Interlude:予感 ———- AD 1970


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
Interlude:予感

 

AD 1970


 月が、出ている。
まだ春先。虫の音すら聞こえぬ、凍ったような静謐。ただその中で薄紅の花は黒い鏡のような水の面に散り敷く。
深い淵。人の営みと隔絶された山中。見渡す限り木々が生い茂り、周囲は道を見つけるのも容易ではない。水面の上さえ木々のさしかける枝に蔦が這い回り、倒木が深い影を落とす。
澄んだ水は流れの存在を確信させるが、淵に注ぐ水流は地表に見いだせない。おそらくは底に開いた地下水の出口が水源なのであろう。同じように、流れ出す水も地下へ潜るのか、流れの音は聞こえない。
そして、ゆっくりと滴り落ちる雫。
散り敷く花弁に囲まれた水面の月は、雫がつくるささやかな波紋に揺らされていた。
雫は、水面に影を落とす倒木…その一つに身を預ける者の爪先から落ちている。
やや色の淡い頭髪。20代後半から40代まで、どうと言われても納得できそうな容貌で、やや彫りは深いが日本人離れしているという程でもない。
春先の野外を歩くにはやや軽すぎる服装で、しかも濡れていた。裸足はだしの爪先を伝って落ちる雫と、それが描く波紋だけが、その光景の中の動きであったと言って良い。
ぱしゃり、と魚の跳ねたような音がした。そして、相応の波紋が水面を揺らす。
「―――――何か、あったか?」
倒木の上の人物は身動ぎもせず、ただ両眼をゆっくりと開けて問う。
「…何もないなら邪魔するな、とでも言いたそうだな。サキ」
「別に、そこまで言わんが」
高階マサキはそこで初めて、ゆっくりと声のした方へ顔を向けた。淵の周囲は半分ほどは切り立った岩場。もう半分は木々生い茂る湿地、ありていに言えば泥濘だ。泥濘を避け、岩の上から水面に近づくのは至難の業である。
水音の中心には、靴が片方、浮いていた。
「降りてくるなよ。この樹も然程丈夫なわけじゃない」
水面に手を翳す。水面が僅かに波立ち、周囲の水と共に靴が浮きあがった。水と靴は見えない糸に牽かれるように彼の手元に引き寄せられ、彼が靴を取ると同時に水だけが水面に降る。
「ほらよ」
靴を岩棚の上に向かって抛り投げる。
「済まんな、手間をかけた」
受け取った方は、言うだけは言って悪びれもせずそれを履いた。確実に水に浸かった筈の靴は、きれいに乾いている。
助言に従って岩棚を降りる事を諦めたのか、元々降りるつもりもなかったのか、岩の上に座す。同年代のようだが、落ち着いた所作がやや歳嵩にも見せる。至って東洋的な容貌で、切れ長だが黒眼がちな両眼はどうにも感情を読ませない。
鯨吉ときよしイサナ、という名前は、この国日本に渡ってきてから適当につけた名ではあるが、いみじくも彼の特性を言い当てていた。イサナ…魚の王、水の中に住む者と意思疎通する能力を持つ堕ちたる天使ネフィリム
「その格好…何処か、行ってきた・・・・・のか?」
「いいや」
そう短く応いらえてから、イサナの問いが濡れた衣服に対するものだと気づいてか、マサキが補足する。
「水面に近づきすぎて、いっぺん落ちただけだ。直に触れてたほうが感知しやすいのは確かだが、あんまり水浴にいい季節じゃないからな」
「…そんな格好では、いっそ水の中のほうが温かそうな気がするが。此処の水は、冬でも凍らないぞ」
「莫迦抜かせ、イサナおまえじゃあるまいし」
「俺はちゃんと体調を管理コントロールして入ってる。少なくとも、唇が紫色になるまで浸かりっぱなしになるようなヘマはしない」
「…!」
慌てて自分の口許に指で触れてから、爪の色でようやく自分の体温が危険域まで下がりかけていることを認識した。慌てて呼吸を整え、下がりすぎた体温を調節する。
おかげでイサナに「やっぱり泳いでたのか」と突っ込み損ねた。
「…ここしばらくヘンな奴がうろついてないか、周囲まわりを見回ってただけだ。大丈夫、何も変わりは無い。
それより、どうして此処に?やっぱり、あれか。この下の住人から何かご注進でもあったのか?」
暗い水面は花が散り敷くばかりで、魚影のひとつとて見えぬ。だが、マサキは苦笑交じりにそう問うた。
「俺の場合、触れてもいない水の中にまで感知は及ばん。まあこのあたりで、サキが使いそうな水脈に繋がるところといったら此処しか思いつかなかっただけだ」
「察しがいいな」
マサキの周囲にふわりと霧が現れ、水面を渡る微風に吹き払われる。表面に現れた変化はただそれだけであったが、霧が吹き払われたあと、雫が落ちるほどに濡れていた衣服はこれも乾いていた。
「…ちび共は、やすんだのか?」
「ああ、久しぶりにお前が帰ってきたってずいぶんとはしゃいでたが、今は静かなものだ。最近はユカリやミスズでも滅多にアベルの思念を拾えないらしいからな。真夜中に起き出すこともない」
「…そうか」
「まだ、気にしてるのか」
「気に掛けるな、というほうが無理だろう。そりゃ、仕事してればそれどころじゃないが、此処へ帰ってくればどうしたって気にはなるさ」
「行ってみたのか?」
「いや、まだだ。…そうだな、つきあってくれれば有り難い」

 紆余曲折を経て、この山荘に落ち着いてから既に二十数年が経過している。
元来、高階家の持ち物だったらしいのだが、一時使われないままになっていたので傷みかけたのを修繕して、高階博士からマサキが相続した格好になっていた。大正期に建てられたものというから結構な年代物になるが、煉瓦造りのかなりしっかりした建物であった。
半地下の、かつては酒蔵ワインセラーであったとおぼしき部屋。もともと避暑地で、夏でも比較的冷涼な土地ではあるが、この一室だけは常に氷点下だ。早春とはいえまだまだ寒い時期であれば、部屋の前まで氷が侵蝕している。
「これは、おそらく扉も凍ってるな。どうする?」
イサナの問いは、やめておくか?という一言を含んでいた。しかしマサキは静かに首を振った。
「カツミには悪いが、後でもう一度仕事してもらうさ。一応、確認をしておきたい。…しておくべきだろう」
そう言って、マサキは扉に手を掛ける。僅かに力を掛けるような動作はあったが、扉は開いた。氷が砕ける音はしたが。
「そーいう場合は、あらかじめ声かけといてよ。サキ」
俄に声がして、マサキがぎょっとして振り返った。地下への階段の入口に、眠そうな目を擦りながら、カツミが立っている。声にこそ出さないが、イサナも少し驚いたように軽く目を瞠っていた。
十代前半の少年の姿ではあるが、実年齢は当然異なる。欧州にいた頃はバートと呼ばれていた。一見のんびりとした佇まいだが、深い色の両眼には常に油断ならない光をともしている。
「…起きてたのか」
「今起きたの。そりゃ、俺だって四時六中見張りなんてしてないけどさ、なんとなくわかんだよね。ここに誰か来ると」
「そりゃ悪かったな」
「はいはい、扉閉めて。中の温度上がっちゃうだろー…」
カツミに促されるかたちで、マサキとイサナは部屋に入った。

 部屋の造りもさることながら、取り払われた棚の代わりに林立する氷柱が、氷点下の温度を保っていた。氷の林。空気すら凍り付く文字通りの氷室。
その氷柱を避けながら奥へ進む。それほど広い部屋でもないが、その部屋の奥行きの1/3程は氷の繭のように閉ざされていた。
凄まじい厚み、だがおそろしく透明度の高い氷の、硝子とも紛う壁を覆う霜を払うと、壁の中…つまりは氷に閉ざされた領域の中に一脚の長椅子があるのが見える。長椅子というより寝椅子カウチソファというのが相応しいであろう、よくあの狭い入口から持ち込んだというような重厚な代物だった。
その上に、一人の少年が身を横たえている。栗色の髪、細面で、身体も随分華奢な部類に属するだろう。年齢としては見た目カツミとそれほど変わらない。カツミとて決して大柄なほうではないが、それよりもひとまわり小さく見えてしまう。
「イサナ、頼む」
霜を払ったマサキが場所をイサナに譲り渡す。イサナは、白い壁に俄にできあがった硝子窓のような氷の表面に軽く手を触れて目を閉じた。
そして、数秒。その後、イサナが目を閉じたまま口を開いた。
「心拍は検知できない。脳波も拾えないが、確かにここに居る・・・・・
「…そうか」
マサキの口許から白い息が漏れた。やや溜めていたのが如実にわかる。
「大丈夫だよー。ユカリもユキノ姉もアベルはここに居るって言ってるしさぁ…俺はよくわかんないけど、要は寝てるだけなんだろ?」
欠伸あくびしつつ、カツミがのんびりと言った。
「そうなんだが…そこまでいくと端折はしょりすぎだろう。普通は眠ったくらいで呼吸は停まらんものだ」
イサナが至極常識的に説明を加えようとするのを、マサキが手で制した。
「とりあえず出よう。カツミ、扉の凍結処理を頼む」

 ただ生き延びるだけなら、生命としてはかなり強靱な部類に属する自分達には相応の選択肢がある。だが、彼等の殆どが幼少期までとはいえ人間としての記憶を残している。出来るなら人間に紛れ、人間らしい生活をしたいと望むのは無理からぬことであった。
子供達はこの土地に徐々に馴染んでいた。その容姿さえ、この国の人間に違和感のないように変化していくことに、マサキが一番驚いていたくらいだ。
ただし、ほとんど成長はしない。そのため、本来成長期にあたる外見年齢の子供達はあまり頻々と外界に接触させるわけには行かず、マサキやイサナ、ミサヲやレミ、ユキノといった概ね成年相応の外見を持つ者が、交代で人里に降りる。
中でもマサキは高階夫妻の遺児という立場があった。医師として働きもしていたし、遺産の管理もしなければならなかったのだ。
いずれ、この山荘で生活するにも不都合が出る。数カ所に拠点を設けて、そこを順繰りに移り住むようにするしかない。あるいは、いつでも全員が一緒に居られるとも限らないだろう。
それにはまず、経済的に地歩を固める必要があった。加えて言えば、いくら外見的に人類と変わらないとはいえ、血液等を詳細に調べれば彼等の体組織が尋常な人間とは異なることは簡単に露見する。つまりはうかつな医者にかかれないのだ。
高階マサキは、ひたすらこの問題に対処するために医者を生業なりわいに選んだといってよい。無論、拾ってくれた高階夫妻がそもそも医者であった事情から、至極自然な流れとしての選択とも言えたが。
結局その後、イサナが検査技師、ミサヲやユキノが看護で資格をとり、この春からはナオキが薬剤師になるといって学校へ通い始めている。リエあたりは去年までは商経学部にいたようだが「網をくぐるには網を知らなくちゃならないわね」と何やら物騒なことを呟いて法学部へ潜り込んだという。
病院でも始められそうだな、とマサキが言うと、ミサヲは真顔で『あら、そのつもりだけど?』と切り返された。
外面そとヅラが変わらないからピンとこないかもしれないけど、皆、ちゃんと考えてるのよ。だから、ひとりで背負い込むのはやめなさいね』
かくも有り難い御諚を賜ったところで、ああそうかと安心するほど楽天的にもなれない。
子供達の中でひとりだけ、現状に適応出来ていないのだ。
この国に渡ってから30年近くが経ち、既に皆、この国の言葉で名前を持って呼び合うようになっている。しかし家の中に居てさえ殆ど誰とも意思疎通を拒み、食べることも眠ることもしなくなってついには動けなくなった子供が居た。
アベル、と呼ばれていた。元来精神感応系の能力が強かったが、あることがきっかけでコントロールを失い、情報過多に陥って破綻したらしい。…らしい、というのは、こればかりは遮蔽する力が強すぎて同様に精神感応系の能力が強いミスズやユキノ、ユカリにも探査しきれなかったのである。
その一方で一時的なエネルギー切れで遮蔽する力が落ちると、感応系能力がほとんどないカツミやタケルでさえ飛び起きる程の悲鳴が迸る。…これは深刻だった。
何が起こっているのかわからなければ対処のしようもなかった。さりとて、このままでは本人もじりじりと消耗していくだけだ。皆が途方に暮れる中、ユカリが何気なく口にしたことが唯一の答えになった。
『アベル、かわいそうにね。きっと、こわいゆめばっかりみてるのよ。ゆめもみないくらい、ちゃんとねむれたらいいのに』
当然、人工冬眠技術など確立されていない。していたとしてもそんな機材が手に入る訳もない。だがひとりだけ、うってつけの能力を持っていた―――――。

「…寒いのかなぁ、アベルの奴。俺は平気だけどさ、ずーっとあそこにいるとさすがに寒そうだよな」
灯を抑えた食堂ダイニング。ストーブの上には湯気を立てる薬罐が鎮座している。マサキとイサナがストーブの傍に座を占める一方で、カツミは少し離れて火の入っていない暖炉のマントルピースに凭れかかっていた。
カツミは片手にココアの入ったマグを握ったまま、もう片方の手にピンポン球ほどの氷塊を転がしている。この温かい部屋で、掌の上で転がされているにしては氷塊は溶ける様子がない。むしろ、どんどん霜のようなものが付着して大きくなってさえいた。
此処へ落ち着いてから判ってきたことだが、カツミは物体の分子運動を抑制する方向に働きかける能力を持っているようだった。平たく言えば、あらゆるものを凍結させることができる。その逆はどうやら苦手らしいが、空気中の水分さえ凝結させ霰を量産できるものだから、日常でさえ様々な場面で重宝されている。
細胞傷害を避けるために可及的緩徐な、だがマイナス200℃近い冷却など、カツミでもなければまず不可能だったろう。
マサキとて100%の確信があるわけではなかったが、然りとてこのままでは『アベル』が消滅する。他に採れる方法がなかったのだ。
「…お前だって大丈夫だったろう」
こちらはコーヒ―の入ったカップを傾けながら、マサキが応えた。
「いや、あれは事故でしょ」
能力制御の失敗は何もアベルに限った話ではない。カツミも一度、自身を凍結しかけて一騒動起こしたことがある。その時は精神感応系能力を持つ者総動員で呼びかけてカツミの自力覚醒を促し、事なきを得た。
「…俺自身としちゃ、すごーく気持ちよく寝かかってたんだけどね」
「そのまま寝てたら間違いなく『凍死』って診断される状況に陥ってたけどな。お前は何とか無事に覚醒したし、復帰後の細胞傷害もほとんど見られなかった」
「今更だけど結果オーライってだけの話だよな、それって。…本当にアベルの奴、夢も見ないで眠れてるんならいいけど」
カツミおまえの時のように叩き起こして訊いてみる訳にもいかないからな。…祈るだけだ」
「…な、サキ。訊いてもいいか?」
「俺にわかることならな」
「アベルの奴、何を見たんだ? …正気を保っていられないほどの、何を?」
「…それはわからん。ユキノやミスズ、ユカリでも…あいつがなぜああなったかを探査できなかったんだ」
「…ま、それは知ってるけどね」
ココアを一口飲んでから、カツミは小さく吐息した。
「俺が訊きたいは、サキの推論、ってやつなんだけど」
「わかることしかいわないって言ったぞ」
「…いけず」
やかましい」
「何か、見当ついてんじゃないの?」
黙ってやりとりを聞いていたイサナが、ふと口を開いた。
「…未来」
「…へ?」
カツミが訊き返す。マサキが咎めるような視線をイサナに送るが、イサナは瞼を閉じてそれを遮った。
「アベルは『未来』を見てしまった。…サキはそう考えてるんじゃないか?」
マサキは応えない。
「『仮面』の機能の根本は、『時間と空間を越えた認識を可能にする』ことだ。だったら、サキが『過去』を認識…自分達が何者で、何故ここに居るのか…それを知るためにその機能を行使したとすれば、アベルが…望んでのことかコントロール不良かはともかく、『未来』を認識してしまったとしたら、説明がつくんじゃないのか?」
「確証はない…」
マサキは片手を胸に当て、深く吐息してから…イサナの言葉をうべなった。
マサキの胸…胸骨直上には拳よりも少し小さい瘢痕があった。鳥の髑髏のようにも見えるそれは完全に角質化しており、正常な皮膚からは明確な境界をもっている。
失踪直前のシュミット大尉によって植え付けられた…というより、干渉によって発生させられたというほうが正解なのだろう、本来は自然に発生すべき、一種の感覚器官。現生人類リリンには存在しない器官であった。おそらくは入植第一世代に故郷の情報を正確に伝達するため、遺伝子レベルに刻まれたもの。
『仮面』と仮称しているそれ・・は確かに、マサキに自分達の来歴を教えてくれた。…それは「お前は既に人間ではないのだ」という宣告に等しいのだが、ある意味それで諦めがついたというのがマサキの正直な感想である。
感応系能力には、精神感応と、物体の位置や状態を認識するものとに大別される。アベルは、両方に高い能力を示した。そして、ふとしたことからマサキの『仮面』の情報も読み取り、自身にも発現させてしまった。元々、契機さえあれば子供ネフィリム達誰にでもその可能性はあったのだろうが、彼の場合はその制御能力に恵まれなかったのである。
「俺は、自分が何者か、どうしてここに居るのか…それが知りたかった。俺にはお前等と違って、以前の記憶がないからな。それが却って、幸いしたとも言えるかも知れん。あるいは、大尉はそれも見越していたのかも。…しかし、アベルは違う。以前の記憶があって、これからどうなるのかについて不安も持っていた。…その能力があるなら、未来を覗いてしまう事だって十分にありうる。
…問題は、その『未来』とやらが…アベルが正気を保っていられないほどの何かを含んでいるって事だ」
カツミが絶句する。
「未来は無限に存在する。今自分がいる時間軸の近傍にある未来というなら、ある程度は絞り込めるだろう。しかし、アベルがどこに軸をとったかも判らないなら、俺が今から観測をしたところで、アベルが観たものを捉えられるとは限らない。…結局は薮の中だ」
ストーブの中で揺らめく炎を両眼に映すマサキの横顔を覗いながら、カツミが問うた。
「…そうだとしても…観てみないの、『未来』?」
「俺は、狂いたくない。…『現在』だけで手一杯だしな」
即答だった。
「…そりゃそーだ…」
頭を掻いて、カツミが天を仰ぐ。マサキの正しさを理解したからだ。
『過去』は、『現在』を納得するための材料でしかない。しかし、『未来』は違う。観てしまった瞬間に、自身を束縛する…。
「…なんか、眠たくなっちゃった。おやすみ」
カツミがマグカップを流しに置いて踵を返す。
「ああ、おやすみ。付き合わせて悪かったな」
マサキの言葉に、カツミが目を擦りながら、軽く手を振って応える。
扉の閉まる音がして、しばらくは薬罐が立てる微かな音だけが場を支配していた。
「…誰…なんだろうな?」
ある程度の時間が経ってから、イサナが静かに問うた。
カツミには言わなかったが、アベルが昏睡に至る少し前…原因探索のためにアベルに接触したユカリが、誰の記憶にもない面影を拾い出した。考えられることはひとつ…未来の記憶。
「誰でもいい…」
マサキは深く吐息して、片手を胸の上に遣った。
「今いない誰かであることは確かだ…だったら、今考えても仕方ないさ」
もしアベルが本当に未来に絶望してしまったというなら、どんな手段をとったとしても彼を引き留めることはできなかっただろう。それこそ、『核』の状態にまで還元してしまったとしてもおかしくはない。だが、彼はそうしなかった。
ならば、今もおそらくは答えを探し続けている。
彼女・・が与えたのは、絶望か。それとも希望か。ただ、その答えは必ず出る。それはいつか、あの面影を持つ人物が自分達の前に現れた時。
カツミが指摘したように、マサキは敢えて『未来』を観測しない。だからそれは、予感にすぎなかった。

 …今はただ、祈るだけだ。

Interlude:予感
――――――了――――――