西方妖夢譚Ⅱ

snowy day

『サーティス…貴方、寂しいと思って事があって?』
『あるよ。当たり前だろう?私だって人間だ』
『そうね、ひとだものね…。ねえ、動物は寂しいなんて思うことはあるのかしら?』
 無邪気な問いに、サーティスは笑った。
『さあね…獣になったことがないから、よく分からないが…獣は自殺しないというから、感じないのじゃないかな』
 彼女は、寂しげに笑った。
『そうだと…いいわね』
『シルヴィア…?』

***


「だから言っただろ。減らず口叩く元気のある間に対策は講じとけって」
 エルンストの声は、真剣を通り越して怒っていた。
 だが、サーティスの唇の間から漏れたのは細い息だけだった。・・・それ以上は無理だった。
「サーティス。悪い事は言わない。あんたいっぺん医者にかかれ。それも呪術医のほうだ」
 長椅子に身を預けているサーティスの顔色は土気色だった。時々椀に注がれた重湯で湿らせる唇もがさついて、変わり無いのはその若草色の瞳と金褐色の髪だけという有様。
「酒は飯にゃならんとほざいてたのは何処のどいつだ!? ずっと酒だけだと!一体何日そんな無茶苦茶な生活してたってんだ!? 死にたいのかよ!」
「…そんな、立て板に水式にわめくな…頭に響く…」
 物憂げに頭を動かして、呟くように言った。
「好きでわめいてる訳じゃねえよ…」
 声を落として、エルンストは頭髪をかき回した。ふらっと来てみたサーティスの家は蜘蛛の巣が掛かり、家主は長椅子に身を横たえたまま餓死しかけている。厨房では十分にある食料が手も着けられずに腐りかけていた。
『何だ────!?』
 この惨状を目の当りにして、エルンストはこう言うしかなかった。だが、叱り飛ばした挙げ句ぶつくさ言いながらも重湯を炊くあたり、基本的に面倒見の良いたちではある。
「…すまんな」
「謝る元気があったらこの状況を説明しろ。一体何があったっていうんだ。どうしたら十日やそこらでこんな化け物屋敷ができあがるんだ?」
「…今日が…?シアルナ上月の…」
「中月だ。今日は十五日だ。俺がこの前来たのが先月の朔日、今日来てみたらこんな化け物屋敷になってたんだ」
「…十五日?そんなばかな」
「そんなばかなことになってんだよ。今日は間違いなく十五日。お前、日にちも分からなくなってるのか」
 サーティスは何かを言いかけてふっと息をつき、抑揚の少ない語調で言った。
「・・・・ほとんど、記憶がない」
「おい…」
「・・・というよりも、時間感覚がない。喉が渇いたら飲んで、その後また眠って…気がついたらお前が来ていた」
「そんなに眠かったのか?」
「眠かった…そうだな、確かにひどく身体がだるかった。だが、眠りたいのに眠れなかった。・・・・悪い、夢を見る」
 ゆっくりと、重湯の椀を置く。そして皮膚感覚が失われていないのを確かめるように、長椅子の下に置かれた手桶の水に片手を浸した。
「だからって…」
 台所仕事などという柄でない作業に疲れ果て、向かいの椅子でへたっていたエルンストは、余りにも突飛な状況説明に身を起こした。
「分かっている…俺も変だとは思うよ」
 サーティスが手桶の中に浸されていた手巾を軽く絞って額に乗せる。いくらか気分がよくなったのか、上体をゆっくり起こして頭を振った。
「…やっぱ呪術医の領分か」
「…信じない」
「サーティス!いい加減にしろ、あんた死にかけてたんだぞ!?」
 時として、この年齢不詳の名医も本来の年令、あるいはそれよりも子供っぽい意地を張る。だが、こいつも一応人間だな、という安心感より先に、この強情さにかちんとくる。
「物の怪はそれを信じる者の心の裡にのみ巣喰うものだ。人の心の裡のことを、他人にどうこうできるものか」
「…サーティス」
「確かに俺は憑かれてるよ。だが、だからこそ呪術医なんか当てにできない。自分の裡の問題は、自分で解決する」
 サーティスは立ち上がった。だが、長期の臥床は確実にサーティスの身体を弱めており、体重を両足にかけたとたんにふらついた。
「立てるか?」
「大丈夫だ。…お前には感謝してるよ。だが、暫くここには寄りつかん方が無難だぞ。何分…相手は噂の、人喰い狼だからな…」
 憔悴した白皙の面の中の若草色が、激しい光を放った。

***

 龍禅とノーア、そしてシルメナが境を接する辺りに、都市国家群が存在する。イェンツォ郷などがそうだが、そのなかで最も北寄りにある一つの都市で、一人の女が追放を宣告され、街を守る城壁から叩き出された。
 事実上の、死刑執行である。
 女は、結婚をしていた。だが、夫も庇ってはくれなかった。彼女の罪ではないのに。その女は、その存在こそが罪として、彼女の都市から叩き出された。
 彼女には妹がいた。早くに親を亡くして、たった二人、肩を寄せあって生きてきた。だが、その妹とも会うことはできなかった。何故なら妹は一足先に、それも確実な死刑を執行されていたのだ。
妹の死に様を聞かされ、女は人に会うのが怖くなった。人に会うのが怖かったが、人のいるところに行かなければ人の生活はできなかった。
 人として生きたかった。だが、怖くて人のいるところに行けなかった。彷徨い続け、女は冬の天河(龍禅の都)に着いた。
 天河は夏こそ暑いが、湿気が多いために冬は豪雪に見舞われやすい。女は、その天河の豪雪に埋もれて死ねるだろうと思った。…だが、死ねなかった。

***

「…人狼…だってェ!? いや、冗談じゃなくてか?」
「お前は信じるか?エルンスト」
 灯火の下で剣と短槍の手入れをするサーティスの眼は、至って真剣だった。
「…人狼相手なら、銀で鏃でも作ってたほうがいいんじゃないのか?」
「ばか抜かせ。あんな柔らかい上に高価な代物、鏃なんかに使えるか。…鋼で十分さ」
「でも、人狼なんだろ」
「人狼だろうと、普通の狼だろうと、仕留める方法は同じさ」
 サーティスの口許を、凄烈な笑みが飾る。
「尤も…人狼かどうかなんてのは関係ないがね。ただ、鬱陶しい思いをさせてもらった礼をしないことには…な」
「…その狼は、あんたを喰いにくるのか?」
「わからん…」
 最後の短槍を置いて、サーティスは綱を巻き直した。
「ただ、俺に用があるのは間違いあるまいよ。さもなければ何日も人の家の回りをうろついて、人を不眠症にしやせんだろう」
「…それでああなった訳か?」
「基本的に、神経の造りが繊細なものでな。まあ、それだけでああなるほどヤワでもないが」
「…誰が繊細だって?」
 身体の調子はともかく、完全にいつものペースに戻ったことをエルンストは確認した。
「その気になればいつでも破れる扉、窓。その外で何日も夜昼なしにうろつき回る…何か用があるんなら話を聞かんでもないが、事と次第によっては…血で贖ってもらうだけのことだ」
「それで…」
 サーティスから砥石を受け取って、エルンストも自前の武器を磨く。
「…で、何処から人狼の話が出てくる訳だ?」
「実のところ、関係はない」
 あっさり言い放たれて、エルンストはすんでのところで自分の武器で自分の手をかっさばくところだった。
「あんたなぁ!」
「…まあ…他愛無い連想さ。あの、銀の腕輪を置いて行った女の事は憶えているか?」
「姿は見ていないかな」
「…シルヴィアは言った。いつかこの身が獣に変わって、俺の喉を噛み裂きにくるかも知れない…と」
 エルンストはサーティスを凝視した。だが、サーティスはあくまでも静かに白く染まった景色が夕闇に蒼く変わるのを見ていた。
「無論俺は取り合わなかった」
「…そりゃそうだろ」
「彼女が言うには、彼女の妹はそうやって亭主を噛み殺し、街中の人間に追い立てられた挙句、寄ってたかって石打ちにされて死んだそうだ。自分もいつそうなるか分からない、だから自分も街を追放された…んだそうだ」
「まさか…」
「言っているほうは、至って本気だったよ。怖いくらいにね」
 窓を閉め、長椅子に腰を下ろして磨き上げた短槍に灯火を映す。
「…背筋が冷えたね。あの時は」
 短槍を置き、背凭れに身を預けて言った。
「あれの消え方が消え方だったし…その直後にあの狼騒ぎだ。つい、そんな連想をしたのさ。何も、シルヴィアが人狼なんて言う気はない」
「じゃ、サーティスはその女と今回の狼騒ぎを結びつける気はないんだな」
「エルンストは信じるのか、人狼を…」
「いてもおかしかないと思うね。幸いにして出くわしたことはないが」
 サーティスは笑って、断定した。
「…人為的に造らないかぎり、そんなものが存在する訳がない」
「待てよ、人為的に、だって?」
「そうだ」
 外の物音に、サーティスは立ち上がった。
「…大体、人間にしろ狼にしろ、それぞれ別系統の進化を遂げて今の形態になったんだ。一個体にそれが同居するなど、人為的に遺伝子を操作generecombinationしなければ起こりえないことだ」
「gene…re…combination…?」
 サーティスの言葉を、たどたどしくはあったがエルンストはほぼ正確に復誦した。その正確な意味をとることはできなかったが、その響きは一つの確信に帰結した。
「…“レガシィ”の知識か…」
「砕いて言えば、人間の設計図と狼の設計図を繋ぎ合わせた子供を作り出すことさ」
「…どこら辺が砕いてるんだ、どこら辺が…」
ぼやきつつ、エルンストも既に磨き終えた武器を手に立ち上がっている。
「…つまり…本来存在するはずのない生物を造り出すということさ。極限環境における人類の生存率をすこしでも上げるために試行されたらしいが、結局コントロールが難しすぎて実用には至らなかった。数例の成功はあったらしいが…」
 窓を閉め、短槍の半分をエルンストに渡して残りを筒に入れる。
「…いずれ一千年以上前の話だ。造られた生命が、一千年以上も生存、繁殖できる訳がない!」
 サーティスは扉を蹴りつけるようにして開けた。山刀やまがたなを握るエルンストの手に思わず力がこもる。
 小雪のちらつく中、子牛ほどもある狼が真っ直ぐにこちらを睨つけている─────。