Scene 2  Saturday,1:15 p.m.

木洩れ日

 マサキが出て行ったあと暫くして、タカミは昼食もそこそこに2つのレポート提出と1教科の口頭試問のために大学へ行った。
 そうして、カヲルは比較的のんびりと陽当たりのよいリビングでレイの勉強の進捗具合を見ていたのだった。
 そんな時、インターフォンが来客を告げて、カヲルは飲みかけの紅茶を置いた。
 マンションのエントランスからインターフォンを鳴らした人物をモニタ越しに認めて、ふと不穏な予感に囚われる。
「…シンジ君?」
【…カヲル君、カヲル君、どうしたら…どうしたらいいんだろう…】
 インターフォンに映るシンジの点のようになった両眼は、泣き腫らした痕がありありと判る。唇は真っ青、両手を握りしめたまま立ち尽くしている。
 こんなシンジを、前にも見たことがある。…あの雨の日だ。
「どうしたんだい? とりあえず、あがっておいでよ…いや、すぐ降りていくからそこで待ってて」
 そこで一旦インターフォンを切り、手を止めて心配そうに見ているレイに声を掛けた。
「ごめん、レイ。僕はシンジ君を迎えに行ってくるから、ホットチョコレートを一杯、つくっておいて貰える?なんだか、様子がおかしいよ。とりあえず落ち着かせないと」
「う、うん」
 先程の話もある。レイも即座にペンを置いて立ち上がった。

 15分後。カカオとシナモンの馥郁たる香りが漂う陽当たりの良いリビング。
 レイが入れてくれたホットチョコレートの入ったマグカップを両手に抱えたシンジは、ようやく両眼に光を取り戻していた。ホットチョコレートですこし身体が温まったのか、唇の色も戻りつつある。
「それで、何があったの?シンジ君」
「ごめん…ごめんよカヲル君、綾波にも、心配かけちゃって…実は…あの…ええと、何から話したらいいんだろう…」
 そしてまた、混乱しかかる。
「すまない、シンジ君。質問を変えるよ。…何を…誰を、見たの?」
 悪い予感が指し示す答えが当たっていなければ良いがと思いながら、カヲルはそう問うた。
「…父さんが」
 マグカップを握る手に力がこもる。
「家で勉強してたんだ。…そしたら、音がして…父さんが、リビングにいたんだ。確かに僕を見たのに、知らない誰かみたいに…なにも言ってくれないままに…出て行っちゃった。 あれ、本当に父さんだったんだろうか?
 …なんだか、自信が持てないよ。確かに父さんだった…と…思ったんだ。その時は。だったら何故、僕が声をかけて、ちゃんとこっちを振り返ったのに…何も言ってくれなかったんだろう。それどころか、何も見なかったみたいにそのまま出て行っちゃったんだ…」
 カヲルは、顔色をかえたりはしなかった。ただ、優しい笑みでシンジの頭を軽く撫でると、立ち上がる。
「それで、僕の所に来た訳だね。あてにしてくれてありがとう。…大丈夫、何も心配要らないよ」
「カヲル…」
 少し顔色が蒼いのは、レイの方だった。ホットチョコレートを持ってきたトレイを握りしめたまま立ち尽くしている。
 カヲルはそんなレイを軽く引き寄せて、額に軽くキスをした。そしてすこし緩んだ手からトレイを抜き取ってカウンターに置くと、青銀色の髪を優しく撫でる。
「レイはシンジ君についてて。ちょっと出てくるから」

「…どうにも、腑に落ちんな」
 碇家のリビング。カヲルの連絡で、着いたばかりの大学病院の研究棟からこちらへとんぼ返りしてきたマサキが腕組みをして首を傾げる。
 不審げな顔といえばカヲルも同様であった。暫く眼を閉じて何か拾えないかと感覚を澄ましてみたが、何の痕跡も拾えない。
「碇博士、何か無くなっている物は?」
 カヲルにそう問われたユイは、ひどく申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、家に置いてたあのひとの物はまだ殆ど手をつけていないの。あまり、もの自体置いてなかったし…。正直、私では判らないわ。ここ一年は病院暮らしだし、その前はジオフロントに棲んでたようなものだしね。
 入院してる間に私が揃えた手回り品はちゃんと持ちだしてる以上、財布取りに戻った訳じゃなさそうだし…」
 些か身も蓋もないほどの現実感覚が彼女ユイらしいと言えば彼女ユイらしいのか。その感想は同様だったらしく、カヲルはマサキが他所を向いたまま苦笑いするのを視界の端で捉えていた。
「手回り品?」
 カヲルは研究棟へは回っていない。そういえば研究棟で何らかの収穫があったかどうかもまだ訊いていなかった。
「眼鏡と財布、それと家の鍵…でしたか、博士? まあこれで、拉致誘拐の線だけは消えましたがね」
 確認というよりカヲルに聞かせる為だろう。マサキが洗面所の水栓をあけて片手を流れ落ちる水に当てながら言った。
「財布といったって、それほど入れてた訳じゃないのよね。院内で生活する分にはまとまったお金なんて必要ないし…」
「…でも、此処を出て電車かバス…公共の交通機関に乗ることはできますよね」
「ええ、まあ…。それにしてもカヲル君、シンちゃんのこと、ごめんね。シンちゃんったら私に連絡してくれればいいのに…」
 その言葉に確認しておかなければならないことを思い出して、カヲルは問うてみた。
「…博士、ひょっとして仕事用と自宅用、番号か携帯そのものを分けてませんか? シンジ君は連絡とれないってパニックになってたみたいだし…」
「えっ…あ、きゃあっ!…ホントだわ!」
 服のポケットではなく、ショルダーバッグの方から仕事用の携帯と同機種で色違いのそれを出して確認すると、その場で頭を抱えた。
「や、やっちゃった…ああ、これだから私…ごめんなさい高階さん、私ちょっとシンちゃんに電話かけてきていい? あの子にもちゃんと説明してあげないと」
「どうぞ、あまり慌てずに」
 マサキが掛けた声も届いたかどうか。あたふたと隣室へ駆け込むユイを見送って、カヲルはマサキに向き直った。
「何か判った?」
「いや…気味が悪いくらい何も感じない。あの坊やを疑うわけじゃないが、本当にここにいたのかってくらいだ」
「シンジ君には嘘をつく理由がないよ。…何かがここにいた。それは確かだ」
「不審な点はまだある。未だにハイ・プリーステスの画像検索に何もひっかかってないんだ。少なくとも、研究棟からこのマンションまで移動してきたならどこかのカメラには姿が入るはずなのに、一切ない…普通に考えて、あり得んだろ」
女教皇The High Priestess…?」
 女教皇ハイ・プリーステス。タロットカードのうち…神秘、内向をキーワードとする、大アルカナの三枚目、翻訳は出来ても意味が繋がらなかったカヲルが問い返す。
「あぁ、リエのHNハンドルネームのひとつだ。自分でそう名乗ったわけじゃないと言ってたが、気がついたらそう呼ばれてたからそのまま使ってるんだと。…まあ、概ね悪さする時に使う名前だし、場合によってはボット1がその名前で動いてる時もある。
 ただ、ボットとはいえ作り手が作り手だから、メールで連絡されたら正直俺には区別がつかんね…と、来た」
 マサキのポケットでメールの着信音がした。メールに目を通す。
「ユイ博士が財布の中に入れてた電子通貨マネーの使用履歴が引っかかった。やはり鉄道だ。…全く、やられたよ。クレジットカードは使えなくても、プリペイド型の電子通貨なら額に制限はあっても利用できる」
「行き先は?」
「そこまではまだわからん。環状線の切符だけ買ったようだから…あのおっさん、どうやら古典的に薩摩守を決め込む2つもりだぞ。このご時世にいい度胸だ。自動改札に停められてアウトに決まってるのに」
「…わからないよ?あるいは本当に環状線をぐるぐる回ってるだけかも」
「そんな莫迦な」
 流石に冗談だと思ったのか、マサキが微笑う。だが、カヲルは至って真面目だった。
「理論的思考の下に動いてるとは限らない。…あの時のシンジ君がそうだった。
 あの親子の生育歴がどれ程似てるものかは判らないけど、混乱してる状態でとる行動はある程度類似すると考えても…そう飛躍はしてないと思うけど」
「…お前、暇に飽かせて何だか物騒な本ばっかり読んでるだろう。一体何処から仕入れてるんだ?」
 マサキが呆れたように呟きながら何事かをメールにしたためる。
「タカミの書斎に散らかってるやつ、結構面白そうなのがあるから。片付けがてらね。コリン・ウィルソン3とか」
 出てきた固有名詞にわずかに眉を顰めながら、送信をかけると携帯をしまう。
「何か方向性を誤ってる気がするが、この際は突っ込んでも怖い話しかでてきそうにないから流そう。今、環状線の車内防犯カメラに重点を置いて検索を掛けるように伝えた。あいつのことだからもうやってるかも知れないがな。…それと、検索する特徴にもう少し幅を持たせろと」
「…シンジ君がその人物を父親・碇ゲンドウだと認識した特徴が、画像認識では捉えきれない種類のものであった可能性?」
「そうだな。もっと言えば、画像認識の元データと、現在の碇ゲンドウの外見が異なっていた可能性。1st-cellを取り込んだことで何らかの身体…外見的変化が起こったのなら、変化後のデータが無い以上、画像検索で探すには限界があるってことも考えられる。
 少なくとも、そうでなければ研究棟からここまで、何処のカメラにも引っかからなかった説明がつかん。
 人間の知覚による人物認識は、騙しやすくもあるが逆に言えば機械認識の幅を越えて正解を見つけ出すこともあるからな。坊やがそうやって父親を認識した可能性は考えておくべきだ。あの坊や、あれでいて存外鋭いところがあるようだからな。初見で、理屈抜きにタカミの正体に気づいた4くらいだ。
 まあ、その場合はユウキが感知出来るだろう。そっちはとりあえず連絡待ちだ。
 だから、その間にやっておかなければならないのは…碇ゲンドウの目的地の特定、だな。…想像つきますか、碇博士」
 こちらも携帯をしまいながら出てきたユイに問う。
「うーん…前に冬月先生にお聞きしたんだけど、あのひと、私が出て行った後しばらく…2週間くらい行方をくらましてた時期があったらしいの。先生は私を捜しに出たんだろうって思ってたみたいなんだけど、実は無目的に日本中、ぶらぶらしてただけみたいなのよね」
「貴女の前で失礼だが…。あの御仁、逃げた伴侶つれあいを捜しあぐねて逃避…というキャラには見えませんでしたがね」
 マサキが憮然として言った。息子シンジの方ならともかく、あの男に傷心を抱えて辺境を流離さすらうというシナリオはいかにもそぐわない。
「あら、あの人はとてもかわいい人なのよ。みんな知らないだけで」
 ユイがからりと言い放つ。思わず、顔の下半分を覆って明後日の方向を向いたのは、何もマサキだけではなかった。
「…ま、それはさておいて。その時のルートなり、確認出来る経由地のリストらしいものは…ありませんよね」
 言いかけて、そんな物を作る理由が何処にある、という至極まっとうな推論に行き着いてマサキが肩を落とす。
「リスト、作るわよ。聞いて覚えてる限りのを。あと、少し調べれば宿泊記録だって拾えるでしょうし。あ、当時のことについては…ひょっとしたら冬月先生に聞いてみた方が早いのかしら」
「では、約束アポイントだけとっていただけたら俺がそちらに当たりましょう。碇博士は例の件、折衝の継続をお願いします。心中はお察ししますが、こちらにかかりきる訳にもいかないでしょう。カヲル、お前は家に戻れ」
「…わかった」
 言外に、レイの処へ戻れと言われているのは判ったから、カヲルは素直に頷いた。

――――――to be continued

  1. ボット…インターネット上で自動化されたタスクを実行するアプリケーションソフトウェア。単純な繰り返しのタスクをこなす。インターネットボット、WEBボットとも
  2. 薩摩守を決め込む…キセル(不正乗車)すること。平家物語に出てくる薩摩守・平忠度(たいらのただのり)に引っ掛けた言い回しだが、今時通じるかどうか微妙。古典的なのはあんたの方だよ、サキ。
  3. コリン・ウィルソン…英国の小説家・評論家。著作にはSFやファンタジーもあるが、評論「アウトサイダー」が有名。しかしこの場合、カヲルが読んだらしいのは「殺人ケースブック」
  4. 「すべて世はこともなし」第九話 眩惑の海から E Part参照。シンジはタカミに会った時、何の説明もなしに榊タカミ≒冬月タカミであると気づいた。