第九話 眩惑の海から


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 シンジは、通された客室のベッドに座って掌を見つめていた。ラジオの音が低く流れていたが、内容はシンジの頭の中を素通りしている。
 火脹れのようになっていた掌には丁寧に薬が塗られ、包帯が巻かれている。先ほど、ユキノと呼ばれていた女性が処置してくれた。
 そして、「あとからおうちの人が来るから、ここで待ってて」と静かに告げて、退室して行った。
 おうちの人?
 言われたときには頭の中でうまく繋がらなくて、疑問を呈することも出来なかったが、よくよく考えると一体誰のことだろうと首をかしげたくなる。
 父親がやっていることを知りたいかと、小鳥遊ミスズが問うた。
 知りたかったから、ついてきた。
 でも、目にしたのはとても現実とは思えない光景だった。…もっと言えば、何が起きているのかさっぱりわからなかった。
 人工進化研究所の外壁と、建物の一部が損壊したことはさっきラジオでもやっていた。テロかも知れないが、原因は調査中という報道だった。
 …かもしれない、ではなく、これはりっぱなテロではないだろうか。ただし、実行した方法を証明できる人がいるとは思えないが。
 スコープもなしに狙撃をやってのけたり、溝を切っただけの松葉杖をレールに仕立てて磁力砲をぶっ放したり、どうにも説明のつかない瞬間移動をやってのけたり。…もはや、シンジの頭の中は飽和状態であった。
「…一体…何が…?」

***

 ナオキと呼ばれていた。あの時彼に言われたとおり、すぐ後ろにあった古びた水道のやや鉄臭のする水で手を洗ったところ、傷はそれ以上ひどくならずに済んだ。だが、火傷特有のひりひりした痛みは続いている。…こんなもの、どこでついたというのだろう。ほかでもない、彼の腕を掴んだときではなかったか。
 彼等の後ろ姿を呆然と眺めながら…シンジはその場に座り込んでいた。そうするうちにナオキが面倒臭そうにシンジをかえりみて、つかつかと近寄ってくる。シンジが思わずいざるようにして後ろへ退いたのを、さらに鬱陶しそうににらみつけて、言った。
『そこ退けよ。俺も手ぇ洗うんだから』
『あ、う、うん』
 ナオキが水道を捻ると、さきほどよりも幾分鉄臭の少ない水が勢いよく流れ出す。それで肘から先を洗い流すと、そこにもう傷はなかった。
『きみ、さっきまで怪我してたんじゃ…』
『あぁ!?いちいち喧しいぞお前!』
『ナオキ、自分がいいとこなかったからって八つ当たりしなーいの!』
 水がしたたる腕を振り回して水滴を払っていたナオキに、ライフルを担いだままのミスズが上品なハンカチを投げつける。
『やっ、八つ当たりなんかしてないぞ』
『ちゃんと拭きなさいよ、ってか、ハンカチぐらい持ち歩きなさい!』
『へいへい、ありがとさん』
 素直に投げつけられたハンカチで水気を拭うナオキ。
『小鳥遊さん…』
 もはや、学校にいたときとは全く別人にしか見えないミスズを前に、シンジは声を失うしかなかった。それでも何か言わなくてはと口をぱくぱくさせていると、ミスズは静かに言った。
『あなたのお父さんはね、私たちの大切な家族を人質に取った上に、私たちを皆殺しにしようとしてるの。…だから私たちは戦うの。生きるために。
 …ちゃんと知りたければ私たちと来るのね。うまくいけば、あなたが探してる人にも会えるかも知れないわよ』
 結局、ミスズの言葉に綱をかけて牽かれたかのようについてきてしまったのだった。

 かちゃり、というドアの音にシンジは弾かれたように背筋を伸ばした。
「…まあ!」
 現れた人物は、口を覆って驚きの声を上げたが…シンジはまた呆然とするしかなかった。
「…母さん?」

***

 なにせいろいろありすぎて、葛城ミサトもまた飽和状態であった。ユイが部屋を出たあとも、暫く呆然としていたに違いない。新たなノックの音で、ユイの退出に気づいたくらいのものだ。ユイとて退出の挨拶ぐらいはしたのだろうが、ミサトが上の空だったのだろう。
 そして次に訪れた人物は、さらに混乱に拍車を掛けてくれた。
「災難だったね、葛城さん。今、加持の奴には連絡入れたから、おっつけ来ると思うよ」
「…えーと」
 正直、彼をどう呼んでいいものか迷う。その様子を苦笑で流して、高階マサキは傍の椅子に掛けた。そのすぐ後ろに、どこかで見知った面差しの青年が立つ。誰だったろうか、とミサトが記憶を探りかけたが、マサキの言葉に中断された。
「ちょっとまだ身体がキツいもんでね。横着な格好で失礼するよ」
 右腕を吊った三角巾のほか、すこし寛げたシャツの襟元から包帯が覗いている。当然だ。ユイから聞いた話ではあれからそう経ってはいない。起きて動けていること自体、既に何かが間違っているとしか思えない。だが、ミサトが口にしたのは、全く別のことだった。
「碇のおばさまから、あなたたちが私を助けてくれたと聞いたわ。…とりあえず、礼は言っておくわね」
「何、半分はこっちの所為でもあるから礼には及ばんよ」
「ところで、なんであいつに連絡なの? あいつは私の保護者じゃないし、身元引受人に指定した記憶も無いわよ」
「他に連絡できる相手もいなくてね。…目下、第3新東京市はテロ警戒・・・・のため厳戒態勢なんだ。街中の空気がピリピリしてる。そんなところへ怪我人を放り出すのも問題だからな。迎えが来たら…悪いコトは言わないから、第3新東京なんて引き払ってどこかへ越した方がいいよ」
「戦争でもおこるの?」
「見方によってはそうなるのかな。俺たちは自衛行動と解釈するけどね」
「…『使徒』…」
「そう言う呼び方もされるようだ。あるいは、ネフィリムとか」
 『Nephilim』。リツコに渡されたメモが頭を過ぎる。
「あなたたちが、『死海文書』に予言された『使徒』…なの?本当に?」
「アダムに還り、人類を滅ぼす者、と記されているらしいね。身の丈数十メートルの化物を期待されてたようだが…まあ、実情は葛城さん、あなたが見たままの者さ。情けなくもこの程度の傷で死にかかる程度のね」
 ミサトはαエヴァに包囲された彼を見ている。この程度、とはいうが、普通の人間ならまずあの場から生還するのは難しい筈だった。
「よく…生きて…」
「そうだな、貴女が作戦指揮を執っていたら…俺の命はなかったかも知れない。…葛城ミサト作戦部長?」
「…全て承知、というわけ?」
「全てがわかってるわけでもない。さしあたっては作戦部長が何であんな最前線にいたのかについては皆目見当がつかないしね。だが俺たちとしては、貴女にはこのまま作戦部長を外れて…出来ればこの都市から早く離れて欲しい」
「どういうこと?」
「貴女に怪我をさせたくないからだ…といっても、まあ信用して貰えそうにないな。あなたがあのままネルフに居続ければ、俺達が殲滅される確率が跳ね上がるからさ」
「…!」
 さすがに、ミサトは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
「…私があなた方を殺す、と!?」
「気に障ったら赦して欲しい。…結果として、さ。今、貴女が俺達をどうこうするつもりがないのは十分承知しているよ。夏の件でも、貴女は心から子供達のために動いてたからね。
 ただ、貴女が好むと好まざるとに関わらず…『葛城ミサト作戦部長』が存在する時間軸では俺達の生存率が低くなるのは確かなんだ。ある意味で凄いことではあるさ。…自身で一体も使徒を斃すわけでもないのに、最終的には俺達を殲滅に追い込んでしまう」
 ミサトが露骨に眉を顰める。
「…ひょっとして、喧嘩売ってるの?」
「だから気を悪くしないでくれって。本当に、他に言葉が見つからないだけだから」
「何を言ってるのかさっぱりわからないわよ。未来予知でもできるっての?あなた方が『何でもアリ』なのはよく分かったつもりだけど…」
 マサキは小さく吐息して言葉を継いだ。
「『何でもアリ』というとかなり語弊があるな。別に未来が見えるわけじゃない。ごく近傍の平行世界が観測できるというだけのことなんだ。複数の平行世界を観測し、ここと似た条件を持った世界の動きでもって自分達の未来を予測する。その程度のことなんだよ」
 意図してか否かは判らないが、軽く胸の上に手を当てる。沈鬱な翳りが一瞬だけ、飄々としたおもてを過ぎった。
「そんなことが…」
「『死海文書』とやらを奉ずる者達は、そうして俺達の存在を知り、俺達を殲滅しようとネルフを創った。ただ問題は、その観測が遙か昔に行われたもので…その結果を文字に残したことで歪み、必ずしも自分達の世界の近傍で観測される事象とは一致しなくなっている。
 それでも文書の記述を信じているのがゼーレとネルフで、その誤謬に気づき、修正を試みているのがヴィレという訳なんだけど…葛城さん、聞いてる?」
「…何か頭痛くなってきた」
「まあ、無理もないけどな」
 マサキは暫く天を仰いでから、ゆっくりと言葉を続けた。
「貴女は見てしまったんだろう。本部の中で囚われている、君たちが『渚カヲル』と呼んでいた者の姿を…」
 ミサトはもう一度、顔から血の気が引くのを感じた。あの悲惨な光景を。
「…ええ…」
 嘔気を催すほど殺伐とした何かが、あそこには漂っていた。
 ヒトは大義名分があれば、いかに醜悪なこともやってのけてしまう生き物であると、いやな確認をしてしまった。
「…俺達の目的は二つ。一つは自分達の命を守ること。二つ目は君たちが『渚カヲル』と呼んだ彼をネルフの手中から取り戻すこと。ヴィレとは微妙に目的が違うが、とりあえず矛盾しないから目下は協力関係にある。
 お父上の件は気の毒とは思うし、先刻、碇夫人からヴィレの話を一通り聞いているとは思うが、ひとつ『彼』のことは俺達に任せて、ここは退いて貰えないだろうか」
「ひとつ、確認をさせて頂戴」
「俺の知る範囲のことであれば」
「2000年の南極で、本当は何があったの?」
 マサキが口を開くまでに、僅かな間があった。
「…事故。そうとしか言いようがないな。
 ヒトの手に落ちることを拒否したアダムは…自身を粉々に吹き飛ばすことでそれを成就しようとして…失敗した。結果として、多くの命を失わせることになった」
 その中にミサトの父が含まれていたのだと言外に告げられても、ミサトの胸中に怒りは湧いてこなかった。…むしろ。
「『失敗』なの?」
「失敗さ。あのひとは自身を跡形無く消し去ることを望んでいたんだ。まさか、木っ端微塵になった身体の僅かな欠片から…複製コピーを作られるとは思わなかっただろうな」
「…それが、あのエヴァだと?」
「そして、いわゆる17th-cellといわれるもの、さ」
「『アダム』は第一使徒と呼称されていたわ。…それが、『17th-cell』?」
「アダムの細胞から再生された組織は、彼等が期待・・した通りの巨大生物の遺伝子を持っていた。そこから生まれたのがエヴァの素体。だが、半ば現生人類リリンの形質を継承した細胞も採取されている。…それが『17th-cell』。
 ネルフはおそらく知らないことだが、17th-cellは1943年のドイツで、ヨハン=シュミット大尉の名でネフィリムの生成に手を貸していた人物の細胞から作られたモノだ。アダム本体とは異なる、しかし明らかに現生人類リリンのものとも異なるその細胞に、彼等は第十七使徒タブリスの名を振ったのさ。予言にないことだったからな。
 その時点であの連中が気づいてくれればよかったのにな。…死海文書の記述は、疾うにこの時間軸からずれてしまっていることに」
「そこから生まれたのが、彼…?」
「おそらくゼーレも半信半疑だったんだろう。現生人類リリンの形質を取り込んだ、アダム系の遺伝子なんて。取り込んだというより環境適応の結果として同じかたちを選択した、という可能性だってあるが…ともかくもそれは存在し、あまつさえ…アダムの魂を宿した。まあ、順当な結果だろう。
 現生人類が作った世界の中で、その形質を取り込み、紛れ、途方もない時間を生き続けてきた…シュミット大尉は、まごうことなきアダム自身だったんだから」
「ヒトの形をした、使徒…!」
「…今更、だろう?」
 ミサトは絶句するしかなかった。そう、それは目の前にいる。
「彼等は『汎用ヒト型決戦兵器』エヴァをつくる一方で、『制御可能な17th-cell』を模索した。彼等が目指す『サードインパクト』のトリガーとして利用するつもりだったんだろうが…アダムオリジナルが宿った『渚カヲル』はとんだ跳ねっ返りで全く制御不能。しかし魂のない身体は彼等の研究に供された…DISという格好の媒介を使ってね。…結果…」
「またも制御不能な…自律型AIを生み出した」
 その時初めて、マサキの後ろに立っていた青年が声を発した。表情を消し、感情を殺した声。だがそれは…!
 ミサトが硬直する。
「その、声…」
「まあそれについては、触れないでおいて貰えると有り難い」
 自分でも喋りすぎてしまったと感じたのか、マサキはやや苦々しげに遮った。
「…結局、17th-cellから作られた、『仕組まれた子供』がエヴァの開発にも何らかのかたちで利用されていることに関しては…ほぼ間違いなさそうだ。今回、それをイヤなかたちで確認しちまったがね。
 話を戻そう。彼等のいう『人類補完計画』は、現生人類リリンをガフの部屋へ戻すことで、完全な生命にすることらしいが…ガフの部屋の扉を開くための儀式が行われれば、地球上はもう一度有史以前からやり直すことになる。…それが、いわゆる『サードインパクト』さ。ゼーレの爺さん方はそれをなんとも思わないばかりか、望んでさえいた。
…が、ヴィレの見解は異なる。『サードインパクト』が引き起こされ、ガフの部屋が開かれたとしても…現生人類は救われない。救いはそこにはないのだというのがヴィレの立場なんだ。だからヴィレはネルフの制圧を目的としている。
 …ネルフ総司令・碇ゲンドウを殺してでもな」
 包帯の巻かれた額に手を当て、うつむいてしまったミサトにマサキはゆっくりと言葉を継いだ。
「貴女が何を考えてるか想像つかなくもないんだが…。あの坊やに関しては俺達に任せて貰えないだろうか。…夏の事件のときに不干渉を決め込んでおいて、今更と言われそうだが…こっちにも退けない理由が出来た」
 言葉はノックの音に遮られた。マサキの背後に立っていた青年がドアを開けると、ロングタイトのスカートにセーター、薄手のストールを羽織った女性が半身ほど覗く。
「お迎えよ。通していい?」
 マサキが態度でがえんじて、立ち上がる。残された青年はミサトに軽く会釈すると、ドアを大きめに開けた。
「葛城…!」
 マサキが退出した直後、どれだけ走ったのかというほど呼吸を荒げて、加持が転がるように部屋に入ってきた。ミサトの姿を認めて、先刻までマサキが掛けていた椅子の背につかまったままへたり込む。
「では、お気をつけて。葛城先生。服、汚してしまって申し訳ありません。着替えはそちらに」
 静かにそう言って、加持と入れ替わりに出て行く。その後ろ姿に、ミサトは思わず声をかけていた。
「…その声…まさかと思うけど…」
 ミサトの言葉に弾かれたように加持が顔を上げる。
 青年は一瞬だけ、その動作を止めた。
「…お大事に」
 丁寧だが、反問を許さない何かがあった。晩夏の海、荼毘の炎がミサトの意識をかすめる。違う、そうじゃなくて。…ミサトが言葉を探すその間に、彼は扉の向こうへ消えていた。

第九話 眩惑の海から