その男は、シーズンオフで閉鎖されている観光船の浮桟橋の先まで行って…座り込んでいた。
 刻一刻と暮色を強くする湖の水面は凪いでいる。
 立ち入りを制限するためのロープを超え、浮桟橋に足をかけながら、マサキは徐に口を開いた。
「俺はな、カヲル。正直言って、いまだにこういうモノを手にするのは怖い」
 マサキがそれに手をかけて初めて…上着の下に、革のホルスターがあるのに気づいて、カヲルが少なからず驚く。大昔のこととはいえ、一応正規の訓練を受けた割には…火器の携行にマサキはひどく抵抗があるらしい、という話を前に聞いたからだ。 モーゼルHSc1、手入れは良いようだがかなり年季がいっている。
「ミサヲあたりは身を守るために必要なら躊躇ためらうべきじゃない、と言うが…俺はどうしたって、殺すべきじゃない者を殺してしまうんじゃないかという恐怖から逃れられない」
「…誰か、殺したの」
「殺すつもりで近づいた」
 その答えに、カヲルはマサキがいつのことを言っているのかに気づく。欧州の研究所にいた彼等に一時関わりを持ち、その後研究所を離れたものの、戦時中の日本には帰国し損ねて欧州に滞在していた高階マサユキ博士。
「当時はまだ皆…自分たちに何ができるのかをよく解っていなかったから、こんなものにも頼らざるを得なかった。
 俺達が何者であるか…あの人は知ってた筈だ。研究者のほとんどはあの研究所ごと吹き飛んだが、わずかでも禍根は残せない。そう思った。…出会ったのは偶然だったが、殺すつもりで近づいたんだ、俺は」
 浮桟橋の先端から動こうとしない男から少し距離を取って、立ち止まる。浮桟橋といえど、故意に揺らしでもしないかぎりそう不安定なものでもない。
「…殺さなくてよかった」
 戦慄から解き放たれた、安堵の深い吐息。
「暢気といえば暢気、言ってしまえば坊ちゃん育ちのおっとりした人だった。
 人の裡の善なるものを信じて、そのつよさと弱さはまるごと受け容れるべきものだってのが根底にあって…まあ、科学者っていうより神父あたりが向いてそうな人ではあったな。俺達が何者なのか、あるいは気づいていたのかもしれない。だが、何も気づかないふりで俺達を受け容れ、この国へ連れ帰ってくれた。…だから、俺達の現在がある。
 俺は危うく、的外れな不安と猜疑から…この手で未来を握りつぶしてしまうところだったんだ」
 そう言って、モーゼルの銃把グリップから離した自身の掌に目を落とす。その掌を握りしめて、マサキは顔を上げた。
「だから俺がこれを持ち歩くのは、自分に対する戒めだ。その選択が、取り返しのつかない過ちに繋がりはしないか…それを常に問うための。
 だが今回…何かを択ぶのは、俺の役目じゃないらしい」
 マサキと同じ位置まで追いついて、カヲルはその意味を悟った。
 碇ゲンドウ・元ネルフ司令。湖面を黙然と見つめているその後姿にかつての不気味な圧力を感じさせる佇まいは既になく、まだ50代の筈だがもう70を越え、病み衰えた老人のようにも見えた。
 胡座あぐらと見えたが、実際には右膝があり得ない角度で折れ曲がっていた。
「ATフィールドが…身体の形を保てなくなってきてる…?」
「アダムとリリス…両系統の生命は共存可能なんだ。俺達ネフィリムの存在がそれを証明する。しかし別系統である以上、ただ一緒くたにしただけではいつか破綻する。生命としての活動状態を維持するにはアダムかリリス…始祖生命体による初期調整イニシアライズと、ATフィールドが必須ってことなんだろう。
 そうしてシュミット大尉は選択し、俺達ネフィリムを生成した。
 …おまえはどうする、カヲル」
 カヲルは思わず呼吸を停めた。

***

 高階邸のハイ・ティーは豪勢である。
 湾岸再開発地区から引き揚げてきた面々に、ふらっとカツミが加わり、深夜勤だというレミが一眠りする前の食事をたかりに来ていた。ダイニングとリビングを開け放ってテーブルが出され、買い出し含めて2時間弱という時間から考えると驚異的なメニューがずらりと並ぶ。
 レイは手伝いはしたものの、目の前で魔法が発動するのを見た気がした。いつ見ても鮮やかなものである。しかしその魔法使い…ユカリに言わせると、「こんなもん、経験と勘とお財布!」なのだそうだが。
「それにしても回り諄いよな。赤木博士が誘いを蹴るとわかってたら、向こうのアクションを待たずに連中まとめてふん縛っちゃえばよかったのに」
「旧ドイツ支部のどこらあたりまでが絡んでるかわからなかったしね。証拠しっかり抑えて、それと、この国の偉いさんの認識も改めといて貰わないと」
「ああ、赤木博士の待遇を改めさせるって話?」
「赤木博士の業績って、コトがコトなもんだからひどく限定された人達にしか知られてなかったのよ。あんな逸材なのにね。その上、ネルフに関わってたってだけで上層部うえは色眼鏡で見てたから、研究続けるのも結構大変だったはずよ。そのくせ、国外には出したくないと。全く偉い人ってのはいつの時代もどうしてこうワガママなのかしら。
 まあこれで、上つ方にもあの逸材をろくな研究費も与えずに大学で飼い殺してるとどうなるか判ったでしょうよ。…てか、碇博士がそういうふうに話もってくでしょうから」
「またあのキツネおばさんかぁ…」
「いーじゃないか、あのおばさんが暗躍してくれてるお蔭で、俺達で結構派手にコトを起こしても後始末に困ることないんだし」
「あのオバサンにしても、これで旧ドイツ支部の勢力はざっくり刈り取っちゃったじゃないか。トコトン損はしない人だよな」
「いやまさか、ドイツ支部の責任者自らが出張ってくるとは」
「なに?やっぱり夏の件で誰かさんにいいように踊らされて、ダミーの再起動実験とかやっちゃったもんだから後がなくなったってやつ?」
「ねーねー、旧ドイツ支部ってったって結局ネルフはネルフなんでしょ?まだ残ってたんだ?」
「ダミーシステム暴走事件の後で、早々に白旗あげてヴィレの管理下に入ってたんだと。そりゃ、キール議長からの指示は降りてこないし、あのおっさんと一蓮托生ってのもイヤだったんじゃないの?」
「まーでも醜いよ。人類を守る組織とか言いながら、敵が居なくなった途端に四分五裂、国家間の事情持ち込みまくりだもんな」
「敵じゃないもん!あたし達、迫害されてるただの少数民族マイノリティだもん!」
「いやこの場合、敵ってネルフのことじゃないの? …まぁでも超がつくぐらいの少数だよな。保護区とかもらえないのかな?」
「要らねーよそんなもん。閉じ込められるのも隔離されんのも御免だ」
「そだねー」
「いえてる」
「それにしてもタカミってば、やっぱ大したキレっぷりだったな。辺り一帯の車と信号に干渉かけて、結局あの周囲半径5㎞ぐらいは大渋滞だったって? 結局、救急ヘリに偽装してたのがホントに救急ヘリになっちゃったってオチだろ?」
「誰かさんが偉い人の腕を床ごと斬り飛ばしたもんねー」
「あ、そーいうこと言う?ダース単位でおっさん達の手足に穴開けたの誰よ?」
「ヘカートで人体粉砕するより穏当だもん!」
「大渋滞の原因作った凶悪ハッカーは『ちゃんと減速して、路肩止めて、ハザードまで出させた』って威張ってたぞ」
「結構あるんだねえ…外部コントロール可能な車両って…。あんなの、SF映画の話かと思ってた」
「いや、機構システム上の理屈としてはできるらしいけどさ…フツーにそんなもん、やっちゃう奴はそうそういないって」
「同時進行であのフロアにあったスマホ全部ハックして、付属してるWEBカメラで状況認識とか…そりゃ可能だけど、無茶苦茶よ。普通はもっと時間かけてやるもんだわ」
女教皇ザ・ハイ・プリーステスもカタナシだねー」
「大体ね…ハッキングの技術的なウエイトってそれほど大きいもんじゃないのよ。成功するかどうかは結局どれだけ人の心理の裏を読むか、どこにセキュリティの穴があるか探り出す嗅覚にかかってんだから! …あの子タカミ、人畜無害で底抜けのお人好しなフリして実は結構人が悪いわよ。
 今回、イロウルに大量の分身エイリアス作らせて物凄い荒業やったらしいけど…AIから分離するときにきっと自分の黒い部分をみーんなあのAIイロウルに放り込んだに違いないわ。しかもそのAI相手に恫喝とか…おー怖い」
「…んで、そのハイパー猫かぶり凶悪ハッカーはどうしたの?」
「あ、タカミなら救出成功したお姫様と、スペシャルガードの滅茶面白い姐さんを送っていったよ?」

***

「いや、悪いわねー。たっぷりご馳走になっちゃって♪ あ、そこの角を右ね」
「あ、はい」
 CX-3のセンターパネルにマンションの位置は明瞭に出ているが、後部座席で半ば目をつぶっているミサトへ、タカミは律儀にそう返事した。随分と日が長くなった。よく晴れているし、5時をだいぶ回っても前照灯ライトは要らない。
「ひょっとしてミサト、あなた紅茶の中に何か入れて飲まなかった?」
 助手席のリツコが冷静に指摘する。ミサトはもとよりテンションの高い人物ではあるが、これは異常だ。タカミが僅かに声を低めて言った。
「…多分、イサナに付き合ったんでしょ。こないだミサヲさんがロイヤルサリュート2を送ってくれてたから、イサナは開ける機会を狙ってたみたいだし…。どっちが付き合ってどっちが付き合わされたかは微妙ですけど」
 昨日のことだ。偶然の出会いを僥倖に、リツコに今日のプレゼンへミサトを伴うよう勧めたのはタカミである。相手の不審を買わず、しかし万一荒事になった場合のことを慮ったのだ。結果として十分荒事になったし、ミサトがいたことで撤退は随分楽だったとイサナは言っていた。
 ただ、そのミサト自身は初手で自由を奪われたことを非常に口惜しがっており、「あのくそ親爺、もう2、3発ブチこんでやりたかった」と荒れていた。あるいは宥めるためというより静かにさせるために寄ってたかって酔い潰したというのが本当のところかもしれない。
 ミサトの酒量にまともに付き合いきれるのはイサナぐらいのものだろうが、タカヒロあたりが面白がって脇から結構な量をそそいでいた筈だ。
「榊君は呑むの?」
「僕は掛け値なしの下戸です」
「それは残念ね」
「…はい?」
「何でもないわ。そこよ。エントランスの前に車寄せポーチとロータリーがあるから、そのまま進入しても大丈夫」
「…慣れてますね」
「付き合い長いから」
 リツコがくすりと笑う。
「…んじゃ、今日はお疲れさま!」
 車を降りたミサトがぴしりと敬礼して踵を返すのを見送りながら、タカミが控え目に言った。
「送らなくて大丈夫でしょうか」
 些か千鳥足に見えるのが、少し気になる。
「ここまで送っとけば、最悪途中で転がっててもあとで加持君が回収するでしょ。大丈夫よ」
 さらりと断言するリツコ。
「…ごもっとも」
 タカミは笑って、車を発進させた。

***

 浮桟橋の端に座すゲンドウのすぐ傍には、つるりとした断面を持つ片腕が転がっている。ジオフロントで切断された側の腕だ。レミの雷火で焼き切られた痕は既にないが、反対側は溶けかかった皮膚の下から肉と骨が覗いていた。
 微かな苛立ちを感じながら、カヲルはそれを極力自分の中で押さえつけて口を開く。
「…何がしたかったんだ、あなたは。ユイ博士はあなたを救おうと懸命だし、シンジくんは父親を辛抱強く待っている。あなたを必要とする人は、すぐ傍にいたのに。
 こんな場所まで、あなたはなにを捜しにきたというんだ?」
 いびつな塑像のような身体が、わずかに揺らぐ。
「何故去ったのか…俺には解らなかった。だから、ユイが理解しようとしたものを…理解しようとした。しかし解らなかった。何故戻ったのかも。
 俺が傍にいると…ユイを、シンジも傷つけるだけだ。
 だから、何もしない方がいい…」
 枯れきった声だった。
「…怖かった?ユイ博士や、シンジくんが?」
「自分が人から愛されるとは、信じられない…私にそんな資格は無い」
 抑揚に乏しい答えは、思わぬ鋭さでカヲルを刺した。
『誰かを好きになるのに理由は要らないよ。僕はそう思う。
 僕達は君が大好きだよ、カヲルくん。そして、レイちゃんもね。出来るなら、君達に幸せになって欲しいと思う。それじゃ駄目かな?』
 …同じなのか、自分と。
 カヲルは天を仰いだ。まだネフィリム達との距離をはかりかねていた去年の夏。戸惑いを見透かしたようなタカミの言葉が、まだ素直に入ってこなかった。…それは、自身が周囲から与えられる好意に値する者だと信じられなかったからだった。
 その感情に、本来理由も、価値も、資格も要らない。そんな当たり前のことに気づくまで、随分と長い時間がかかってしまったけれど。
 言えた義理ではない。自分カヲルもそうだった。それでも敢えて、カヲルはそれを口に出した。
「…ただ逃げてるだけなんだ。自分が傷つく前に世界を拒絶している。人の間にある、形もなく、目にも見えないものが、怖くて…心を閉じるしかなかった」
「その報いがこの有様か…済まなかったな、ユイ…シンジ…」
 塑像はゆっくりと後方へ倒れる。その動きで、この男の眼を周囲から遮り続けた眼鏡が外れて桟橋の上に転がった。…浮桟橋が揺らぐ。
 疾うに動かなくなっている四肢は、倒れた衝撃で胴体と永遠に離別した。鈍い水音とともに、もげ落ちた右腕が凪いだ湖面に波紋を描く。
「…択ぶつもりはあるか」
 眼鏡を拾い上げて、カヲルは問うた。
 その問いかけに、碇ゲンドウは暮れかけた空をただ見上げ…細く息を吐いて沈黙を守った。
 まだ、間に合うかもしれない。1st-cellは定着しているとはいえ、個体を維持するATフィールドがうまく機能しておらず、個体の形を保つ事ができなくなりつつある。一旦『核』に戻して安定させ、再生を誘導することができれば、この男をながらえさせることも不可能ではない筈だ。…だが。
『ただ存在する、ということは、記憶がそこに在る、というだけに過ぎない。存在を続けるために、活動をする。存在を脅かす全てのものを排除するために、情報を集め、手段を講じ、実行に移す。その動機を維持する機能を、現生人類リリンは「魂」と呼んではいないか。
 ――――最終結論。生きようとする意志。それこそが「魂」』
 赤木母娘が産みだしたAIが思索の末に導き出した答え。…それは一面の真実であると、カヲルは思う。
 生きたいという願い。この男にはそれがもう無い。…『核』を形成するだけのエネルギーが、既に無いのだ。
 カヲルがもう一度天を仰ぐ。ぱしゃり、という水音が…かすかであるにもかかわらず、強い力でカヲルの鼓膜を打った。
「…お前が泣いてやることはない」
 かけられた言葉の、常になくいたわるような調子トーン
「泣いてなんかいない」
 仰向いたまま…即座に、カヲルは言った。この男のために流す涙など持ち合わせてはいない。
「そうだな…お前は泣いてない」
 虚勢と取られたのは明白だったが、カヲルはそれに何も抗弁しなかった。マサキが橙赤色の水溜まりの中から黒いコインパースを拾い上げる。
「でも、哀しいんだ。伝えたいことが、伝わらなくて…知られたくないことが、伝わってしまうことが。
 お前今まで、嬢ちゃんのことしか考えてなくて…他者が自分をどう認識しようが全く無頓着だっただろう。お前達の場合、究極的には別にそれで何も問題ないのかも知れんが…お前達は今この世界で生きていくことを選択した。世界との関わりを棄てないと決めたなら、それと無関係じゃいられない。
 それが解ってきたんだ。…違うか?」
「…まだ、よく解らないよ」
「そこで否定に傾かないだけ、成長したってところか。…ほら、寄越せ」
 それが、握りしめていた眼鏡のことであると気づいて、カヲルは掌を開いた。存外力を込めていたのかも知れない。わずかに、歪んでいた。マサキは先刻のコインパースと眼鏡を背のワンショルダーバックに入れていたらしいチャックシール付のビニール袋に落とし込み、封をした。
 この光景を予測していたような準備ではあった。
「…ユイ博士には俺から報告する。帰るぞ」
 マサキが踵を返した。追従したカヲルが規制用のロープを越えたとき、大きな水音がして振り返る。
 それまで、微風が起こす細波さざなみ程度しかなかった湖面に、突如として人の身長に倍する高さの波が立ち上がり、浮桟橋の上に残ったものを洗い流した。はっとしてマサキを見たが、マサキは足を止めはしなかった。
 水を被ってしまった以外、何事もなかったような浮桟橋が、夕闇の中で揺れながら佇む。
 カヲルもまた、踵を返して歩き始めた。

――――Fin

  1. モーゼルHSc… 1937年にドイツのモーゼル社で開発された、ダブルアクション式のセミオートマチック拳銃。最初期においてはドイツ軍将校用。
  2. ロイヤルサリュート…本来はシーバス・ブラザーズ社によって、女王に敬意を表すために特別にブレンドされたウイスキーのこと。英国海軍の王室用皇礼砲(ロイヤルサリュート)21回にちなみ、21年以上の原酒を使用。でもこの場合、現在ミサヲちゃんが管理してる蒸留所の21年モノウイスキーを言っている。ミサヲちゃんが相続したお城にはウイスキーの蒸留所が付随していて、値段のつかない希少品を生産してるらしい。