シェノレス叛乱

シェノレス叛乱について概説。

解説

大陸暦897~899年、エルセーニュの総督府襲撃にはじまり第6次イェルタ海戦に至る一連の戦乱を、ツァーリ側ではシェノレス叛乱、シェノレス側では国土回復戦争と呼ぶ。この戦においてシェノレスの陣頭に立ったのが「海神の御子」レオンであった。

 

開戦より先立つこと10年余をかけ、ツァーリに干渉されない南寄り航路を密かに開拓、リーン、シルメナ両国と密かに連絡を取り合い兵站を整えたのはシェノレス大神官リュドヴィックである。大侵攻より160年が経過し統制が緩んでいたとはいえ、リュドヴィックが恭順を装いながら水面下での工作を行うことができたのは、「ネレイア」(「波の下の者」の意)と呼ばれる神官府の細作組織と、妹アニエスの存在が大きい。

 

ツァーリは大侵攻以後、三国を牽制する目的で王族の子女を差し出させた。アニエスもそうしてリュドヴィックが大神官として就任すると同時にツァーリ(当時はまだ王太子であったカスファー)へ嫁したのだが、アニエスは積極的に王都で人脈を築き、王都とツァーリ宮廷の情報を国許へ伝えた。

 

しかしアニエスは病を理由にシェノレスに帰され、そのまま歿したために以後宮廷内の情報は得られなくなる。(ただし王都の森周辺の自由民に協力者を残すことはできたため、宮廷はともかく王都には「ネレイア」に活動の余地はあった)

 

戦乱の狼煙となった総督府襲撃後、カザル占拠に至るまでの殆どが海戦であり、海戦を得手とするシェノレスからは終始有利な展開であった。
シェノレス軍が半島の先端とはいえ本土であるカザルに拠った後も海戦が続いたのは、半島が山地であったためにツァーリ側にしてみれば大規模な攻囲戦には持ち込めなかったからである。(無論、小部隊による奇襲は試みられ小競り合いはあったものの、めざましい成果を上げることなくツァーリは撤退を余儀無くされた)
最後の大きな戦闘となった第6次イェルタ海戦にしたところで、レオンの捕縛という痛恨事はあったにしてもシェノレス軍自体の損耗は大きくなかったことから、実際には版図を大きく書き換えるものではなかった。

 

イェルタ湾岸に集結したツァーリ軍は南部軍に各方面からの増援を加えた混成軍であったために統制に難があり、第6次イェルタ海戦で得た勝利を十分に活用できなかったことがツァーリの敗因といわれる。津波にしても衛兵隊第三隊隊長エルンストがいくつかの予兆から高台への避難を具申したが、容れられず大半が波に掠われる結果となった。

 

シェノレス側はカザル砦占拠後、陸戦に対応するために相応の時間をかけていたのだが、講和が成立したためにシェノレスの騎馬隊がツァーリにおいて実戦にいたることはなかった。

タイトルとURLをコピーしました