王城の森は、静謐に包まれている。
冬神はなおこの地を白い袖に包んでいた。
セレスはゆっくりと森を歩く。薄明…晴れ渡った空から白い花片のような雪が舞っている。散歩に適した時期とも時間とも言い難いが、今はこの静寂の中に身を置きたかった。
――――剣か、紡錘か。
幼い頃はよくわからない。だが、物心ついたら剣を取ることに決めていた。それを疑った事はない。そうあるべきだと、自分で決めた。
為さねばならないことは目の前にあったから。
『じゃあ、傍にいて』
傍にいる。そして、大切なひとを護る。そう思っていた。あの時までは。
『カーシァ』の小さな世界が打ち砕かれた後も…会えないとわかっていて、その道を変えることは出来なかった。…会えなくてもいい。大切なひとの帰るべき場所を護り続けることが自分の役目。そう自らに任じた。
他の生き方を択ぶことはできなかった。
それでも、長じれば現実が理解ってくる。自分は彼のひとのものになることはできない。そして、自身の生存が知られることは、また彼のひとを深く傷つける。その場所に留まり続けることはできなかった。
…ならば、誰のものにもなるまい。
そう決めかけていた矢先に、エルンストに逢った。
だが、誰かのものになる生き方は棄てたのだ。
剣を取る。そしてエルンストの傍で、ひとりの傭兵として生きていく。
それでいい。
***
逢いたいときに、いつでも逢えるというひとではなかった。
お互いの立場を知ってからは、手紙を交わすことしかできなくなった。だが、ミティアにとっては、それでも十分だった。
予め決められていた生き方に、抗う意志も、意味も、自身の中には見いだせなかった。王妃という名の、この国のかたちを整える為の部品。そうなるべく自分は拾われ、そして育てられた。それがすべて。
それでも、送る手紙をしたためる時の、届いた手紙を開く時の、肺腑を揺さぶるような鼓動を感じる瞬間は、確かに自分が生きているのだと教えてくれた。
――――だが、そのひとは講和を成立させるため、自身の命さえ昂然と火にくべてしまった。
その瞬間から、世界は色彩を喪った。
いつかまた逢える。そんな淡い期待を抱いていたことが…いっそ悔やまれる。
やがてそんな感情さえも摩滅し、色をなくした世界の中でただ無為に日を過ごしていた。自らの意志を貫こうとして養父に逆らった娘に、世間が何を言おうが…何も感じなかった。
そんなミティアの許に一通の書簡が届けられた時、それが待ち望んだひとの筆跡でないとわかってはいても…かつて手紙だけが繋いでくれた想いと、それが与えてくれた熱を思い出して…ミティアは封を開けてしまった。それが何を呼び起こすか…深く考えもせずに。
――――なんと愚かであったことだろう。
所詮、風も当てぬように彫琢された人形が考えつくことなど、お伽噺と異なるところはない。現実とは、もっと峻厳なものだった。
***
親から与えられた名は氷の海に棄てた。
贄とされるには相応の理由があったのだろう。だが、そんなものは自分の理由ではない。そこで生きていくことが許されないなら、生きていける場所は自分で探す。だからその地を離れた。生きていけるのかどうか、考える間はなかった。生きたかったから、行動した。ただ、それだけ。
想いだけでは生きていけない。力が要る。知識が要る。闇雲に藻掻いても、茫漠たる雪原では狼の餌となるしかない。それを理解するのにそれほど時間はかからなかった。
だから、彼がくれたのはマキという名前だけではない。命もだ。
サマンの民にとって、ノーアは敵の領域だ。子供とは言え、見つかれば唯では済まない。それでも、彼は助けてくれた。だから、サマンの子供を拾ったことで彼の立場が悪くなるなら、再び唯一人雪原へ向かって歩き出すのさえ躊躇う理由はなかった。
結果としてまた命を落としそうになったのは浅慮としか言いようがないが、当時のマキには他の方法を考えつかなかったのだから仕方ない。それに、敢えて彼の許を離れたことによって出会えたひとたちもいる。
『…何が知りたい?異国の言葉でも、地理でも、天文でも…私の知っていることならいくらでも教えてやるぞ』
そう言ってくれたひとと、長く旅をした。様々なものを見て、様々なことを知った。危険な目に遭ったことがないでもないが、そのひとと一緒なら怖ろしくはなかった。
――――ただ、楽しかった。
力が欲しいと、知識が欲しいと最初に思った理由さえ、時に忘れそうになるほどに。