蛍火の海

月明かりの海

 燐光に包まれた静かな夜のみぎわをゆっくりと歩く。
 人も通わぬ無人の島というわけではないが、この浜の反対側に小さな集落があるきりだ。それでもいくつかの希少な薬種が採れると聞き、彼女がこの島に来て十日あまりが経つ。
 前任者の提出した数年前の記録と照合し、採集を行い、数日かけて小さな島を踏破した。生活にも慣れて少し余裕が出てきたから、ふと思い立って夜の浜へでてみたのだった。

 そして、息を呑んだ。

 波打ち際に青白い光が揺れていた。……話には聞いたことがある。発光する微小な貝の一種だ。自身が光る訳ではなく、波の中で揺れながら光の基となる液体を吐き出すのだという。そうして流れた後に光の軌跡が残る。さながら、陸上の蛍が光跡を残しながら飛翔するように。
 昼間は砂の中に潜り、夜になると海中へ泳ぎ出て水底に沈んだ死魚の肉を喰らう。
 だから、汀に横臥して燐光に包まれている黒い塊を見た時、彼女は一瞬、仔イルカの遺骸でも打ち上げられているのかと思った。朝に通ったときはなかったと思う。なら、打ち上げられたのは昼以降か。
 砂浜に広がった銀河の如き光景に一刻目を奪われていたから、気が付いたときにはそれはほぼ目の前にあった。
 まだ腐臭を放つほどの時間は経っていないらしい。思わず立ち尽くしたが、本来イルカのむくろぐらいで動じる彼女でもない。足を停めたのは、散乱する光の中に横たわるものから突き出ているのが、ひれでなく人間の腕だと気づいたからだ。
 折しも雲が切れ…砂と海藻にまみれた金褐色の髪が、汀に落ちる淡い月光をはねた。
 まだ息がある。
 人を呼ぶには此処は集落から離れすぎていた。しかし人手を集める間にまた波に浚われてしまっても寝覚めが悪いから、肩に担いで満潮線よりも陸側の岩場まで引き摺り上げる。
 岩場に上体を凭せかけておいてから、ここ数日の仮屋としている場所から椀に一杯ほどの水を運んだ。
 乾き、かさついた唇の間から僅かな量の水を与えるが、擦過傷すりきずだらけの肩に緊張が走って、噎せた。…海水を呑み込めば沈む。陸に上がっていたとしても脱水を促進して死に至る。この極限状態でもその判断から、口腔に入りこんだ水を吐き出そうとしたのは明確だった。
 耳許に唇を寄せ、ゆっくりと…発音する。
「落ち着け。これは真水だ。飲める」
 彼女の声は届いたようだった。のろのろと腕が上がり、あてがわれた椀に手を添えて水を飲む。今度は噎せることなく、その椀一杯ほどは嚥下した。
 砂粒を纏った睫が微かに震える。その瞼の下から現れたのは、若草色の双眸だった。
 目前に広がる、燐光を放つ海が視界に入ったのだろう。一瞬目を瞠る。
「……此処は…?」
 すこし掠れてはいたが、シルメナ語であった。ツァーリの手前おおっぴらな交流はないものの、ここらはもうかなり西の方になるから、稀に難破したシルメナの船が漂着する。船から落ちたか、あるいは船そのものが木っ端微塵になりでもしたか。周囲に船影はなかったが、浮いてさえいれば潮流の関係で驚くほど遠くまで流されることもある。どちらにしても命冥加なことだ。さしあたってはシルメナ語に切り替えて、彼女は言った。

「此処はシェノレス領ラ・ロシェル。私はシェノレス神官府典薬寮の神官、クロエだ。
 御辺、立てるか。とりあえず手当てを」

***

 身体全体が軋む。だが、冷たい真水で海塩と砂粒を洗い落とすことが出来たから、焼け付くような皮膚の痛みから解放されたのは有難い。
 海水を掛けて晒された擦り傷の痛みというやつは、十分に拷問として機能するだろう。傷の消毒目的で塩を使う手法も聞いたことはあるが…こうして自分が味わったあとではとても試す気にはなれない。十中八九、毒を塗ったと誤解される。
 喉の渇きはおさまっていた。昨夜、案内された水場で身体を洗ったついでに十分な量を飲めたからだ。
 海岸線からほど近いというのに、潤沢な湧き水だった。限界に近い脱水状態にあったのだから当たり前だが、酒よりも美味うまい水など生まれて初めて飲んだ。
 乾いた衣服と牀を与えられるが早いか無警戒に眠り込んだことには忸怩たるものがあったが、この状態で何を警戒しても殆ど意味はないだろう。出会った相手が悪ければ身ぐるみ剥がれた上に殺されてしまい、という状況とて十二分に有り得たのだ。

 目を開ける。蔀戸から漏れ入る薄日の下、帆にも使われる丈夫な布の敷布シーツが視界に入った。緩慢に身を起こすと、まだしとみを降ろしたままの室内は薄暗かったが、外は既に陽が高いようだった。周囲を見渡すと、漏れ入る光の中、木箱や壺、麻袋が処狭しと置かれる雑然とした室内が見える。
 その向こうに綱で編んだ釣床ハンモックがぶら下がっていたが、家主人いえあるじの姿はなかった。
 どうやら釣床ハンモックが本来の寝床だったらしい。牀と思っていたのは、運搬用の詰草を敷いた上に布をかけてあったのだった。
 立ち上がり、雑多な荷物をひっくり返したりしないよう、慎重に間をすり抜けると、扉を押した。
 眩しいばかりの陽光が目を射る。その中に、彼女はいた。
 板の上で乾燥させていたと思しき薬種を丁寧に紙でくるみ、箱詰めしていた。そう言えば昨夜、典薬寮の神官だと言っていたか……。
「目が覚めたか」
 艶やかな黒髪を後頭部で結い上げ、簪で止めている。女としてはかなり背が高い方だろう。
「連れが気になるのは理解るが、あまり俄に動き回るな。それだけ熱が出ていれば身体が軋むだろう」
「…熱?」
 ひどく間の抜けた声だったに違いない。てっきり打撲の痛みだと思っていたのは、発熱による関節痛だったのだ。自身の額に手を当てて、初めて異状に気づく。
「…は、そうか…」
「ひょっとして、今気づいたか」
 彼女が呆れたように言った。まあ、そうだろう。自分とて同じ立場だったら呆れてものも言えまい。
「…昨夜の水場…借りて良いだろうか?」
「構わんよ…その裏手だ。しかし御辺、大丈夫か」
「感謝する…」
 少々ふらついているのをようやく自覚しながら、冷涼な水の匂いに牽かれるようにして年季のいった苫屋の裏手に回る。
 苫屋の裏手は岩山になっていた。岩の割れ目から吹き出る清水が樋で受けられた後、浅い池に落ちて水路から流れ出している。池といっても石が敷いてあり、採集してきた薬種を洗浄・選別するのに使われているらしかった。
 借りた服は神官衣であるようだった。何処の神官衣もそうだが割合に緩くできているから本来は襟元の紐を緩めると簡単に脱ぎ着できる。それが汗でひっかかったことで初めて自分が汗をかいていることにも気づき、舌打ちした。
 服を敷石の上に滑り落とし、半ば倒れ込むようにして水に入った。
 清冽な水の感触がぼやけた意識を引き締める。
 呼吸を整え、肩に水を掛けたとき…背に痛みが奔って、変色した植物の葉のようなモノが流れ落ちた。水面を滑る葉の正体に気づいた時、それが背にある広範な擦り傷に対する手当てだと悟る。熱の原因はこの傷か。
 色合いからしてそろそろ取り替え時期とは思ったが、折角貼って貰った薬草をそのまま流してしまうのも一瞬気が咎めて拾おうとした時、思わず身体が凍り付く。

 岩場の狭間から、大きな蛇が鎌首を擡げていた。…有難くないことに此方を見ている。

 大蛇は獲物を丸呑みするか巻き付いて絞め殺すものだから毒はないというが…正直当てにならない。わからなければ毒を持っていると思って対処するのが上策。だが残念なことには今、丸腰だった。
 さて、どうしたものか。
 喧嘩しなくて済むならその方がいいのだが、向こうは既にこちらを侵入者と見做しており、喧嘩を売る気は満々のようだった。

***


 裏手の水場を使うときの重大な注意事項について言い忘れたことを思い出したクロエは、それを伝えに丁度水場へ足を向けたところだった。
 大きな水音に、思わず足を速めた。
「…おい、無事か!」
 派手な水飛沫が舞う。太さで言えばその直径はクロエの腕の軽く倍はある。長さなら身長ほどの蛇体が池の水を断ち割って墜落したところだった。一拍遅れて、拳を二つ重ね合わせたほどの大きさの物体がクロエの足下に落下する。……蛇の首であった。苫屋の壁にめり込むような勢いでぶつかった後、その自重で落ちたものらしい。
「…すまない、やっておいて今更だが、ひょっとしてこの水場の護り神かなにかだったか?」
 客人の手には薬種を捌くための山刀があった。水場脇の敷石の上に置いたままにしていたのはクロエだが、まさか飛びかかってくる大蛇の首を両断できるような代物とは思っていなかった。
「こちらこそすまない。心配は無用だ。時々やってきては集めた材料を喰うのでいつか退治してやろうと思っていたんだが、手間が省けた。それも貴重な薬種だ。…ついでに捌いて貰えれば有難い」
 それを聞いた客人は発熱で少し朱くなった顔のまま、くすりと笑って山刀の刀身を水で洗った。
「薬種…? そうか、そんな話もあったな。もう一眠りさせて貰った後でよければ…手当ての代金代わりにそうしよう」
「御辺、薬師か? ……そう言えば、まだ名を訊いていない」
 岩場に滑り落としたままの服を取りながら、客人がいらえた。
「……サーティス。御身のようにきちんとした所属があるわけではないが、一応医者の真似事で糊口を凌ぐ身だ」
「ではサーティス。その背の傷はもう一度手当てさせてくれないか。薬が剥がれてしまった。きちんと覆っておいたほうがいいだろう。その色だとおそらく、膿んでくる」
 クロエの言葉に、客人は素直に頷いた。
「そうだな、借りた服を汚しても申し訳ないし…頼む」
 そう言って、はおりかけた服をもう一度肩から滑り落とした。

***


 苫屋の中は蔀をあげてもそれほど明るさは変わらない。本来、住居というより薬種の倉庫のようなものなのだろう。だから、家主クロエ釣床ハンモックなのだ。
 クロエはサーティスの背の傷を酒で洗い、薬草を張り替えて包帯で固定した。洗い方はかなり荒っぽかったが、おそるおそる洗うと却って時間が掛かる分、長く痛みに晒されることになるということを熟知した処置だった。実に手慣れているというか、場数を踏んでいることを窺わせる手練しゅれんであった。
 褥へもう一度緩々ゆるゆると身を横たえたサーティスに、クロエは薬の調合に使う道具をおさめたひつを開けながら問うた。
「身体が辛ければ熱冷ましもあるが…どうする」
 彼女がそれを敢えて問うたのは、サーティスに予備知識があると踏んで、敢えて熱を下げないことで感染を早く終熄させるほうを択ぶ可能性を考えたからに違いない。ゆっくりと身体を仰向けにしながら、天井を仰ぐ。
「そうだな。耐えられんことはないし…下手に遷延させてもつまらん。薬はいい」
「わかった。だが、熱の所為で眠り損ねるようなら不味いが」
「有難いことに…眠れないで困ったことはそうなくてな。あぁ、何ならさっき消毒に使った酒を貰えれば有難いが」
「…それはせめて熱が下がってからにしろ。調子に乗るな」
「厳しいな」
 思わず笑う。クロエもまた笑って、櫃を閉じた。
 その時、サーティスはふと部屋の一隅…蔀戸のすぐ脇に置かれた籠に気づいた。慎ましい羽撃きと、低い鳴き声がした所為だ。薄明かりにぼんやりと浮かび上がる籠の中には、二羽の鳩がいた。
「ところで…あれも薬種か?」
「いや、連絡用だ。今朝、一番近い神官府の出先へ連絡をした。近くで難破した船があれば、その状況を訊こうと思ってな。…余計だったか?」
「…助かる。よくあるのか、こういうことは」
「時折…な。シルメナの船が此方に漂着することもあるし、逆にシェノレスの漂流者がイオルコスあたりで拾われることもある。お互いさ。ツァーリに知れると何かと面倒だから至極こっそりとだが、たすけ合うのが暗黙のルールだ」
 そこまで言って、ふと気づいたように言った。
「…御辺、大層流暢なシルメナ語だが、シルメナ人ではないな?」
「ばれるものだな。…まあ、血の半分は間違いなくシルメナなんだが…まあ、詮索しないで貰えれば有難い。少なくともツァーリの間者ではないからそこは安心してくれ」
「そんな心配はしていないが…まあ良いさ。マキという女のことも、とりあえず訊かん方が良いのか?」
 さらりと問われ、サーティスは得体の知れないものに噎せて咳込んだ。
「……俺は何を喋ったんだ」
「何を慌てる」
「いや、何も慌てちゃいないが…」
「普通、熱に浮かされたあの状況で、野郎おとこの名を口走ったりはせんものだろう。殺すまでは死ぬに死にきれない不倶戴天の敵というならともかく。そういう・・・・感じではなかったからな」
 そう言うクロエの顔は、明らかに面白がっているふうであったから…サーティスはすっかりばつがわるくなって片手で眼を蔽う。
「マキというのは、まだ11…いや12歳になったか…今は俺が面倒を見ている子供だ。さる御仁からの預かりもので…うっかり怪我でもさせたら俺が絞め殺されかねんのだ。俺だってまだ命は惜しい」
「…その割には、落ちついているな。一緒の船だったのだろう?」
「俺がこうして生きているんだ。マキなら絶対に無事でいるさ」
「そういうものか」
「そんなものだ」
「ふうん…」
 クロエの面白がるような表情は消えたわけではなかったが、とりあえずは話を打ち切る気にはなったらしい。
「鳩が帰ったら、次の便でその子の安否も確認しておこう。先方にも伝えてやらねばなるまいから、お前の名を報せるが…いいな?」
「…ああ、よろしく頼む」

***


 女、と訊いたのは半分鎌を掛けたつもりだったが、結果としては半分当たりで半分外れ……というところか。確かにマキという子が旅の連れであることには違いないのだろうが、その名にはまた別の意味があるように思えた。
 クロエは水場に戻り、首を落とされた大蛇を日陰へ吊した。加工するにも血を抜いてからでないと手がつけにくい。
 その壮絶な切断面をまじまじと見て、クロエは軽く嘆息した。
 あまり手入れが良いとは言えない山刀、それも俎上でごりごりと押し切ったわけではなく伸び上がった処を空中で一閃とは畏れ入る。どれだけの膂力と速度で斬ったらこれだけ鮮やかに切断できるのか。
『まあ、詮索しないで貰えれば有難い』
 背の傷は海に落ちた際に壊れた船の破片か流木で傷つけたものだろうが、肩には別の…かなり旧い、広範な傷があった。一歩間違えば命に関わったであろう傷だ。少なくとも、あまり穏やかな生き方をしてきた訳ではないらしい。
 旅の医者の護身術としては、どう考えても過ぎた技術うでであったが…確かに詮索するのは野暮というものだろう。
 少し癖のあるその髪は少し暗いが、光線の加減で甚だ豪奢に見える金褐色アンティークゴールド。対照的に双眸は早春に芽吹いた瑞々しい若草と同じ色であったが、その奥には決して融けることのない氷塊を抱いているようにも見えた。
 人好きのする微笑を浮かべながら、肝心な所は何一つ明かそうとしない所為か。誰かと似た雰囲気が訳もなく腹立たしい気がして、クロエは軽く頭を振る。
 ――何を理不尽な。
「〝サーティス〟……か」
 シルメナでは珍しい名というわけではない。血の半ばはシルメナというのも嘘ではあるまい。明確な隠し立てをするでもなく、これまでも問われたことには殆ど答えている。それなのに、ひどく気を惹かれる。
 昨夜、熱に浮かされながら誰かを呼んでいた時の、ぞくりとさせるような艶が幻であったかのようなひょうげた様子がいっそ面憎つらにくくなる……。
 血で汚れた水場を洗い流し、クロエはついでに水鏡で自身の髪を整えた。
「…どうかしている」
 水鏡に映った自身に向けて、クロエはそう毒づいた。