巣立ちの唄

巣立ちの唄

 夜明けの薄闇の中で、セレスは身を起こす。
 緩々と服を整えてから、小さく息を吐いた。規則的な寝息と共にゆっくりと上下する精悍な肩に上掛けを寄せると、先程までセレスの枕に供されていた逞しい腕が上掛けの端から出てしまった。
 その掌に、セレスはそっと掌を重ねた。指を絡め、掌から伝わる熱を感じる。
 そのまま、セレスは彫像のように動きを停めていた。
 夜明けを告げる鳥の声が聞こえ、セレスは身を折って重ねた掌に額を寄せる。その時、セレスの喉から細い嗚咽が漏れた。

***

 ジェロームが言ったように、慣例として第三隊隊長は原則として前任者の推薦をもとに国王が任命する。しかし引責辞任という形である以上、後任について口出しすべきではないだろうという判断のもと、エルンストは後任者を定めないままの辞任をするつもりだった。
 王城から後任者を選定せよという文書が再三届いた。だがそれに沈黙で応えようとしていたエルンストに、セレスは宰相リオライ=ヴォリスの負担を減らしたいなら後任人事まで責任を全うしてから辞任すべきと説いたのである。
「…隊長さえよろしければ、私が隊長職を引き継ぎます」
 その日。何度目かの催促の文書を握りつぶしたエルンストに、セレスはそう言った。
 エルンストは即答し損ねた。
 セレスは既に副長の地位にある。それはいかにも妥当な人事であるはずだったが、エルンストにとってはその妥当性を認めながら首肯しかねる選択肢だった。
 だが、それがほかならぬセレスの口から出たのであれば。
 エルンストはややあって、その提案を承諾した。
「…お前に任せられるなら、俺も安心して此処を離れられるな」

***

 復帰後のセレスは、セルア館と王城、ヴォリス邸の間を取り持つ連絡役としてひどく忙しくなってしまった。
 その日、書類の束を抱えてセルア館へ到着したセレスは、奥の庭園から響いてくる流麗な旋律にふと足を止めた。
 聞いたことのある旋律だが、楽器の見当がつかない。そもそも、この館からがくの音が途絶えて久しい筈だ。
 マキは不在のようだったが、勝手知ったる館である。乗騎を厩にいたレクシスに任せ、セレスは旋律のみなもとをさがして庭園へ回った。
 案の定、テラスで見慣れない楽器を奏でているのは旧主であった。
 弓で弾くところは提琴フィドル1に似ているが、胴よりも棹のほうが長い。大きななつめを割ったような胴を膝の上に置き、棹を立てて弾く。時に愉しげに歌い、時に啜り泣くような旋律に、セレスは暫くそのまま聴き入っていた。
 旋律がんで初めて、我に返る。
「…声ぐらいかければいいのに」
 弓を置いて、旧主が苦笑した。
「申し訳ありません。思わず聴き入りました」
「褒めても何も出んぞ。久し振りだから指が動かん。無様ぶざまなものを聴かせてしまった」
「それは西方の楽器でしょう?そんな物が置いてあったとは存じませんでした」
「ああ、これは西方むこうで見たものを、帰ってきてから見様見真似で作ってみただけだ。まあ、なんとか聴ける音が出るから置いていた」
 器用といえば器用なのだが、何にでも興味を持つところはあの頃と変わりが無い。セレスは思わず口許を綻ばせた。
昇翔賦しょうしょうのふ、でしたか? 確か巣立ちの唄、とも。懐かしいものを弾いておいでですね」
 よく知られたお伽噺だ。神域に棲む霊鳥の雛が誤って下界へ落ち、人に拾われ、養われた後に天に帰った。その際、成長した霊鳥が養ってくれた人間への感謝と離別の哀しみを込めて唄ったというのがこの歌である。荘重な詞もついているが、春の訪れを寿ことほぐ宴席で旋律だけが奏されることも多い。
「春の風に乗せるにはいい曲だからな。なんとなく弾いてみたくなった。…傷はどうだ、セレス」
「問題はありません」
「あまり働き過ぎてまた熱をださんでくれよ。俺がまたマキに噛みつかれる」
「はい、この間も散々叱られました」
『姐さんじゃなきゃできないってのは判るけど、無茶だよ!もうちょっと身体を大事にしてってば!』
 角を生やさんばかりの剣幕を思い出して、セレスとしては珍しく、低く声を立てて笑ってしまう。これまたヴォリス邸との往復で忙しいマキに、昨今、顔を見る度に叱られ通しだ。セレスとしては全く返す言葉がなかったが、だからといってそうそう休んでもいられない。
 しかし旧主にも同じことをもう少し柔らかい言葉でたしなめられ、セレスは更に恐縮することになる。
 前日、国王・宰相との何度目かの会談が終わったという旧主はまた、宰相リオライ=ヴォリス退位後に摂政として国政を担うことを了承した旨、彼一流の…ややひねた物言いでセレスに告げた。
 ある意味、戦役の平定より難渋したぞ…と渋い顔はしていたが、その穏やかな声音にセレスは安堵した。
「よくご決心なさいました。大変な時期に重責を担われるご心労…お察しします。微力ながら…私もお手伝いいたしましょう」
 極力、声を揺らさないように…穏やかな笑みを保って、セレスは告げた。
「衛兵隊第三隊は、私が預かります。本日、隊長就任の件について宰相閣下にもご裁可を頂いて参りました」
「…セレス…?…」
 セレスの言葉は、旧主にも意外だったようだ。旧主は既にエルンストの辞意を知っている。おそらく、彼女もまた、程なくこの国を離れるのだと…思っていたのだろう。
 少し顔を厳しくして、ゆっくりと諭すように…旧主は言った。
「言っておくが、私への義理立てなら無用だぞ。…お前はセレスだ。エリュシオーネのケレス・カーラは…もういない」
 旧主の言葉の意図は解っている。だが、セレスはもう決めていた。
「はい。存じております。
 〝ケレス・カーラ〟ならば…今頃、殿下に泣いていとま乞いをしていたでしょう。あのひとについていきたいと。命の限りその星霜を共にしたいと。
 …ですが、セレスにはまだ、ここでしなければならないことがあります」
 自分自身にも言い聞かせるように、セレスは告げた。
 王都に残り、第三隊をまとめる。華奢な身体に烈火のごとき想いを秘めた勁く優しい新王妃ミティア、そして『颯竜公』の役目に立ち戻ることを決意した旧主が目指す、この緑砦ナステューカの平穏を護る剣となる。そう在りたいとセレス自身が願い、そう決めたのだ。
 旧主は暫くセレスを凝視みつめていたが…深く吐息して椅子に身を沈めた。
「分かった、もう言わん…」
 旧主は指先で眉間を軽く揉むような仕草でその目許を隠す。
 セレスは胸奥に、針で刺すような痛みを感じた。韜晦する悪癖はあるものの、心根は優しい方だ。自分セレスが無理をしていると…思ったのかも知れない。

***

『どうしてっ!?』
 その日、セルア館へ着いて馬を下りるなり…セレスはマキに両肩を掴んで詰め寄られた。
 マキもセレスがこの地を離れるものだと思っていたらしい。ただ、その反応は旧主よりもはるかに強烈で…マキに説明するための言葉を探すために、セレスは少なからず努力を要した。
 守りたいものが沢山あるこの王都から、離れたくない。…その言葉に決して嘘は無い。だが、マキには到底理解してもらえそうにない理由もまた…存在した。敢えてそこを省いたセレスの説明に、マキが両眼を涙で一杯にして頷くのを…セレスは胸の何処かに細く鋭い痛みを感じながら見ていた。
『…やっぱり、セレス姐さんは強いね…。だって、セレス姐さん泣いてたよ。…隊長さんと離れたくないって』
 羨ましい。いっそ妬ましくなるほどに、優しく真っ直ぐな娘。おそらくは、セレスの選択を強さという一語で括って無理矢理納得しようとしているのだろう。この子ならば、きっとどんな境遇にあっても真っ直ぐでいられる…。
 セレスは、マキが力を必要とした理由を概ね知っていた。
 マキのほうでは秘密のつもりでいるようだったが、旧主は知っていても知らない振りを通し…ただこの美しい苗木に水を与え続けていた。それを、こっそりとセレスに教えたのである。
 故郷と訣別した少女の、幼いが確然たる誓い。旧主との約束でセレスもまた知らぬ振りを続けていたが、その想いの強さと恐るべき行動力にセレスは称賛を惜しまない。
 ――――彼女の想い人は、現在ツァーリの宰相の位にある。
 多分最初は、無邪気な憧憬。しかし彼の立場を識るにつけ、少女は想う人を扶ける力を得たいと願い、そのために努力を重ねてきた。
「どうした、またマキに叱られたか」
 摂政就任に向けた準備のために膨大な書類と格闘していたところへ、さらに追加の書類を持って現れたセレスを…旧主は苦笑いで迎えた。
「ええ…と言うより、泣かせてしまいました」
「…エルンストとのことか」
「優しい子です。…まるで我がことのように。私は私の理由で此処に残るのに、あの子の心を痛めさせてしまって…何か申し訳なくて」
 そう言いながら、王城から預かってきた書類を渡す。旧主はそれについては何も言わず、ただ書類を受け取った。ややあって、視線を合わせず、沈然と告げる。
「今日…森で、おそろしくひまそうな奴に会ったぞ」
 答え損ねて、セレスは暫く沈黙した。少しだけ、俯く。
「思い直すなら、今のうちだ。あれは絶対理解ってないぞ。理解らなかったら訊けばいいのに、あいつはそれができない。いつものように、物分かりのいい振りしてただそっと離れるつもりなんだ。なべて大雑把なくせにどうしてこういうことだけ繊細なんだかわからんが、結局それで損をしてる。
 きちんと話せ、セレス。あの莫迦に察しろってのは無理だ」
 だが、顔を上げた時…セレスは微笑を浮かべていた。
「もう言わない、というお約束でしたよ。殿下」
「…わかった…」
 旧主が吐息する。受け取った書類を仕分け、返送するものを文箱に収めてセレスの前へ置くと、顔を上げた。
「…では、頼みがある」

***

「えーと…これ、着るの?」
 時代のかかった衣桁ハンガーに架けられた、淡い緑色の長衣ドレス
 万夫不当、およそ怖いものなど現世うつしよに存在しないのではないかというこの娘が、珍妙な怪物に出くわしたかのように頬をひくつかせるのを…セレスは笑いを必死に抑えながら眺めていた。
「そうよ、マキちゃん。颯竜公・・・の正式な使者ですもの、『ラリッサ公主リュシアン=ミアレス』として、正装・・してもらわなければ困るわ」
「あの、これじゃ、馬に乗れないけど…」
「勿論…当日は馬車。御者はレクシスがしてくれるわ。護衛と兼ねて」
「たかが森の中走るぐらいで、護衛なんて要らないってば! セレス姐さん…実は、面白がってるでしょ!?」
 マキがセレスを横目で睨む。セレスはそれを涼しげな笑みで受け流した。
 摂政にして颯竜公レアン・サーティスが、退任した宰相・リオライ=ヴォリスの、ノーアへの旅立ちに際してはなむけを贈る。その使者として立つのは、その保護下にあるラリッサ公主リュシアン=ミアレス。

 その支度を、セレスは旧主から依頼されたのであった。…とはいえ、セレスは礼法はともかく支度については型通りのことしか分からない。そのため、きちんとその体裁を整える為に、セレスはオリガの助力を仰いでいた。
「オリガ小母おばさーん…」
 マキは帯をはじめ、細々こまごまとした装身具を整えているオリガの後ろ姿に助けを求めるように声をかけてみた。
 しかし、振り返ったオリガの満面の微笑に…マキは逃げが効かないことをはっきりと悟った。いつもは細くしっとりと落ち着いたその両眼には、素敵な玩具を見つけた子供のようなきらめきが溢れていたのである。
 …これは確実に、セレス以上に張り切っている。
「嬉しいわ、マキちゃん。セレスはこういうことにさっぱり無頓着だったから…」
 マキは大きく吐息して、それからおもむろに項垂れた。
「いつも着ているものと違うから、動きづらいとは思うけど…裾捌すそさばきにはある程度コツもあるのよ」
 体型に合わせた調整をするため、実際にマキに長衣ドレスを着せて印を打ちながら、オリガが実に楽しそうに説明をする。マキは姿勢だけはぴしりと伸ばしているが、げんなりした表情は如何ともしがたいと言った風情だ。
「あ、えーと…そのへんとか礼法一式、前にシルメナで女官長さんからたっぷりご馳走になったから…一応」
「おやまあ、さすが殿下。行き届いたこと」
「あの時は本当にやる羽目になるとは想わなかったんだけどなー…これも経験だからっていきなり放り込まれたんだよ? ホント、疲れた…」
「早速、役に立ってよかったこと。…うん…まだマキちゃんの方がすこし小柄ね。いいわ、余るぶんには差し支えないもの」
「ごめんなさいねオリガさん、急なお願いで」
「任せておいて、セレス。こんなに楽しいのは久し振りだわ。…あ、マキちゃん。一度脱いで貰っていいわよ」
「やった、ようやく脱げるー!」
「こらこら、そんなことで本番はどうするの?…何カ所か仕付け糸で縫っているからそーっとね」
「はーい」
 返事はしたものの、マキが長衣を脱ごうとする手を止め、そのまま数歩…鏡へ歩み寄る。鏡の中の自身に対峙しながら、ふと問うた。
「ねえ、訊いていい?」
「どうしたの?」
「…この長衣ドレス、セレス姐さんのじゃないよね?」
「よくわかったわね。どうして?」
「うーん、そこはなんとなく、なんだけど。姐さんが何だか凄く懐かしそうに見てるから。…誰の?」
「それはね、私の姉のものよ。姉も剣持つ者だったから、長衣ドレス姿なんて実は私でさえほとんど見たことがないの。マキちゃんの長衣姿を見てたら、ああ、こんな感じだったのかな…って思ったのよ」
「似てるの?…セレス姐さんと」
 問われたセレスは言いよどんだ。何せ、別れたのは自身もとおに満たない童女だったときのことだ。
「そうね、似てるわね。やっぱり黒髪で、眼がセレスよりもすこし淡かったかしら。あなたの黒髪に合うかもじ2とかかんざし釵子さいし3…そう、歩揺ほよう4もあったはずね。みんな彼女のものよ。ああ、あれも一度合わせておかなければね」
 嬉しそうにそう言ったのは。オリガだった。
「〝マーキュリア・エリス〟って…ひょっとしてそのお姉さん…だったりする?」
 セレスはもとより、オリガも一瞬声を失った。
「…あ、当たり?」
 突然生じた空隙に答えを悟ったマキが、振り返って笑う。だが、その笑みは微かではあったが翳りを帯びていた。
「ええ…。誰から、その名を?」
「風神殿の巫女頭みこがしらさん。女官長さんからも名前だけは聞いたかな。…サティはそのひとのこと、マキって呼んでたって。…そのひとが若くして亡くなった時、サティは命も磨り潰すんじゃないかっていうくらい悲しんでたって。…好きだったのかな。そのひとのこと」
 セレスには、何も答えてやることはできなかった。
「そのひとが亡くなって暫くして、サティはシルメナからいなくなっちゃったんだって。直前の様子が様子だったから、心配だったけど…また元気な姿が見られてほっとしたって、巫女頭さんが言ってた。
 なんだか吃驚しちゃった。大酒呑みで女癖悪くて、愛想いいときもあるけど基本冷淡だし…サティが誰かのために命磨り潰しかけるほど悲しむところって、想像できなくって」
「随分な仕打ちを受けて…大変な傷も負っておられるから、なかなか本心を明かされない部分もあるけれど…心根は優しい方なのよ」
「それは、識ってるけどね…。そっか、姐さんのお姉さんだったのか…。綺麗なひと、だったんだろうね。こりゃ…かないっこないなぁ」
 この娘にしては珍しく、やや含みのある苦笑を零す。
「マキちゃん…?」
「んー、ごめん。ただの独り言。さてと、脱ぐにしても気を付けないとねー」
「待って、手伝ってあげる」
 セレスは立ち上がり、マキの後ろに立った。背中側にボタンがあるから、一人で脱ぎ着するには少々無理がある。着るときはオリガが手伝ったが、オリガはその時、裁縫道具の片付けで手が塞がっていた。
「ありがと、セレス姐さん」
 マキの肩の位置は、セレスのそれよりもまだ僅かに低い。姉のために誂えた物ならば、確かに少々丈を詰めなくてはなるまい。
「…私…ね、好きなひとがいるの」
 マキが、鏡を見つめたままゆっくりと言った。鏡、というよりも…そこに映る自分自身へ宣するかのように。
「最初にそのひとに逢ったとき、私は何もできない幼女こどもで…私の所為でそのひとが傷つくのを、ただ見ているしかできなかった」
「マキちゃん…」
「…だから離れた。自分で立って歩ける力が欲しかった。あのひとを支られる力が欲しかったんだ」
 セレスは思わず、姉と同じ愛称なまえを持つ娘を両腕で包み込んだ。
「大丈夫、現在いまのあなたなら、きっとできる」
 ありがと、とマキが笑う。その造作に似合わぬ、どこかに何かがつかえたような苦笑であった。
「でも何だか最近、わからなくなっちゃった。
 好きだから、傍にいたい。…だから、隊長さんから離れたくないって泣いてたセレス姐さんの気持ち、すごく分かる気がしたんだ。私もあのひとの傍に行きたいと思う。傍にいて、助けてあげたいって思う。そこは何も変わらない」
 陽光を照り返す新緑の如き双眸が、鏡の中で僅かに潤んでいた。
「この間から、何度か逢えたんだ。嬉しかった。私だってわかんなかったみたいだけど、昔のことは憶えててくれたんだ。…何か胸がいっぱいになっちゃって、あやうく泣いちゃうとこだったよ」
 緑瞳を涙で揺らしながら、それでもにっこりと笑う。
「でも、わかんなくなっちゃった。私が、本当はどうしたいのか。…だってね、私がいなくなったら、サティがまたひとりになっちゃうでしょ?
 そりゃ、何でもできるのは識ってるよ?私にできて、サティにできないなんて弓とお片付けくらいのもんだし。何でも知ってて、この世に怖いものなんかないのも識ってる。でも、…あ…」
 溜まった涙が零れそうになったことよりも、それで長衣を濡らしてしまいそうになって慌てる少女の目許を…セレスはそっと手巾で抑えた。
「ごめん、ありがと…」
「…殿下のことが、心配なのね」
「きっと、『お前に心配されるいわれはない』とか、ばっさり言われるんだろうけどね」
 マキは受け取った手巾で目許を拭い、注意深く長衣を脱いでオリガに渡すと、いつもの狩着チュニックを纏って椅子に身を沈めた。
「可笑しいよね。サティが命磨り潰すほど悲しんだって、大昔の話なんだよ?…そんなの、今の私が心配したってしょうがないのに」
「優しいのね、マキちゃんは」
「そうかな。どっちかっていうと、実は怖くなっちゃったのかも。あのひとの傍に行きたいって思ってても、あのひとの傍に、私の居場所なんてないのかも知れない…とか。
 そうだとしたら…サティのことが気に掛かるって言いながら、実は自分が居心地のいい場所にとどまっていたいだけなのかもしれない。姐さんみたいにミティア様とか、エミーちゃんとか…大切なひとのために此処に残るのと違うんだ。
 …それってただ、狡いだけだよね。」
 セレスは言葉を失って立ち尽くした。だが、ややあってゆっくりマキの前に膝をつくと、改めてこの真っ直ぐな娘を抱き締める。
「…狡くなんか、ない。私よりも余程、マキちゃんは真っ直ぐに、相手のことを想っているのよ。あなたは、然るべき時に想いのままを択べばいいの。それできっと間違うことなんかないわ」
「セレス姐さん…」
「あなたはそれでいい。…それでいいのよ。
 私があのひとの傍を離れることにしたのは、確かにミティア様やエミーリヤのこともあるけど…私自身があのひとのくびきになりたくないから」
「軛って…」
「ディルの言ったことを真に受けるつもりはない。でも、この国に関わり続けることであのひとがあのひとらしさを喪うのなら…私もこの国も、あのひとにとってはアーンの足輪になってしまう。…それだけは嫌。絶対に…!」
 セレスは、自分の声が…必要以上につりあがるのを聞いた。
「待ってよセレス姐さん、姐さんがエリーさんの軛とかって…そんなん訳わかんないよ。大体、エリーさんだって何が何だか分かってないでしょ。何でちゃんと話さないの?」
「…ごめんなさい、大きな声を出してしまって。
 そうね、ちゃんと話すべきなのかも知れない。でもその瞬間に、言葉は鎖になってしまう。
 あのひとを繋ぎたくない…私のわがままなのよ。私はどう思われても構わない。私は何も言わずにあのひとを傷つけることよりも、言って私があのひとを繋いでしまうことのほうが嫌なの。
 …狡いのは、私…!」
 その時、二人の肩を代赭色のケープがふんわりと包み込んだ。
「はい、そこまで」
 オリガがぽんぽんとケープ越しに二人の背を撫でる。セレスは、自分がいつの間にかマキと同様に涙ぐんでいることに気づいた。
「ようやく言ったわね、セレス。
 マキちゃん、セレスの本音を引き出してくれてありがとう。情のこわいところは姉妹そっくりでね、なかなか想いを口に出さないものだから、この子ったら自分が何を望んでいるかさえ、時々わからなくなるようなの。
 …さあ、寸も採れたことだし、お茶にしましょう。温かいものを飲んで、美味しいお菓子を食べて。ちょっと落ち着いたら、きっと途が見えてくるわ」

  1. フィドル…今で言うヴァイオリン。マザーグースあたりに出てくる。
  2. かもじ…地髪が短くて結い上げられない場合に使用する添え髪。現代でいうヘアピース。
  3. 釵子…礼装の時に髪を上げ留めるために用いた前髪の正面につける飾り。三人官女の額についてるアレである。
  4. 歩揺…薄い金板や玉などをつらねて垂下した飾り。歩くと揺れるから、というのが字源とか。