巣立ちの唄

巣立ちの唄

 アレクセイ=ハリコフが宰相リオライ=ヴォリスの招聘を受けてツァーリ首席書記官となった時、ユーディナの司書長との兼任は叶わず一時退任を余儀無くされた。宰相リオライが退任、そして颯竜公が摂政となった後も書記官長に留任することになったが、ツァーリ首席書記官としての任務の外では、相変わらずというか、激務の合間に文書館に入り浸っていた。

『ハリコフ首席書記官が見あたらなかったら、ユーディナの書庫を探してみろ』

 宰相リオライが執務室にいなかったら中庭、アレクセイがいなかったらユーディナというのが、その頃の王城下吏たちの認識であった。そしてそれは、概ね正しかった。
 書に埋もれて死ねれば本望、と公言して憚らないこの筋金入りの書狂は、その日もユーディナ文書館の奥に籠もって至福の時間を享受していたが、文書館の下吏に来客を告げられて、怪訝な顔をした。今のツァーリに休日の文官を引っ張り出さねばならないような緊急事態がそうそうあるとは思えなかったのである。
 しかし、下吏の案内で閲覧室へ戻り、書見台の間に佇む細いシルエットを見た途端、その表情は吹き飛ぶ。
「折角の休日をお邪魔して申し訳ありません、書記官長殿」
 来客は衛兵隊第三隊の新隊長となった、セレスであった。彼にしては素直な驚きのあとに、穏やかな笑みを浮かべる。
「…いえ、滅相もない。こちらこそ、一度きちんとお目に掛かってお話がしたいと思っていました」
「私に…?」
「はい。…殿下から伺いました。恥ずかしながら…衛兵隊第三隊の副長としてのあなたには何度かお会いしているのに、ちっともわかりませんでしたよ。
 あなたはあの、小さなカーシァ…だったんですね」
 セレスは微笑を浮かべた。
「もはや私は、その名で呼ばれる者ではありませんが…。私はちゃんとわかっていましたよ。泥んこアレクさん」
 ライエン=ヴォリスに仕えていた時のアレクセイは、乗馬が苦手であったためにしばしば馬から落ちた。その割に怪我をすることはなかったものの、主人に付き従ってセルア館を訪れる時には大抵膝や肘に泥をつけた格好であったために、颯竜公の傍にいつも控えていた童女から「泥んこアレクさん」という有難くない異名ふたつなを奉られていたのである。
「あの事件の後、あなたもまた亡くなられたと聞いていました。ご無事で何よりです」
 セレスが眼の傷を覆うように…漆黒の髪をかき遣る。
「全ては殿下を無事に西方へ落とし申し上げるための策でした。結果としてあなたをも偽ることになってしまって、申し訳なかったと思っています。
 こんな傷を晒しておいて、あまり胸をはって無事でしたとは言いにくいのですが…それでも、私にもまだ役目があったものとみえ、こうしてながらえております」
「何の、またお会いできて嬉しいですよ。
 最後にお会いしたときには、まだ私の半分ほどの背丈しかなかったと思いますが…綺麗になられた。これ程マーキュリア様に似ておいでなのに、どうしてわからなかったものでしょうかね」
 苦笑しながら頭を掻くアレクセイの言葉に、セレスは何かを返しかけた。だが、それを飲み込み、威儀を正す。
「…アレクセイ=ハリコフ殿。今日は、ツァーリ随一の質と量を誇るユーディナ文書館…そこの蔵書であれば識らぬことはないという御方に、お願いがあって参りました。本来ならば一傭兵ごときがお願いできる筋の事ではありませんが、あなたが知る『ちいさなカーシァ』に免じて、何卒お聞き届け願わしく存じます」