西方夜話Ⅷ

「ナルフィ、あなたは一刻も早くこの国を離れてください」
 愁柳は、穏やかにそう言った。一瞬意味を飲みこみそこねたナルフィは、思わず愁柳を見つめ返す。
「…戦が、始まるんですよ。お姫様」
 横で剣の手入れをしながら、エルンストが補足した。
「…戦が…!」
 ナルフィの瞳が、にわかに厳しい光に彩られた。
「サーティスの予測でいくと、今日か明日あたりにはもう騒ぎが起こります。都に知らせがくるのが多分その二日後として…そうなったら脱出がしにくくなるんですよ」
「…でも、今の私では…」
 桂鷲の手の者に夜襲をかけられて、命からがら脱出してきたのである。彼女の持ち物と言ったら最低限の防具…そして剣だけだった。
「サーティス殿が手配してくれています。あなたは無事にノーアへ帰り着くことだけを考えていてください」
 今この場に家主であるサーティスがいない理由がこれであった。
「…でも…」
 それでも、いやその言葉によけいに不安になったように、ナルフィは言葉をついだ。
「…貴方は…どうなさるおつもり…?戦の始まるというこの国に、残られると…?」
 愁柳は頷いた。
「…愁…!」
「ノーアで…待っていてください」
 ナルフィの表情に、ふわりと風が吹いた。
「私は…私なりの決着をつけなければならない。…どのくらいかかるか分からないけれど、全てかたがついたら…私は、ノーアへ渡ります」
 ナルフィは、言葉を失ってただ愁柳を見つめ返すばかりだった。
「…待っていて、くれますか…?」
 一緒に行く、と言いたかった。しかし、言ってはならなかった。
「…待っています…」
 ナルフィは、微笑みを浮かべた。涙と同居した笑みだった。だが涙で濡れていても、なおその強い光は失われない。
「約束します、ナルフィ…必ず生きて、ノーアへ渡ると…」
 ナルフィは頷いた。
「ラース…支度を!ノーアへ帰ります」
「は…はいっ!」
 ラースは文字通り飛び上がった。あまりにあわてたものだから、ふいに開いた扉に自分から激突するところだった。
「おいおい従者殿、元気なのはいいがそうぶつかってくれるな。家は結構たてつけが甘いんだ」
「サーティス、どうだった?」
 エルンストの問いに、サーティスは不敵な笑みで答えた。
「誰に向かって尋いている?今すぐにでもこの国を出るだけの装備は揃ったさ」
 それからナルフィに向かって、
「国境までは私が送ります。案内人を雇ってもいいんだが、私も所用があるのでね」
「分かりました。お願いします」
 ナルフィはそう言って、自分の剣を佩いた。
「安心しなよ、お姫様」
 柱に背を凭せ掛けたまま、エルンストが笑った。
「約束は、俺が破らせないよ。…そのためについて行くんだから」
「…あなたも、御無事で」
 紛れもなくその笑みは、北方民族サマンをして、『銀姫将軍シアラ・センティアー』と畏怖せしめたノーア公女・ナルフィリアス=ラフェルトのそれであった。

***

 皇宮・白蓮殿。
 皇太子愁柳の行方は杳として知れず、皇宮では上へ下への大騒ぎが相変わらず続いていた。
『愁柳め、何処へ隠れたか…』
 愁柳の行方を、負の意味で一番案じていたのはいうまでもなく親王・桂鷲であった。エルンストに負わされた傷のおかげで自分も被害者面ができたものの、愁柳が生きているとすれば、それは即ち自分自身の失脚を意味した。
 彼としては父帝の手の者より早く愁柳を見つけ出し、息の根を止めねばならなかったのだ。
『それよりもいっそ…計画を先行させるか…?』
 サーティスの睨んだ通り、彼は父帝の弑逆を企図していた。ナルフィを手に入れ、愁柳をこの手で殺した後すぐに計画は発動させる予定だったが、思わぬ邪魔が入って計画発動以前で挫折を強いられた。…しかし、計画そのものはいまだ健在であり、武器の類はもう準備が整っていたのだ。
 桂鷲の唇の片方がつり上がった。
 だが意気込んで立ち上がったとき、父帝からの皇宮に上がるようにとの使いがきて、内心舌打ちしながら応召した。
「…旧ジャルフ領で叛乱…?」
「愁柳はいまだ行方が知れぬ…桂鷲、兄・愁柳に代わって旧ジャルフ領に赴き、叛乱を鎮めよ」
 父帝の、何処か眠たげな勅命。それを聞いたとき、桂鷲の目がぎらりと光った。
『またとない好機 ────!』
 何も知らぬ者が見れば、それは大任を任された名誉のためと見たであろう。
「はっ…桂鷲、謹んで拝命いたします!」
 桂鷲は慌てて頭を下げた。眼に浮かんだ光の意味を、悟らせないために…。

***

「これだから嫌なんだよ、ああいう小策士ってのはっっ!」
 皇宮を抜け出したエルンストは、嫌悪感が昂じて皮膚が泡立つのを見て吐き捨てるように言った。
 ああいう奴に追討令…公然と兵を集められる大義名分を与える今上帝も今上帝だが、今頃白蓮殿で嬉しさのあまり小躍りしているであろう桂鷲の思惑を思うと、今すぐ白蓮殿に殴りこんであのにやけた顔を頭ごと肩の上から叩き落としたくなる衝動に駆られるのだ。
 もはや、桂鷲の企みなどエルンストの目にも明らかだった。第一位皇位継承者は不在である。兵を集める大義名分はもらった。後はもう、クーデターへ一直線であろう。
「そう思い通りに事を運ばせてたまるかよ」
 だが、気掛かりなのは愁柳である。彼自身が一体どういう形で決着をつける気なのか、エルンストは全く知らされていないのだ。とりあえずおとなしく殺されてやる気はないことは分かるのだが、今一つ立場が判然としない。
『この期に及んで、変な情をかけてやる気じゃないよな、まさか…』

***

 既に二日前、ナルフィはラースを伴いノーアへの帰途についており、サーティスが途中までの道案内に随行している。人口が半分以下になってしまった家にエルンストが帰り着くと、もう夕闇が迫っていた。
庭の人影に気がついて、エルンストは深く息をついた。
「そんなに一気に修練しちゃ駄目だって、サーティスが口酸っぱくして言ってたでしょう!?」
「…エルンスト…」
 手甲を外して、一息つく。この分では昼からずっと休憩もとっていないだろう。
「…何分、気が急くのでね…」
 外面の静けさと裏腹に焦燥を抱えこんでいるであろう愁柳の胸の裡を思えば、エルンストとてあまり強いことは言えなくなる。仕方無く、頭髪をかき回したあと今得てきたばかりの情報を伝えた。
「…帝が、よりによって桂鷲に旧ジャルフ領叛乱鎮定の勅命を下した」
「やはり…そうですか」
「やはりって…見当はつけてたのか」
「大体のところは。…あの方は人を疑うということを御存じない。<正体不明の賊>に殴り倒されて、著しく評判を落とした桂鷲に、名誉挽回の機会をお与えになろうとしたとしても、なんら不思議はないからね」
「<正体不明の賊>ねェ…」
 <賊>ことエルンストが苦笑する。立場上、エルンストだなどと言えないのが桂鷲の苦しいところであったろう。
だが、エルンストにしてみれば、どさくさまぎれに愁柳やナルフィの失踪の責任までひっ被せられるよりはましというものであった。実際、状況としてはそういう風に仕立て上げようとすれば出来た筈なのだ。どんなに桂鷲が平静を失っていたかが分かろういうものである。
「私は今夜、父帝にお会いしてきます」
 不意に、静かに紡ぎ出された言葉は、余りにも淡々と…だが突拍子もない内容を告げた。
「本気か!?」
「無論」
 愁柳の答えは確固としていた。
「…桂鷲との衝突はもう避けられないが、けじめはつけておかねばなりませんから」
 愁柳の表情は、つい一月ばかり前まで綺翔殿に閑居していた貴公子のそれではなく、数年前エルンストが見た、孤高な勇将のものであった。