西方妖夢譚Ⅰ

雪と紅

「サーティス!」
 避け損ねたサーティスは積もった雪に背中から叩きつけられた。
 さすがに息が停まる。白い牙が左肩の古傷に食い込んで、サーティスは僅かに呻いた。しかしエルンストが投げた短槍が獣の背を掠め、白い狼は肩を放す。すかさずその身体を蹴りあげ、サーティスは横へ転がって跳ね起きる。
 飛び道具を警戒したか、狼は距離をとった。
「サーティス! どこかやられたか!?」
「大丈夫だ。肩を咬まれたが…そう深くない」
 次の短槍を手にして、エルンストが駆け寄った。
「見せろよ!…よくもまあ喉笛を咬まれなかったな」
 確かに咄嗟にサーティスは喉を庇った。だが、あれは喉を狙いはしなかったのだ。
「退がってろ!」
 そう言ってエルンストが前へ出る。狼が雪を蹴立てて次の攻撃の動きに入っていたのだ。
「待て…!」
 サーティスは思わずそう叫んでいた。
「サーティス!?」
 気を逸らした一瞬に、エルンストは狼の体当たりをくって雪の中へ倒れこむ。野生の獣なら、まず先に倒れた獲物を押さえ込みにかかるだろう。だが、狼はまっすぐにサーティスを狙っていた。
 狼が地を蹴る。サーティスは寸前で剣を抜き、狼の右の前足から左肩へまっすぐに斬り上げた。刹那の間隙。直後、白い毛皮が朱に染まる。
「…お前か、シルヴィア…!」
 先刻、雪の上に打ち倒されたとき、脳裏に閃いた映像。吹雪の雪稜に、佇立する女。髪も、服も、肌も、全て雪の色。そして、哀しげな表情…。
 サーティスの声は、絶叫に近かった。
「…どうしても…お前だというのか、シルヴィア!」

***


「…何だ、まだ寝てたのかよ?」
 酒瓶片手に靴についた雪を払いながら、エルンストは呆れたように言った。
「お前こそまだ起きていたのか、この夜行性動物」
 口は達者だが、若草色の瞳はいまだ半ば閉じられているようなものだった。
「俺だって年がら年中夜歩きしてる訳じゃねえよ。せっかくいい酒が手に入ったから分けてやろうと思ったのに、いらないんなら帰るぜ」
「…悪かったよ」
 そう言う声もまだ寝ている。エルンストが全くこいつはという吐息をして酒瓶を卓に置いた。
「とりあえず水でも浴びて眼ェ覚ましてこい。会話がまともに成り立たん」
「名案だ…それじゃ、適当に始めててくれ。何かさかなはあったと思う。全部飲むなよ」
 サーティスは無造作に髪をかきあげて厨房のほうを示し、欠伸ひとつ残して隣室に消えた。
 ここ、龍禅で数年ぶりに再会してから気がついたことだが、サーティスは異様に朝に弱い。それにしても、今日はその寝起きの悪さに拍車が掛かっているようだ。あるいは昨夜辺り、夜の客人があったのかも知れない。
 適当に肴を見繕って卓に広げたとき、エルンストは卓の上に細い銀の腕輪を見つけた。
「…大当たり…かな?」
 素朴だが、いい造りだ。何の気なしにそれに見入っているうちに、何とか眼を覚ましたらしいサーティスが服を着替えて入ってきた。
「昨夜の客の忘れ物か?」
「…らしいな。というより、治療代のつもりだろう。全く、要らないと言ったのに…」
 エルンストから腕輪を受け取って、しばらく指先で弄んでいたが、ふっと息をついて卓の上に戻した。
「四日ほど前、行き倒れを拾ってな。随分弱っていたから家に運んだのさ。…行くところはないといっていたのに、今朝起きてみたらいなかった。全く、何処へいったのやら」
「…あ?」
 エルンストが妙な表情をした。
「今朝なのか、出て行ったのは」
「とりあえず、夜ではない」
「今朝がた降った雪に、足跡がなかったぜ?」
「…なんだって?」
 表の扉を開ける。確かに、上がり口にはエルンストの足跡しかなかった。
「…どういうことだ…」
 サーティスは思い立ったように勝手口へまわった。勝手口から、小さな足跡が森へ続いている。
「ばかな、森へ入ったっていうのか?」
 エルンストの声がはねあがった。
「分からん」
 サーティスはそれだけ言って居間に戻り、壁の剣を取ってくると足跡をたどり始めた。
「何だってこんな…少し道を外れれば、何が出てくるか分からん森だというのに」
 足跡はとても女の足で行けるとは思えないひどい道に点々と続いていた。だが、ややあってそれが消える。
「…何処へ…!」
「…一体、どういうことなんだ?サーティス」
「私に訊くな」
 サーティスはその場に膝をついて丹念にその足跡を観察していたが、おもむろに立ち上がってしばらく何かを考えていたようだった。
 不意に、踵を返す。
「…おい…」
「帰る」
 短くそう言っただけで、後も見ずに歩き出す。この男の行動が頓狂なのは今に始まったことではないが、なんとも付き合うには疲れる男である。
 折角の酒も、いささか味が落ちるというものであった。その後サーティスは黙りこくったまま、ただただ酒杯を傾け続けたのである。
 ようやくサーティスが重い口を開いたのは、もう酒瓶が空になりかけた頃だった。
「…エルンスト…お前、狩りをしたことがあるか」
「当たり前だろが。俺は山育ちだぞ」
「こういうのに出くわしたことはないか。獣が、狩人の追跡を逃れるため、わざわざ見えやすいところに足跡を残しつつ逃げ、ある地点で横へ飛び、あたかも足跡が消えてしまったかのように見せることがあるそうだ」
「実際に出くわしたことはないが、そういう話を聞いた憶えがあるな。そういう場合、少し視点を広げてみれば新しい足跡が見つかるって…おい、まさか…」
「進行方向を向いて斜め右後方に、新しい足跡があった」
「…よせやい、その女が人狼だったとでも言いたいのかよ?」
「気色の悪い空想をするな。こっちの身にもなってみろ」
「じゃ、何が言いたいんだ?」
「……」
 サーティスは答えなかった。サーティスにしては珍しく、その眉をひそめたまま…。

***


『サーティス…私を殺してくれる…?』
 その女は、優美に笑んでそう言った。
『一体、何を…』
『眠るように穏やかでなくたっていい。そこの剣で私の喉を突いてくれるだけでいいわ。今すぐ私を殺して…そうしたら全て終わる。みんな…なにもかも…』
『無茶を言うな。シルヴィア…といったな…それでは俺のしたことは何だったんだ?…殺すためにお前を助けたのではない』
 女の瞳に、狂気の彩はなかった。ただ、静かな悲哀があるだけだった。
『…女は殺せない? …でも、貴方を殺そうとする者なら、それが男であれ女であれ、貴方は殺せる筈だわ。そんな眼をしているもの…』
『シルヴィア…』
 サーティスの若草色の瞳をその視線で捉え、すっ…と白い手が伸ばしてサーティスの首筋に触れた。
『私が…貴方の喉を咬み裂こうとしたら、いくら貴方でも私を殺してくれるわね…?』
 サーティスの背に、冷たいものが走った。
 彼自身信じられないことであった。かつて随分な目にあったが、決してこんな感覚を味わったことはない。女の科白よりも、その感覚に戸惑っていた。
『サーティス…』
 愛しげな、哀しげな、切なげな声音。絹糸のような純白の髪が揺れ、その下で紅玉のピアスが妖気を含んだ光を放った。

***


 サーティスは雪で覆われた道を街の方向へ歩いていた。ちょっとした買物に行くつもりだったのだが、ふと、穏やかでない臭気に足を止める。
「近いな」
 剣に軽く手を触れて、道を外れる。臭気の元を見つけるのに、そう手間はかからなかった。
食い荒らされた、行商人の死体。酷いものだった。胴はほとんど原形を留めてはおらず、四肢も三本までが失われている。
 サーティスは死者のための短い祈りの言葉を呟き、傷を診た。
 イヌ科の獣にやられたあとらしい。ほとんど苦しむ間もなかったろう。見事な狩人と言うべきであった。
「…ここ数年の秋は…特に不作ではなかったはずだが…」
 不作になると草食動物が減る。草食獣が減ると、肉食獣が飢える。自然、人間を襲いだす。だが、ここのところ肉を糧とする動物達が人間を襲いだすような事態は起こっていないはずだった。
そ うなると、考えられることとしては。…どこかで人の肉の味を憶えたものがこの地へ流れてきたか。
『危険だな。街の長老会に一応声をかけておくか』
 サーティスは立ち上がりかけ、ふいに顔色を変えた。
 もう一度、死体を診る。たしかに胴体は原形を留めぬほどに切り裂かれてはいたが、喰われてはいない!?
「何てことだ…」
 喰うために殺したのではない、殺すために殺したのだ。

***

 月が改まる前に、人喰い狼の噂は都じゅうに広がっていた。
「…聞いた話じゃ、退治に行った狩人の一団もやられたらしい」
 エルンストの話を、サーティスは浮かない顔で聞いていた。
「…被害は、北面の森だけか」
「今のところはな。だが、人が怖れて北面の森に近寄らなくなれば、そのうち街にも出てくるだろうってえらい騒ぎだ。懸賞金もかかった…六万元!」
「えらく気前がいいな。何処だ?」
「市場の有力者御一同ってとこか。人喰い狼なんかに街中へ出張られた日には、商売あがったりだし…」
「成程な…」
 サーティスはふうっと息をついた。
「…サーティス?大丈夫か、やっぱり顔色悪いぞ」
「ここのところ、まともに眠れなくてな。その所為だろう…。悪い夢を見る。お蔭で夜中に何度も目が覚めるんだ」
「おいおい、あんたともあろう者がどうしたい?」
 サーティスはこめかみに指先を遣って唸った。
「…考えたくないが、憑かれたのかも知れんな」
「憑かれ…!?」
 サーティスらしからぬ台詞に、エルンストは面食らった。
「おいちょっと待てサーティス、あんた大丈夫かよ?」
「何が」
「何がって…憑かれるったって、何に憑かれるってんだよ?あんたに憑こうなんて度胸のいい物の怪がここら辺りにいるとは思えんぜ?」
「…どういう意味だ」
 かなり遠慮会釈の無い口上に、さすがのサーティスも憮然とする。
「…心当たりがあるのか」
「無い。それに、物の怪の類を俺は信じない」
「信じる信じないの問題じゃないだろう」
「物の怪はそれを信じる者の心の裡にのみ巣喰うものさ。…俺には関係無い」
 ついさっき「憑かれた」云々といっていた者の言葉とも思えない。
「サーティス、お前な」
 息を大きく吐き出して、かんで含めるように言った。
「憑かれたんじゃなくて、疲れてんだよ。しばらく医者稼業をたたんで休んでろ。それが一番いい」
「…俺は三六五日安息日だがね」
「…対策は減らず口を叩いてられる間に講じとくもんだぞ」
 エルンストの言葉は真剣であった。茶化して逃げられぬとみたサーティスは、頭をふって吐息した。
「…悪かったよ。だが、本当に疲れではないんだ。北の森は噂の渦中だからな。今の今、わざわざこんなところまで来る客はいないさ。夜盗の類まで陰を潜める始末で、至って静かなもんだ」
「夜の客もか?」
「いらん世話だ。それもない」
「その所為じゃあるまいな」
「…蹴飛ばしてやろうか?」
「悪かった、謝る」
 謝ってはみたものの、「ここ暫く」がどの程度なのかは知らないが、女っ気の無いサーティスなどそれだけで十分妙である。
 一人一人は三ヶ月続けば奇跡であったが、よくもまあ次から次へといるものだとエルンストとしては感心のレベルをとうに通り越してあきれ果てている次第であった。
 どうやらお互い遊戯あそびと割り切っているらしいし、もとより他人が首を突っ込むことでもない。あろうことか亭主持ちにも遠慮なく手を出すらしいが、女の方がここまで来るというのだから処置がない。
 このままではいつか無用の厄介事に巻き込まれるのではないかと、お節介とは分かっていても年寄臭い諫言の一言や二言もこぼしたくなるエルンストだった。