キャベツの降った日、再び

 それは、やっぱり俄かにやってきた。

 予定日は10月3日。折しも稲刈り稲こぎと農繁期真っ盛りであり、できれば土日は外せるといいなあとムシのよいことを考えていた(<兼業農家は土日が勝負なのだ)。そもそも7月頃から切迫早産で自宅療養を余儀なくされた身の上である。予定日を待たずに出てくるものと思っていた。ところがどっこい、予定日まで1週間を切ってもおしるしすらない。これはまたも予定超過か?と腹を括りかけた10月2日土曜日、午前2時すぎ。・・・・いきなり、足が攣った。

 まあ、足が攣るぐらいは妊婦なら当たり前(<そうでない向きもあろうが)なのだが、おかげで眠り損ねて階下へ降りた。臨月近くなってまた嘔吐など悪阻に近い症状が出ていて、胃液が上げてくるものだから軽く何か食べようと思ったのである。結局、ジョア一本とクラッカーを何枚か食べたのだが、これが後に災いする。

 それでも眠りきれずにゴロゴロすること一時間余、イヤな感じがしてもう一度階下へ降りた。トイレへ行く暇もなく、パタパタとこれもイヤな音がして、フローリングの床に血痕が散る。

「げっ!」

 などと仰天してばかりはいられない。陣痛はないのに、生理のような出血がだらだらと続くのだ。朝の4時で申し訳なかったが、とりあえずは現役ナース(母)を叩き起こして判断を乞うた。病院へ電話したほうがいいとのご意見に、例によって状況をメモしてから(<みっちゃんの時は陣痛で順序だてた話ができそうになかったからだが、今回は不気味な出血にやっぱり動転していた)電話したところ、やはり入院の指示。かくて旦那も(隣で眠っているみっちゃんを起こさぬよう鄭重に)叩き起こされる運命と相成った。

 そうする間にもなんだか出血が増えてきたなぁ、と思っていたのだが、車に乗った時点で夜用ナプキンでも危ない量が出た感じがあって、冷汗をかいた。
 ・・・さらには、家を出て10分も経たないうちに意識を失った。
 旦那によれば、痙攣していたらしいが当然記憶はない。立眩みに似た、血が引く感じとともにフッと分からなくなったのである。慌てた旦那に起こされた時の走行距離から推して、時間的には5分に満たなかった筈だが、旦那も冷汗をかいたらしい。

 普段自分が運転していればなんでもない距離が、えらく長かった。時間がひどくのろのろと進んでいるような気がした。そうするうちに嘔気がして、結局吐いた。ジョアなんぞ飲むんじゃなかったと心から後悔したが、今更どうしようもない。出血が脚を伝うほどになっていたから、もうそれどころでもなくなっていた。

 かくて病院に到着した頃には、柳の車は殺人現場のような有様になっていた。
 車椅子に乗せてもらい、分娩室へ入ったのだが、その車椅子も血だらけになったことは言うまでもない。着ていったジャンパースカートが黒でよかった、などということを考えたのは後の話である。

 妙なことに、この時点で破水はしていなかった。・・・じゃ、この出血はいったい何なのか、というと、後で聞いた話だが早期胎盤剥離を起こしていたのである。本来赤ちゃんが出てから、その後で剥がれてくるはずの代物1が、赤ちゃんがまだお腹の中にいるうちから剥がれてしまうのである。言うまでもないが、胎盤は赤ちゃんにとっての命綱であり、そこが剥がれかかるということは呼吸ができなくなることを意味する。あのまま家でもたもたしていたら、赤ちゃんの命も危なかったところだ。
 昔の出産は命がけだった、という話を他人事のようにしたのがついこの間だが、リスクは常に存在する、ということを実体験するはめになってしまった。ゆめ、油断するものではない。
 柳の場合、赤ちゃんが産道を降りてくるのに時間がかかるようなら帝王切開、という選択肢もあり得たらしい(<赤ちゃんが呼吸しにくい状態に陥っている以上、あまり時間をかけてはいられない。柳がまた意識を失いかけた所為もあるらしいが)。破水も助産師さんの助けを借りたものの、幸いにして陣痛も起きて普通分娩で生むことができた。

 ・・・書けば数行だが、両腕と頭から血は引くし2、そういえば陣痛ってこんなに痛かったんだ、と思い出して納得するぐらい痛くはあったし(<我ながら意味不詳・・・)、キツさは初産に劣るものではなかった。・・・時間的に短かった分だけ、筋肉痛が残らなかったというだけの話である。

 かくて午前8時前、みっちゃんの弟が誕生した。体重3324g、身長50.0cm。数字だけで見ればみっちゃんの出生時といい勝負だが、怖かったのはここからである。当然聞こえるべき産声が聞こえないのだ。

 みっちゃんの時には元気のよい産声も聞いたしすぐに抱かせてもらい、お乳もあげることができたのを思うと、表現し難い不安に駆られ、赤ちゃんが何で泣かないんだという意味のことを譫言のように繰り返したことを憶えている。看護師さんたちはさぞかし不気味だったに違いない。血が引いた頭で喋るとこんなものである。結局、産湯をつかいに行った後でちゃんと泣いたらしいのだが、出生時体色不良3ということで、赤ちゃんはそのまま保育器へ直行してしまったのだった。早期胎盤剥離といっても完全に剥がれていたわけではなかったらしい4が、赤ちゃんにとって呼吸の苦しい状態があったことは間違いない。お乳どころの騒ぎではなかったのだ。致し方ないことではあった。

 柳はといえば、出血量が多かったということでまたも鉄剤を打たれることになり、経過観察ということで昼近くまで分娩室に逗留する羽目になった(<病室へ帰してもらったもののまた分娩室へ舞い戻った前科がある所為かもしれない。「キャベツが降った日」参照)。そこでそのまま朝食をいただき、なんとか車椅子OKの許可をもらって分娩室を出た。
 血圧が下がるようならストレッチャーです、と言われて必死だった。なんせ、車椅子なら病室に上がる前に保育器の中の赤ちゃんと対面できるが、ストレッチャー移動では保育器の傍まで行けないのだ。白々しいくらい「大丈夫ですー!」を連発した。
 保育器の中の赤ちゃんは、体色も概ね良くなっていた。・・・実のところ、「不良」だった時点での赤ちゃんの体色を見ていないので、比較したわけではないのだが。

 前述のように今回は勝負が早かったので、みっちゃんの時のような筋肉痛は殆ど残らなかったが、やはり出血量の所為か立眩みが頻繁に起こった。しかしもとより職場の健康診断でさえ【貧血:要精査】などと書かれる柳である。今更立眩みぐらいで動じない。なまじ歩行に支障がないものだから赤ちゃんに会いたさに何度もナースステーションへ降りたが、額は冷汗でべったりというていたらくではあった。

 赤ちゃんは、保育器に1日、ナースステーションで様子観察が1日、柳の部屋にやってきたのは生後2日目のことだった(<出生当日は0日目とカウントするのでこうなる。念のため)。保育器から出られて後、ようやく初めてのお乳を(まだ部屋に連れて行けなかったのでナースステーションで)あげたのだが、さすがに当初は飲みにくそうに口をあぐあぐさせていた。30分近く粘ってようやく飲ませてやることができたのだが、そのときには柳のほうが泣きそうだった。それほど状況が悪いわけではなく、念のための保育器収容だと説明を受けてはいたものの、やっぱりお乳も飲めないほど弱っているのではないかという不安があったのである。
 泣き声がえらく弱かった所為もある。最近(10月末)でこそ結構泣き声にも気合がはいってきたが、当初は「ふぁ~」だの「ひゃ~」だの、今五つぐらい力が入らない上にひどく情けない泣き方だったのだ。・・・これはもう、体調というより個性の域らしい。
(余談ながら、FSS何巻だったかでマグダルとデプレがカイエンと対面するシーン、よちよち歩きの二人がやっぱり上記のような泣き方をしていた。今更ながらあのコマに妙なリアリティを感じた柳である)

 名前について、旦那は例によって生まれてから考えようと思っていたらしいが、柳は腹案を持っていた。
 己を大切にできない者は、他者を大切にすることもできない。だから、まず自身(己)を大切にできる子に。そして、常に自分を心身ともにたかめてゆける子に。
 ゆえに命名貴命(たかみ)。”み”は本来”己”を充てるつもりだったが、画数が余よろしくなかったので”生”にしようかと考えていた。ところが旦那が「捻りがない」と”命”を主張。みっちゃんのときに柳が我侭を通しているので、この際は旦那の意見を尊重することにした。はからずも、ひとつ間違えば損なうところだった「貴い命」の子である。

 現在のところ、概ね「たっくん」「たかちゃん」と呼ばれる。いずれ、呼びやすいほうに落ち着くだろう。5

キャベツが降った日

 2001年8月2日、午前2時。陣痛は俄かにやってきた。

 予定日であった先月31日朝、旦那が「早く出てこないと痛い注射されるよー」とおどかした所為でもあるまいが、俗におしるしといわれる出血があるにはあった。(ちなみに注射とは陣痛促進剤のこと。痛い思いをするのはどっちかというと柳である・・・)それでも痛みらしいものがとんとないのでまあ次は4日の受診だな、と暢気に構えていた。

 そこへいきなり、である。しかし初産の場合、慌てて受診して陣痛がふっと消えることもあるらしいので、さしあたって夜明けまでは待ってみた。・・・・一応、痛みがきたときの呼吸法というやつを習ってはいたものの、痛いのが先に立ったらそれどころの騒ぎではない。パニクったら終いと理解ってはいたが、割合涼しい夜であったにも関わらず汗びっしょりになってしまった。

 5時過ぎ、空が白むまではとりあえず耐えた。しかしどうやら規則性があり、しかもこれ以上痛みが強くなると自力で歩くのが難儀と判断して病院へ電話(<既にして痛みで半分以上パニクっていたので、状況を整理するのにメモを必要とした)、即刻入院となる。この時点で陣痛の間隔は10分を切っていた。

 生憎空き部屋がなく、家族宿泊もOKという大きな部屋に個室料金で入れてもらった。病院とは思えない調度の数々やだだっ広い空間も、陣痛で目が眩んでいた身の上では有難みもへったくれもなかったのが今にしてみれば一寸だけ惜しい。
 出された朝食も味なぞ完全にわからない状態ではあったが、食べられるようなら食べておくほうがよいと聞いていたので陣痛の合間に何とか食べる。(…とかなんとか言いながら、時間をかけつつも結局平らげるあたりが柳かも)ちなみにこの病院、食事がよいことでも有名である。柳のような状態でも食べられたのはそれも一役買っていたかもしれない。

 結局、午前中いっぱい陣痛で呻吟していた。昼前にいたっては痛みの間隔は5分を切っており、痛みのない時間より陣痛の時間のほうが長い気がしていた。ただしこれは、柳自身が痛みを延長させていた所為だったらしい。奇異に聞こえるかもしれないが、痛みも畢竟、脳における感覚処理の結果なので、痛い痛いと思っていると、実際に痛みが消えた後も痛みが持続しているような気がするのである。陣痛というものは本来一回に一分も持続しないものなのだ(<柳も産前教育で初めて知った)。

 昼食は、わずかに口をつける程度でリタイア。12時半頃、破水した。(※破水…子宮の中の、赤ちゃんが入っている袋が破れて羊水が下り始めること)午後になって助産婦さんが巡回してくださった時には子宮口もかなり開いてきていたので、分娩室へ移動する次第となる。(この移動、ちゃんと自分の足で歩くのである。ゆめ、甘えてはイケナイ)

 かくて昼の2時過ぎに旦那が駆けつけた時、柳は分娩室にいた(家族立会いも可なのだが、柳は鄭重にお断りした)。助産婦さんに「子宮口はもうしっかり開いてますからねー。もうすぐですよ」といわれ、展開の速さに旦那は呆気にとられたとのこと。(<確かに初産にしては経過が早い)


 痛みの強さは変わるわけではない。だが、痛みのときの呼吸法(<なるべく深く、ゆっくり)に従うつもりがなかなかうまくいかなかった。「痛いからといって呼吸を詰めてしまうと、血中の酸素濃度が低下して臍帯でつながっている赤ちゃんも酸素不足になる」という話が頭にあり、(今にして思えば)かえって過呼吸に陥ってしまったらしい。
 パニクってはいけないと思いながらしっかりパニックに陥っていたのだ。理屈が理解できても実践できるかどうかは別の話、という生き見本である。(お恥ずかしい話だが、精神修養が足りない証拠)終い頃には意識が朦朧として痛みも何もあったものではなかった。看護婦さんの「ほら、もう出てくるよー」という言葉でどうやら意識がはっきりし、産声で完全に覚めた。午後3時半を回ったころのことである。

 すぐに対面させてもらった(<分娩台の上で、看護婦さんが手を添えて抱かせてくれる)が、柳の両腕は血圧計のマンシェットやら点滴針がくっついていたので柳自身の腕でもって抱いてやることは叶わなかった。しかし真っ赤な顔、元気な産声、確かな重みと温かさはパニックを吹っ飛ばしてくれるに足る。落ち着いたところで赤ちゃんは産湯をつかいに別室へいき、柳は後産(<胎盤等、赤ちゃんを包んでいたものがでてくる)にはいるわけだが、このとき、分娩を担当してくださったお医者さんが体重その他を伝えて下さった。
 体重その他についてはその時聞き落としたのだが、最後に一言「・・・男の子さんですね」

「・・・・へ?」

 柳自身を含め、大方の予想1を裏切って男の子であった。体重3626g、身長51cm。堂々としたもんである。性別のことはさて置くとして、2000g台前半の赤ちゃんも珍しくないというご時世に、まさか3キロ半を超えていようとは(^^;


 後産も終わり、産湯をつかった赤ちゃんがもう一度連れて来られると、初回授乳となる。この病院は母乳育児を強く推進しているので、分娩後なるべく早い時間に初回授乳をするのである。これは母乳が出ようが出まいが関係ないらしい。実際、生まれてすぐにお乳が出る人は2割くらいとのことである。出てるか出てないかわからないような乳を一生懸命になって吸う姿は、健気の一語に尽きる。
 産湯をつかったとはいえ、髪の毛(<どっちに似たのか、かなりフサフサ(^^;)の間にはまだすこし血がついていた。うーん、がんばったんだねえ、というのが正直な感想である。いや、赤ちゃんが。何をどうがんばったんだ、というツッコミはナシである。理屈抜きに、そう思っただけなのだ。

 処置を終えて6時頃には赤ちゃん共々部屋に戻ることができたのだが(<このとき、部屋の空きができていたので通常の個室)、晴れておばあちゃまとなった母(<ばあちゃんとは呼ばせん、と息巻いていたが、所詮は無駄なあがきである)が駆けつけてまもなく、柳は分娩室に舞い戻る羽目になった。
 出血量が多かったらしい(<部屋に帰ってからも、カーペットに血が飛んだくらいである。これには柳のほうが吃驚した)。旦那いわく、「見る見るうちに顔が白くなった」そうであるが、柳自身は全身の筋肉痛2で身動きがつらいのが先に立っており、少々ふらつこうが血の気が引こうがさっぱりわからないというていたらくであった。

 かくて、経過観察のため分娩台で再び血圧計のマンシェットと点滴針
3に括られることになったのだが、本人はマンシェットの圧迫をものともせずにうつらうつらしていたのだから、緊張感のないコト夥しい。

 ようやく部屋へ帰して貰えた時、赤ちゃんは呼吸状態のチェックのため新生児室へ赴いた後だった。点滴は夜の2時過ぎには終わったが、何せ、身体が動かない。おむつを替えることもままならぬでは赤ちゃんが可哀想なので、明け方まで預かって貰うことにした。

 こうして、おそらくは今まで生きてきた中で一番大変な一日が終わった。…ただし、これが始まりであることは言うまでもない。