2001年8月2日、午前2時。陣痛は俄かにやってきた。
予定日であった先月31日朝、旦那が「早く出てこないと痛い注射されるよー」とおどかした所為でもあるまいが、俗におしるしといわれる出血があるにはあった。(ちなみに注射とは陣痛促進剤のこと。痛い思いをするのはどっちかというと柳である・・・)それでも痛みらしいものがとんとないのでまあ次は4日の受診だな、と暢気に構えていた。
そこへいきなり、である。しかし初産の場合、慌てて受診して陣痛がふっと消えることもあるらしいので、さしあたって夜明けまでは待ってみた。・・・・一応、痛みがきたときの呼吸法というやつを習ってはいたものの、痛いのが先に立ったらそれどころの騒ぎではない。パニクったら終いと理解ってはいたが、割合涼しい夜であったにも関わらず汗びっしょりになってしまった。
5時過ぎ、空が白むまではとりあえず耐えた。しかしどうやら規則性があり、しかもこれ以上痛みが強くなると自力で歩くのが難儀と判断して病院へ電話(<既にして痛みで半分以上パニクっていたので、状況を整理するのにメモを必要とした)、即刻入院となる。この時点で陣痛の間隔は10分を切っていた。
生憎空き部屋がなく、家族宿泊もOKという大きな部屋に個室料金で入れてもらった。病院とは思えない調度の数々やだだっ広い空間も、陣痛で目が眩んでいた身の上では有難みもへったくれもなかったのが今にしてみれば一寸だけ惜しい。
出された朝食も味なぞ完全にわからない状態ではあったが、食べられるようなら食べておくほうがよいと聞いていたので陣痛の合間に何とか食べる。(…とかなんとか言いながら、時間をかけつつも結局平らげるあたりが柳かも)ちなみにこの病院、食事がよいことでも有名である。柳のような状態でも食べられたのはそれも一役買っていたかもしれない。
結局、午前中いっぱい陣痛で呻吟していた。昼前にいたっては痛みの間隔は5分を切っており、痛みのない時間より陣痛の時間のほうが長い気がしていた。ただしこれは、柳自身が痛みを延長させていた所為だったらしい。奇異に聞こえるかもしれないが、痛みも畢竟、脳における感覚処理の結果なので、痛い痛いと思っていると、実際に痛みが消えた後も痛みが持続しているような気がするのである。陣痛というものは本来一回に一分も持続しないものなのだ(<柳も産前教育で初めて知った)。
昼食は、わずかに口をつける程度でリタイア。12時半頃、破水した。(※破水…子宮の中の、赤ちゃんが入っている袋が破れて羊水が下り始めること)午後になって助産婦さんが巡回してくださった時には子宮口もかなり開いてきていたので、分娩室へ移動する次第となる。(この移動、ちゃんと自分の足で歩くのである。ゆめ、甘えてはイケナイ)
かくて昼の2時過ぎに旦那が駆けつけた時、柳は分娩室にいた(家族立会いも可なのだが、柳は鄭重にお断りした)。助産婦さんに「子宮口はもうしっかり開いてますからねー。もうすぐですよ」といわれ、展開の速さに旦那は呆気にとられたとのこと。(<確かに初産にしては経過が早い)
痛みの強さは変わるわけではない。だが、痛みのときの呼吸法(<なるべく深く、ゆっくり)に従うつもりがなかなかうまくいかなかった。「痛いからといって呼吸を詰めてしまうと、血中の酸素濃度が低下して臍帯でつながっている赤ちゃんも酸素不足になる」という話が頭にあり、(今にして思えば)かえって過呼吸に陥ってしまったらしい。
パニクってはいけないと思いながらしっかりパニックに陥っていたのだ。理屈が理解できても実践できるかどうかは別の話、という生き見本である。(お恥ずかしい話だが、精神修養が足りない証拠)終い頃には意識が朦朧として痛みも何もあったものではなかった。看護婦さんの「ほら、もう出てくるよー」という言葉でどうやら意識がはっきりし、産声で完全に覚めた。午後3時半を回ったころのことである。
すぐに対面させてもらった(<分娩台の上で、看護婦さんが手を添えて抱かせてくれる)が、柳の両腕は血圧計のマンシェットやら点滴針がくっついていたので柳自身の腕でもって抱いてやることは叶わなかった。しかし真っ赤な顔、元気な産声、確かな重みと温かさはパニックを吹っ飛ばしてくれるに足る。落ち着いたところで赤ちゃんは産湯をつかいに別室へいき、柳は後産(<胎盤等、赤ちゃんを包んでいたものがでてくる)にはいるわけだが、このとき、分娩を担当してくださったお医者さんが体重その他を伝えて下さった。
体重その他についてはその時聞き落としたのだが、最後に一言「・・・男の子さんですね」
「・・・・へ?」
柳自身を含め、大方の予想1を裏切って男の子であった。体重3626g、身長51cm。堂々としたもんである。性別のことはさて置くとして、2000g台前半の赤ちゃんも珍しくないというご時世に、まさか3キロ半を超えていようとは(^^;
後産も終わり、産湯をつかった赤ちゃんがもう一度連れて来られると、初回授乳となる。この病院は母乳育児を強く推進しているので、分娩後なるべく早い時間に初回授乳をするのである。これは母乳が出ようが出まいが関係ないらしい。実際、生まれてすぐにお乳が出る人は2割くらいとのことである。出てるか出てないかわからないような乳を一生懸命になって吸う姿は、健気の一語に尽きる。
産湯をつかったとはいえ、髪の毛(<どっちに似たのか、かなりフサフサ(^^;)の間にはまだすこし血がついていた。うーん、がんばったんだねえ、というのが正直な感想である。いや、赤ちゃんが。何をどうがんばったんだ、というツッコミはナシである。理屈抜きに、そう思っただけなのだ。
処置を終えて6時頃には赤ちゃん共々部屋に戻ることができたのだが(<このとき、部屋の空きができていたので通常の個室)、晴れておばあちゃまとなった母(<ばあちゃんとは呼ばせん、と息巻いていたが、所詮は無駄なあがきである)が駆けつけてまもなく、柳は分娩室に舞い戻る羽目になった。
出血量が多かったらしい(<部屋に帰ってからも、カーペットに血が飛んだくらいである。これには柳のほうが吃驚した)。旦那いわく、「見る見るうちに顔が白くなった」そうであるが、柳自身は全身の筋肉痛2で身動きがつらいのが先に立っており、少々ふらつこうが血の気が引こうがさっぱりわからないというていたらくであった。
かくて、経過観察のため分娩台で再び血圧計のマンシェットと点滴針3に括られることになったのだが、本人はマンシェットの圧迫をものともせずにうつらうつらしていたのだから、緊張感のないコト夥しい。
ようやく部屋へ帰して貰えた時、赤ちゃんは呼吸状態のチェックのため新生児室へ赴いた後だった。点滴は夜の2時過ぎには終わったが、何せ、身体が動かない。おむつを替えることもままならぬでは赤ちゃんが可哀想なので、明け方まで預かって貰うことにした。
こうして、おそらくは今まで生きてきた中で一番大変な一日が終わった。…ただし、これが始まりであることは言うまでもない。