第Ⅶ章 Air

原初の海

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


願いよ・・・今、この両手を導け

第Ⅶ章 Air
D Part

【表層部の熱は引きました。高圧蒸気も問題ありません】
【全部隊の初期配置、完了】
【現在、ドグマ第3層とムラサキの奴は制圧下にあります】
【アカい奴は?】
【地底湖水深70にて発見。専属パイロットの生死は不明です】

***

「奴ら、シンジ君と初号機の物理的接触を断とうとしてるわ。・・・うかうかしてらんないわね。急ぐわよ」
 その手元の通信機は、NERVの装備品ではない。突入してきた戦自隊員の所持品であった。
 本来の所持者である戦自隊員は、自らつくった赤黒い泥濘の中に伏している。
 禍々しいばかりの紅に彩色された通信機を操作しながら、ミサトは自分の胸が冷たくなっていくのを覚えていた。
 何故、自分はこんなに冷静なのだろう。ヒトを殺したのに。
 答えの一部はもう出ている。・・・・死にたくないからだ。
 生き残るのは、生きる意志を持った者だけ。過酷といわれようが、それがミサトの持論だった。おそらくは・・・・セカンドインパクト後に「保護」された白い部屋の中の二年間で、ゆっくりと培われたもの。
 何もない部屋で、向き合うのは自分自身。
 その中で得たものはただひとつ。死は安寧ではない・・・・・無だ。
 死は何も生まない。だから命のある限りは抗う。・・・なりふり構わない覚悟はしていた。加持の留守電を聞いた夜から。
 血臭にはもう慣れた――――――。
 感慨のこもらない眸で赤黒い泥濘とその中のものを見て、ミサトは立ち上がった。
「・・・・シンジ君」
 そして、膝を抱えうつろな眼で意味のない呟きを繰り返す少年を振り返る。
 全てを拒絶する少年を。
「ここから逃げるのか、エヴァの所ヘ行くのか、どっちかにしなさい」
 逃げる、という選択肢が既に実効性のないものであることを、ミサトは知っている。もはや生き延びるためにはエヴァに匿うしかないことも。
 おそらく自分はひどく過酷な要求をしているのだろう。それは判っている。判っているのだ・・・!
「このままだと、何もせずに死ぬだけよ!」
 ついにミサトが声を荒げた。しかしシンジはただ宙を見据えるばかりで、反応すらない。
「・・・・助けてアスカ・・・・助けてよ・・・・」
 シンジの呟きを黙殺して、その手首を掴んだ。
「さあ、立って」
 シンジの手をひく。・・・が、シンジは出来の悪い木偶のようにぐにゃりとその場に座り込んだだけだった。そしてまた呟き続ける。
 だがミサトの聴覚に飛び込んだのは、決定的な一言であった。
「・・・・・もう、いやだ。・・・・死にたい。何もしたくない」
 瞬間、ミサトの頭の中が熱くなった。・・・・・ついに堰が切れる。
「・・・何甘ったれたこと言ってんのよ!」
 手が出なかったぶん、まだしも自制が効いたと言えたかもしれない。・・・・それは全てを否定する言葉。自らの存在さえも・・・!
「アンタまだ生きてるんでしょ!?」
 ミサトに揺すぶられ、シンジの首がぐらぐらと動く。

「・・・だったらしっかり生きて、それから死になさい!!」

***

 少女はやはり、闇の中にいた。
 ―――――――まだ、生きてる?
 遠雷のような音が何であるのか、とっさには見当もつかなかった。だが、次の瞬間襲ってきた衝撃に否応にも理解させられる。
 爆雷攻撃!
 EVA操縦適格者として士官候補生なみ、あるいはそれ以上の教育を施された彼女には、本来地上の爆雷投射機の数と位置まで同定出来たはずだった。だが、今の彼女はただ音に怯え、身体を丸めて耳を塞ぐことしかできなかった。
「・・・死ぬのはイヤ・・・・」
 詰めた呼吸の合間から、低く呟く。
 ―――――――死にたくない・・・?
「・・・死ぬのはイヤ・・・・」
 ―――――――そう、まだ死んでは駄目
 誰かの声が聞こえたような気がして、少女は薄目を開けた。その直後、弐号機の頭部近くで一つの爆雷が炸裂し、思わず首を竦める。
「いやあぁぁぁぁ!!」
 ―――――――死んでは駄目。まだ、あきらめちゃ駄目だよ・・・
 声が聞こえる。彼女を全ての恐怖から庇護するような、優しい声。・・・どこから?
「・・・・ママ・・・?」
 弐号機そのものから聞こえたような気がした声に、何故そう問い返したのか・・・彼女自身確とした答えは持っていなかった。
 ―――――――目を開けて。このままじゃいくらEVAの装甲でも保たない・・・
「・・・ママ・・・どうしたらいいの・・・・」
 ―――――――目を開けて。周囲まわりを見て。独りじゃないよ・・・・・
「・・・え・・・・」
 その時になって初めて、彼女は自分が弐号機に乗っていることに気がついた。・・・多分、認めたくなかったのだ。
「・・・・やだな・・・アタシ。またこれに乗ってる。動くはずないのに・・・未練たらしいったらありゃしない・・・」
 そう、自身にむかって毒づく。だが、間隔が短くなってきた爆雷攻撃に、彼女はいちいち首を竦めることはなくなった。
「・・・・周囲まわり・・・・て、一体何・・・・?」
 赤い、非常電源だけのエントリープラグの中。・・・暗い。呼吸が詰まる。
 殆ど無意識の動作で、主電源をONにする。移り変わる内景。
「第一次接続完了・・・・・・第二次・・・・」
 何度となく繰り返した手順プロトコル。目を瞑ってでもできる。
「・・・え?」
 彼女がそのことに気づいたのは、弐号機が正常に起動・・・・・してしまってからであった。
「・・・アタシ・・・・」
 思わずインダクションレバーから手を離し、しげしげとその掌を見つめてしまう。
 目を開けて。周囲まわりを見て。
 声が聞こえた。男女どちらともつかないが、優しい声だった。・・・・多分、自分はそれに母親の名を振っていた・・・・。
「・・・ママ、そこにいるの?」
 無論、弐号機が応える訳もない。もう、あの声も聞こえない。・・・だが感じるのだ。自分を包み、守ってくれる存在を。
「・・・そこにいたの・・・?」
 その声がうわずる臨界点に触れそうになったとき、再び轟音と振動が彼女の身を竦ませた。
 いつの間にか終熄したかにみえた爆雷攻撃が再開されたのだ。今度はより狙いがタイトになって。
「・・・投射プログラムに修正をかけたか。ッたく、イヤらしいわね!!」
 再び、インダクションレバーに手をかける。きっちりと。そしてゆっくりと息を吸い込み、腹の底から叫ぶ。
「・・・負けてらんないわよ、あんたたちなんかに!!」
 レバーを握った手に力を込める。胎児のように丸くなって横たわっていた弐号機の眼が、赫烈と輝いた。

***

【エヴァ弐号機起動!アスカは無事です!生きてます!!】
 半泣きの声で報告の体裁など成してない事について、ミサトはマヤを叱責しなかった。ミサトにしたところで不覚にも涙ぐみそうになったからだ。
「わかったわ。弐号機の回線とこっちのリンク、よろしく」
【ハイ!】
 通信を切り、ミサトは助手席でやはり膝を抱えたままのシンジを一瞥した。先刻の通信はシンジにも聞こえている。弐号機起動の報にぴくりと肩が動いたのを、ミサトは見逃していない。
「・・・・シンジ君」
 再び、シンジの肩が震える。
「聞こえたわね?」
「・・・・・」
 シンジはただ、膝を抱く腕に力を込めただけだった。
「・・・・シンジ君・・・・っ!」
 なおも言葉を続けようとしたとき、ミサトは通路わきから覗いている銃口の列に気づいて急ハンドルを切った。
 ダメだ!
 軋るタイヤの音に紛れ、不快な音とともにボンネットとドアに黒い穴が開く。ミサトは片手をハンドルから離して銃把に手をかけた。
 弾倉ありったけの弾丸を見舞う。先刻の戦自隊員の装備から抜き取った手榴弾のピンを喰いちぎらんばかりに引き抜くと、銃口の覗いている通路に投げ込んだ。
 かろうじて激突を免れるはずであったアルピーヌ・ルノーは、手榴弾の爆風に煽られて壁へ突っ込んだ。
 衝撃。
 身体が軋むのを感じた。だが、ぼんやりともしていられない。
 弾倉を交換し、銃口を向ける。しかし、薄暗い廊下は沈黙していた。背後からいきなり撃たれてもかなわないので、危険を承知で近寄る。
 ミサトの用心は沈黙を以て報われた。ミサトは自らの行為の結果を眼を逸らすことなく見据え、踵を返した。
 調べるまでもなく走行不能となったアルピーヌ・ルノーを見て、静かに吐息し、顔を引き締めて言った。
「シンジ君、動ける?」
 車の中から返答はなかった。委細構わず助手席のドアをこじ開け、座席に蹲った無傷のシンジを引きずり出す。
 搭載していた通信機自体は無事のようだったが、どうやら電源系統がやられたらしくスイッチが入らない。ミサトは手持ちの携帯で発令所を呼び出しながら、車に積んでいた弾薬類を整理した。
 このさい、どんな小火器でも莫迦にできない。先刻の襲撃にしろ、ミサトの行動が何らかの形で向こうに流れ、待ち伏せされた結果。それを退けることができたのは彼らのデータに入っていない、ほかならぬ戦自の装備である手榴弾の功績である。
 いつ何処で待ち伏せされているか判らない。火器はなるべくあったほうがいい。しかし徒歩である以上、持てる武器にも限界があった。手榴弾の類は位置を報せるようなものだからなるべく使いたくはないが、銃口の数に対抗するにはこの手合いでなければ・・・。
 携帯に応答があった。日向だ。
【遅くなって済みません。車載端末が落ちてますが、何か!?】
「やられたのよ、車ごと。但し私とシンジ君は無事。どうやら私の動きが向こうにバレたみたいでね。一個小隊でお出迎えよ」
【大丈夫ですか!?】
「大丈夫じゃないけどどうにかするわよ。アスカとの回線は?」
【あと5分ください。弐号機との回線を開こうとするとエラーが出るんです。弐号機のコンディションについてはモニターできるんですが、通話については今伊吹二尉が対処しています】
「エラー?通信系がバグってるの?・・・ちょっと、乗ってるの本当にアスカでしょうね!?」
 先刻の爆発のこともある。ミサトの声が鋭角的になった。
【怖いこと言わないでくださいよ。セカンドチルドレンは確かに搭乗してますし、シンクロ率も良好です。それどころか自己ベストに迫る勢いで。・・・あ、今戦自のVTOLと接触しました】
 ミサトは眉をひそめた。戦自の攻撃機隊くらい、EVAが十全に動くなら一個小隊どころか一個中隊だろうが物の数ではない。だが、藪をつついて蛇を出すことにならなければ良いが。
「判ったわ。アスカとのコンタクト、よろしく。それと初号機は、非常用ルート20でいけるの?」
【はい。電源は3重に確保してあります。・・・ですが葛城さん、現在位置は?車が動かないとなると・・・・】
「車だけが移動手段じゃないわ。ちょっと当初の予定より時間かかっちゃうけど、自分の脚できりきり歩くわよ。キツいだろうけど、電源の確保引き続きよろしくね」
【任せてください】
「じゃ、またこちらから連絡するから」
【はい】
 通話を切ると、携帯をしまって装備を整える。それが完了して少年を振り返ったとき、彼はやはり蹲ったままだった。
「・・・・・」
 ミサトはもはや何も言わなかった。ただ足早に歩み寄ると、問答無用で引き起こす。シンジは先刻と同じようにぐにゃりと座り込んだが、ミサトは構わず歩き始めた。
 まさに牽かれるように、シンジもまた歩き始める。

***

 薄暗いターミナルドグマ。
 金属の冷たい床。そして駆逐艦が浮くほどのLCLのプール。その中央には紅い十字架。
 レイは不可解としか言いようのない表情で、十字架にかけられた者を見上げた。そして、ゲンドウもまた。
 レイの視線は磔刑に服する者に固定していた。だが、ゲンドウはその手前・・・・プールの端、一段高くなったところにわだかまる白衣を認めた。
 彼女は、ゆっくりと立ち上がって振り返った。・・・ひどく穏やかな表情で。
 その穏やかな表情にひどく似つかわしくない物が、白衣のポケットから現れる。
「・・・・お待ちしておりましたわ」
 小口径の拳銃。その銃口を惑いなくゲンドウの胸に向け、彼女は微笑んだ。

***

 EVAには心がある。
 そう言ったのは、彼女が最も嫌うファーストチルドレンであった。しかし今アスカは、それを自分の感覚としてとらえつつある。
「ママが見てくれてる。守ってくれてる。・・・アタシはひとりじゃない」
 その真偽は問題ではなかった。ただ存在することで、彼女に力を与えていた。
『死んでは駄目』
「判ってるわ、ママ。見ててね。アタシは生き延びてみせる。こんな奴等に負けてなんかいないから!」
 アスカの確信を妄想知覚と断ずることは容易であっただろう。だが確かに弐号機は起動し、今現実に戦自を圧倒しつつあった。
 NERVのスタッフのようなジレンマは、少なくとも彼女にはなかった。自分に危害を加えるものは斉しく敵であり、攻撃対象。ヒトだろうがシトだろうが関係ない。
 すでに2桁にのぼるVTOLを叩き落としていた。
 だが不意に、地上部隊から的外れな砲撃を加えられる。苦もなく叩き潰したが、その真意はすぐに知れた。
 アンビリカルケーブル!
 アスカは舌打ちして断線したアンビリカルケーブルをEVA本体から切り離した。小賢しいやり口にアスカは目をつり上げたが、不意に攻撃が止んだ。
「・・・何?」
 攻撃機が速やかに撤収していく。地上部隊も後退を始めていた。
 何かが来る。
 警告音アラーム。アスカは空を見た。
 二等辺三角形の機影。輸送機としては最大級のもの・・・・その数9。
 それらは散開すると、各々一つずついびつな形の塊を投下した。数瞬の空隙ののち、その形が知れる。
 さすがに、アスカが呼吸を停めた。
「・・・・EVAシリーズ・・・・完成していたの・・・・・」
 ゆったりとした弧を描きながら舞い降りる白い機体を、アスカは暫し呆然と凝視していた。

***

 前方に四角く区切られた光が見える。あの通路を直進すれば、ルート20・・・非常用のエレベーターに行き当たる。
 しかし最後の約100m余りは吹き抜けの中段に渡した橋の上である。もし戦自が先回りしていれば、自ら標的になりに出ていくようなものだ。
 状況を確認するため再度発令所に連絡を取ったミサトは、アスカとの通信が回復した旨、報告を受けた。
「いい、アスカ。EVAシリーズは必ず殲滅するのよ」
【病み上がりに軽く言ってくれるわね】
 発令所を経由してミサトの携帯に飛び込んだのは、いつもの力に満ちた声。ミサトは笑っている自分に気づいた。だが、不意にその頬を引き締める。眼前で座り込む少年を見つめて。
「シンジ君もすぐに上げるわ。がんばって」
 そう言うと、通信を切った。
「弐号機はアンビリカルケーブルをやられてるわ。そして今、量産機9体が投入された。・・・・はっきり言って最悪よ」
 シンジを引き起こす。シンジはミサトを見ようとはしなかった。
「・・・・どうするの、シンジ君」
 答えはない。ふと、ミサトは舌鋒を鈍らせて言った。
「今あなたがここで動かなかったからといって、私にはあなたを責める権利はないわ。怖い目にあうのはあなただものね・・・・・・」
 それは決して哀れみを含んではいなかった。・・・・だが。
「・・・そんなんじゃない・・・僕はダメだ・・・ダメなんですよ。僕には結局何もできないんだ」
 殆ど泣きださんばかりの、それは呻きに近かった。
「EVAに乗れば僕にも何かできると思ってた。僕にも意味が生まれると思ってた。でも結果は?アスカを傷つけた。トウジの脚をダメにした。綾波も助けられなかった。
 ・・・・カヲル君を殺してしまった」
「・・・・・」
「僕にできることなんか何もないんだ。できるのは他人を傷つけることばかりなんだ!だったらもう、何もしないほうがいい・・・・っ・・・!!」
 シンジの頬が鳴って、見る見るうちに充血する。何と言い返したものか判らず、シンジはひどく間の抜けた表情で加害者を見た。
「・・・黙って聞いてりゃ甘ったれたことばっかり言ってんじゃないわよ!?」
 ミサトに押さえつけられた肩が痛い。だが今はそれよりも、ミサトの手が伝える僅かな震えがシンジを呆然とさせていた。
「背負い込むのは勝手よ。でも、背負い込んでおいて目ぇ逸らしてどうするの!? アンタまだ生きてるんでしょ? だったら償う術は自分で考えなさい!」
 ついに、シンジがしゃくり上げ始める。
「泣いてどうなるもんでもないでしょう! 
 ヒトは完全じゃない。過ちを犯すわ。今の自分が絶対じゃないわよ。だったら少しずつ探していくしかないじゃない。・・・それを何?全てを放り出せば罪を犯すこともないかもしれない。でも、そのかわりただ泣いて悔い続けることしかできないわ。
 転んだことを悔やむより、どうやったら立ち上がれるかを考えなさい。・・・何度でも言うわよ。あなたまだ、生きてるでしょう!?」
 そこまで言って、ミサトは口を噤んだ。今、ミサト達が上がってきた階段をかけ上がる音。・・・軍靴!
 シンジの姿勢を下げさせると、顔を出した戦自隊員の頭部を撃った。上がってきたときの道が塞がってくれれば儲け物と手榴弾を投げ込んだが、建物の構造を傷める処までは威力が及ばなかった。
 シンジの腕を掴むと、走り出す。
 不意に明るい処へ出たため、シンジが目をつぶった。だが、それに構わず吹き抜けに渡された通路へ足を踏み入れる。
 EMERGENCY ELEVATOR R-20-10。あそこだ。
 ミサトが足を早めた一瞬、跳弾が手すりを削った。
 身を竦ませるシンジを腕で庇い、姿勢を下げる。だがそのままいくらも踏み出さないうちに、一発の銃弾がミサトの脇腹を抉った。
「・・・・っ・・!」
 バランスを失い、その場に倒れる。シンジがつられて伏せたのは正解と言えた。吹き抜けの更に下の通路からの射撃。徹甲弾でも使われない限り、伏せていればあたることはない。
「・・・ミサト、さん・・・?」
 目の前で広がる紅を、どこか現実感を欠いたその色を、シンジは呆然と見つめていた。
「・・・大丈夫・・・大したこと、ないわ・・・」
 ミサトが笑う。それがプロとしての判断なのか、それともただの強がりなのか、シンジには判らない。だが、身動きできない状況であることには変わりなかった。
 手榴弾の最後の一つ。ピンを抜き、ミサトは手すりの間から投げるというより落とした。
 爆発で銃撃は止んだが、後方、ミサト達が走ってきた通路から複数の靴音が追ってくるのが聞こえた。
「・・・・行きなさい。行ってケリをつけてらっしゃい」
 ミサトが肘で上体を起こし、最後の弾層を押し込みながら言った。
「・・・でも、ミサトさん・・・」
「あのエレベーターに入ってしまえば、時間が稼げるわ」
 紅は広がり続ける。もはや素人目にも明らかであった。
「行きなさい! 今ここで何もしなかったら、私一生許さないからね!」
 凛とした声には弱さも翳りもない。だがそれでも、シンジは立てなかった。
「・・・・!」
 なおも何かを言おうとしたとき、通路に戦自隊員の姿を認めてミサトが発砲した。・・・だが、所詮数が違い過ぎる。
 構えられた銃の数にシンジが身を竦ませたとき、それ・・は起こった。
 丁度、張り方の下手なテントに強風が吹きつけたかのように――――――
 追撃してきた戦自隊員達が銃口を並べていた通路が、歪んだ。床も、壁も。銃口も・・・。そして、原形を失う。
「・・・・重力波・・・・!?」
 ミサトは慄然とした。こんなことができるのは。
 だが彼女が身構えた第2波はなく、静かな沈黙だけが降りた。
 いや、信じられないものがゆっくりと舞い降りようとしていた。
 二人とも、同様に声を喪っていた。・・・ただ、思いが違っていただけで。
 先刻の重力波の応用で、落下速度をコントロールしてでもいるのだろうか。少し捩れたリノリウム板の上へそっと降り立った彼に、シンジは少し掠れた声で訊いた。
「・・・・・・カヲル、君・・・・?」

 彼はその問に答える代わりに、少し悲しげに微笑んだ。

***

「お待ちしておりましたわ」
 赤木リツコは右手の銃を惑いなくゲンドウの胸に向け、ひどく穏やかに微笑んでそう言った。
 ゲンドウが立ち止まる。向けられた銃に怯むはおろか驚いた様子もない。
 レイはゲンドウの足が止まったのに追随して立ち止まったが、もとより関心はまったく別の処にあった。
「ごめんなさい。あなたに黙って先程、MAGIのプログラムを変えさせてもらいました」
 その言葉にも、ゲンドウは反応しなかった。向けられたのはただ、感情の窺えない眼。
 リツコは今更失望したりはしなかった。・・・そう、こういうひとだ・・・。
「・・・娘からの最後の頼みよ。母さん、一緒に死んでちょうだい」
 白衣の左ポケットの中で、簡易端末のボタンに触れる。小さな電子音を聞いて、リツコは瞑目した。特例582に関するプログラムへの直達コマンド・・・MAGI自身がそれを否定しない限りキャンセル不能な自爆。
 だが、数秒を待っても何も起こらない。
「・・・・作動しない?何故・・・」
 白衣の中で握っていた簡易端末を出す。ディスプレイの中で、メルキオールとバルタザールが提示するのは承認のサイン。・・・ただひとつ、カスパーが否定の文字を明滅させていた。
「カスパーが裏切った・・・? 母さんは娘より、自分の男を選ぶのね」
 声がうわずるのを止めることはできなかった。そしてゲンドウが、拳銃を向けるのを見る。
 リツコは目の前に、黒い靄が掛かるのを感じた。
 死の翼、というフレーズを脈絡もなく思い出す。
 そう、今眼前に広がる死は、闇を凝縮したような・・・それはあるいは翼に似ていた。
「・・・それは違うよ」
 声が聞こえたのと、発砲が同時。だが、銃弾は光の盾にはじかれた。
 ゆっくりと消えるオレンジ色の光に重なって、銀色が躍った。
 闇色の翼から滑り出たそのシルエットを認め、ゲンドウが低く呟く。
「・・・フィフス・・・・!?」
 髪から滑り落ちたハンカチを器用に受け止め、立ち上がる。戒めを解かれた銀色が、その動作で再び躍った。
「・・・いや、多分11番目さ」
 その双眸にあるのは、希少な緑柱石の色彩いろ
 場違いなほど軽い声で、彼は言った。そして、先刻までリツコの掌中にあったはずの拳銃をゲンドウに向ける。

「・・・はじめまして、碇司令?」