繚乱の風

西方夜話

 彼女はその鏡の前に立ち、たまった埃を払った。
 蔽いを取る。埃が薄煙を成した後には、薄明かりを反射する鏡面があった。
 鏡の中には、肩に触れない程度に切り揃えられた黒髪と、深い碧瞳の娘がいる。顔の半分は、その黒髪で隠されていた。
 十年前には、もう一人映っていた。彼女よりすこし淡い碧の瞳の、長身の女性。十以上も離れた、彼女の姉。
 この鏡の前に座っていた姉は、その唇に淡く紅をさしていた。
『…きれい…』
 紅をさした姉の微妙な変化に、彼女は素直な賛辞を口にした。
『ありがとう』
 少し気恥しげに微笑ったが、つけたばかりのその紅を…姉は何故かさらりと懐紙で拭き取ってしまった。きれいなのに、勿体ない。怪訝な顔をする少女に、姉は言った。
『つけてみる?』
 何かはぐらかされたような心持ちがしていたが、少女は頷いた。興味が優ったのだ。
 姉は完爾として今まで自身が座っていた椅子に座らせ、少女の顎を支えて軽く顔を仰向かせると薬指の先につけた紅で少女の唇をいろどった。
『ほら、可愛い』
 促されて、鏡を見た。軽く、深い碧の両眼が見開かれる。
 たしかに自分だけれど、すこしだけ違う。動悸を感じて、少女は思わず自分の胸を押さえた。
『魔法みたい…』
『魔法…そうね、魔法かも知れない。これがあなたにとって、幸せになる魔法でありますように…』
 強く、優しく、美しい。いつも凜然とした姉が、そう言って少女の髪を撫でながらその目許に切なげな翳りを落としたのを、少女はただ不思議な感覚とともに憶えている。
 あなたにとって、幸せになる魔法でありますように。姉の言葉の重みが、今ならばすこし判るような気がする。

 ────埃のたまった窓から、朝の光が差しこもうとしている。気がつけば、彼女の右眼の上には一筋の傷が走り、背丈もあのときの姉とほとんど同じくらいになった。
 彼女は引き出しから蓋のついた小瓶を取り出した。中の紅色を指先につけ、唇にさす。

***

『お前をここにひきとめてるものが何かなんて、俺は訊かない。でも、それが苦しいのなら…俺の処に来い、セレス』
 不器用そのものの言葉と動作。セレスはそれを受け容れた。
 それが、去年の夏。そして今、冬神シアルナの月が去り、春神エリウスの季節が訪れようとしている。
 セレスはふと目を覚ました。僅かな時間を寝なおす気にもなれず、そっと起き出して外へ出た。
 まだ冷たいが、明らかに春の気配を含んだ微風が吹いている。
 人々のいまだ起き出さぬ、自然物達だけの時間。そのなかで、彼女だけが動いていた。人が全て消えてしまったかのような錯覚を起こさせる、不思議な時間帯である。
 何を捜している?セレスは自問した。昨夜の夢の残滓を、朝靄の中に求めようとしているのか?
 昨夜の、夢。十年前の光景。もう、忘れていい筈の光景。待つときは終わり、自らが歩き出すときなのだと諭され、忘れることにした記憶達。
 ────私は、セレス。
 …見えた。紅味を帯びた白い靄。遠く、西方から渡ってきたという春の花。
 この花には、つらい思い出がない。来る春も、来る春も、綺麗で、優しい想い出だけを抱いて、この花が咲く。だから、この花の中にいるのは好きだった。
 東の空がだんだん明かるみを増す中、セレスはその大樹へ向かって手を差し伸べた。降る花弁を、捕まえようとしたのだ。
「──────!」
 ふいに、その表情が凍る。
 同じように、白い靄の中に佇む人影。暗めでありながら、とても豪奢な金褐色アンティークゴールドの髪…。
 後ずさったセレスの足が、落ちていた細い枝を踏み、小さいが鋭い音がした。
 その人物が、振り向く。その双眼にある、若草の色彩いろ
 名を呼ばれる前に、セレスは身を翻していた。全速力で駆け出す。何かを言ったかも知れない。だが、セレスの耳には届かなかった。
『どうして──────!?』
 息が切れ、足が縺れる。危うく茂みに倒れ込みそうになり、セレスは立木に手をついて踏みとどまった。
『夢の、続きなの…?』
 そうだとすれは早く覚めて欲しかった。
 なぜ逃げねばならなかった…?そう思うと、右眼の傷が訳もなく痛む。
 荒れた息が少しずつ元へ戻っていく中で、懐かしい声が彼女の意識に囁きかける…。

***

「カーシァ、こっちだ」
 降ってきた声に、彼女は慌てて樹上を振り仰いだ。金褐色の髪の少年は、その巨木の太い枝に腰を下ろしていた。
「宴の主人が宴を抜け出して…一体そんなところで何をなさっているんです?」
「花篝の宴だよ、勿論」
 少年は悪戯っぽく微笑った。さやけき月夜だが、おりからの風にあちこちに焚かれた篝火が火の粉をあげている。その薄紅の花もまた、白い靄を成して揺れていた。
「あがっておいで。ここの方が眺めがいい」
 深碧の瞳の少女は困ったな、というふうに息をついたが、結論はすぐに出した。
 宴の衣装はあまり木登りには向いていなかったが、少女はあまり苦もなく少年のいる枝にたどり着いた。
「知りませんよ?後で姉上に叱られても」
「宴席で晒し物にされるぐらいなら、後でお叱言くらったほうがましさ。…食べる?」
 木の枝で巧妙に支えられた盆の上から菓子皿を取り、少女に差し出す。ここまできてしまってはもうことさらに断わる理由もない。つやつやとした干葡萄を、勧められるままに口にした。
「…花篝の宴は花を見るものであって、人を見るものじゃないさ。ここから見てるのが、一番綺麗だ」
 彼の言葉通りだった。花篝に照らされ、白い靄を成すその花が、ここで一番綺麗に見える。
「…ヴォリスの義姉上あねうえはどうあっても僕が嫌いらしいからな。嫌いな人間同士、顔を合わさずに済むならそれが平和で結構じゃないか」
 どうやら宴を抜け出した本当の理由はそこら辺にあるらしかったが、少女はもう何も追及しようとはせず、ただ干葡萄を肴に闇と白い靄が織る錦繍を眺めては、他愛もない話に興じた。
「…あら?」
 どのくらいそうしていただろう。ふわ、と身体が宙に浮いたような感覚に、少女は腕を泳がせた。
「わ、危な…」
 少年は血相を変えて、すんでのところで枝から滑り落ちるところだった幼馴染みの身体を支えた。
「…あーあ、こんな干葡萄ぐらいで酔っぱらっちゃって」
 干葡萄は結晶化した糖分の食感を柔らかくするために酒に浸してあったのだ。少年がしまった、と思ったときには、もう遅かった。
 すっかり正体がなくなっている。彼は醒めてから降りたほうが無難だと判断し、ふらふらしている黒髪の頭を彼の肩へ凭せ掛けて少女の肩を支えた。
「あ…っと、寒くないか?」
 酒気を帯びた後で寒風に晒すのは良くない、ということに思い当たって、慌てて聞いた。…が、当人は頬を薄紅色に染めてすっかり舟を漕いでいたから、自分の上着を脱ぎ、少女の肩にかけた。
 少女の肩を抱いて、その温かみに頬を寄せ…闇と白い靄が織る錦繍を眺める。
 将来に対する漠然とした不安は既にあった。だが今、傍にあるこの温かさがあれば、乗り越えていける。だから、自分の力の能う限り守っていきたい。少年はそう思っていた。

***

「…木乃伊取りが木乃伊…か」
 垂らせば背中を覆うであろう豊かな黒髪を結い上げた長身の女性が、樹上にある小さな二つの人影を見つけ、かすかな笑みを含んだ吐息を漏らした。万人の目を引く美貌だが、凜然たる侍衛士の姿をしている。
 マーキュリア・エリス。かつてシルメナ王室に武を以て仕えたエリュシオーネ一族の裔として生まれ、アスレイア妃の家宰に当たる地位にあった母に随行ついてこのナステューカに赴いたのはまだ、十歳に届かぬ頃であった。
 アスレイア妃はツァーリのニコラ王との間にひとりの公子を儲けて夭折したが、その公子の近侍衛士として、母は長女であるマーキュリアを充てた。
 その優しげな名とは裏腹に、武門として立つエリュシオーネは女児であっても剣をとる。無論向き不向きはあるから全ての女児が弓馬の道へ進む訳ではないが、マーキュリア・エリスは二十歳を迎える頃には名実共にエリュシオーネを体現する存在となった。
 そして、母亡き後は公子の後見として立ち、シルメナからアスレイア妃に随行してきた者達をまとめる役目を担うことになる。
 だが、彼女の背負わねばならぬ荷は決して軽くはなかった。
 かつて聖なる風の王国として大陸の尊崇を集めたシルメナは、今ツァーリの影響下にあった。朝貢義務を課され、融和のためと称して人質を要求される。シルメナの歴史に比べれば新興国と言って差し支えないツァーリの要求を唯々諾々と呑まねばならぬのは屈辱ではあったが、さりとて武力を背景に迫られてはどうにもならぬ。今のマーキュリアにできるのは、遺された公子の、ナステューカにおける立場と安全を護ることだけだ。
 ニコラ王には既に三十路に入った王太子カスファーがいる。次代の政権の所在は明らかであったが、ニコラ王はセシリア所生の公子に颯竜公の地位を与える旨、発令したのである。
 十三歳の颯竜公の存在は、この国の実権を握りほぼ代々の王妃を輩出する宰相家にとっては心地好いものではなかっただろう。颯竜公とは、今でこそ実体のない名誉職のように扱われるが…本来は国王直轄。その任免は国王のみに委ねられ、宰相と同格の強権を振るうことも可能な地位である。
 颯竜公の称号があると言えど、今はまだ十三の子供。そのことが、彼をかろうじて謀略の渦に巻きこませずにいる。だが計算ずくの謀略でなく、感情的な猜疑心に駆られた者が公子の命を狙う可能性さえあった。
 とりあえず無事を確認したことに安堵して、マーキュリアは踵を返す。だが、いくらも行かないうちに向こうからくる人物に気がついて足を止めた。
 銀に近い金の髪と、翠とも碧ともつかぬ不思議な色彩の双眸。優しげな面差しをすこし緊張に硬くしたその青年が、足早にマーキュリアに駆け寄る。
「部屋へ戻っているわけでもないようだよ。…一体何処へ…」
 マーキュリアは破顔して背後の巨木を示した。
「ごめんなさい…あの子がもう見つけていた」
 彼も樹上の人影を認めたらしく、ほっとしたように表情を和らげた。
「邪魔はしないほうがよさそうだね」
「神経質になってた。…まさかこんな席で、とは思ってたけれど…」
「マーキュリア…」
「あまり人を疑いたくはないのだけれど、状況が厳しすぎる…ごめんなさい、ライエン」
 笑みが、翳る。それは疲労の翳りであった。
「…本来謝らなければならないのは、私のほうさ」
 そして彼の笑みには、自嘲があった。彼女の肩を抱いて、もときた道を辿る。
 ライエン=ヴォリス。ゆくゆくは父の後嗣としてこの国の宰相となる身であった。
 その妹であるレリアは王太子の正妃1として立つことを望んでいる。
 父宰相はともかく、レリアが十三歳の颯竜公を見る目は厳しい。年齢のことをさておいて、将来の可能性としてカスファーの地位をおびやかす存在と見ているからだ。マーキュリアの危惧に一番近い人物は、他ならぬレリアであった。
 現国王が崩御すれば、少年を護るのはマーキュリア達しかいない。それが彼女の細い肩をへし折りかねない重圧であることが、ライエンには分かりすぎるほど分かっていた。
「マキ…私にできることなら…」
「ありがとう…」
 彼女とてライエンの立場は心得ている。深入りすれば彼が身内との対立を余儀なくされることが分かっている以上、無条件に縋ることなどできない。
 …しかし、ライエンの想いが彼女の支えとして大きな位置を占めていることもまた確か。
 二人とも、お互いの想いが将来に結びつきえないことを知っている。だが、彼女は絶望も達観もしていなかった。未来そのものを信じられなかった所為か、それとも僅か数ヶ月後の惨劇を予感していたのか…
 白い靄を淡い水色の瞳に映して、マーキュリアは呟く。
「あの子達を見ていると…いっそ時間なんか止まってしまえばいい…と思うことがあるわ…」

─────だが、時間は止まってはくれなかった。

***

「セレスが、休み!?」
 衛兵隊第三隊隊長・エルンストはディルの報告に書類をさばく手を止めて声を大きくした。
「…だ、そうですよ」
 ディル自身、何処か不得要領といった面持ちだった。
「一体どうしたってんだ?」
「俺に聞かれたって分かりませんよ」
「いやま、そりゃそうだろうが」
「…眼が、痛むそうです。出てきてはみたけど仕事にならないから、今日は休ませて欲しいって…。でも、何かこう、様子がおかしくって…」
「じゃ、今はオリガさん2 とこか?」
「多分。隊長に伝えといてくれって言われて…変でしょ、何か。セレスなら大抵、ちゃんと自分で申告していくのに。何か顔色もよくなかったし、具合悪いんじゃなければいいけど」
「・・・・・」
「・・・・隊長?」
 返事がなくなったのに気づいて、ディルはエルンストの方を見た。エルンストは書類をそっちのけにして中空を睨んで動かない。
 あ、まずかったな。自分が振った話とはいえ、ディルは内心で舌打ちした。これは仕事が滞る流れパターンだ。上司の性格をきっちり把握している副長は、小さく溜息をつくと書類の山を自分の机に移動させた。仕方ない、今日は仕分けだけしておいて、あとでまとめて決裁してもらおう…。

***

 夕闇の中、微風に乗ってその小さな家から僅かに芳香が流れてくる。
 ジェロームの自宅兼診療所は…その昔手柄のあった騎士に下賜されたという館址を譲り受けて改装したもので、建物は古いが敷地には相応の広さがある。離れもいくつかあって、セレスはジェロームの内儀であるオリガの伝手でそのうちのひとつに寄留していた。
 エルンストが扉を叩くと、間もなく反応があった。扉を開けたセレスの顔色は、確かに余り良いとはいえない。
「大丈夫か?」
「ご迷惑をおかけしました、隊長…」
 セレスは蒼白な顔を引き締めて言った。その様子が、痛々しくすらある。
「…違う、セレス…」
 扉を閉め、ようやくのことで立っている細い身体を抱き寄せた。セレスはされるままに、少し目を伏せる。
「眼だけじゃないだろう。…何が、あった?」
「何も…」
 セレスがその腕を広い背中に回して、呟くように言う。
「…ただ、眼が痛むだけ…」
「………」
 不意に、右眼の傷を覆う鴉羽色の髪をかきあげられ…セレスの身体が僅かに震えた。構わず、エルンストがその傷痕に唇を寄せた。
 傷に触れた温かさに、セレスの呼吸がふと停まる。
 痛むのは眼の所為ではなかった。でも実際に痛みを訴えるのは右眼の傷。その痛みを触れている温かさが消すから、痛みの原因が出口を失ってしまう。
「…ここにいて…」
 泣きはしない。だが唇がそっと離れ、かきのけられた髪が元通り傷を覆ったとき、溜息とともに漏れた声は弱々しい呟きにしかならなかった。
「ここにいて…私をここに留めて…私…何処へも行かない…ここにいたい…から…」
 怯えでも、怖れでもない。ただ、かなしさ。哀しさ、愛しさ。その所以を、エルンストは知らない。
 セレスは語らない。ならば、それは語るべきでないこと。語るべきことになったら、彼女は語る。だから、尋かない。
 彼女の苦しみだけが、背に回された指先から伝わる。だがそこはまだ、自分の踏みこむべき領域ではない…。
「…分かった、ここにいる」
 それ以上の言葉は、必要なかった。

***

 セレスは褥から身を起こすと、寝乱れた黒髪を後ろへかきやった。
 蔀戸から洩れ入る薄青い光は朝の気配を伝えている。暁闇ぎょうあんの中、すぐ傍で静かな寝息と共にゆっくり上下する広い肩がぼんやりと見えた。
 大地と同じ色の髪にそっと手を触れる。深く寝入っているのか、眉一つ動かさない。
 心配をかけていることは分かっている。理由を知りたがっていることも分かっている。でも今は敢えて何も尋かず、ただそっと支えてくれるエルンストの心が、いっそ胸が苦しくなる程に嬉しかった。…この温かさに身を寄せていると、一刻ひととき全てを忘れた。
 だが今は、眼の奥の痛みが残酷な記憶を呼び覚ます。
 颯竜公が王城に出仕しての帰り。宰相家の名を用いて呼び出し、レリアがよもやあんな凶行に及ぶとは…誰も想像していなかっただろう。姉マーキュリアをはじめとした颯竜公の近侍はもとより、ヴォリス家の者達ですら。
 レリアは颯竜公に毒を盛り、倒れたところに短剣を以て突きかかったのだ。
 唯一人、傍にいた少女は必死に割って入り、顔を斬られて昏倒した。
 レリアは毒で動けない少年を刺したが、致命傷には至らなかった。なおも止めを刺そうとしたところへ、ライエンが制止に入ったものの、レリアが振り回したやいばはそのライエンさえも襲った。
 結果として、颯竜公は重傷ながらもその命を取り留めた。彼が毒で落命しなかったのは、僥倖にすぎない。ライエンはレリアを取り抑えることには成功したが、この時負った傷がもとで命を落とすことになった。


 事件は内々に処理された。ニコラ王が死の床にあったという事情が大きく作用した。マーキュリアは、事件を公表しない代わりに…ヴォリス家に颯竜公の亡命を黙認させたのだ。
 姉にしてみれば血を吐く思いでの選択であったに違いない。だが、毒で衰弱し傷を負った颯竜公を護るためには他に手段がなかった。
 レリアは一時幽閉され、入内の件も沙汰止みになるかに見えた。しかし登極したカスファーによって恩赦され、数年後にラリオノフ公リュースを授かり、さらにはアニエス妃亡き後正妃として立てられる…。

 割って入った少女…ケレス・カーラ。今はセレスを名乗る彼女もまた、傷による高熱のため一時は命も危うかった。辛うじて一命をとりとめ、失明も免れたがその顔に消えない傷を刻まれることとなる。…そのため一族によって生存を秘された。
 ケレス・カーラはあのまま死んでしまった。そういうことにでもしないと、颯竜公は王都を離れることを承知しなかったからだ。…実際には承知したというより訃報に茫然としているところを、無理矢理連れ出したと聞いている。
 この傷を晒して、かのひとに会うことはできない。
 僅かな時間だった。だが、かのひとは確かにセレスを見た。それが、彼女と判ったからなのか否かは判然としない。だがそうだったとすれば、彼女の生存を知られたことになる。
 死んだと聞かされた、幼馴染みの生存を…。
 負い目と思わないで欲しい、というのは無理なのかも知れない。だが、彼女はただ大切なひとを護りたかっただけなのだ。
 自分が斬られたことで救援が駆けつけるまでの時間稼ぎになったなら、片眼を失っても微塵も悔いるところはなかっただろう。彼女にとってはそれだけの重みを持った存在だった。
 ────それが、かのひとを傷つける結果になろうとは!
 いつか帰ってくることは分かっていた。そう望んでもいた。けれど、こんなに早いとは思ってもみなかった。それも、こんな残酷なタイミングで。
 エルンストのおさまりの悪い髪を指に絡め、刻みつけるように胸のなかで呟く。
 ────私は…セレス。ケレス・カーラはもういない。

  1. カスファーには既にシェノレス出身のアニエス妃があり、先年公子(アリエル)も儲けているが、正式に立后されたわけではなかった。ツァーリ以外の出自を持つ妃が正式に立后されることは稀。
  2. 衛兵隊第三隊隊舎のすぐ傍に自宅と診療所を構える山羊髭爺さんことジェロームのおかみさん。かつてはエリュシオーネの一族の一人。