郵便受けが立てた音に、ふと目を覚ます。
 彼は自分がうたた寝をしていたことに気がつき、ゆっくりと立ち上がった。
 午睡にはうってつけの陽気であり、もう少し微睡んでいたいような気もする。
 でも、予感がしていた。
 きっと、レイからだ。


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「I wish your happiness」

ポストカードと水曜日


 

 蓋を開けたままだったヴァイオリンケースを閉め、サイドボードの上に置こうと持ち上げ・・・かけて、できなかった。つい癖で、片手で持とうとしたからだ。
 ことり、とケースがテーブルにぶつかる。苦笑して、彼は左手を添えた。
 持ち上げてしまえはなんということはない。定位置にケースを置き、彼はサンダルをひっかけて庭に降りた。
 小さな庭を横切り、門扉に取り付けられた郵便受けに手を突っ込む。
 案の定、葉書エアメイルが一枚。
 彼は、穏やかに微笑んだ。
 数日来の雨が上がり、小さな庭の草花は一斉に背を伸ばしている。
 雨があがって良かった。あれ以上降り続けられたら、この間植えた苗がみんな倒れてしまう所だった。
 ―――――――――それに、雨は嫌いだ。

 

□*□*□*□

 

 ひどい事故だった。
 居眠り運転で中央分離帯に接触・横転したタンクローリーに、10台近い車が巻き込まれた。
 演奏旅行の帰りだった彼と、仲間達。そして空港まで迎えに来ていたレイも。
 数人の死者が出た。夜、そして雨。高速道路の事故は悲惨だ。
 コントラバス奏者のトウジは左大腿部以下が完全に挫滅、切断となった。
 チェロ奏者のシンジは右の脛骨のほか、肋骨数本を折り、悪いことには肺を傷つけて一時は危篤状態にまで陥った。
 レイは肩から腕にかけて火傷。ビオラのアスカは身体の傷こそ軽微で済んだものの、軋る音全てに過敏に反応するようになり、音楽をやめた。
 そして、事故直後皆の中で一番軽症と思われた彼―――――カヲルもまた、この事故を境にヴァイオリンをあきらめざるを得なくなった。
 中心性頸髄損傷。画像所見は認められなかったが、両上肢の不全麻痺等からそう診断がついた。
 通常の頸髄損傷と異なり、上肢に強く麻痺が現れる。下肢に関しては通常の生活に不自由ない程度の筋力が保たれるが、長時間の立ち仕事は困難だった。
 今のカヲルの握力は、左右とも10kgに届かない。
 楽器が持てないとは言わないが、一曲演奏する間ももたないのだ。
 ヴァイオリン奏者としての渚カヲルの生命は、終わった。

 

***

 

『別に足一本くらいなくなったゆーて・・・・・・そりゃちっとは不便やけど、なんちゅうこともあらへん。考えてみい、ワシら生きとるやないか』
 義足の装着訓練のさなか、そう言ってにいっと笑って見せたトウジ。
 それを楽器を弾く手を奪われなかった者の強みと片づけるほど、カヲルは手前勝手でもなかった。
 それに、弾けなくなった訳ではない。以前のような、今をときめく人気カルテットとしての活動ができなくなってしまったというだけのことだ。

 

***

 

『ごめんね・・・・ごめんねカヲル君・・・ほんとうに・・・』
 殆ど譫言のようにシンジがそう繰り返したのは、運転していたのがシンジの家の運転手だったからだ。
 自分が文字通り死にかけているというのに、目に涙を浮かべてその言葉ばかりを繰り返す。終いには血圧がさがってカヲルが早々に退出しなければならなくなったほどだ。
 君が悪いんじゃないよ。その一言さえも、シンジは告げさせなかった。

 

***

 

 カヲルのヴァイオリンが永久に失われたことを聞いて、一番悲しんだのはレイだった。
 レイ。血のつながらない妹。しかし唯一の肉親。
 一瞬、何を言われたか判らないかのように紅瞳を見開いたまま彼を見つめていた。
 そして見開いたままの双眸から、突如として涙が零れ落ちる。
『生活のことなら心配ないよ。加持さんがうまくはからってくれるから』
 なんとか落ち着かせようと、カヲルは両親亡き後、彼らの後見を引き受けてくれている弁護士の名を挙げた。しかしレイは激しく首を横に振る。
『違う・・・違うの!・・・』
『レイ・・・・・?』
 その後が、なかなか言葉にならない。言葉にしようとする度に涙が溢れて、まともに声が出せないのだ。
『・・・・・ごめんね・・・・・ごめんねカヲル・・・私・・・悲しいのに、どこかでほっとしてる・・・・これでもう、カヲルが何処にも行かないって・・・・ごめんね、私、最低だ・・・・・』
 カヲルは、言葉を奪われた。・・・そうだ、演奏旅行の度にレイは留守番。
 家族ぐるみのつきあいをしていたホームドクターの赤木医師に、その都度泊りに来て貰ったりはしていたが・・・・心細かったに違いない。彼女とて医師という仕事上、そういつでもという訳にはいかなかかったのだ。
 気丈な子で、これまでに一度もそんなことを口にしたりはしなかったが・・・・・・。
『・・・・レイ・・・・謝らなきゃならないのは、僕の方だね・・・・・』
 泣きじゃくるレイを、カヲルはそっと抱きしめた。
 このレイの言葉が、最終的に彼にヴァイオリンを諦めることを受け容れさせた。それも、他でもない彼自身が驚くほど穏やかに。
 ヴァイオリン奏者がヴァイオリンを奪われたらどうなるか。内心では相当構えていたらしい赤木医師が、後に言ったものだ。
『こんな言い方して、怒らないでね。・・・・あなたに、ヴァイオリンより大事なものがあって、良かったわ・・・・・』

 

***

 

 数度の危篤状態を乗り越えたシンジは、軽い跛行が残ったものの、ほどなく通常の生活に戻ることが出来た。
 義足に慣れたトウジは、もう松葉杖が要らない。
 ビオラに触れなくなったアスカも、翻訳の仕事がしたいと言って、本格的に勉強を始めている。
 そしてカヲルも、まだ学生のレイに代わり家を切り回しながら、タッチの軽いキーボードを使って少しずつ作曲を手がけていた。
 やってみると、家事と言うのも結構な重労働だ。こういう怪我をしてみて初めて判る。だが、相応の工夫とやる気さえあれば、人間結局なんとでもなる―――――。
 スポットライトも喝采もないが、この静穏が今は心地好い。幸福の定義が心の平穏にあるのなら、カヲルは今、それなりに幸福だった。

 

□*□*□*□

 

 エアメイルは、思った通りレイからだった。
 レイは、今シンジとアスカと三人で旅行中。
 シンジがこの旅行の間に、アスカに結婚を申し込むつもりであることを、カヲルとレイだけが知っている。
 二人きりの旅行に誘うだけの勇気がなかったシンジの相談に、レイが二つ返事で乗ったのだ。
 ていのいいダシと言えばそれまでだが、レイは完全におもしろがっていたし、カヲルも今までレイを海外へ連れていってやれなかったこともあり、喜んで送り出した。
 旅行と言っても、欧州に数カ所ある碇家のコテージを拠点に気儘な観光を楽しむのだから、呑気なものである。とりあえずは2週間くらいの予定で出発したのが20日前の話。
 一面のヒマワリの真ん中を伸びる石畳の道。並んで立つシンジとアスカの前に、少し中腰でピースサインをしているレイ。
 ―――――週末には帰るね!――――――
 たったそれだけ。ピンクのサインペンで書かれた文字は、殆ど走り書きに近いものだった。
 これじゃいつの週末だか判らないよ、と思わず笑う。今日が水曜日。今週だろうか?
 その時、電話のベルが鳴った。
「はい、渚・・・・あぁ、トウジ」
【よ! 元気しとったかー♪】
「はは、それなりにね。どうしたのさ、急に」
【お、それなんやけどな、シンジの奴、まだもどっとらへんのか?】
「・・・・・え?」
【先週、シンジから葉書もろたんやけどな、週末には帰るゆうて書いてあるわりに、昨日今日電話してみてもおらへんのや】
「・・・・・・・」
 消印を見た。確かに日付から言って、先週中には届いていなければならなかった葉書だ。
【おい、聞いとるんか?】
「あ・・・・・・うん。聞いてる。聞いてるよ・・・・・」
 悪い、予感。
「彼の葉書には、予定の日付はある?」
【それがな、先週の土曜や。せやからもういくら何でも戻っとるやろ、て思ったんやけどな】
「・・・・・滞在の予定を延ばしたんじゃないのかな」
【あ、そらありうるな。シンジだけならともかく惣流もおることやし】
「いくら何でも今週中には帰ってくるさ。レイだって来週から学校が始まるし」
 努めて軽い調子で、カヲルは言った。
【せやったなぁ。ん、悪かったな、急に電話したりして。ほな、またな】
「うん」
 受話器を置く。

 嫌な、予感。

 彼が予定の日をきちんと伝えてきたと言うことは、もう本決まりだったはず。予定を変えたと言うなら、相応の連絡はしてくるだろう。

 まさか。

 本来悲観的な性格ではなかった筈だ。だが、今カヲルは悪い方へ悪い方へと考えていく自分に気づいていた。
 離れているということが、これほど不安だとは思わなかった。
 海外で何度となくあった演奏旅行でも、天候の関係で飛行機の予定が狂い、帰りが遅れることは決して珍しい話ではなかった。考え過ぎだ。そう思っても、なぜか胸苦しさがまとわりつく。
 その度に、レイはこんな思いをしてきたのだろうか?
 碇家に電話を入れてみようか?何にせよ、予定の変更があったら実家にくらい連絡を入れている筈だ。
 いや、先方に無用な心配をかけてもまずいか・・・・・・。
 その時。
 先刻と同じ音のはずなのに、鳴ったベルに思わずどきりとした。一瞬、受話器に触れることに躊躇する。が、とらないわけにもいかなかった。 「はい、なぎ・・・・」
 一瞬の無音。そして、独特のくぐもったブザーの音。
【ごっめーん! カヲル♪】
 ものすごいノイズと一緒に、元気な声が飛び込んできた。・・・・・さては、空港の公衆電話か。一気にカヲルの肩から力が抜けてしまった。
【あのね、向こうの空港がものすごい嵐でね、もーたいへんだったの。結局列車でよその空港まで行ってね、ようやく戻ってきたんだ! いまから帰るから。夕食には間に合うと思うから、よろしくねっ!!】
 立て板に水、というより、バケツを二階の窓からひっくり返したくらいの勢いで喋ったかと思うと、あっさりと切れてしまう。
 もはや、何故早く連絡しなかったのかとか、そういうことを聞く暇もなかった。
 思わず、受話器を持ったまま暫くそれを凝視してしまう。
 ややあって受話器を置き、こらえ切れずに笑声をたてた。
 ほら、だいたいこんなもの。
 子猫が二匹、カヲルの足元に擦り寄る。結局、彼女の旅行中に子猫が増えたことも言いそびれてしまった。
 ま、いまさら一匹二匹増えた所で、分かりはしないか・・・。
「すこし留守番を頼むよ。夕食の材料、買いにいかなきゃならないみたいだから・・・・」
 そう言って子猫の喉を撫でると、子猫は一人前に了解とでも言ったか、少し高めに一声鳴いた。

 ―――――――――その返事に微笑んで、カヲルは車のキーを取った。

 

Fin     

 


後書き、らしいもの


 そういう訳で5000Hit記念!あんど謝恩Novelでした。
 タイトルの元ネタが分かった方、あなたは偉い!!
 はい、ご想像の通り。また趣味に走りました。アルバム「WISH」の最後の曲です。今度と言う今度は本当に元ネタそのまんまのイメージで書きました。この二人だともーぴったり♪(<ちょっち妄想モード)
 元ネタの歌詞は、読んでて思わず「く~~~~っ!!」状態(<なんだそりゃ)になるベタ甘の世界です。イントロに鳥の囀りが入るんですよ。あぁっ平和っていいよね!! 苦しいことを乗り越えたら、きっとこんな穏やかな日々が待ってるのよねっ!! と思わずコブシ握ってしまうくらい、ドラマティックではないけれど幸福な日常が展開してます。お暇と気力のある方は探してみてください。
 ちなみに、柳はテイチクの回し者でも日本コロムビアの宣伝員でもありません。念のため。

 1000Hitの時の風味はキレイにどこかへ飛んで行ってしまいました。すみません、柳は所詮RKS。

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