第拾壱話 神は天に在り…

上弦の月

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「…そこに、いたんだね」
 穏やかな笑み。そこに、いかなる害意も感じることは出来なかった。だが、その正体の見当がつかずにユキノが思わずカヲルの身体を抱えたまま後退する。
「レナーテ、大きくなったね。ああ、今はユキノ、だったか」
「…どうして…その名を…まさか、大尉…!?」
 タカミの姿をしたその人物は、懐かしげに手を伸べる。だが、ユキノには彼の手を素直に取ることが出来なかった。
 ユキノはタカミが抜け出して行った経緯を知っている。カヲルが、拘束された本体を抹消することで自由になる、という手段を採る可能性についても聞かされていた。その手段が本体の物理的な破壊であれば、迂闊に近づくわけには行かない。
 ユキノの幻身はあくまでも俯瞰者であり、会話程度は出来るが物理的作用は及ぼすことが出来ない。つまり、この場面で側面なり後背から隙を突くという選択肢はなかった。
 肚を決めて、ユキノは深く息を吸った。
 最大吸気位からの呼出。普通の人間には聞き取れない音が、ユキノの喉から発せられる。予告なしの衝撃に、レイが僅かに首を竦めた。
 途端に、天井を走るパイプが一斉に砕け散って彼の上に降り注いだ。だが、瞬時に橙赤色の光の楯が出現して破片すべてを防ぐ。
 光の楯は、ユキノやレイがいるあたりまで覆っていた。パイプの破片が殆ど落下し、光の楯が消えた後に、彼の表情にあったものは…少し寂しげな微笑であった。伸べた手を下ろす。
「ごめん、怖がらせたね」
 カヲルを抱えていることで手が塞がっているユキノの前に、レイが決然と割って入る。ユキノが声を上げかけたが、レイの表情に口を噤んだ。
 彼が、穏やかに問うた。
「…あなたを、何て呼んだらいいんだろう。とても…とても長いこと捜していたのに、名前さえ知らないままだった」
 レイもまた、静かに応える。
「…レイ…綾波レイ、です」
 そして、彼をじっと見つめて、哀しげに問い返す。涙さえ溜めていた。
「…あなたは、カヲルではないんですね」
「そうでないとも言えるし、そうとも言える」
「カヲルは、もう戻らないんですか?」
「君は、彼が戻ることを望む?」
 レイは即座に頷いた。その動作で、涙が頬を伝う。
「…他には、何も望みません」
「そう…」
 彼の笑みは、穏やかな中にも変わらず一抹の寂しさを滲ませていた。だが、そこには何らかの得心があったようで、微かに頷く。
「…ならば私も、役目を終えて良いのだろうね。大丈夫。DSSチョーカーが解除できれば、彼は戻れるよ。少し、時間がかかるかも知れないけれど…」
「待ってください、大尉」
 ユキノが、自身のヘッドセットを取って差し出していた。
「…大尉と呼ばれて、否定されないということは…あなたがヨハン=シュミット大尉であることを認められたと思って良いのですね?」
「彼の裡にあった魂は傷ついている…この身体で活動できるよう復元するために必要な情報を 再読込リロードする過程で、『私』の情報を取り込んだ。『私』が、1940年代のドイツで、その名前を持っていたことについては、事実に相違ないよ」
【役目を終えられるのもいいでしょう。だが、そういうことは、すべきことを成し終えてから言って欲しいものですが】
 ヘッドセットから流れたのは、マサキの声であった。実は、タカミの本体に居るのがタカミでないと気づいた段階でユキノはずっとリダイヤルしていたのだが、ようやく繋がったのだ。
「…サッシャ」
 懐かしそうに、微笑む。そして、ユキノからヘッドセットを受け取ると、耳に当てた。静かに瞑目して、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「済まなかった。本当に…君には苦労ばかり掛けたね」
 深い…深い慈しみに満ちた声。
【悪いことをした、という認識はあるんですね。…何に、対してです?】
 マサキの声は硬い。何かを… よろうようでもあった。だがそれに対して、彼の答えは淀みない。
「私の言葉で伝えられなかったことに」
 マサキが一瞬声を失う。
「クムランの一件で君が目覚めたことに驚いたのは、彼等だけではなかったんだよ。
 『コア』は外界からの侵害刺激を完璧に遮断する、この次元での究極的な生命維持手段だ。それが解除されたことで私も君を感知することが出来たが、同時に彼等の手の内にあること、他にもいくつもの『核』がやはり彼等に抑えられていることがわかった。
 …何処かで何とかできないものかと…私なりに足掻いてもみた。だが、今にして思えば…もう一度君たちに会いたいという誘惑にてなかったのかも知れない。結果、君たちに過酷な道程みちのりを強いた。でも、私は君たちが生き残ることは信じていたよ。君たちは、そういう存在ものだから」
【…勝手ですね】
「そう言われるだろうな、と思っていたよ。言われても仕方ない」
 端正な唇の端に苦さを滲ませて、彼は言った。
「あの時は時間が無くて、道標を残していくのが精一杯だったからね。…私の言葉で伝えられなかったことだけが、心残りだった」
【話が戻ってますよ、大尉。何が言いたかったんです。あなたは、俺達に何を望んだんです…!!】
 マサキの声が苛立ちから怒気に傾斜していくまで、そう長い間はかからなかった。それでも、彼はいっこうに頓着する様子はない。
「なあサッシャ。君にももうわかっているんだ。… 世界は醜く、残酷で、容赦ない。
 ――それでも・・・世界は美しい」
 その言葉は、静かな確信に満ちていた。
「…この美しい世界で、もう一度君たちに会いたかった」
 穏やかな微笑。それを目にしたのはユキノとレイだけであったが、回線の向こうのマサキが毒気を抜かれたように黙るのがわかった。
「そして、叶うことならあなたや、彼等と和解したかった。あの時起きたのは事故であって、誰も我々の間に憎しみなど置いたりしていないのだから」
「事故…!?」
 彼の言葉に、レイはそれが自分に向けられていることに気づきながらも意味するところを掴めずに戸惑い、ユキノがはっとしたように顔をあげた。
【… 彼等リリンもそう思っていてくれたなら、今度のようなことは起こらなかったのでは? 悲惨な戦いがこの時間軸だけのことではないのは、あなたも承知のことでしょう】
「お互い、もう…たくさんのものを喪った。私は散り散りになった同胞を捜してこの惑星ほしを彷徨い、彼女は喪われた同胞を再生させるためにこの惑星の生命に干渉した。結果生まれた生命は彼女の同胞を容れる器としてはあまりにも脆かったが…それでもその生命はこの大地に満ちた。不完全であるがゆえに自己保存のための排他プログラムの束縛を強く受けたようだが…それは彼等の罪科ではない」
【彼等があなたや…俺達に対してしたことを、すべて赦すと?】
「私の手も、真っ白というわけではないんだよ、サッシャ」
 微かに混じる自嘲の響きに、マサキが言葉を呑んだ。かつて、ヨハン=シュミットはすべてを隠滅するために基地ひとつ吹き飛ばしている。
 穏やかなまなざしを立ち尽くすレイに向けて、彼はゆっくりと言葉を継いだ。
「…おそらく…あなたは自身の系譜を受け継ぐための試験個体を用意した筈だ。多分複数の。しかし結果は芳しくなかった。その遺産が今で言う『裏死海文書』。膨大な情報を的確に処理出来なかったために…この時間軸における情報は歪み…歪んだまま伝えられてしまった。惑星に着床するための原プログラムは、他系統の生命を極力排除する方向に働くから、当然の帰結ではあったんだ」
「…私はそれを、修正する努力を放棄した…?」
 レイの頬を、滂沱たる涙が濡らしていた。声が僅かに震えている。全ては、自分の罪だったのだろうかと。
「こうは考えられないかな」
 彼の声は変わらず穏やかであった。
「あなたの 統制コントロールを離れて殖え始めた生命を、あなたは同胞の依代ではなく、新しい種として認め…干渉をやめた」
「…わかりません…何も憶えていないから…今まで起こった事を知識としては知っているけど、それは私の記憶じゃない…
 ごめんなさい、わからないの…でも私…本当は世界なんて原初の海に還ってしまっても構わない。…勝手かも知れないけど、今の私は…カヲルが傍に居てくれればそれでいいの! その為だったら何だってできるの…何だって我慢できる…」
 その場に座り込み、泣きじゃくる少女を見て、ユキノは渚カヲルという少年が彼女に何も話そうとしなかった理由を理解した気がした。
 このジオフロントの更に深部で眠っているであろうリリス―現生人類がそう呼ぶ、原初の生命体―に、どんな意図があったのか…もはや知る術はない。だが、この少女が誕生したことがその答えなのではないか。
 過去の記憶を一切持たない、別の生命として生きることが。
「…彼も心からそう願っている」
 レイの傍らに膝をつき、小刻みに震える青銀の髪を優しく撫でて微笑んだ。
「心配することはないよ。彼が自身を抹消することで自由を得ようとしたのは確かだが…そんな乱暴なことをしなくても、方法はある」
 立ち上がって、カヲルを抱えているユキノに近づく。ユキノももう、 後退あとずさりはしなかった。
 その時、濡れた床に降り立つ複数の足音がした。
「…大尉…!?」
 最初はイサナだった。続いてリエ、カツミ。タカミは降り立つなり転倒しそうになりカツミに支えられる。
「ユーリ…イリス、バート。元気そうだね。アベル、もう少しだけ待ってもらえるかい?」
 彼がカヲルの頸部に装着された無粋な黒い環に軽く指を触れると、微かな電子音と共にからりと外れた。それを受け止めると、即座に橙赤色の光の飛沫がチョーカーを圧壊させた。
「…これでいい…」
【…行ってしまうのですか。大尉】
「今更私から言わなければならないことなど…何もなかったようだ。いまここで話している私は、言ってみれば幽霊だからね。長居すべきでもないだろう。でも、君たちと話せてよかった。
 そうそう、アベル?ちょっと見ない間に随分と器用になったのはいいんだけれど、魂はソフトウェアと違って傷つけると修復に時間がかかる。バックアップも効かない。今回はそれで色々助かったけど、無茶は程々にすることだよ」
 支えてくれているカツミにほらみろ、といわんばかりに頭を小突かれ、一言もないタカミが俯いて赤面した。
「…遺言のようなことを仰るのね」
 レミの口調は、やや難詰するような響きを持っていた。当時の記憶がカツミやタカミよりも鮮明な分、ヨハン=シュミット大尉に対する感情はマサキの持っているそれに近い。
「遺言…? いや、違うと思うよ。何故なら…また会えるから」
「大尉…!」
 イサナが何かを言いかける。イサナらしくもなく、何を言いたいのかもはっきりしてはいなかったのかも知れない。
「…Auf Wiedersehen. Bis bald.」
 そして、傀儡の糸が切れるようにその身体が沈みかける。次の瞬間には踏みとどまったものの、ぐらついてゆっくりと膝をついた。
 沈黙が降りる。
【…戻ったか】
「…はい」
 ヘッドセットから流れた声に、タカミが静かに応えた。その時になって初めて、カツミが、自分が支えている身体が既に抜殻…ただのダミーシステムのコアユニットであることに気づいてゆっくりと座らせ、後方の配管に凭せかける。
「ユキノ」
「…え、ああ」
 イサナに促され、ユキノがカヲルの脈と呼吸を診る。
「正常域にはほど遠いけど、一応復帰してる。まだ、肺にLCLが残ってる所為かも。まだ咳ができるほどの力が無いようね」
 縋るような目でその所作を見ていたレイの頭を、軽く撫でるようにして言葉を継ぐ。
「大丈夫よ、暖かくして休ませれば、すぐ良くなるから」
 まるで風邪の子供の面倒を見ているような口調に、カツミが吹きそうになってレミに小突かれる。
 イサナがカヲルを抱え上げて、至極平坦に言った。
「…帰るぞ」

 マサキは、そのままふらりとロビーから続きになっているテラスデッキへの扉を開けた。日の出にはまだ時間があり、凍り付くような空気が吐く息を白くする。
 いつの間にか空は晴れ、星々が冬特有の さやかな光を放っていた。
 どれだけの時間、そこに立ち尽くしていただろうか。ややあって、据えられたベンチに腰を下ろした。とうに接続の切れているヘッドセットを取ると、電源を切って傍らへ放り出す。
 乾いた音を立て、ベンチを滑って落ちる前に、それはミサヲの掌に受け止められた。
「お疲れさま。全員撤収完了よ。タケルを別にしたら、一応皆怪我はないわ」
 いつの間に来ていたものか、全く気配を感じさせなかった。マサキのほうが、既にそうした努力を一切放棄していたということでもあろうが。
「…タケルの火傷は?」
「まあ、軽ーく表面炙っただけだし、私が手を出すほどでもないみたい。すたすた歩いてるしね。とりあえず冷却中」
 マサキが軽く吐息する。
「…大人しくしとけって言っても…まあ言うだけ無駄か」
「まあ、無駄だわね」
 穏やかな沈黙が降りる。
 放り出したヘッドセットをベンチの後ろから無言で差し出され、マサキが仕方なさそうに胸ポケットへ差し込む。ややあって、マサキがゆっくりと口を開いた。
「…『Auf Wiedersehenさよなら.  Bis baldまた会おう.』だとさ。… ずるいな」
 言わなければならないことがたくさんあった筈だった。それなのに、勝手に納得して、勝手に行ってしまった。
「…それで? 振り上げた拳の下ろし処に困ってると。本当に、どうしようもないわね」
 にべもない反応に、背後に立つミサヲを軽く睨むように見上げる。
「…ひょっとして、俺か?」
「他に該当者いると思ってるの? イサナあたりは…すこし釈然としてない感じだったけど。それでも、あなたほどぐじぐじしてないわよ」
「お前、本当に情容赦無いな」
 仰向いたまま、片手で目を覆う。彼女は昔からそうだ。マサキがサッシャと呼ばれていた頃から、弱音を吐きそうになるとこうやって機先を制してくる。
 だが、言ってしまったが最後と判っているから…それはそれで有難くはあった。彼女も判っていて敢えてそういう物言いをするのは明白だった。不思議なのは、なぜそのタイミングがいつも筒抜けるのかと言うことだ。
「…頭を冷やしたいのはわかるけど、程々にね。そろそろ時間よ」
 そう言って羽織っていた厚地のショールを解き、マサキへ掛ける。
「おい、微妙に締まってるんだが」
 掛けると言うよりややきっちりと巻き付けるふうでもあったから、マサキが喉元へ手を遣る。冷え切った指先が、温かみの残るショールに触れた。
 そのことでようやく、自身の体温が下がっていることに気がつく。
「…ああ、もう入るよ」
 マサキがややぎごちなく立ち上がる。ミサヲは笑って言った。

「――――また会えるわ。すぐに」

――――――第拾壱話 了――――――