西方奇譚Ⅰ

西方奇譚

 雨が、降っている。
 彼は肩と脇腹の拍動痛に耐えながら息をひそめ、雨音に混じる荒々しい足音に耳をそばだてていた。肩の傷はともかくとして、脇腹の傷からは押さえている手を真っ赤に染める程の出血があった。
 外を数人の足音が通りすぎるのを聞き、深い息をつく。改めて気配を探ったが、その家にに人の気配はなかった。
『本当に、いないのか…?』
 下肢の右側はほとんど血で染まり、床に紅い池すら作りはじめている。意識を失いそうになる度に、きつく唇を噛んで持ち堪えた。その双眸は、これだけの傷を負いながらなお、野性の獣に似た強い光を放っている。
「こんなところで…こんなところで死んでたまるかよ…!!」

***

 雨は、降り続いている。
 まだ少年であった。金褐色の髪は緩やかに波打ち、肩を覆っている。双眸の若草色は生気がなかった。雨の中を一人、家路を辿る少年のシルエットは、同年代の少年のそれよりもやや華奢であろうか。その首で、ひどく時代のかかったペンダントが揺れている。
 誰もいない、少年だけでは明らかに広さを持て余すその家に帰り着くと、ひとまず軒下に身を滑り込ませた。暫時降り続く雨をその若草色に映していたが、頭を振って髪の水気を軽く落とすと扉を開けた。
 暗く、冷え切った家の中をひとわたり眺め遣り、少年はほとんど用をなさなかった雨具を脱いで椅子へ投げた。そして濡れた髪をかきあげて火を起こそうと暖炉へ足を向ける。
「……!」
 つい数秒前に見渡したときには感知し得なかった気配に、一瞬だけ少年の呼吸が止まる。少年の喉には、血に染まってはいるがその切れ味は些かも損なわれていない刃が触れていた。
「動くな。騒がなければ命は取らない」
 声は、少なくとも耳より上から聞こえた。
 しかし少年は余りにも無反応であった。突然のことに声を失っている訳ではない。ただ、その出来事に対して大した注意を払う必要性を感じていないかのようであった。
「ラオ…老はどこだ。ここはイェンツォの“ラオ”の家の筈だ」
 答えまでには、僅かな間があった。
「剣を引け。私が“イェンツォの老”だ。今はな…」
「…何だァ!?」
 気が抜けたように、その声の主は剣を引いた。
「“イェンツォの老”?…あんたがかい?」
「そうだ」
 歳不相応な貫禄を有する声でそう言い、少年はテーブルの上の蝋燭に火を点けた。暗がりに、光の輪が浮き上がる。
「シェンロウは死んだ。今では私が、イェンツォ郷における“老”だ。その役目は私が継承することになっている」
 光の輪を受け、金褐色のヴェールのような髪がぼうっとした反射を見せる。
「…私に何の用だ」
「まだ、子供じゃないか…お前、シェンロウの養い子か何かか?」
 それは確かに少年だった。だがその威圧感は到底、年齢相応とは言えない。侵入者の無遠慮な問いに、少年は沈黙で答えた。
 侵入者は二十歳前後の青年であった。…二十歳前後のように見えた。脇腹と肩を血に染め、失血のためかこころもち顔が蒼いが、よく鍛えた身体をしていた。この状態であっても、ひと一人扼殺するのにそう苦はあるまい。それでも、少年のほうは一向に動じる様子がない。
「まあいいさ…要は“イェンツォの老”に連絡がつけばいいんだ」
 彼は少し苦しげな息を吐き、剣を鞘におさめた。
「俺はエルンスト。掟に従い“イェンツォの老”に支援を求める」
「アースヴェルテ…か」
 ここよりはるか北方、特異な文化を有する地域ルフトシャンツェ。アースヴェルテとは同名の山岳地帯を拠点とする《組織》の名であった。
「アースヴェルテの《刺客》…その傷、失敗したのか」
「莫迦・・・野郎」
 大きく息を吐き、柱に凭れ掛かる。
「俺をなめるな。十二の歳からこれで食ってるんだ、そんなことあってたまるか」
「仕事に成功したが、傷を負った…というところか」
「不覚だとは思ってるさ。だが俺はこんなところで死にやしない。絶対に生き延びてやる」
 吐き出すように言うと、無意識に傷を押さえる手に力がこもる。新たな血が手の甲を伝い、床に滴り落ちた。その額は、冷汗でじっとりと濡れている。
「絶対に…死にやしない…か」
 少年の端正な面を苦笑めいたものが細波のように通りすぎた。だがすぐに、仮面のような無表情に戻る。
「掟については、シェンロウの記録を見てみないと何とも言えない。こちらも引き継いだばかりでな。だが、その傷は早く塞いだ方が良い。その出血のしかたでは、命にかかわる。…こっちへ」
 手燭に火を移し、少年は隣室への扉を開いた。
「言ったろ、不覚を取ったって。薬をくれ。そうしたらとりあえず出て行く。三日後、またここにくるからその時に…」
「生憎と私は、死人と話をする術を持たん」
「死んでたまるか!」
 思わずそう声を荒げた拍子に身を捩り、エルンストと名乗ったアースヴェルテの《刺客》は低く呻いて身体を折った。
「断言してもいい。包帯で縛ったぐらいで塞がる傷じゃない。三日も放置すれば確実に死ぬ」
 少年は冷然とそう宣告した。
「追われてるんだぞ、俺は。そんなに…厄介事を持ち込みたい…かよ…?」
 もはや少年というのも憚られるほどに堂々として、彼はきっぱりと言い切った。
「それがどうした」
 エルンストが何か言おうと口をひらきかけたとき、ついにその気力は尽き果てた。
「………!」
 壁に背を凭せ掛けたまま、エルンストはずるずるととその場に崩折れた。持ち主の手を離れた剣が紅い池でかすかな音を立てる。
「……」
 “イェンツォの老”はそれにまったく動じず、手燭を卓の上に置くと、エルンストの側に膝をついた。
 手首を取る。手は冷たく、脈は弱い。だが途切れることなど思いも寄らぬほど、正確な律動を刻んでいた。
「絶対に死なない…だって?…そんな事…どうして言える…?」
 初めて、瞳の若草色に感情らしい揺らめきが映った。
 エルンストの身体が傾き、倒れる。その脇腹には、大きく深い刀創が禍々しいまでの紅さで口を開けていた。
 少年は立ち上がると隣室に入り、毛布と包帯、それと箱に入った道具を持って戻ってきた。
「…致命傷になる…でも、縫合に耐えるだけの体力は残っている…」
 傷を調べながらそう呟いて、箱を開ける。鋏を取り出すと、血で染め変えられた上衣を切った。
「水…それと…」
 少年の声は、先刻と違って幾分弱々しかった。茫然とすることを防ぐためにわざわざやるべきことを口に出しているかのようであった。

***

  ────悪夢としか思えなかった。
 自分が彼らに余り好かれていないことは薄々気付いていた。でもまさか、こんな手段に訴えられるなどと思ってもみなかったのだ。
 四肢は薬で痺れている。先刻とはうって変わった…鬼女そのものの表情で刃を振り上げる義姉。力の入らない身体では避けることもできぬ。…彼は、死を覚悟した。
 左肩に、焼け火箸を突き刺されたような痛みが走る。

***

「……っ!」
 声にならない叫びをあげかけて、少年は飛び起きた。
 気がつけば、ここはイェンツォ郷。少年は全力疾走した直後でもあるかのような自らの鼓動を聴いて自らの弱さ加減を内心で罵り、呪った。
 少年は緩慢な動作で起き上がると、頬にかかる金褐色の髪を後ろへはね、寝台から下りると隣室…居間に出た。
 居間に敷かれた毛布の上に横たわる、エルンストと名乗ったその男は、少し顔色が悪いものの、脈を取ればそのめざましい回復の程は知れた。
『あれほど、死に近かったものを…』
 とりあえず脇腹の傷を塞いだあと、シェンロウの残した記録を調べてエルンストの言ったことを確認すると、気力が尽きて眠りこんだのだ。
 少年は寝室へ戻って乾いた服を探し、取り出した二着のうち一着をエルンストの側に置き、もう一着を小脇に抱えたまま裏庭のほうへ行った。
 無論、湯など沸いている訳がない。井戸から汲んだばかりの刺すような冷たさの水を盥に張り、頭から被る。少年が頭を振ると、雨上がりの朝の光に金褐色から飛び散る飛沫が陽光色に光った。なお髪から滴り落ちる雫を漫然とその若草の色に映しながら、心はどこか遠くを彷徨っている。
 無意識のうちに、指先は左肩に残る傷痕をまさぐっていた。…深く、背中側まで突き抜けている。
 彼にとってこれは、余りにも残酷な刻印であった。己れの未熟と浅慮の結果、全てを失ったことを生涯彼に忘れさせることのないであろう刻印。少年は唇を噛み、その傷に乱暴に爪を立てた。
 彼にとっては遥か昔の喪失感が、今また彼を捕えていた。枯れ果てた筈の涙さえ、冷えた頬を伝っていた。
 そんな様を映し出す水面を殴りつけた拍子に、無数の飛沫が散り、涙を隠す。
 何故なのだろう。何故今になって、こんな風に苛まれるのだろう…?
 少年はもう一度頭を振り、身体を拭って服を纏うと、髪を後ろで括りながら居間に戻った。
 エルンストは、起き上がろうとしていた。
「……獣並みの回復力だな」
「褒められたと思っておくさ」
 顔をしかめつつもどうにか半身を起こすと、エルンストはそう言った。
「あれから…どれくらい経っている?」
「一晩。よくもたった一晩でそこまで回復できるものだ」
「こっちもこの身一つが商売道具でね。丈夫でなきゃ話にならん。…それで? 調べはついたかい、お若い“ラオ”」
「“怪狼エルンストエルンスト・デア・フェンリスヴォルフ”…アースヴェルテの刺客のなかでも特級の切札。…今回の仕事は、ツァンフェイか」
Jaそうだ…」
 イェンツォ郷における調停者・“老”たるシェンロウと勢力を二分していた土豪・ツァンフェイ。温厚な人柄で皆を惹きつけていたシェンロウと違い、力で人を縛りつけていたツァンフェイには敵が多い。
 あるいはたまりかねたイェンツォ郷の中の者が金を出しあってついにアースヴェルテと契約したのかも知れない。恐らくは、そんな迂遠なことをしなくともシェンロウ自身が“イェンツォ郷の老”たる以前にアースヴェルテの“老”の一人であったことをこの郷の者は知らないのだ。
 “老”・・・アースヴェルテの刺客たちの後方支援のため、アースヴェルテを離れて大陸各地に居を定めている者達のことである。
 そして、エルンストは知らない。シェンロウが、イェンツォにおける調停者として地位は少年に引き継いでも、アースヴェルテとしての役目の継承できないまま没したことを。
 今やイェンツォの“老”とアースヴェルテは何の関係もなく、彼をツァンフェイの一派に引き渡すも逃がすも彼の胸三寸であることを…。
『…だが俺はこんなところで死にやしない。絶対に生き延びてやる…』
 この男、どうなるのだろう…。下肢と手を血に染めて崩れ落ちる寸前の彼の言葉を思い返しながら、自分自身がその鍵を握っていることを忘れているかのように、そう思った。
 このイェンツォ郷で一番大きな力を持っているのはツァンフェイである。
 その大蜥蜴の頭が潰れたとしても、かえってツァンフェイの一派は死に物狂いになってその刺客を血祭りにあげようとするだろう。たとえ彼が逃亡の手助けをしたとしても、勝負は五分。あるいは六四で、死。そうなった時、最悪の場合彼自身が巻きこまれかねない。かといって、彼が見放せば、六四どころか十中十で、死。
 ツァンフェイの一派に肩入れする理由はさらさら無いが、この男と運命を共にせねばならない理由もまた無い。
 その時、蹄の音が近づいてくるのに気がついた。エルンストも思わす身を硬くして、直後傍らの剣に手をかける。
「…ち…嗅ぎつけられたか」
「まだ動くな。私が出る」
 そう言い置いて、彼は表へ出た。
 世辞でもおとなしそうとはいえない面相の男たちが数人。それがその日の訪問者だった。
「サーティス殿…新しき“老”。我らが主・ツァンフェイが、ぜひあなたにお話ししたいことがあると申しております。どうか我らと共に来て頂けませぬか」
 莫迦な。殺り損なった訳はない!
 息を潜めていたエルンストは、思わず剣を握る手に力をこめた。