2012 A.D.――――
EVER AFTER
旅人の島
昨日と同じ今日、今日と同じ明日。それが当たり前だった日々は、突如として終わりを告げた。未曾有の大災害は世界の在り方を大きく変え、人口は激減し、人類は滅亡の危機に瀕した。
それでも辛うじて人が生きていける環境は残った。住む街も、家族も喪ったのは加持だけではない。皆、生きるのに懸命だった。数年は世界全体が紛争地域だった。
生きるために、たくさんのものを捨てた。それでなんとか、生き残ることができた。
そうして生き残った加持リョウジの裡にあったのは、ただ…疑問だった。
何が起こったのか、それが知りたかった。隕石の落下による大災害という説明が偽りであるという噂には、その後の世界各国の動きを見ていればそれなりの信憑性があったのだ。
災害は予測されていた?
そんな中で、世界の復元を試みている機関があるという噂を聞きつけた加持は、伝手をたどってその機関の主幹施設とやらへの物資輸送船に潜り込むことに成功した。魚の一匹はおろかプランクトンさえ棲息しない海を、かつての姿に復元できるというなら…こうなってしまった理由もわかっているのではないか。そう思ったのだ。
――――全ての生命が姿を消してしまったセカンドインパクト後の海は、血を思わせる程に赤い。
当然、ヒトの立ち入ることのできる領域ではない。海上移動は基本的に航空機だ。物資輸送に使用される船舶の積み下ろし作業は防護服を着て行われるし、乗員は出港から入港まで完全にシールドされた船室にいなければならない。古い歌にあるように、海風に当たるなどもってのほか。
今、加持のいる船室も重厚なハッチで閉ざされていた。船外モニターなどという気の利いたものはない。壁面に設置された、無愛想な許可サインが点灯するまでひたすら船室内で逼塞していなければならない。そして外へ出るときには、宇宙船よろしく気閘の中で防護服を纏ってから、おもむろに扉が開くのを待たなければならない。
そのはずなのだが…。
不意に頭上のハッチが軋み、場違いに剽げた声が降ってくる。
「おーい、そろそろいーよん♪」
栗色の髪、碧眼。赤いフレームの眼鏡はどうやら伊達らしい。黙って立っていれば十分に『凜とした美貌』で通るのに、言動があまりにも奇矯なものだから美少女というより妙な娘、という印象に落ち着いてしまう。
真希波マリ・イラストリアス。どう見ても高校生くらいにしか見えないが、この艦で一番高い地位にある人物である。一体何者なのかは今以て判らない。だが、『世界の復元を試みている組織』とやらに深い関わりを持っているらしいのだ。加持がそれを嗅ぎ回っていることを何処で知ったものか、向こうから卒然と声をかけてきたのだった。
『加持リョウジさん、だよね。いいよ、丁度用事もあるし案内したげる。あなたの知り合いもいるしね。…ただし!このことは他言無用で。いいかな?』
罠という可能性も考えなくはなかったが、興味が先に立った――――。
タラップを上がって気閘へ入る。ここに防護服が吊されているのだが、マリは立ち止まることなく、外へのハッチを開いた。どうやらそもそも半開きになっていたらしい。
「あ、おい、まだ防護服…!」
流石に加持が慌てる。だが、流れ込んできたのは懐かしい匂い。ハッチをくぐり甲板へ出ると、この十余年見ることの叶わなかった景色がそこにあった。
群青の海に囲まれた、小さな島。初めて見る筈なのに、既視感のある光景。
そして…潮の匂いだ。潮風が頬を撫でていく。その感触が信じられなくて、加持は思わず自身の頬を撫で回した。幻覚でも何でもない。間違いなく青い海、潮の匂いのする風。
「此処は…!」
絶句するしかなかった。それは、喪われた景色の筈だった。セカンドインパクトで喪われた本物の海だ。
「Herzlich willkommen…〝Die Insel des Reisenden〟」
マリが甲板上でくるりと身を翻し、荘重に一礼してみせる。座長が緞帳の前で開幕の挨拶でもしているかのような芝居がかった動作だが、顔を上げた時にはまるきり悪童の表情だ。
「〝Die Insel des Reisenden〟…〝旅人の島〟?」
いまだ、此処が何処なのかも知らされていないから見当のつけようもないのだが、聞いたことのない島だ。まあ、本当の名前かも怪しいが。
「そ、旅人たちの島。凄いでしょ、本当の海だよ? …ただ、ここは復元されたわけじゃなくて、保存されてたんだけどね」
「保存、だって…?」
「詳しくは、着いてからだよ」
そういう台詞で加持の反問を遮り、マリは舷側の柵に伸び上がって陸へ向かって無邪気に手を振った。
港には他にも数隻のクルーザーや、小型ながら外洋も航行可能な輸送船が停泊していた。
しかし人影はなく、確かに人の気配はするのに故意にその姿を見せないかのような微妙な不気味さがあった。大体、先刻マリは陸へ向かって手を振っていたではないか。おそらく彼女は誰かを見ていたはず。
そのことに対する疑問を呈する暇もあらばこそ。下船するなりさっさと歩き始めた彼女について、どのくらい歩いただろうか。
「『国際環境機関法人・海洋生態系保存研究機構』…?」
木蔦を纏った煉瓦塀に囲まれた、古風な洋館。荘重な門柱に掲げられた真鍮製の重々しいプレートを前にして…加持は必死に頭の中で情報を整理していた。
「ああ、その表書きはあまり気にしないで。何事にも形式って必要でね、何か名前つけないと諸々めんどうなんだ♪」
煉瓦と枕木を敷いたアプローチを抜けた先に、石造りの柱で支えられたポーチがある。その向こうに鎮座するのは古風な鋳鉄のドアノッカーまでついた重厚な扉だ。
ノッカーのモチーフは…おそらくイルカか鯨。
加持の当惑を一切斟酌することなく、マリはそのノッカーで2回ほどノックした後、当然のように扉を開けた。…そもそも、鍵はかかっていないようだ。
「おーい、お客さんだよー」
吹き抜けの玄関ホールに声が反響した。天窓も設えられていて決して採光は悪くないが、周囲に繁茂した木々の所為か昼間というのにその屋内は仄暗い。
深閑とした中に、その声はよく通った。しかし数秒の間、リアクションはなかった。
「留守じゃないのか」
「いやいや、それはない」
マリは笑って、構わず二階へ続く階段の欄干に手を掛けた。
「没頭しちゃうと時間忘れるひとたちだからねー。ま、私だって本読み始めたら雑音入らなくなっちゃうから、おんなじなんだけど」
全く遠慮なくその階段を昇りはじめたマリについて行くべきかどうかを、加持は一瞬だけ思案した。だが、事ここに至って躊躇しても始まらない。
だが、加持が三段と昇らないうちに…吹き抜けのホールから見える二階の廊下、その扉の一つが開いた。
「相変わらず騒々しいな?」
降ってきたその声を…加持は知っていた。
「聞こえたんなら返事ぐらいしてよね」
「誰が客だ。呆れて開いた口が塞がらなかっただけだ」
当初、天窓から落ちる逆光で…加持の位置からその顔ははっきりしなかった。ただ、存外小柄であると判った程度である。にやつきながらマリが切り返す。
「いや、ちゃんとお客さんもいるってば。連れて行くよって連絡したでしょうが。…全く、見かけによらず短気なんだから…」
扉を開けた人物も、加持の存在に気付いたらしい。そして、動きを停めた。
「…加持?」
加持の歩みは、マリとその人物の会話の途中で既に停まっていた。
大概のものには驚かない自信はあった。それでもこの時、加持は目の前の状況を整理しそこねた。
旧知といっていいはずだった。それでも、そう断ずることができなかった。何故なら、その姿があまりにも変わっていなかったからだ。
「高階…? 高階マサキか…?」
ようやく押し出した自分の声が疑問形に歪むのを、加持は止められなかった。声に出しておきながら、確信ができなかったのだ。高階に違いない。その色の淡い髪が少し伸びただけ。あの日、いつだって微風と共に潮の匂いがする、海の見える小さな街で別れた少年のままの姿がそこにあった。
――――あれから、十年以上が経過しているというのに。
加持の当惑を見遣り、高階が苦笑を浮かべた。
「…久し振りだな、加持? そうか、おまえのことだったか…」
「ではその男が、例の監察官か」
高階が出てきた扉の向こうから、もう一人姿を現す。かなり長身…おそらく現在の加持よりも背が高いが、シルエットがスレンダーなためか巨漢というイメージはない。
「そだよ♪ NERVの監察官で加持…リョウジさん。ゆくゆくは主席なんじゃないかなー?こーんなダラシナイ風体だけど、押しも押されぬ出世頭!…そーいえば、サキのお友達みたいだねえ」
「…そうなのか?」
長身の男が高階にそう訊ねると、高階が再び苦笑を浮かべ…あっさりと踵を返した。
「中学の同級生だ。…とりあえず上がって貰え。廊下で立ち話もなかろう」
壁という壁が書棚で埋め尽くされた部屋の中央に、申し訳程度に応接用と思しきテーブルと椅子があったが…そことて平積みの本に半分程度は占拠されていた。高階とその男でとりあえず4人が座れるだけのスペースを空ける。
「鯨吉イサナだ。機構の責任者をしている。
NERV監察官・加持リョウジ。我々が君に接触した理由を伝える。さしあたっては現状の情報の共有。そして今後の提携の可能性について折衝したい」
加持は流石に鼻白んだ。直球もいいところだ。こういう場合、当たり障りのない会話で肚の探り合いというのが通り相場だが、この人物はそういう手間を一切省いてきた。
「…共有というなら、そちらがどういう立場にあるのかをまず明確にして貰いたいものだな」
注意深く、そう返答すると…鯨吉イサナと名乗った男は露骨にその端正な眉目を顰めて一旦ソファの背に身を預けた。
「…マリ? お前どういう説明をしてここまで連れてきた」
「えー? やっぱりサプライズって必要じゃない?」
よく冷えたアイスティのグラスをストローで掻き回しながら、マリがへらっと笑って応じる。
鯨吉は憮然として小さく嘆息した。
「真希波マリ・イラストリアス!」
「はいな♪」
小気味よいほど良い返事だ。だが、それを受けたほうはげんなりとした表情を隠しもしない。
「…余計な茶目っ気は出さんでいい、この時間のないときに」
「あ、イサナひどーい。私としてはぁ、余計な人間に話を聞かれないようにって…細心の注意を払ったつもりなんだけどな?」
「莫迦抜かせ。輸送艦の中でいくらでも時間はあったろうに…この問題児」
「いや、折角のクルージング…海風を楽しむってのが基本でしょう」
「海風ねえ。お前の言う〝客〟は船倉に押し込めてたんだろうが」
高階が苦笑する。
「や、それはしかたないにゃ♪」
叱言は無益と断じたか、鯨吉は加持に向き直った。
「…失礼した。質問を変えよう。君は何処まで聞いている?」
色彩は判然としない。だが深い色の双眸が真っ直ぐ射るように加持を見た。距離はそのままなのに、ぐいと詰め寄られた気さえした。
「俺が聞いたのは…〝この世界の復元を試みている研究機関がある。興味があるなら接触の仲介をしてもいい。ただし他言無用〟…と」
下手な隠し立ては無意味な気がした。だからそのままを口にした。だが、加持の返答を聞いた鯨吉は頭痛を堪えるような表情で嘆息し、自身のこめかみを指先で押した。隣で高階が小さく笑う。
「要するに、最初から皆…俺達に説明しろということだな?」
「そうとも言う? でも、信用できると思ったからこそ…連れてきたんだけどな」
「…判った、もういい…」
その時、部屋の一隅…これも時代のついたティーテーブルに据えられた固定電話が鳴った。唐突な音であったにもかかわらず、流れるような動きで立ちあがった高階がそれを取る。短いやり取りがあり、高階は送話口を片手で押さえて振り返った。
「イサナ、ナオキから。積荷のことで」
鯨吉が立ち上がる。高階は受話器を渡しながら、短く言った。
「積荷を優先してくれ。その間に…加持には俺から説明しておく。この〝島〟のことも」
「頼む」
躊躇はない。かくも短い言葉で総てを了解したようだった。
鯨吉イサナは傍の書机の上にあったタブレットを引き寄せ、受け取った受話器を耳に当てて話し始めた。途端に英語に切り替わる。加持はそれほど英語にも不自由しているわけではなかったのだが、低い早口だったから断片的にしか聴き取れない。
するとマリがふっと顔をあげて嬉しそうに言った。
「ふむ、そんじゃ私はさしあたって用なしだにゃ?」
「そういうことだな。好きにしろ。…加持、来いよ。状況を説明する」
「んじゃ、出航まで自由時間ってことで。加持さん、またね♪」
「あ、ああ…」
軽く手を振ってひょいひょいと出て行くマリを見送った加持は、高階の声にあらためて振り返った。
「外へ出よう。…とりあえず、見てもらうのが早いだろう」