西方奇譚Ⅴ

西方奇譚

 翌朝…というより、次にエルンストが目覚めたとき、起きて出てみるとあの最初の部屋から人の気配がした。
 四角い窓は一面黒く塗り潰され、あの文字が何列も現れては消える。当然、操作卓の前の椅子にはサーティスが座っていた。
「エルンスト」
 椅子から立ち上がって振り返ったサーティスに、昨夜のような頼りなさ、儚さの陰翳はない。髪にこびりついた血は洗い落とされ、服も新しいものにかわっていた。
「これが、地上で起こっていることだ」
サーティスの指が正方形の一つに触れる。黒い画面が消え、そこに風景が現れた。
「……!?」
 どういう視点だ。これではまるで、雲の上から地上を覗いているようではないか。
「衛星軌道上からの超望遠…運よく雲が切れたのでね」
「…もういいよ」
 どうせ分かる訳はないのだ。それよりも。
「なんだ。人はいやしない…ん?」
 地形がおかしい。人の姿がない。もともと砂礫ばかりで緑は少ない土地だ。田畑なぞ猫の額のようなものがちらほらある程度だが、それが一切消えていた。地上の建物も多くが崩れている。
「おい…ありゃ…どういうことだ…?」
 サーティスはコンソールへ指を滑らせながら言った。
「お前には岩室に隠れていろと言っておいたから知らなかったと思うが、あの後からもひどい雨になってな。川が決壊して、大量の土砂がイエンツォを流れ下った。低い土地はまだ水が残っている」
 風景が徐々に大きくなる。黄色い泥水が湖を成し、崩れた家や折られた木々が無惨な姿を晒していた。
「…イェンツォ郷の者は…まさか!」
「ここに来る前に…『私を信じるなら、五日の間この郷から離れていろ。高台へ移れ』と、郷の主だった者に伝えておいた。…私の言う通りにしていれば、無事だろう」
「…そんなひどい雨とは思わなかったがなぁ…」
「此処の雨だけではないんだ。レガシィの測位システムから警報アラートが上がっていた。少し北へ行ったあたりで小規模な地震があって、川の流れが変わっていたんだ。もともと砂礫ばかりで水が表面に留まりにくい地質だから、それほどひどい雨でなくても水害になりやすい。
 だが、実を言えば問題はこの後なんだ」
「何?」
「流されてきたのか、住処を逐われて移動したのか…ここらで見ない鼠の死骸を見た。…最悪、黒死病が蔓延する可能性がある」
 サーティスの言葉は淡々としていたが、その意味を飲みこんで、エルンストは総毛立った。
「黒死病だと・・・!」
「知っているのか」
「莫迦にすんな、こう見えてもあっちこっちいろんな物をを見てきてるんだぜ?」
 黒死病。ペストの別名である。鼠が媒介し、爆発的な大流行となって人口を激減させることもある。しかしこの時代、無論薬もなければ感染源すら知られていない。いまだ細菌の存在は人々の知るところではないのである。
「…で、鼠と黒死病とどういう関係があるんだ」
「砕いて言えば、鼠が黒死病を運んでくるんだ。今回流れ込んだ土砂がもとあったあたり…今まであまり直接的な交流がなかった場所なんだが、あの辺りで流行っているという噂は聞いていた。土砂や流された家の残骸に鼠の死骸が紛れ込んでいたら、下手をするとここら一帯でも蔓延する可能性があるんだ。鼠の死体を見たら直接手で触れないようにして焼き払い、強い酒で辺りを清める。…それでも完全には防ぎ切れないかも知れないが…」
 少し、険しい表情で映し出される映像を見つめるサーティス。
「…お前には、郷の人間を救えるんだな?」
 エルンストの言葉に、サーティスは表情を硬くした。
「…自信はない」
 そう言って、操作卓から手を離す。
「自信がある訳じゃない。だが、どうしたらいいかは分かっているつもりだ」
 椅子ごと振り返り、真っ直ぐにエルンストを見る。
「エルンスト。…確かに私は重すぎる存在を受け継いでしまった。だがその重さに私が押し潰されてしまったら、あの男のしたことが無駄になる。あの男の想いも、孤独も、今までに消えてしまった命全てが無駄になる。
 だから私は私の路を歩いて行くよ。…昨夜は心配をかけて済まなかった」
 若草色が、和む。
「それでいい。…ったく、一時はどうなることかと思ったがな」
 エルンストは照れ臭くなって、笑って誤魔化した。
 あの症状。サーティスは薬に逃げた訳ではなかった。むしろ、薬でおさまるはずの症状と戦っていた。杯の中の薬は、減ってなどいなかったのだ。後になってそれに気付いたエルンストは、そそくさと話題を変えた。
「…となると、ツァンフェイはどうなった?」
「あれか」
 サーティスは椅子を回転させて、再び操作をしながらあっさりと言った。
「ツァンフェイなら、心配しなくてもちゃんと死んでいたよ。私を呼び出したのはその細君だったのさ。えらい雌狐だったが…まあ、ツァンフェイの一党はもうだめだろう。頭がいないからな」
「…何だ?」
「あの女は死んだ。…私が殺した」
「なっ…!」
 エルンストも刺客のはしくれである。こういう話に一々声をつりあげていては商売にならない筈だが、エルンストの声は派手に撥ね上がった。サーティスが手を止めて意外そうに振り向く。
「…何だかお前、アースヴェルテの刺客っぽくないな」
「仲間内でもよくそう言われるよ。だがな、これでも一応、気にしちゃいるんだぜ?」
 憮然とするエルンスト。それが余程可笑しかったのか、サーティスが吹き出した。
「でも別に、刺客だから刺客らしくしてなきゃいけないって法はないし…いいんじゃないか?」
「ありがとよ。有難くって涙もでやしねェ」
 エルンストも、それなりの紆余曲折を経て今の身の上がある訳だが、元来刺客向きの性格でないことは確かなようだった。
「…言っとくが、最初から殺すつもりで殺した訳でもないぞ。下らんことで呼び出されて一服盛られるは、こちとら忙しいのに閉じ込められるは…皆に水害のことを報せなきゃならんのに、あの女の所為で大迷惑だ。
 盛られた薬のことぐらい気がついてたけどな。相手の出方を見ようと思ったんだ。…あれは常用してたから、意識を失わない自信はあった」
「…変なこと自慢するな。早いとこそれは直せよ。悪いこたぁ言わんから」
「分かっている」
 このときばかりは、サーティスも憮然とした。
「…で?傷はその時のか」
「あの女、余程頭にきたらしくてな。下っぱに私を押さえさせた上で、手ずから私を斬ろうとしたのさ」
「よく無事だったな」
「無事じゃないから、こういう傷を負う破目になったんだろう。言いたかないが、そう腕力に自信がある訳じゃない。とっさに押さえてる奴の一人を盾にできたのは、奇跡に近かったよ。後はもう、世に言う修羅場だな。もう、血の海」
 “無事じゃない”割には結構平然としてそういう事を言い放つ。本人がこの怪我なところから察するに、イェンツォ郷のどこかに転がっているであろうユンファ一党など、おそらくは一撃で倒されているだろう。力よりも、その精確さで確実に相手の息の根を止める術を心得ているのだ。
「…あんたきっと、アースヴェルテでも十分食って行けるぞ」
「褒められたと思っておくよ」
 そう言って、笑う。画面がふっと消え、サーティスは立ち上がった。
「郷境まで送るよ。天はお前に味方した。もういつでも、イェンツォを出られる」

***

「…やっぱり、お天道さんの下が一番だなァ」
 エルンストは大きく伸びをして、深呼吸した。
「何だ、高々十日間しか経ってないのに」
「十日もお天道さんをおがまなきゃ、気も滅入るぜ?」
「…つくづく健康な精神構造をしてるんだな」
「どういう意味だよ」
「別に?言った通りの意味さ」
 至極平和な、言い換えればひどくしょうもない暇なやりとりをしていると、イェンツォの郷境までの道程などあっという間だった。
 郷境の里程標で、サーティスは足を止めた。
「アースヴェルテの首領には、会うんだろう?」
「そりゃ、一応報告ってものをせにゃならんからな」
「だったらついでに伝えてくれ。『イェンツォ郷、ホ・ランのシェンロウが死んだ』とな」
「分かった。必ず」
 後日、これを報告したエルンストは、本来サーティスはアースヴェルテに関わる者でなかったことを知り、ひどく慌てることになる。
「また…会うことがあるかな」
 剣以外の唯一の持ち物であった革袋を肩にかけ直し、エルンストが言った。
「さて…暫くはイェンツォに居るが、ここが落ち着いたら旅に出ようと思っている。どこへ行くかは、風のみぞ知る…だがな。ま、ひょっとすると会うこともあるかも知れない」
「…元気でな」
「エルンストも」

 サーティスは暫くそこに佇み、街道の彼方に消える人影を見送っていた。
『生まれ変わった緑瞳の鳥が、繋がれた竜を解き放つ…それまで待て。必ず救われるときは来るんだ』
 ―――――――不思議な奴だ。
 何か・・・一種の神託のような響きだった。およそそういったものとは無縁に見える男の口から出たにもかかわらず。

 サーティスはシェンロウから「イェンツォの老」の名を継いだが、それはあくまでも“レガシィ”の継承者としての名であり、アースヴェルテのことは完全に領域外であった。何故、こんな事件に首を突っ込んでしまったのか・・・今となっても彼自身よくわからない。
 それでもエルンストをユンファの一党に引き渡すことをせず、明らかに彼自身を巻き込む賭にさえ踏み切った。賭・・・そう、賭のようなものだ。
 さて、自分は何を賭けたのだろう。
 ・・・例えば、ともすれば見失いそうな自分の未来?
『…前を…前だけを見つめ、あなたの道を歩んでください・・・』
『必ず救われるときは来るんだ。費やされたものの重さがわかるなら、薬に逃げたりせずに前を見ろ』
 サーティスは苦笑した。
「貴女が、あの男を呼び寄せたのか…?」
 踵を返す。ふと、肩を覆う金褐色の髪を風が揺らした。何気無くその髪を指先で弄んで、遠く集落のほうを見る。

 不思議な巡り合わせだ。水害の危険性は、“レガシィ”との接触で数日前から薄々気づいてはいた。ただ、イェンツォがそれに巻き込まれることなど明確に予測していなかったのだ。
 ところがあの日の接触アクセスで、イエンツォにも災害の危機があることがわかった。場合によってはイエンツォ郷は滅ぶ。シェンロウが面倒を見てきた住民たちは助けたいが、ツァンフェイの一党がサーティスの言を信じずに住民達に土地に残るよう強要する可能性もあった。収穫が近いからだ。どうしたらよいのかを考えながら家にもどったら、あの男エルンストがいた。
 間近に迫った災害。しかしそれはこの際、エルンストを生き残らせるための力として作用した。ユンファはサーティス自身が手にかけたにしても、その残党は結果として泥水に流されたのだ。
 収穫間近い田畑は壊滅したが、人は生き残った。ツァンフェイの一党はもういない。郷を建て直すのは平坦な道ではなかろうが、生きてさえいれば。

 そろそろ、避難していた者達が戻ってくる頃だった。
 忙しくなる。この郷を守るためにしなければならないことが山積しているのだ。自分にどれほどのことができるのか、まだわからない。それでも、自身が足を止めないことだけが…費やされた命に報いるただ一つの方法だから。

西方奇譚 了