西方夜話Ⅶ

「…これほど弱いとは思わなかったな…」
 サーティスは酒杯を置くと潰れている連れの二人を見遣って吐息した。…だが、これは比較対象が悪いのである。ラースはともかく、エルンストは標準的視点からみれば十分酒豪であった。ただ単に、サーティスの底が抜けているだけの話である。
 酒場の面々の大方は潰れてしまい、醒めているのはサーティス位のものである。
 それでもなお酒杯を傾け続ける。ふと、隣で突っ伏しているエルンストの呟きが耳に入った。
「………」
 思わず手を止めて、エルンストを見た。どうやら寝言らしく、当人はぐっすり寝入っている。
 ふっと笑んで、サーティスは杯を乾した。
「…ま、分からんでもないさ…あの銀姫将軍シアラ・センティアーならね」
 神々しいばかりのプラチナブロンド、意志の強そうな瞳、整った顔立ち…その何よりも、あの気性。エルンストならずとも、大抵の男の心を捉えるだろう。皇位欲しさに接触してきた桂鷲は論外としても、今までとんと噂のなかった愁柳をして冷静さを喪わせたのも、分からなくはない。
 一体何杯目か本人も忘れているが、杯に酒を満たす。
『ま、今回は相手が悪かったな。それと恋敵が』
 おそらくは「柄じゃない」の一言で、自分の中の淡い想いを噛み潰した旧友を見遣り、嫌味の無い笑みを浮かべてその杯を乾した。
「世の中半分は女だぞ。いつまでも引きずったって仕方あるまいに…」
 そう呟いたとき、ふいに頭の中に甦った声があった。思わず、手が止まる。
 他人のことを言えた義理ではないだろう。耳の奥に今でも、優しい声が残っている。
 自分でも呆れるほどに昔の、あの声が…。
 逢った女の数をいちいち勘定する程サーティスはこまめではない。だが、唯一人だけ-もう逢えない人であるが-顔も、声も、何もかもつい先刻までそこにいたように思い出すことができる。今でも。
 いつも、気がついたら傍にあった淡い水色の瞳。差し伸べられた、白く華奢な腕。豊かな烏羽色の髪。
 優しくて、暖かな…
 ようやく酔いがまわったのか、サーティスは上体を背後の壁に凭せ掛けて目を閉じた。
「……」
 サーティスの唇の間から洩れた声は、余りにも低く、不明瞭であった。

***

 気がつくと、彼女は側にいた。
「ナル…フィ…」
 愁柳は身を起こそうとして、ナルフィに優しく押しとどめられた。
「…よかった…」
 ナルフィはただ涙を零すばかりだった。愁柳も、もう何も言わず彼女をいたわるように乱れた銀の髪を軽く整える。その優しい仕種に、ナルフィを縛る矜持の糸が脆く切れた。
 始めは低く、途切れ途切れだった嗚咽も、はっきりと聞き取れるほどになり、やがてそれはすすり泣きになった。   愁柳の胸に顔を埋めて、ナルフィは泣いた。

 過去と未来は、今は眼中になかった。ただ、この瞬間があれば良い。唯一人のひとが、命を落とさずにすんだ…今はそれが嬉しかった。失うことへの恐怖から解き放たれた反動か、彼女はいつになく感情に素直だった。
 右手を失ったことを、愁柳はもう感じていた。だが、彼女にそれを気づかせないように、左の腕で優しく抱き寄せる。
 いずれ、どちらかが背負うものを捨てなければ結ばれ得ぬ。しかし、もうこれ以上彼女を悲しませるような事態を招きたくはなかった。
 …それが、彼が持つもの全てを投げ出さねば避けること叶わぬ事態であるなら、間違いなく全てを投げ出すほうを取るだろう、と愁柳は思った。謗りも承知の上であった。
 言いたい者には言わせておけばよい。所詮、全ての人間を納得させることのできる理屈など、この世にありはしないのだ。況してや、理屈で割り切れぬことでは…。
 命が助かったことを知った時に、彼のなかで何かが変化していた。そして今、その変化に気づいた。
 彼は今まで死を厭ったことなどなかった。むしろ、死こそが彼をすべての苦しみから救い出してくれる唯一のものだとすら思っていた。だが今は違った。生きたかった。生きねばならなかった。生きて、護りたいものがあるから…!
 夜が明ければ、嵐が待っていることは明白だった。だが…否、だからこそ、今は互いの暖かさを感じながら安らいでいたい。…今だけは…。
 愁柳は、ナルフィを抱きしめた。

***

「愁柳、これを」
 愁柳がようやく普通通り起居できるようになってから、サーティスは彼に手甲のような物を渡した。
「…何か、細工が…?」
「右手へ。御身の動かなくなった右腕の代わりに御身を守る助けになるだろう」
 サーティスはもはや愁柳に対して『殿下』という呼称は用いなかった。愁柳自身が謝絶したのである。
  手甲は愁柳の右手にぴったりとはまった。
「…大きさは良いようだな。かしてみてくれ」
サーティスは手甲を受け取ってはめ、甲についている分銅を引いてツ…と細紐のようなものを引っ張り出した。
「この糸はめったなことでは切れない。…鋼だからな。分銅だけでも結構な威力があるはずだが、この糸自体かなり使える」
 庭木の枝の一本を見定める。すっと右手が動いたかと思うと枝は呆気なく幹から離れて地面に墜落した。
「…分銅か…?」
 傍で見ていたエルンストが思わず腕組みをといて身を乗り出した。
「いや…」
 カチリ、という音と共に分銅が手甲に戻った。エルンストが落ちた枝を拾い上げる。枝は、まるで鋭利な刃物で断ち切られたような断面を見せていた。
「…冗談…」
「肘までちゃんと動けば、これの扱いに不自由はない筈だ。あなたなら訓練次第で十二分に使いこなせるだろう。あなたの腕を治せなかったのは、私としても悔しかったのでね…礼は無用だ」
 礼を言いかける愁柳の機先を制して釘を刺す。
「それから、今日からは左の剣を鍛えた方がいい。あなたはもともと左利きの筈だ。さして無理はないだろう」
 愁柳が驚いてサーティスを見た。
「どうして…それを?」
 これにはエルンストも驚いていた。サーティスに比べればエルンストの方がはるかに付き合いは長いのだ。その彼すら全く知らなかった。
「初夏の頃、手合わせをしたときの剣さばきでね。体勢を崩したときに左で切り抜けていた。それで、両利きあるいはもともとは左利きだろう…と見当をつけていたよ」
『別な活路がある』というサーティスの言葉の意味に、エルンストはようやく気がついた。
「…私ができるのはここまで。後はあなたが決着をつけるんだ、愁柳」
 愁柳は手甲を受け取ってはめ、それに目を落としたまま言った。
「桂鷲の…事ですか」
 彼の右腕を切り裂いた異母弟、桂鷲。
「かのひとを諦めるか、龍禅を捨てるか…二つに一つ。あなたの望むほうを選ぶ事だな。…悔いることのないように」
 愁柳の、深緑の彩が揺れた。
 次の瞬間、何かが壊れる音に三人が三人とも神経を尖らせた。だが、何か物音が続く訳ではない。サーティスが吐息して、金褐色の前髪をかきあげた。
「…あの従者殿、律儀なのはいいが少々騒がしいな。大方、夕食の準備でもしていたんだろう。済まんがエルンスト、どうにかしてやってくれ」
 エルンストは快諾して立ち上がったが、ふと肩越しにサーティスを振り返ると軽く睨んで言った。
「…同情の余地はあると思うぞ、俺は。何しろあんたの家の厨房ときたら、何があるか分かったもんじゃないからな」
「人聞きの悪いことを言う。単に物が多いだけだろう」
「多いだけならまだいい。塩と得体の知れん薬草の粉が、寸分違わん瓶に入ってるんだからな。危ないったらありゃしない」
「見れば分かる。きちんと付箋ラベルだって貼ってあるんだからな」
「…抜かせ! 付箋ってのはな、誰にもわかるような字で書くもんだ」
 あるいは、それでえらい目にあった経験でもあるのかも知れない。エルンストは苦り切ったようにそう言うと勝手口の方へ消えた。サーティスはそれを笑みを含んだ表情で見送ったが、その笑みが陽が翳るように消えた。
「…ここだけの話として、聞き流して欲しい」
 サーティスはベンチに腰掛け、遥か空の彼方へ視線を放り投げた。
「…十年ばかり前、ひどくお幸せな子供ガキがいた。世に言う王族でね。兄が一人いた。兄がもう三十半ばを越した頃、弟はまだ十三でしかなく…もちろん母を異にしていた」
「……」
「弟が十三になったばかりの頃、兄は父から王位を譲られた。…だがその兄と側近は、前王に可愛がられている弟が目障りだった。弟が成人したら、前王は無理やりにでも譲位させるだろう…そんなふうに思っていたらしい。だが、そんな矢先に前王は死んだ。その時兄が弟にした仕打ちは…」
 サーティスの顔に、まぎれもない侮蔑の表情が浮かんだ。
「…兄の許婚者は、側近の娘だった。その女を使って、たかが十三のガキを毒殺しようとしたのさ」
 愁柳の目が見開かれた。
「弟は知らずに毒をあおったが、少々変わった体質だったために一時的な四肢の麻痺で済んだ。…しかしそのまま留まることに危険を感じて王都を脱出した」
 ────赤や黄に染まった葉が風に舞っている。季節は既に秋から冬へと移りかけていた。
 それを暫く目に映して…サーティスはやや目許を和らげ、言葉を続けた。
「前王は、実際死ぬ間際に言ったらしい。次の王に弟を据えよ…とね。本人にはいい迷惑だった。国など要らなかった。…本人はただ、大好きな人達が側にいてくれれば、それでよかったんだ。…偽らない、本当のところはな。
 周囲の思惑だとか、背負ったモノだとか…変な矜持にこだわって…すべてを取り落としてしまってからでは遅い」
 サーティスは無意識のうちに自分の左肩へ手を遣っていた。口許には、幽かな苦さがある。
「愁柳、絶対に間違えてはならん事だ。自分が一体何を望んでいるのか…そうでなければ、何もかもを失ってしまう」
 愁柳は、虚空に視線をやって、言った。
「…ええ」

***

 幾日かが過ぎた、某日。
「あらエルンスト、お久しぶり。相変わらず元気そうね」
「お久しぶり…て、澪蘭レイラン!?」
 皇宮の様子を見て帰ってきたエルンストと入れ違いに出ていった銀髪の娘を半ば呆気に取られて見送った後、エルンストは駆けこむようにして中に入った。
「サーティス!」
「何だ、騒々しい」
「何だじゃないっ! あんた澪蘭とよりを戻したのかよ!?」
「…あのな、エルンスト」
 サーティスは眉間に指先をあてて息をついた。
「いくら何でも、これだけ家に人間が増えたときにそんな気になれるか?公女殿下に不自由の無いように、少し相談にのってもらっただけだ。男共ではなかなか気がつかないこともあろうからな。…それに、澪蘭とはもうそういう仲ではない。良い友人だ」
「…しゃあしゃあと言いやがるな…」
「澪蘭も承知していることだ。それに、今ではあれにも亭主がいる」
「…亭主持ちにも平気で手ェ出す癖して」
「『来る者は拒まず…』だ。それに、嫌がるものに手を出した憶えは一度たりとも無い」
 それは確かに真実であった。しかし別れ際に一体どういう話の付け方をしているのか、これで男はともかく女に恨まれた例がないのだから驚異である。
「…ま、せいぜい背後から女に刺されんように注意するこった」
 エルンストの口調はかなり辛辣である。サーティスは至極真面目に尋ねた。
「…前から思ってたんだが、お前以前に女絡みで何かあったのと違うか?」
「あってたまるか、あんたじゃあるまいし」
 サーティスは何か言いかけて寸前で言葉を吐息に換えた。
「…で?何か目新しいことは…?」