「そういうわけで、復帰します」
 研究室。メンバーに自家製のマドレーヌを振る舞って、榊タカミは一礼した。
「とりあえず進級できることになりました。次年度からはご迷惑をかけないようにしますので、これからもよろしく」
 深く事情を知らないメンバーからは「おー、これからもよろしくなー」などと気楽な声が飛んでいたが、伊吹マヤは硬直したまま一言も発せられずにいた。
「なんだか予算も今までより多めに貰えるみたいだし、調子の悪い器材は交換できそーですねえ」
「昨日のプレゼンのおかげでしょ?さすが赤木さんだ」
 そんな声が行き交う中、目の前にふっと綺麗に包装されたマドレーヌを置かれて、マヤが思わず竦み上がる。
「はい、伊吹さんの分」
「あっはいありがとうっっ」
「…どうしたの、声が裏返ってますけど」
「いえ、何でも…」
 平静を装いつつキーボードに手を走らせるが、文字列は全く意味を成していない。
「そういえば、伊吹さん。今度のこと、ありがとうございます」
「…は?」
 言われたことが巧く繋がらなくて、マヤの手は完全に止まってしまう。口をぽかんと開けたまま思わずまじまじと榊タカミの穏やかな微笑を見上げた。
「伊吹さんでしょ。僕が留年しそうって話、リツコさんにしてくれたの」
 ざあっと音がしそうな勢いで、マヤの顔から血の気が引いていく。
「えっ…いやあの…えっと…」
「心配かけちゃって済みません。危うく、いろんなところに迷惑をかけるところでした。…いやまあ、もうかけちゃったと言えばかけちゃったんだけど…一応取り返しはついたし。ああやって一度バッサリ出禁にでもして貰わないと、なんだか歯止めが効かなかった。
 ありがとう。それでもって、ごめんなさい」
 もはや、開いた口が塞がらない。底抜けのお人好しとは思っていたが、ここまで来ると螺子ネジが抜けているどころのさわぎではないだろう。
 年末の帰省以来、以前ならマヤのところに来ていた仕事のいくつかが彼に回っていることには気づいていた。それが面白くなくて、暫く彼がここに来なくなればいい…そんな気持ちで、聴いた噂を元に上司への注進に及んだのである。
 別に永久追放になってしまえと思っていたわけではないし、目論見としてはそこそこ当たったのだ。が、こんな風に言われては…マヤの立場は全く無い。
『これじゃ私、ただイヤミな上に間抜けなおつぼね様…』

 その直前、タカミが早速別のメンバーに呼び立てられてマヤの席を離れたので、マヤが静かに落ち込んで、涙ぐみさえするのを気づいた者は…誰もいなかった。

***

「あー、面白かったっ!」
 昨夜女子会パジャマパーティで盛り上がった面々がゆるゆるとダイニングに降りてきた時。レイを迎えに来たはいいが見事に待ちぼうけをくったカヲルはイサナの午前のお茶イレブンジィズ1に付き合っていた。
「今起きたのかい?」
 カヲルは思わず時計を見直した。もはや朝食というよりブランチである。
「まあ集まるといつもこんなものだ。皆一緒に住んでいた頃はともかく、今は分散してるからな」
 そう達観するイサナが朝刊を丁寧に折り畳んで立ち上がる。いつもならこの場面でくるくると動き回るユカリも、さすがに起き抜けでぼんやりしているからだ。
 サラダやヨーグルト、パンといった基本的な準備はできているからあとはめいめいで食べたいものをよそって席に着く。パンをそれぞれの焼き加減に会わせた時間でトースターに放り込む。イサナがすると言えば紅茶の準備ぐらいのものだ。
「…何をそんなに話すことがあるんだろう」
「そこは突っ込むな。泥沼になる」
 カヲルの言葉に、席に戻ってもう一度新聞を広げたイサナがわずかに引き攣った口許をティーカップで隠す。これは酷い目にあったことがあるな、と察したカヲルは、それ以上の追及を放棄した。
「…結局、1st-cellは芦ノ湖にバラ撒いた格好か」
「そうなるね。でも、どうにもなりはしないと思うよ」
 カヲルは静かに言った。
「あるいは俺がジオフロントで奴の腕…移植片を切り落とさなかったら、奴はもう少し生き延びたのか?」
「…気にしてるの、イサナ?」
「気にしていないと言えば嘘になるか。正直、あのときは…理屈よりも感覚的な嫌悪に駆られていた気がするからな。その結果だとすれば、あまり気持ちのよいものではない」
「切り落としたそのことよりも、感情で行動したことについて釈然としないって?」
 イサナらしいといえばイサナらしい感想だ。
「僕には解らない。ただ、切り落とすまでもなく1st-cellはあの男の中にある程度の割合で定着していたんだ。移植片の有無がそれほど関係したとは思えないよ。
 確かなのは…生きようとする力をなくした生命は、あまり長く生存できないってことだけだ」
 あんな男でも懸命に助けようとした碇ユイ博士や、父親の帰りを辛抱強く待っていた友人シンジの心中を思えば、結果として何もできなかったことが悔いにならない訳ではなかった。
『なるべくしてなった。そのことに対してうだうだ考えてもろくなことにはならん。忘れろとは言わんが、気に病むのはやめとけ。お前には気にかけるべきことは、他に沢山あるだろう』
 昨夜カヲルをマンションの前に降ろして、マサキはそう言った。正論がいちいち耳に痛いのだが、その時は…口答えをする気にはなれなかった。
 そのマサキは、結局昨夜ここに泊まったという。今日は外来だと言って普通に出勤していったらしい。らしい、というのはカヲルがここに到着したときには既に姿がなかったからだ。
「それはそうと…サキって見かけによらず丈夫というか…頑健だね」
 無茶苦茶な山中行だったにもかかわらず、結局それほどこたえた様子がなかったのを思い出してカヲルが言うと、イサナが低い笑声を立てた。
「頑健…かね。まあ、オンとオフがはっきりしてるのは確かだな。スイッチ切れてるときはそうでもないぞ、あれで。昨夜ここで休んだのだって、多分朝起きられるか今ひとつ自信がなかったんだろう。まあ、サキはそんなことおくびにも出さんがね。今日だって普通に起きてきたし」
 何だ、あれでそれなりに疲れてたのか。そう思うとなにやら騙されたような気がしてやっぱり微妙に腹が立つ。
「それはそうと、帰るなら送るぞ。俺もこのあと出る予定があるから車を出そう」
「何か用事?」
「サキから聞いたかもしれんが、俺は今、いくつか家の保守をしてる。そろそろ暖かくなるし、例のコテージも風通しする頃なんでな」
「ああ、あの家…」
 昨夏の騒動を思い出す。…あの頃から、また自分は変われただろうか。
「…ありがとう。せっかくだけど、今日は少し暖かいから…レイと一緒に歩いて帰るよ」
 まだ…ぽかぽか陽気とは言えないが、散歩には悪くない天気だ。風の中の微かな春の匂いを探しながら、ゆっくり帰ろう。
 ミスズやユカリと談笑しながらブリオッシュにぱくつくレイを遠目に見遣って、カヲルは微笑んだ。

――――――Fin

  1. イレブンジィズ…朝の仕事が一段落した頃、リフレッシュのために楽しむ短時間のティータイム。クッキーとかビスケットあたりがお供。