黄疸奮戦記

 みっちゃんは生後1日、2日目とあまりにも良く眠るので可哀想になって起こさずにいたところ、飲むものも飲まずに出してばかりだった。当然、体重の増加が思わしくなく、黄疸も強く出たため光線治療と相成った。1

 これに懲りた柳、たっくんが(ようやく保育器から出して貰えて)部屋に来るや、2~3時間を目安に「オムツあらため」(<出ていてもいなくてもとりあえずオムツの中を見る。これぐらいやらないと起きてくれない)を口実に強引に起こしてはお乳を飲ませた。たっくんにとっては迷惑な話であったろうが、お乳のリズムができるまでは必要なことらしい。(確かに、生後2週間を過ぎるころには大体そのくらいの間隔でちゃんと泣いて知らせてくるようになった)

 生後3日目と5日目で黄疸の検査があるのだが、3日目はとりあえずパスした。5日目、退院がかかっているだけにかなりどきどきしながら小児科で説明を受けたが、さしあたって光線治療のレベルではないということで退院が許可されたのだった。

 曰く、「黄疸は、出てます」

 小児科の先生は身も蓋もないほど直截な方だったが、説明は非常に分かりやすかった。要するに、黄疸そのものは既に出ているのだが、血中のビリルビン値としては現状で光線治療の適応ではない。但し、これから値が上がることは考えられるという話なのだ。上の子の黄疸がひどかった場合、弟妹もそうなりやすいため、2クールも光線治療を受けているみっちゃんの経過を思えば、今後上がる可能性は十分にある、とのこと。

 では、黄疸がひどくならないようにするにはどうすればよいか。・・・事は意外と単純で、ビリルビンの排出が大きければ黄疸(=ビリルビンの貯留)は軽くなる。ビリルビンは尿や便中に排泄される。つまり、しっかり飲んでしっかり出せば、結果としてビリルビンの貯留は起こりにくくなるという理屈なのだ2。だから黄疸をひどくさせないためには、しっかりお乳を飲ませてあげてください、ということだった。これは分かりやすい。

 かくて柳は頭痛と戦いつつ(<入院中から既にあったが、夜中に2度も3度も起きていれば普通こうなる)、帰宅して後も2時間から3時間ペースの授乳に努めた。その成果があってか、退院後約1週間、2度目の通院でめでたく卒業証書をいただいた。体重も3390gとなり3、48g/dayのペースで増加中。何とか、光線治療を免れたのである。たっくんもよくがんばってくれた。

キャベツの降った日、再び

 それは、やっぱり俄かにやってきた。

 予定日は10月3日。折しも稲刈り稲こぎと農繁期真っ盛りであり、できれば土日は外せるといいなあとムシのよいことを考えていた(<兼業農家は土日が勝負なのだ)。そもそも7月頃から切迫早産で自宅療養を余儀なくされた身の上である。予定日を待たずに出てくるものと思っていた。ところがどっこい、予定日まで1週間を切ってもおしるしすらない。これはまたも予定超過か?と腹を括りかけた10月2日土曜日、午前2時すぎ。・・・・いきなり、足が攣った。

 まあ、足が攣るぐらいは妊婦なら当たり前(<そうでない向きもあろうが)なのだが、おかげで眠り損ねて階下へ降りた。臨月近くなってまた嘔吐など悪阻に近い症状が出ていて、胃液が上げてくるものだから軽く何か食べようと思ったのである。結局、ジョア一本とクラッカーを何枚か食べたのだが、これが後に災いする。

 それでも眠りきれずにゴロゴロすること一時間余、イヤな感じがしてもう一度階下へ降りた。トイレへ行く暇もなく、パタパタとこれもイヤな音がして、フローリングの床に血痕が散る。

「げっ!」

 などと仰天してばかりはいられない。陣痛はないのに、生理のような出血がだらだらと続くのだ。朝の4時で申し訳なかったが、とりあえずは現役ナース(母)を叩き起こして判断を乞うた。病院へ電話したほうがいいとのご意見に、例によって状況をメモしてから(<みっちゃんの時は陣痛で順序だてた話ができそうになかったからだが、今回は不気味な出血にやっぱり動転していた)電話したところ、やはり入院の指示。かくて旦那も(隣で眠っているみっちゃんを起こさぬよう鄭重に)叩き起こされる運命と相成った。

 そうする間にもなんだか出血が増えてきたなぁ、と思っていたのだが、車に乗った時点で夜用ナプキンでも危ない量が出た感じがあって、冷汗をかいた。
 ・・・さらには、家を出て10分も経たないうちに意識を失った。
 旦那によれば、痙攣していたらしいが当然記憶はない。立眩みに似た、血が引く感じとともにフッと分からなくなったのである。慌てた旦那に起こされた時の走行距離から推して、時間的には5分に満たなかった筈だが、旦那も冷汗をかいたらしい。

 普段自分が運転していればなんでもない距離が、えらく長かった。時間がひどくのろのろと進んでいるような気がした。そうするうちに嘔気がして、結局吐いた。ジョアなんぞ飲むんじゃなかったと心から後悔したが、今更どうしようもない。出血が脚を伝うほどになっていたから、もうそれどころでもなくなっていた。

 かくて病院に到着した頃には、柳の車は殺人現場のような有様になっていた。
 車椅子に乗せてもらい、分娩室へ入ったのだが、その車椅子も血だらけになったことは言うまでもない。着ていったジャンパースカートが黒でよかった、などということを考えたのは後の話である。

 妙なことに、この時点で破水はしていなかった。・・・じゃ、この出血はいったい何なのか、というと、後で聞いた話だが早期胎盤剥離を起こしていたのである。本来赤ちゃんが出てから、その後で剥がれてくるはずの代物1が、赤ちゃんがまだお腹の中にいるうちから剥がれてしまうのである。言うまでもないが、胎盤は赤ちゃんにとっての命綱であり、そこが剥がれかかるということは呼吸ができなくなることを意味する。あのまま家でもたもたしていたら、赤ちゃんの命も危なかったところだ。
 昔の出産は命がけだった、という話を他人事のようにしたのがついこの間だが、リスクは常に存在する、ということを実体験するはめになってしまった。ゆめ、油断するものではない。
 柳の場合、赤ちゃんが産道を降りてくるのに時間がかかるようなら帝王切開、という選択肢もあり得たらしい(<赤ちゃんが呼吸しにくい状態に陥っている以上、あまり時間をかけてはいられない。柳がまた意識を失いかけた所為もあるらしいが)。破水も助産師さんの助けを借りたものの、幸いにして陣痛も起きて普通分娩で生むことができた。

 ・・・書けば数行だが、両腕と頭から血は引くし2、そういえば陣痛ってこんなに痛かったんだ、と思い出して納得するぐらい痛くはあったし(<我ながら意味不詳・・・)、キツさは初産に劣るものではなかった。・・・時間的に短かった分だけ、筋肉痛が残らなかったというだけの話である。

 かくて午前8時前、みっちゃんの弟が誕生した。体重3324g、身長50.0cm。数字だけで見ればみっちゃんの出生時といい勝負だが、怖かったのはここからである。当然聞こえるべき産声が聞こえないのだ。

 みっちゃんの時には元気のよい産声も聞いたしすぐに抱かせてもらい、お乳もあげることができたのを思うと、表現し難い不安に駆られ、赤ちゃんが何で泣かないんだという意味のことを譫言のように繰り返したことを憶えている。看護師さんたちはさぞかし不気味だったに違いない。血が引いた頭で喋るとこんなものである。結局、産湯をつかいに行った後でちゃんと泣いたらしいのだが、出生時体色不良4ということで、赤ちゃんはそのまま保育器へ直行してしまったのだった。早期胎盤剥離といっても完全に剥がれていたわけではなかったらしい5が、赤ちゃんにとって呼吸の苦しい状態があったことは間違いない。お乳どころの騒ぎではなかったのだ。致し方ないことではあった。

 柳はといえば、出血量が多かったということでまたも鉄剤を打たれることになり、経過観察ということで昼近くまで分娩室に逗留する羽目になった(<病室へ帰してもらったもののまた分娩室へ舞い戻った前科がある所為かもしれない。「キャベツが降った日」参照)。そこでそのまま朝食をいただき、なんとか車椅子OKの許可をもらって分娩室を出た。
 血圧が下がるようならストレッチャーです、と言われて必死だった。なんせ、車椅子なら病室に上がる前に保育器の中の赤ちゃんと対面できるが、ストレッチャー移動では保育器の傍まで行けないのだ。白々しいくらい「大丈夫ですー!」を連発した。
 保育器の中の赤ちゃんは、体色も概ね良くなっていた。・・・実のところ、「不良」だった時点での赤ちゃんの体色を見ていないので、比較したわけではないのだが。

 前述のように今回は勝負が早かったので、みっちゃんの時のような筋肉痛は殆ど残らなかったが、やはり出血量の所為か立眩みが頻繁に起こった。しかしもとより職場の健康診断でさえ【貧血:要精査】などと書かれる柳である。今更立眩みぐらいで動じない。なまじ歩行に支障がないものだから赤ちゃんに会いたさに何度もナースステーションへ降りたが、額は冷汗でべったりというていたらくではあった。

 赤ちゃんは、保育器に1日、ナースステーションで様子観察が1日、柳の部屋にやってきたのは生後2日目のことだった(<出生当日は0日目とカウントするのでこうなる。念のため)。保育器から出られて後、ようやく初めてのお乳を(まだ部屋に連れて行けなかったのでナースステーションで)あげたのだが、さすがに当初は飲みにくそうに口をあぐあぐさせていた。30分近く粘ってようやく飲ませてやることができたのだが、そのときには柳のほうが泣きそうだった。それほど状況が悪いわけではなく、念のための保育器収容だと説明を受けてはいたものの、やっぱりお乳も飲めないほど弱っているのではないかという不安があったのである。
 泣き声がえらく弱かった所為もある。最近(10月末)でこそ結構泣き声にも気合がはいってきたが、当初は「ふぁ~」だの「ひゃ~」だの、今五つぐらい力が入らない上にひどく情けない泣き方だったのだ。・・・これはもう、体調というより個性の域らしい。
(余談ながら、FSS何巻だったかでマグダルとデプレがカイエンと対面するシーン、よちよち歩きの二人がやっぱり上記のような泣き方をしていた。今更ながらあのコマに妙なリアリティを感じた柳である)

 名前について、旦那は例によって生まれてから考えようと思っていたらしいが、柳は腹案を持っていた。
 己を大切にできない者は、他者を大切にすることもできない。だから、まず自身(己)を大切にできる子に。そして、常に自分を心身ともにたかめてゆける子に。
 ゆえに命名貴命(たかみ)。”み”は本来”己”を充てるつもりだったが、画数が余よろしくなかったので”生”にしようかと考えていた。ところが旦那が「捻りがない」と”命”を主張。みっちゃんのときに柳が我侭を通しているので、この際は旦那の意見を尊重することにした。はからずも、ひとつ間違えば損なうところだった「貴い命」の子である。

 現在のところ、概ね「たっくん」「たかちゃん」と呼ばれる。いずれ、呼びやすいほうに落ち着くだろう。6

停電にはしゃぐのこと

 9月7日2、台風18号が当地を襲った。
 その昔の19号台風5で柳がエラい目に遭ったという話は別項7に譲るとして、今回の18号も風速50m/secという冗談のような暴風でうちの栗や杉、藤棚を薙倒して行ったが、幸い家屋に被害はなかった。古くは築100年、新しくは築3年という物凄い開きのある我が家だが(要するに建て増しに建て増しを重ねている)、古い母屋に至るまで奇跡的に無事であった。無事じゃなかったのは電気のほうである。午後4時ごろに停電し、回復したのは9日の午前零時を回ってから。19号台風の時には2週間近く電気の恩威から見放されても生き延びた柳だが、今度は子連れの身重である。時期的にはそろそろ産気づいたとしても不思議ではないだけに、正直不安でしょうがなかった。

 しかし。不安どころか状況をすっかり楽しんでいたのがみっちゃんである。
 大好きなアイスクリームが溶けてしまって食べられなかったのは不満らしかったが、蝋燭をつけての生活にすっかりはしゃいで元気一杯であった。時に「電気つける」「テレビ見る」「アテネオリンピック見る」と言い出し、できないとわかると多少焦れたが、すぐに気が移って遊びはじめる。電気の供給が止まってポンプが動かず、水の問題がじわじわと押し寄せていたのだが(当座は太陽熱温水器に上がっていた水が使えた)、みっちゃんの元気を見ていると「・・・ま、どうにかなるだろう」という気になったものである。

 旦那が発電機を借りてきた時など、日はとっぷり暮れているというのに大はしゃぎで外へ飛び出し踊りまわった(発電機の音が珍しかったのだろう)。いきなり姿が消えたので大人たちは青くなったが、みっちゃんとしてはパパが帰ってきたのでお迎えに出たらしい。・・・つくづく、元気なことである。
 復旧して2、3日は工事の影響か短時間停電することもあったが、現在は安心してパソコンを起動していられる状態である(いっぺん起動途中に停電して青くなったことがある)。柳の腹のほうも大過なく、臨月に入るまで持ち堪えることができた。・・・暑くもなし寒くもない今のうちに、そろそろ出てきてくれてもいいのだが・・・。