楽園の夢

上弦の月

 第三隊の陣を離れ、巡礼を装って風神殿へ入り込み、巡礼者に開放されている宿舎で夜を明かしたセレスは、実のところ行動を起こしあぐねていた。
 今はともかくもこの国の中枢にいる人物に連絡を取らねばならない切迫した事情があった。現レーダ大公ルアセック・アリエルとの面識はない。シルメナ宮廷のつてもない。父の知り合いならまだこの国にも何人か生きているはずだが、それとて彼女自身に彼らと接触する術を持っている訳ではなかった。
 彼女は結局、血筋的には生粋のシルメナ人でありながらツァーリ生まれのツァーリ育ちなのである。
 その上、連絡を取らねばならないという根拠も、彼女には十分だったが、他人からみれば決して説得力に富むとは言い難い。
『ツァーリが、シルメナに対して謀略をめぐらしている。先王の葬儀、新王の即位式に起こす騒ぎに乗じて…』
 確かに、酒場の与太話としても笑い飛ばされそうな話ではあった。王統は保たれているとは言え、シルメナの現状は王族を根絶やしにされたシェノレスと紙一重である。重い朝貢義務、王族の姫の輿入れ強要…。しかしそれもシルメナを保つためのぎりぎりの妥協であった。そんなシルメナから、一体何をこの上巻き上げようというのか。
 突拍子もない情報を持ちこむには、セレスの存在は軽すぎるだろう。いっそレーダ大公邸に直訴して、エリュシオーネの紋の入った懐剣を拠り所に身分を明かすという手段もあったが、信用されるかどうかは賭の域である。信用してもらったところで、父の娘でしかないセレスの言うことを、一体どれだけ信じてくれるだろう。
 殊更シルメナ王室に義理立てせねばならない理由は「セレス」にはない。だが、「ケレス・カーラ=エリュシオーネ」には十分過ぎるほどあった。
 「セレス」にあるのは、卑劣な謀略の手駒として使われることをよしとしない、一直線な傭兵隊長が下したギリギリの決断を…決して無為にしたくないという強い想いだった。
 雇われの身では表立って反論も出来ないが、謀略が成功するのも面白くない。第三隊が動かねばならぬとしたら尚更。……だから、一番シルメナの事情に通じたセレスをそっと陣から出したのだ。この信頼に応えねばならない。
 セレスは懐剣に手を触れ、表情を引き締めた。

『いちか、ばちか。エリュシオーネの名を明かして切れ者で聞こえたレーダ大公ルアセック・アリエルに直訴する。あとは、切れ者の切れ者たる所以に期待するしかない…』

 巡礼者達が憩う樹園の一隅である。考えを纏めようと座していた木陰から立ち上がりかけた時、不意に声をかけられた。
「何処から来られました、お武家様」
 少し隔たったところには巡礼者の集団がいたが、セレスのいた辺りには人気がなく、セレス自身人の近づく気配を感じ取れなかった。
 ・・・・・セレスが、感じ取れなかったのである。
 振り向いた先には、龍禅人らしい男がいた。西方特有の、鴉羽色と言われるつやのいい髪を後頭部に結い上げて布で包み、かんざしを挿している。服装も一見して龍禅人と分かるものであったが、彼はやや訛りながらも結構流暢なシルメナ語を喋った。
 どうやら完全にセレスを男と勘違いしているらしかったが、それは彼の咎ではない。それでなくても男装を常としているセレスが、わざわざ念の入った細工をして男の振りをしていたのだ。男装をしていても女と一見してわかれば、単独行動の際には引き寄せなくていい危険を引き寄せることがあるので、陣を出てすぐとった処置であった。
 気配を感じられなかったことに一抹の不気味さを感じもしたが、よくある巡礼者の格好をしていたセレスとしてはいきなり「お武家様」とこられたのに少々めんくらった。
「…どうして、私が武家のものだと?」
 その男は深い緑の目を細め、穏やかな笑みをして言った。
「なりはどうあれ、細かい所作に出自は出るものでしてね。商いをしておりますが、人を診るのも私の仕事でして…」
「…では、薬師か何かですか、御身は」
「はい」
「失礼ながら、薬師殿に私の出身を明かさねばならぬ理由はないと思うのですが」
「…これは御無礼を。いや、ここしばらく旅先の気安さか、自分のことを頼みもしないのによく話して下さる方が多くて…すっかりそれに馴れてしまっておりました。お気に障りましたらお許し下さい」
 温雅な物腰で素直に謝られて、セレスは気が立っていたことに気づき、調子を改めた。
「いや、こちらこそにべもない返答をしてしまって申し訳ありません。…龍禅の薬師殿は、商いでここへ?」
「それもありますが、旧い友人がメール・シルミナに滞在しているという話を聞きつけましてね。久しぶりに会ってみようかと足を向けた次第です。残念ながら、友人のほうがそれどころではないようで…せっかくですから商売なりとして帰ろうと思っていたところです。いかがでしょう、薬の御用はございませんか?」
 セレスは笑った。
  藍祥ランショウと名乗ったその薬師は、やはり龍禅の人間だった。セレスよりも頭一つ分高い長身で、若いようにも見えるがその物腰は温雅で若さよりも成熟した人格を感じさせた。
「…レーダ大公殿下に謁見?」
「ええ、許可状は取りました。うちはシルメナ王室の方々にも品物をお届けしておりますのでね」
「…藍祥殿、私も同行させていただく訳にはいきませんか。荷役でも何でも承りましょう」
 無茶だとは思った。だが、レーダ大公邸にはいる手段が目の前に転がり込んできたのを見逃す訳にはいかない。反問は承知の上だったが、是が非でも言いくるめるつもりでいた。
 …しかし。温雅な薬師は柔らかく笑んで頷く。
「そう大きな荷物があるわけではないんですが…構いませんよ? そうですね、何といっても『アリエル』と名のつく王が百何十年かぶりに即位するんですから、是非お目にかかってみるべきですよ」
 拍子抜けもいいところだったが、セレスはひとまず胸を撫で下ろす。

 ────レーダ大公邸にはいる手段を手に入れた。

***

 葬儀と即位式のごたごたで時間がないはずなのに、それでも日々の謁見を欠かさないルアセック・アリエルの活力エネルギーは想像を絶するものがある。控室の膨大な人数を見て、セレスは溜息をついた。
「…ああ、いたいた。こっちですよ」
 藍祥の声だった。
「何処に行っておられたのです?」
「いえね、許可状を出しに行っていたんですよ。謁見できるそうですから、行きましょう」
「謁見…?謁見の間ではないのですか?」
「ええ」
 昨日と微妙にいでたちの違う藍祥が、やや悪戯っぽい笑みをした。
「少々特別・・な許可状でしてね」
 さすがにセレスは警戒した。話がうますぎる。
 控えの間を出ると、侍従らしい者が待っていた。侍従は藍祥に慇懃に礼を執り、先導する。藍祥は自身を薬師で、商人と言っていたが、それにしては侍従の態度はかなり丁寧だ。……セレスは微妙な違和感を感じた。
「どうぞ、こちらへ」
 侍従について廊下を歩きながら、藍祥は言った。
「…信用してもらって結構ですよ?」
 思わず、セレスの足がとまった。相変わらず温雅な表情で、藍祥が振り返る。だがその時初めて、セレスはこの男がいつの間にか刀を腰に吊っているのに気付いた。レーダ大公に謁見するのに帯剣を許される者など…!
 とっさに、剣に手がのびる。
「…悪いようには、ならないと思いますよ。悪いようになったと思ったらいつでもその剣で突いていただいて結構ですから、今はとりあえず手を離しておいて下さい」
 近づいたときに、この男が気配のかけらも感じさせなかったことを今更のように思い出す。…あるいは、早まったのかも知れない。
 奥まった一室の扉の前には、屈強の兵士が二人ほど配されていた。
「殿下は」
「お待ちです」
 侍従と兵士の間でそんな短い会話が交わされ、扉が叩かれた後、開かれた。セレスは礼を失しない範囲で内部へ視線を奔らせる。通常の謁見の間ではない。比較的小さな部屋で、部屋には一人の青年の他は近侍の者がひとりだけ。
 銀の雨のような豪奢な銀髪を揺らして、その青年が立ち上がった。
 青年の合図でゆっくりと扉が閉められると、青年が口を開く。
「佐軍卿殿、遠路はるばる御苦労。私がレーダ大公・シルメナ王太子、ルアセック・アリエルだ」
 “藍祥”は深く一礼して言った。
「この装いゆえ西方式の礼法である事、ご容赦を。
 はじめてお目にかかります、レーダ大公殿下。ノーア佐軍卿・シュライ、ノーア公ミザンの勅命にてまかしました」
 セレスは弾かれたように顔を上げた。
 “藍祥”が半身にセレスを振り返り、にっこり笑っていた。
「さ、伝えなければならないことがあるのでしょう?」
 セレスは、しばらく呆気にとられていた。
「佐軍卿殿、そちらは?」
 セレスの様子を訝しんだルアセックの言葉に、セレスは覚悟を決めた。その場で、シルメナ式の最上礼を執る。
「…かつてのエリュシオーネのおさ…エファン・ケフェウス=エリュシオーネが娘、ケレス・カーラにございます。
 殿下、此度の葬儀ならびに即位式に、ツァーリがなんらかの干渉をしてくる可能性があります。おそらく衛兵隊第三隊が動くはず。御身のまわりに御注意下さい…!」
「…エリュシオーネ!?」
 ルアセックの声が、かるく跳ね上がった。
「佐軍卿殿、これはどういう…」
「…では、率直に」
 藍祥…否、ノーア佐軍卿・シュライが打って変わった射るような強さを持った視線をあげ、ゆっくりと、だが冷然と言った。
「…ツァーリが、「聖風王の王冠」を欲して蠢動している由。レーダ大公殿下におかれては、身辺に御注意なされよとの、ノーア公よりの伝言にございます」
 情報がもたらされるまでの、ややこしい経過はこの際無視された。セレスは勿論、ルアセックまでも一瞬声を失う。

***

 大陸暦500年、大陸に「狂嵐」が吹き荒れ多くの国が壊滅した。
 さして強国でもなかったシルメナが生き残ったのは奇跡と見えた。しかしその王アリエル・リクス・ラ・シルメナは、剰え壊滅した国々の難民を保護し、「風」を従えて「狂嵐」を鎮め、大陸に平和をもたらしたという。
 「狂嵐」がおさまった後は大陸の復興に力を尽くし、大陸共通の大陸暦もこの頃整えられた。数百年が過ぎ、国が乱立した後もなおこの暦が使われるのも、いまだに聖風王アリエルの聖恩に敬意が払われていることのひとつの現われである。
 かつて「大侵攻」の際にヴォリスがシルメナの王統を絶やさなかったのも、ひとつには聖王の血筋にそれなりの敬意を払ったからとも言われている。
 つまり、大陸暦500年以来この国がどんな地位に置かれても、有形無形の敬意がひそかに払われてきたのだ。言わば、大陸じゅうから聖なる国、聖なる王冠としての扱いを受けてきたのである。
 ─────今のシルメナに、かつての聖風王の時代のような権勢はない。それどころか、ツァーリの勢力下に置かれて搾取されるばかりの哀れな国である。だが、聖風王の国という、その王冠の価値だけは失われていなかった。聖風王の王冠。大陸ひろしと言えど、その王に聖王の名を冠せられるのはシルメナ一国なのだ。

***

「…この国のわずかな矜持をも、奪いとろうということらしいぞ。
 シードルはヴォリスの係累……ジェドの実弟だが、要職にはありつけないでいる。ここらで一旗揚げる心づもりなのかもしれんが……傍迷惑な。大陸の均衡バランスを考えた時、あまり意味がないということには思い至らんらしいな」
 感情を閉じ込めて、ルアセックが漏らした言葉。その辛苦が、サーティスにはよく理解っていた。
「確かなことはまだなに一つ分かっていないのだろう。探りをいれてみないことにはな。…俺に、できることはあるか」
「嬉しいことを言ってくれる。だが、この際は気持ちだけもらっておくさ…」
 そこで一旦、言葉を切る。
「時に、サーティス」
「…なんだ」
 ふと上げた、翡翠の瞳の悪戯っぽい光にサーティスが思わず身構える。
「この情報は二ヶ所から流れてきてな。一つはおおやけ筋のものだが、もう一つ、ツァーリであってツァーリでないところからもたらされた」
「…何が言いたい」
 サーティスがすっかり構えてしまっているものだから、ルアセックは露骨におもしろくないという風に溜息をついた。
「…やめた。親切な説明をつけるのもばかばかしい」
「説明?勿体のまちがいだろう」
「…言ったな…よーし」
 ルアセックは侍従を呼んで何事かを言いつけた。
 ややあって現れて人物に、サーティスは思わず立ち上がる。暫時の沈黙の後、彼女は礼という形でサーティスと目を合わせることを避けた。
「…お久しぶりです、殿下」
 何故ここに、という問いが出せる状況ではなかった。
「…ルーセ、一体……!」
「細かいことは後で本人に聞け。…それで、だ。ケレス・カーラ=エリュシオーネ」
 セレスはすっと身を屈め、最上礼を取った。もともと武人の家系であり、セレスも一応そういう教育を受けている。その所作はごく自然に板についていた。
「父の命を遵守すること30年余り。父は逝ったが、この私から礼を言う」
「勿体ないお言葉、恐れ入ります。亡き父や、叔父が聞けば喜びましょう」
「…それで…今度のこと、良いのか、お前は」
 彼女が「セレス」の名で、今は衛兵隊の第三隊に籍を置いていることを配慮したのである。
 さすがにセレスも数瞬の間を置いた。だがそうした沈黙の後に紡ぎ出された言葉は、これ以上無いほどにはっきりとしていた。
「私は理由わけあってエリュシオーネを出ました。しかし、今の私は第三隊ツァーリの者でもございません。ただ、卑劣な企みを快く思わぬ人物の采配によって……此処に遣わされたとご理解ください。後のことは、いかなるご配慮も無用にございます。
 殿下がそれをお許しあるなら、私も探索の末席にお加えくださるようお願い申し上げます」
 ルアセックは薄く笑み、にわかに話を隣に振った。
「…ということなんだが、お許しあるかね、殿下・・
「茶化すな、この場合お前のことだろうが…レーダ大公ルアセック=アリエル。
 お前が別に構わんならな。しかし、いくら今のシルメナでも“影”はいるだろう」
「無論だが……内情を知っているものに任せるほうが効率がいいことぐらい、常識だろうが」
「…本当に、それだけか?」
 サーティスが、若草色の瞳を露骨に疑りの色に染めてルアセックを見た。
「お前、身内ぐらい信用しろよ?…ったく、厳しい環境だったのは良く分かるが、そんなに疑り深くちゃ友人もできんぞ」
「お前だから疑うんだ」
 音節を区切るようにして必要以上にはっきりと言われても、この鷹揚なというより図太い従兄はびくともしない。
「…という訳で、許しは出た。シードル卿の身辺、探ってみてくれ。この連中をつかうが良い」
 呼び鈴の音に、二人の男が出てきた。
「リダスと、レクシス。若いが、いずれも“影”としての修練は積んでいる」
 そして、二人の男に対してはこういった。
「…エリュシオーネの、ケレス・カーラだ。…と、今はセレス、で良いのか?
 以後、彼女の命に従え」
 エリュシオーネ、と聞いて、さっと二人の顔が緊張した。
「彼女の命は、私の命として聞け。良いな」
「はっ!」

***

 セレスはルアセックの命令で神殿に房を与えられた。
「セレス…何も、あいつルアセックの言いなりになってやることはないぞ?」
 その夜。静まり返った神殿…居並ぶ神像の間に佇んでいた彼女に、サーティスはそう言った。
「…私を…セレスと呼んでくださるのですね」
 振り返ったセレスを、天窓から差しこむ青い月光が照らし出す。その目は、まっすぐにサーティスを見ていた。
「…殿下も気になさっておいでなのでしょう?でしたら…」
「ルーセは悪い奴じゃないが、人に貧乏籤を引かせる名人だからな。…それに、いくら内情を知っているといっても、顔が知れすぎていてはやりづらいだろうに」
「大丈夫です。彼が私を陣屋から出した訳を思えば、じっとしてもいられません」
 さすがに、言葉を封じられる。
 シルメナに仕掛けられた卑劣な罠。それに、エルンストは協力しなければならない。それがいかに不本意なものであっても。何故なら、彼は隊長だから。ツァーリ衛兵隊第三隊の、隊長だから。自分が動く訳には、いかない…
「時々、あいつが羨ましくなるな…」
 苦笑。…それしかなかった。それを知ってか知らずか、セレスが優美に微笑み返す。
「…あいかわらず元気か、あいつは」
「殿下のことを…とても案じていました」
「…あいつらしいな」
 冴えた月は白い顔の左半分を照らし、右半分を闇に沈ませる。
「…とにかく、無茶はするな。…セレスに何かあったら、俺はルーセと縁を切らなければならなくなる…」
 腕を、のばす。闇に沈んだ側の頬にサーティスの指先が触れた。指先はやわらかく輪郭をなぞり、白い顎をとらえる。
「…殿…下…」
 毅然とした顔に、ふいに怖れが翳を落とした。…怖れ。いや、怯え…。
「…嘘だよ」
 笑って、サーティスは手をひいた。抱きしめてしまえば、あの日の再現だ。いや、それよりも状況は酷くなる。分かっている。分かりきっている…。
「お寝み…考え事もいいが、あまり身体を冷やすなよ」
 そう言ってサーティスが踵を返しても、セレスは俯いたきり、何も言えずにいた。俯いたまま、表情を隠したまま…。
 もう一言、何かを言いかけてサーティスは口を噤んだ。…そしてそのまま、本殿を出る。
 与えられた房へ戻りかけて、ふと樹園に足を向けた。
 風神に奉献された樹園は、日中こそ参拝者が木陰に集まって休憩したりと相応ににぎやかな場所だが、今は人影の一つとてなく、静かなものだ。
 樹園は柵で囲われているわけではないが、石造りの門柱があり、そこから石畳で道が敷かれている。
 寒気が、肌を刺すようだった。月明かりに照らされる樹園は、さながら水底のような静寂を保ち…石畳が月光に白く浮き上がっている。
 ───自分の中の一部が、自分の中の別の部分を嘲っていた。
 忘れたつもりで、忘れていない。思い切ったつもりで、思い切れていない。
『セレス…』
 再会したときから彼女を張り詰めさせていた何かが、その名で溶けたのが分かった。
『私を…セレスと呼んでくださるのですね』
 もう一つの名で、呼べる訳がなかった。呼べば、彼女を苦しめることになるのが分かりきっていたのだから…。
 子供同士の想いが、将来の結びつきと同質である訳がない。
 錯覚だ。叶えられることのなかった、行き先を失った想いの見せた幻像だったのだ。その幻像に惑わされ、セレスを傷つけた。だからもう、その名で呼んではならない…その名で彼女を呼ぶ資格はない…そう結論づけたつもりだった。
 …なのに何故いま、こんな想いに苛まれなければならない?
 怯えの翳りを湛えた表情が脳裏をよぎる。そんな反応リアクションで報われても仕方無いだけのことを、彼はしている。
 いっそ剣を突き立てられたほうがましとさえ思える痛みに、随分長いこと忘れていた感情に気づきはじめていた。
 求めれば、彼女は抗うまい。彼女の裡の血が、それを許さないだろう。だが、その瞬間にサーティスは彼女を永遠に失う。そのことはあの日に痛みと共に思い知らされていた。
 ────いっそ真っ直ぐに拒んで欲しかった。…そうすれば、あるいは諦めもついただろう。そんな一種自虐的な想いを抱いたことも一再ではなかった。
 なぜ、彼女なのか。彼女の心が自分でない男のもとにあるのを承知していて、どうして思い切れないのか────?
 このままではいずれ、とんでもないことになるような予感がしていた。妙な寒気を覚えて、上着を羽織りなおす。
『…笛…?』
 いつの間に聞こえはじめたものか…細い旋律。高く、低く…かなりの奏者であるようだ。聞き憶えがあるように思ったのは、気の所為か。
 しかしこの寒空に、夜中の樹園で笛を吹くなぞ少々では済まされない変わり者である。…だがサーティスには、その「変わり者」に一人ばかり心当たりがあるにはあった。
「…だがあいつが今時、こんなところに何の用だ?」
 樹園の中へ足を踏み入れて、呟く。月に照らされた石畳を四阿の方へ向かって歩きながら、音の源を探る。
「嬉しいですね、聴き分けてくれるとは」
 居所が掴めない。だが、声はサーティスの頭上から降ってきた。
「…!?」
 さながら、月光を湛えた水底に音もなく流れが生じたようであった。ふわりとした穏やかな風…それがやんだとき、四阿に向かって敷き詰められた石畳に黒髪の竜王が音もなく舞い降りる。
 ノーア佐軍卿・シュライ…こと、愁柳。紫電竜王しでんのりゅうおうと渾名されたかつての竜禅皇太子。虫も殺さぬ穏やかな容貌でありながら、その剣技と軍才は西方諸国をして震え上がらせ、度々刺客を送り込ませた。それでいて、唯一人の女のために地位も国もあっさりと棄てた男。
「…どうしたんです?」
 やおらこめかみを押さえて俯いてしまったサーティスを見て、不思議そうに尋ねる。
「…ルーセだけでも十分持て余しているというのに、また厄介なのが来たから頭痛を催しただけだ」
「数年ぶりの挨拶とも思えませんねェ。友達甲斐のない人だ」
 心底落胆したように、愁柳が深い溜息をく。
「昨今やられっぱなしで卑屈になってるだけだ。気にするな」
 サーティスにとってはルアセックも十分鬼門だが、愁柳はそれにも増して苦手だった。
 ルアセック辺りはくえない性格なのは外から見ても分かりきっている。それが愁柳になると・・・人畜無害な容貌かおをして、一度怒らせた時の豹変ぶりときたら、鬼神も裸足で逃げ出しかねない。
 基本的には温雅な人物ではあるのだが…サーティスとしてはまかり間違っても敵には回したくない。
「…さては、“おおやけの筋”は愁柳か」
 莞爾として、愁柳。
「それもありますけど、本当のところは私のほうでも調べるつもりで来たんですよ。先王の葬儀と即位式には大公殿下の名代としてナルフィも列席しますし、妙な騒ぎに彼女を巻きこむ訳にはいきませんから」
「成程…ほかの理由でお前さんが動く訳はないか」
 この野郎、という表情を、サーティスは隠そうともしない。
「しかし、レーダ公はかなり本腰入れて動くようですし、私はもう手を出すまいと思っています。実際、事が事だけに非公式とはいえあまり私が首を突っ込むのも問題ですからね。せっかく友人が二人ばかり近くにいるんだから、ちょっと挨拶してから帰ろうかな…と」
 ひどくのんびりとそう言い、愁柳が簪を抜いて髪をまとめていた布を取り払う。癖のない烏羽色の髪が流れた。
「…エルンストには、会えなかったんだろう」
「そうなんですよ。あからさまな取り込み中に雑音を入れるのもよろしくないかと思って遠慮しました。…ま、お蔭で思わないところで情報が出てきましたけれど。エルンストが見事射止めた姫騎士殿とも話ができましたし」
「…セレスのことか、それは」
「ツァーリ衛兵隊の第三隊…氷刃セレスといったら結構有名ですよ。エリュシオーネの出とは知りませんでしたがね。繊いのにあのはがねのような所作にも納得がいきましたよ」
 少し面白がるような表情で、サーティスを見る。
「…だろうな」
「何むすくれてるんです?」
「…っ…!俺は何も…」
 微風が吹いた。風に吹かれるというより、風を従えて鴉羽色の髪が流れる。
「サーティス…自分で決めた事には、責任持たなきゃ駄目ですよ。つい気持ちがぐらついた、じゃ済まされないことだってあります」
「…愁柳!」
 温雅な微笑が消える。深い緑がサーティスを射た。
「私は何も見ていないし、聞いてもいません。そんな人間が何を言うかと思うでしょうけど…前にノーアを訪れてくれたときのあなたを見ていれば、ツァーリで何かあったことぐらい容易に察しがつきます」
 サーティスが黙りこむ。
「…あまり偉そうなことを言える立場じゃありませんけどね。私自身、満更そういう経験がないでもないですし。
 感情に素直になることはそれ自体悪い事じゃありません。況して何もかも裡に閉じ込める事がいいとは決して言いませんが、時として口に出してしまうことが、行動に出してしまうことが、誰も救われない結末を導いてしまうこともある。…殊に、ある立場の人間は。
 自分が何者であるか、それを自分によく言い聞かせておくんですね。…颯竜公・・・レアン・・・サーティス・・・・・
 愁柳の言葉はごく穏やかであったが、重みがあった。
 ノーア佐軍卿という重職にありながら、堅苦しいことが嫌いなこの男が…サーティスを称号つきの名前フルネームで呼んだのは、およそ初めてのことではなかろうか。
「俺は・・・・────」
 何かを言葉にしようとしたとき、不意に耳朶を滑った声に思わず硬直する。
 ─────サーティス…
 囁くような、声。サーティスは顔を上げた。
「…どうしたんです?」
 ─────サーティス…帰ってきて…
 全身の皮膚が泡立つ。背筋を這い上がる悪寒を奥歯で噛み潰して、サーティスは声を高くした。
「…誰だ!」
 四阿の石柱で身を支え、握った拳で石柱を撲つ。
「誰だ!いい加減にしろ、俺は知らん!」
「一体何なんです?」
「…!…愁柳には、聞こえないのか」
「耳はいいほうだと思っていますけどね…!」
 戸惑いの彩を載せてそう言いかけた愁柳が、不意に、厳しい顔になって後ろを振り返る。立ち並ぶ木々の、狭間がつくる闇。
 途端にそこにいた何か・・が跡形もなく消えた。
 同時に、サーティスを襲っていた異様な寒気も潮がひくように消えていく。
 平静に戻った腕の皮膚を撫でて、サーティスは深く息をついた。
「助かった…愁柳」
「いえ、私は何もしてませんが…何か・・、いましたね。確かに」
「…何だと、思う?」
「調べてみなければ、なんとも。…でも、陰謀の探索よりは、こっちを調べたほうが面白いような気はしますね」
 サーティスは、憮然として言った。
「面白がってるだろう」
「…まあ、言っちゃ何ですが他人事ひとごとですから」
 正直なのも時に善し悪しである。感謝する気持ちも見事雲散霧消してしまった。