョウヤを見た…その瞬間、雰囲気が変わった。
銀髪紅瞳。年齢こそあの時の人物より十歳以上も若いように見えたが、間違いなく…
視界を埋め尽くすような翼はない。あの時も、確かにそんなものがあったのかと言われれば自信はない。だがあの人物だと確信させる何かがあった。
「剣崎…キョウヤ?」
「…そうだ」
双眼にある鋼玉のような輝きはあの時のままだ。しかし今、そこに映るものを憎み、哀しみ、蔑み、そして悼む…そんな哀しい色彩を見て取ることはできなかった。
あるのは、ただ…
「…あなたの、母上に会ってきたよ」
はっとした。ことが多すぎてすっかり忘れていたのだが…自分はあの人のところから何も云わずに出てきてしまったのだ。
「南極でのことは、僕の勝手でしたことだ。あなたにとっては実のところ、至極迷惑な話だったかも知れない。
だが、あなたの母上に…それを決めるのはあなただと言われた」
紅瞳にひたと見つめられ、思わずキョウヤは言葉に詰まる。高階のような辛抱強さ…ないし迂遠さはそこにない。相対する者に呼吸を詰めさせる程の直截さであった。
「それはまだ…完全に融合したわけじゃない。癒着しながらも原形を保っているのはそういうことだ。分離は可能かもしれない。万が一の可能性に賭けても、あなたが現生人類としての生を望むというなら…僕はそれを試みよう。
…ただその場合、どう転んでもあなたの寿命を縮めることにはなる」
その声音は、恬淡としているようでもあり…深い痛みを内包しているようでもあった。
「あるいは、それと共に生きていく覚悟があるというなら…最終的な初期調整をしよう。その赤い月はあなたの中に溶け込み、時間をかけて安定していく。
ただその場合、今まであなたが生きてきた世界には戻れなくなるだろう」
額面通り取るなら、あまりにも過酷な二者択一というべきだった。周囲にいた者達の何人かは、明らかに息を呑んだふうでもあった。
その中で…高階がただひとり、何か面白がるような表情で拱手傍観していた。どうやら彼には、見透かされているようだ。キョウヤの答えをわかっているのだろう。
詰めてしまった呼吸を逃がすように、キョウヤは一度深く息を吐いた。
「済まないが、君が何を言っているのか俺にはよくわからん」
熾天使の憂世離れした美貌は、静かにキョウヤを見つめていた。言葉の先を促すように。
「俺は俺のまま生きていく。それだけだ。
…ネルフが俺をもう必要としないというなら、敢えて戻る必要もないだろう。俺が戻ることで母に迷惑がかかるなら、戻れなくても構わない」
キョウヤは自分の胸に手を当てた。
「ただ、これはもう自分の一部だ。これを与えたのは君なのかも知れないが、今更返せといわれても困るし、初期調整とやらをしなくても、別に生きては行けるんだろう」
その言葉に、カヲルは高階の方を見た。確認するように。
「確証はないが『CODE:Kaspar Hauser』1の状態に比べ…安定した覚醒が維持出来ていることを勘案すると、さしあたって問題はない。ざっと聴き取っただけだが、何らかの投薬履歴があったにしても、覚醒後は中断しているようだしな」
高階の返答にカヲルが頷いた。そして、僅かに相好を崩す。
「では、僕は…『余計なことをした』と罵倒されなくて済むわけだな」
心の底から安堵したような、穏やかな微笑に…キョウヤは最前、自分がとんでもなく酷いことを言ったのではないかという不安に襲われた。それというのも、ユカリともうひとり…カヲルが伴ってきた水色がかった銀髪の少女が、カヲルの言葉を聞いた途端に涙目で左右から少年に抱きつくと、わっと泣き出してしまったのだ。
「カヲルの莫迦っ! まだそんなこと考えてたの!?」
「ちょっと、聞き捨てならないわね。…まさかと思うけどカヲル、あなた私たちのコトもそんなふうに思ってたんじゃないでしょうね!」
衆目環視の中で女の子二人に泣かれてしまい、少年が急に狼狽える。先程の人外めいた雰囲気は一瞬にしてどこへか吹き飛んでしまった。
「ああ、ごめん、そういうわけじゃ…痛!」
慌てふためいて少女二人を宥めにかかる少年の銀色の頭に、緩い拳が落ちた。
「ひとりで頭冷やしてきて、少しは落ち着いたのかと思ったら…お前、相も変わらずせっかちだな。少しは言葉を選べ。泣かすなよ、まったく…」
高階であった。いつの間にか立ち上がって傍まで来ていたのだ。
「そんなこと言われたって…」
「あとからレミかリエあたりから説教くらうのは覚悟しとけよ。…とりあえず、おかえり」
「…ただいま」
憮然として、それでも至極常識的な帰宅の挨拶を口にする様子は、本当に外見的な年齢相応で…つい先程『慣れてきた』と評された自身の感覚を、キョウヤは早速疑うことになった。
「…彼はどうなる」
夕食の片付けも終わって、皆が部屋にあがったり現在の住居へ戻っていったりする中で…リビングに残ってボンベイ・サファイヤ2のグラスを傾けていたマサキに、カヲルが問うた。
「公的には碇博士の預かりということになる。具体的には俺達で住居は用意するけどな。まあ、またぞろ米国支部から余計なちょっかいをかけられても困るから、当面イサナと一緒か、イサナの指示で動いて貰うさ…それからおいおいと身の振り方を決めさせる」
「…それはそれで…試練だね」
あの後『Angel’s Nest』庭先での顛末を聞いていたカヲルが、別に茶化すでもなくそう評した。
「米国支部は南極圏内での生存者の存在を十年以上も隠匿していた上、やっぱり手に負えないってんで始末しようとしたわけだから…まあ立場は弱いな。まあ、俺としては連中、実直に始末してしまうつもりがあったわけじゃなくて、物騒だから薬漬けにして眠らせとけって意図だった可能性もあると思ってるが。そこは、碇博士が上手に会議を言いくるめてくれた。
実際、剣崎キョウヤの精神面が不安定になってしまったのは、俺達と接触した所為もあるんだろうが、命令違反や謹慎中の外出程度で精神汚染扱いされちゃ堪らんな。大体、汚染って何だ、汚染って。ウィルスみたいな扱いがそもそも気に喰わん」
マサキにしては珍しく、終いにはやや拗ねたような物言いになるから、カヲルが笑った。
「碇ゲンドウがユイ博士を理解出来なくなって、〝汚染〟と断じたのと同じ理屈だね。朱に染まれば赤くなる…って?」
「その朱の朱、辰砂の朱3が何を抜かす。…まあ、莫迦話はさておくとして。
少しは落ち着いたか、カヲル」
ふと、声が柔らかくなる。
「…南極を見てきた」
「まあそんなとこだと思ってたよ」
「無責任と言われても二の句がないけど…僕はおそらく2000年の一件についてはひどく記憶が曖昧だった。実のところ、グレース剣崎の作品を見るまで…もっと言えばレイにあの像に似ていると言われるまで、完全に忘れていた…というより想起できなくなっていたのだと思う。当然、剣崎キョウヤのことを思い出すのに、かなり時間がかかってしまったよ。そもそも、名前なんか知らなかったしね」
「…抑制がかかっていたんだろう。前後の状況を思えば無理はない」
「でもやっぱり、けじめはつけないといけない。…だから、グレース剣崎のところにも行ってきた。自分が揺らいでしまうのが怖くて、レイについてきて貰ったけれど」
「最善の選択だったさ。そうじゃなかったら今頃、ユカリにひっぱたかれてたぞ」
「うん、そうだね…。でも、泣かれちゃったな」
カヲルが素直にそれを肯定するのを、マサキは少し意外そうに見ていたが…ふと嗤う。
「白状すると、南極で何があったか…俺はタカミに訊いてみようと思っていたんだよ。奴にはシュミット大尉としての記憶のバックアップが残っている筈だからな」
一瞬だけ、カヲルが呼吸を停めた。
「…だが、タカミに断られた。お前さんから直接聞くべきだろうとな。いや、全く以て正論だ。あれに説教されるようになったら俺も終わりだよ。ただ、とてもじゃないが素直に喋っちゃくれないだろうと思ってたんだな。見くびってて悪かったよ。そうしてみると、俺なんぞよりタカミの方がよっぽどお前さんのことを理解ってるんだ」
「理解って…っていうより、タカミのお人好しが底抜けってだけじゃないかな。いろいろ…きちんと話せてないのは、僕には前科があるし。
…で、サキ。それ、貰っていい?」
カヲルが言っているのが、マサキのグラスの傍らにある澄んだ水色の瓶―ボンベイ・サファイヤ―の中身を言っているのは明白だった。
「こら、調子に乗るな」
マサキは新しいグラスに氷とトニックウォーターをあけて差し出す。
「このくらいにしとけ」
「そこはブレないんだ」
「当たり前だ」
カヲルが苦笑してグラスを受け取り、ライムの清爽な香りを放つ炭酸水に口を付けた。
「…ひとつ、訊いていい?」
カヲルの声音の、少し重たげな響きにマサキが手を止める。
「なんだ、改まって」
「〝サッシャ〟はもういないって言ったよね」
「…ああ、言った」
「でも、箱根の山で、あなたは『シュミット大尉を憎んでいると思う』って言った」
「…言ったな」
「じゃ、〝サッシャ〟についてはもう訊かない。でも、あなたはまだ、ヨハン=シュミットを憎んでいるの?」
「本当に…ややこしいところばっかり突いてくる奴だな、お前さん」
マサキが眉間を揉みながら嘆息した。
「俺がシュミット大尉のことをどう思っていようと、お前さんには関係ないとは思わんか?」
「それはそうだけれど…」
そうは言っても納得しきれていないのは明らかだったから、マサキはグラスを置いて天を仰いだ。
「〝≠にするにはまだ時間が要る〟…か」
「…何?」
マサキの低いつぶやきを、カヲルは聞き損ねた。
「そこらへんについては、剣崎キョウヤが羨ましいくらいだな。意図は問わない。くれたものは貰う。受け取ったのは自分の意志ってんだから…単純明快、すっきりしたもんだ。どうやったらあんな性格ができあがるのか…いっぺん親の顔が見てみたいな」
マサキの言い回しを修辞とは思いながら…カヲルは慧眼の芸術家を思い出していた。
「グレース剣崎は…一言でいうと強い女性だったよ」
「ふうん…お前さんにそこまで言わせるか。こりゃ、一歩間違うと碇博士の同類項だな。くわばらくわばら。それじゃまあ十中八九母親の血かな、あれは。剣崎キヨトのほうがどんな人物だったか…結局業績以外にデータがないから判らんままだが」
「…多分、ひどく不器用な父親…」
カヲルは呟くように言った。剣崎父子にどんな確執があったのか今更知りようもない。しかし、血と泥にまみれながら瀕死の息子を救命艇に押し込んで息絶えた男の後ろ姿から…カヲルが感じ取ったのはそれだった。
カヲルの述懐を、マサキは静かに聞いた。そして、グラスを空けてしまうとゆっくりと立ち上がる。
「…憎んでいる、というところについては訂正しておこう。正直なところ、あの人を憎むことが出来るほどのものは、もう俺の中には残っていない気がする」
「誰かを憎むのに、理由以外に何か必要?」
「誰かを憎んだり恨んだりすることはそれなりにエネルギーを喰う。憎む理由があったとしても、そこに割くエネルギーがなければ、憎しみも恨みもないに等しいだろう」
愛の対極は憎悪でなく無関心。そんな警句がカヲルの脳裏を過った。逆もまた真。赦せる赦せないの次元とは別物。
「表向きの名前をいくら変え、どれほどに容貌を変えようと、俺は『高階マサキ』として生きていく。恩義とかそういうものじゃなく…単純に、俺が斯く在りたいと思うからだ。サッシャの想いも記憶も、すべて棄てることが出来るわけじゃないが…そこにエネルギーを割けるほど、今の俺は暇を持て余してはいない。そんなところだ。
…これで、答えになったか。カヲル」
マサキの答えに、カヲルは一度俯き、それから顔を上げて言った。
「多分…」
「そうか、そりゃよかった。…さて、そろそろかな」
マサキが腕の時計を見る。
「何かあるの?」
そういえば、居残り組が先刻からどやどやと階上から降りてきている。何やらテラスに三脚を立て、望遠鏡を据え付けるらしい。ユカリに連れられて女子会に突入していたレイも降りてきていた。望遠鏡の部品の入った箱の一つをテラスのテーブルの上に置いたとき、カヲルの姿を認めて小さく手を振る。
カヲルが微笑んで手を振り返した。
「タカヒロが燃やしてリエが軌道上へ放り上げたEVAの残骸が、計算から行くとそろそろ月面の前を通るんだと。宇宙空間の極低温に晒されて凍り付いちゃいるだろうが、とりあえず地上から視認できない程度には砕いとかなけりゃならんからな。一応計算上で大まかな位置は出てるんだが、何発もドカドカ撃つ訳にはいかんから…月との合で間違いようもなく視認出来たタイミングでレミに砲撃して貰う算段なんだ。
折しも満月…一応確認のために天体観測会ってとこさ」
「砲撃って…ここから!?」
「いや、さすがにこの街中でレミの大砲なんかぶっ放したら大騒ぎになるだろう。一応、近所迷惑にならない処から狙うのさ。レミはもう移動出来た頃合いだ。支援にナオキとユウキがついてる」
そう言ってグラスを掲げる。いつの間に注いだものか、グラスには新たな氷と酒が揺れていた。
「ま、ちょっと時季のはずれた花火だな」
テラスのテーブルでは、レイとミスズ、それとユカリが星図と夜空を代わる代わる眺め、指さしながら笑いさざめく。狙撃はミスズの領分だが、さすがに衛星軌道上の標的を狙えるような銃は持たないから、今日のところは女子会を優先させたらしい。
レイの楽しそうな姿を視界におさめて、カヲルは口許を綻ばせた。
全く、言葉というものは難しい。また、レイを泣かせてしまった。あの後、割合すぐに機嫌を直してはくれたが。
大事にしたいと心から思っている。悲しませたり、苦しませたりしたくないと思っているのに、どうしてこう巧くいかないのだろう。
「多分、お前が思ってるよりも…あの嬢ちゃんは強いぞ。泣かせたくないと思うなら、なるべく意地を張らずに何でも話してやるんだな」
「そうしたいと思ってるんだけどね…っていうか、なんで判るの!?」
嘆息しつつ言いかけて、明らかに口に出してさえいないはずのことが筒抜けていることに今更気づく。
マサキが笑う。
「そうだな、とりあえず亀の甲より年の功ってことにしとくか。まあ、たかだか百年そこそこだがな。少なくとも20年に足りないお前さんよりはいろんなものを見聞してきたさ」
「経験則って訳?」
「…さしあたって、愚痴をこぼせる相手ってのは貴重だぞ?」
「そうだね…で、その貴重な『愚痴をこぼせる相手』はまた欧州なの? 先週は日本に居たじゃない」
「ミサヲには役目があるからな。…まあ、仕方ないさ」
「いま、すごくあっさり認めたよね…」
「認めるも何も…俺は別に誤魔化したり否定したりした憶えはないが」
「…あっそう…」
もはや追及するのが莫迦莫迦しくなって、カヲルは視線をテラスに転じた。
誰の持ち物なのか、反射式の高精度な天体望遠鏡は無事テラスに鎮座した。カツミがナオキと携帯電話で連絡を取りながら方位と角度を確認し、望遠鏡をデジタルカメラと連結して表示させながら記録を取り始める。
「標的、視認っと…うわ、タカヒロお前、中途半端なことしやがって。原形が殆ど残ってるじゃないか。こんなもん、空に浮いてるの見られたら大騒ぎだ」
「だってぇ。直後にすげえ勢いでリエ姉に後ろ頭ひっぱたかれたんだぜ。制御だって間違うさ」
「…てか、この程度で済むんだったら、わざわざリエ姉が転送することなかったんじゃ?」
「タカヒロのマイクロサイズ太陽がEVA突き抜けて後ろの隔壁に大穴あけながら直進しそうになったから、慌てて区画ごと転送したの。全く、投げるなあんなもの! EVAはあくまでもついでよ」
「…はい、ごめんなさい」
テラスはちょっとしたお祭り騒ぎだが、予定時刻の1分前になるとさすがにその騒ぎも止んだ。
「見えるー?」
「いや、まだまだー」
「あ、あれ違うの?」
「残念、あれ人工衛星。レミ姉、誤射しなきゃいいけど。うわ、結構近くにISS4も居やがる…大丈夫かな」
声を潜めなければならない理由はないはずだが、皆して自然と声が低くなり、空を見上げた。
20秒前。
10秒前。
5…4…3…2…1。
「来たっ!」
町外れにある丘陵の方角から、巨大な流星が音もなく天へ駆け上がる。月に向かって。
その流星が月面に消えたと見えたとき、月面で針の先ほどの光点が弾けた。
「着弾確認。目標消滅。さっすがレミ姉、木っ端微塵だ」
カツミが画面を確認しながら報告する。拍手が湧いた。
マサキがふっと息をつく。
「とりあえずこれで後始末も完了か。カツミ、レミ達にお疲れさん、早々に撤収しろと伝えてくれ」
「了解ー!」
- CODE:Kaspar Hauser…サッシャの名前を得る前のサキに振られたコードネーム。シュミット大尉が接触・初期調整を行うまで20年以上半睡半覚醒のままだった。
- ボンベイ・サファイヤ…ドライジン。ヴェイパー・インフュージョン製法といって、蒸留する際に香りの原料となる植物を浸漬するのではなくカゴにいれて接触させることで香りづけをするので、深く華やかな香りがするコトで有名。ちなみにサファイアの色をイメージした青い瓶がとってもオシャレ。
- 辰砂の朱…辰砂は硫化水銀から成る鉱物。一説に賢者の石とも呼ばれる。英名はcinnabar。厳密にはシナバーレッドというべきなんでしょうが、色名としてはVermilionのほうが有名。最も古典的な赤色顔料の一つ。
- ISS…International Space Station、国際宇宙ステーション。