第Ⅷ章 たったひとつの、冴えたやりかた 


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


「・・・・・・・・僕じゃないんだ!! そんなのが僕であってたまるものか!!」
 カヲルが槍を一閃させる。地割れが凄まじいスピードで地を這い、動きを止めてしまった初号機に近づこうとする量産機を両断した。
 だが初号機自体が組み敷いている一体を別にしても、あと8体からある量産機から・・・カヲルひとりで守りきれるわけもなかった。その上、たとえ両断してのけたとて、コアかエントリープラグが残っていればすぐに再生してしまう。
「・・・・・シンジ君!」
 悲痛でさえある声も、シンジには届かない。斬り捨てた量産機は、その足下でぐずぐずと不気味な音を立てて再生をはじめている。
 考えうる限りで、およそ最悪のケースだった。
「見失っちゃ駄目だ・・・・・シンジ君!」
 シンジを、初号機を地上に出すべきではなかったのか。・・・後悔に胸を噛まれながらも、カヲルは立ち止まりはしなかった。やめてしまったら、投げ出してしまったら、その時こそすべてが終わる。
 その時、カヲルは声を聞いた。
 声でない声・・・それが誰のものかを判断する一瞬に、異変は起こった。
 地底湖の湖畔に、高層ビルのような水柱が忽然と現れたのである。水柱・・・・否、氷柱であった。
 地底湖に半分浸かりながら、初号機のほうへとにじり寄っていた量産機の一体が、不意に苦鳴と共に凍りついたのである。白い氷の中に妙に身を捩った格好で閉じ込められた量産機が、押しつぶされたような声をあげる。
「Bardiel・・・・・・」
 確かにその一瞬、カヲルは呆然としていたかも知れない。だが、地上の誰よりも早く行動を起こしていた。


第Ⅷ章 たったひとつの、冴えたやりかた
act.2 C Part

「・・・・・大丈夫なの?」
 シグマユニット、プリブノーボックス上部のバルブ制御室。本来はMAGI経由で発令所から操作できる部分だが、戦自の破壊工作でコントロール不能となったため、直接ここへ入るしかなかったのである。ただし、普段は人が出入りする場所ではない為、ひどく狭い上に暗い。
 タカミが懐中電灯を持って先に入ってしまうと、ミサトは通路で待っているしかなかった。この通路というのもまた、メンテナンス要員が立ち入るだけのところだから似たり寄ったりの広さしかないうえに傾斜していたが。
 プリブノーボックスは完全に浸水していたから、中に入る為には少し排水せねばならない。その為の回り道であった。
「カヲル君のこと? ・・・まあ、僕なんかに心配されたかないだろうね。それどころか、うっかり声かけようもんなら、はやいとこ量産機のソフトをなんとかしろって怒られるよ」
 薄闇の中から軽い声が返ってくる。
「違うわよ。あれだけ凄いもの見せ付けられちゃ、心配する気も失せるわ」
「え?じゃ、発令所?戦自に屋内でN2兵器を使う度胸があったら・・・・ちょっと危ないかもしれないけど。MAGIがある以上それはないだろうね。まあしっかり癒着してるから、しばらくは大丈夫だよ」
 返ってきた声は相変わらずだが、ミサトは思い出して慄然とする。
 カヲルがターミナルドグマを閉鎖したやりかたの応用なのだと言った。発令所が震撼した一瞬で、扉という扉は一斉に閉じられた。そして、融解したのである。融解は外側へ向かって広がり、融けた建材は入り口に殺到していた戦自隊員を埋め込んだまま、固まった。
「・・・そりゃそうでしょうけど」
 モニターで外側の惨状を見てしまったミサトはさすがに嘔吐感をこらえるのに精一杯だった。思い出した事でまた胸が悪くなり、思わず口許を抑えてしまう。ようやくの事で悪寒をやりすごし、吐息した。
「ひょっとして、わざとトボけてるの? ・・・・・・リツコのことよ」
 その時確かに、忙しくスイッチを操作する音が途切れた。
「・・・・何を言い出すかと思ったら」
 そう言ったまま、後の言葉が続かないままにスイッチを切り換える音やモーター音だけが聞こえてくる。
「残してきて良かった訳? 私達が発令所を出る時・・・何か、ひどい表情だったじゃない」
「彼女がいなきゃプログラムが完成しないよ。それに、こっちが起動したちあがったらオペレーションは発令所任せだし」
「・・・私はあんな心細そうなリツコ、見たこと無いわよ」
「それは違うと思うな・・・・不安、あるいは不審。無理ないよ。それに、彼女ならリスクのことも当然想定しただろうし」
「リスクって・・・『できる』って断言したのあなたでしょ!?」
「それに関しちゃ嘘じゃない。でも、やったことない操作にリスクは付き物だよ。EVAだってよく暴走したでしょ?・・・まあ、僕が人事不省に陥らない限りはそんな事態にはならないと思うけど」
そうなる・・・・リスクはあるのね?」
「・・・・・・・・うん」
「そういうことは提案段階で言ってよね!」
「言ったら、葛城さんはプランをひっこめた? 他に選択肢はないんだ。正直、やられたと思ったよ。僕でも言われるまで気がつかなかったくらいでね。さすがは作戦部長殿・・・敵わないや」
「ちゃかしてんじゃないわよ。・・・・人事不省って、どういうこと?」
「・・・・一番怖いのは、僕がイロウルの意思に呑み込まれてしまう場合ケース
「・・・・・・・・・」
「正直、僕が何なのか・・・僕自身良く分かってるわけじゃない。確かなのは、僕が両方の記憶を保持しているということ。使徒としての力の何割かを行使できるということ・・・・そのくらいさ。イロウル本体に独自の意思体が存在しているって可能性はゼロじゃないしね」
「・・・・それって、自分の存在が危うくなるってことじゃない。こっちから振っといて言うのもなんだけど、どうしてそんな危険を平然と冒せるわけ? ・・・・加持の話、聞いたわ。あなたがNERVに敵意を持ちこそすれ、肩入れすべき理由なんて針の先ほども無い筈よ」
「悪いけど、NERVがどうなろうが僕の知ったことじゃないね。ただ、生き残る為に少しでも確率の高いほうを択びたいだけさ。僕の目的は人類補完計画の阻止。・・・そう言ったでしょ?」
「・・・それだけ?」
「・・・・・っていうと?」
「海千山千の碇司令と一戦交えてまで、リツコをターミナルドグマから連れ戻した事に関しては、あなたの言う目的とはズレがあるような気がするけど?」
 工具を取り落としでもしたか。硬い音がした。
「驚いた・・・・葛城さんってば何でそんな事まで・・・・ひょっとして千里眼?」
「ま、おおよそで図星か。多分そんなとこじゃないかと思ったのよ」
「・・・・ひょっとしてカマかけたの」
「ハッタリも技術のうちよ」
「かなわないなぁ・・・」
「で、結果は?」
「命からがら撤退してきた」
「情けないわね。向う脛に蹴りの一発でもいれてくればよかったのに」
「・・・一応上司じゃなかったっけ?」
「責任を全うしない上司に払う敬意は持ち合わせてないわよ。・・・じゃあ何?司令は今ごろ着々と計画を進めてるわけか・・・」
「多分ね。本当はそっちも放っとける事じゃないんだけど、物事には優先順位ってのがあるし」
「・・・で、リツコをドグマから離すほうを優先したわけね」
「絡むねー葛城さんも・・・・・・・・・・と、これで終わりっと」
 モーターの音が大きくなり、薄闇の奥からタカミが出てきた。
「OK…あとは葛城さん、排水が終わったプリブノーボックスの制御室に入って貰えるかな。僕はこのままボックスに入る。直接接触したほうが早いからね。準備出来次第、コントロールを制御室に回すよ」
「・・・・わかったわ」
「じゃ、よろしく」
 そう言って気軽に手を振る。通路の下の隔壁を直接壊して入るつもりらしい。
 はぐらかされたという感触が残ったが、ミサトはともかくもメンテナンス通路を下りかけた。自身に今は詮索すべき時でないと言い聞かせて。
「・・・・・葛城さん」
「何?」
 その位置から、既にタカミの姿は見えない。だから、伝わってくるのは声だけ。
「・・・・生き残る事が、彼女の望みではなくても・・・・僕は、彼女に生きてて欲しかったんだ」
 返答に迷って、ミサトはその場に立ち尽くした。
「死は何も生まないわ。・・・私にわかるのはそれだけよ」
 一瞬の空隙があった。
「ありがと。・・・じゃ、葛城さんも気をつけてね」
 にぶい金属音がした。一体どうやってボックスの隔壁に穴をあけるつもりなのか訊こうとして、ミサトはやめた。次の瞬間、もうその場からタカミの気配が消えてしまったからだ。

 もう、なにがどうなっているのやらさっぱりわからない。
「どないとせぇや。オレはもう知らん・・・!」
 鈴原トウジは、上も下もわからない空間を漂いながら低声で悪態をついていた。
 水の中、と言うのが一番近いだろう。だが、水の中というには余りにも不自然。なにせ、苦しくない。
 LCLと呼ばれる特殊な液体?いや、違う。ここに血の匂いはなかった。第一、自分はもうEVAを降りた筈ではないか。
『考えとうないが、まさか・・死んでしもうたんか・・・・?』
 ここに至る事態を反芻する。第3新東京に戻ってきてしまって、訳もわからず戦自の隊員に銃を向けられて・・・その後がどうにも不明瞭なのだ。
 どのみち、ひどい扱いを受けたことにはちがいない。そう思うと、無性に腹が立った。
 そしてこの状況である。常識範囲で認識できる景色ではなかった。あまり真剣に考えると頭がオーバーフローしてしまいそうで、トウジは早々にそれをやめてしまった。
 だが、そうしていられたのもつかの間。
 くぐもった音。それが何かを判断する間に、状況は押し寄せてきた。白い・・・大きな・・・何か。気泡をまといつかせながら、瞬く間に目前に迫る。
「・・・・っと待てぇえ!!」
 潰される。そう思った時、反射的に両手が出ていた。・・・・およそ、押し返せる質量でないのはわかりきっていたが。
 しかし、非常識な状況はやっぱり非常識にしか展開しなかった。
 一瞬で、視界が白濁する。それが、周囲にあった水が凍った所為だと気付くのにしばらくかかった。そうか、やっぱり水だったのか・・・そんな暢気な感想すら伴って、気づいた時には氷の中に生じた大きな気泡の中に捕え込まれていた。
 流体ならばこそ、視界も行動の自由もあった。それが凍ってしまったことで、当座の危機は回避したが身動きが取れなくなったのに気づいて舌打ちする。
「・・・・なにやっとんのや、オレ・・・・」
 だが、その時点で彼は一番重要な事に気づいていなかった。奥行き不明の空間いっぱいの水を、一瞬にして凍らせたのが自分であるという事実をあまりにも素直に受け入れていることに。
『・・・Bardiel?』
「何?」
『・・・フォースチルドレン、鈴原トウジ君?』
「だからそれフォースチルドレンは降りたてゆーたやろ!」
 何処からともなく聞こえた声に、つい返事をしてから訝る。だが、声はその困惑を斟酌するでなく、一方的に飛びこんでくる。
『・・・・・・・!』
 何と言われたのか判然としない。だが、トウジはこれから起こる事を知った。
 轟音と共に、目前の氷塊が砕け散る。触れただけで氷塊を霧散させる赤い槍が、トウジの鼻先をかすめた。
「・・・・あぶないやないか!もちっと丁寧にやれんのかい!!」
 砕け散った氷塊の向こうに、空が見えた。そして、白い手が差し出される。
「・・・・済まない。まだ力加減がよくわからなくてね」
 一見、ほそさばかりが際立つその手は、意外と強い力でトウジを引っ張りあげた。
「・・・・・え、と・・・渚、やったか?」
 引っ張りあげてくれた人物を、トウジは知っている。と言っても、面識がない訳ではないと言う程度のものだが。
 ただ、一度見たらそうそう忘れられない容貌ではあった。銀髪紅瞳のフィフスチルドレン、渚カヲル。
「手を貸して欲しい。初号機と二号機が行動不能に陥ってる」
「惣流と・・・碇がか?」
「初号機はともかく、弐号機はもうほとんど機能停止してる。いますぐ凍結処理して、湖底のゲートから収容させないと、セカンドチルドレンも危ないだろう。・・・・頼めるかい?」
「・・・・んな、いきなり言われたかて・・・あんな大きなモン、どないしようもない・・・・」
「そうかい?」
「そうかいってオマエ・・・・」
 言いかけて、ぎくりとする。自分はつい先刻、何をしたか?
「・・・・できるよね」
 駄目を押すようにそう言われて、思わず頷いてしまう。
「じゃ、頼んだから」
「おぉいちょっと待てやぁっ!?」
 トウジの声を完全に聞き流して、カヲルが踵をかえす。肩をつかもうとした手は、空を切った。
「へ!?」
 はっとして、ある方向を見定める。動きを止めている初号機を、遠巻きにしている異形のEVA。その一体を切り裂いているのは、先刻まで目の前にいた・・・。
 空を切った手をまじまじと見つめる。状況を理解できる事が、今は却って怖かった。
「・・・ええい・・・もう、どないとなれやっ!!」
 足元の氷塊を蹴飛ばして、トウジは走り出した。

「・・・私をユイのところに導いてくれ」
 彼女は、感情のない目で差し伸べられた手とその主を見た。
 骨ばった顔。その顔色は決して良いとは言えない。色の濃い眼鏡の奥には、確信に満ちたと言うより、おのれの確信にしがみつくような・・・くらいものがちらついていた。
 希望の依代。かつて初老の学者が嘆息混じりに呟いた言葉の意味を・・・彼女は今、知った。
 自分に与えられた意味を・・・役目を、彼女は知っていたつもりだった。・・・だが、理解してはいなかったことに気づいた。
 すべての最初はじまりから、この男にはユイという存在しか眼中に無かった。・・・出会うまでどうであったのかは彼女の気にかけるところではなかったが。
 父なるものが忌んだ「アダム」と「リリス」の融合。生命すべてを原始の海に還すことさえも、その前には大したことではないのだ。
 ――――――それが望みか。
 気が遠くなるような、途方もなく長い時間であったような気がするし・・・うたかたの夢のようであった気もする。エデンを逐われて、一体どれほどの時間が経ったものだろう?
 わたし・・・は、この時の為にいたのか・・・?
 不意に、みしりという不快な音に続いて、粘ついた水音がした。
「時間がない。ATフィールドがおまえの形を保てなくなる」
 僅かではあるが焦りを含んだ声に、彼女は音のした方を見た。腕。白い腕。・・・・・誰のもの・・・・・?
 それが、「綾波レイ」と呼ばれた少女のものであるということに気づくまで、いくばくかの時間が必要だった。そう、「綾波レイ」をかたちづくるちから―彼らの言葉を借りればATフィールド―は、この身体を維持する事が難しくなっている。彼女が、自身が何者であるかということに気づいたから。
 容器いれものがこわれかけている。だからこの男は焦っているのだ。
 だがそれを認識しても、彼女の裡には何の感慨も浮かばなかった。もげ落ちた左腕の断端には、痛みすらない。落ちた左腕が自分のものであるという感覚のフィードバックすら、すでにあやふやなものになっていた。
「始めるぞ、レイ」
 枯骨というほど痩せ衰えている訳ではなかったが、その手はひどく病み疲れた者のそれに斉しく見えた。
 それが身体の中へゆっくりとめり込んでいく様子を、彼女は瞼で遮った。

 自身の身長のかるく20倍はあろうかというEVAに、生身で刃向かおうなど・・・・およそ正気の沙汰ではない。だが、互角以上の防御力と攻撃力を持てば、重量差は機動性の差で埋められる。カヲルの成算もそこにあった。但し、この槍があってこそではあったが。
 ロンギヌスの槍の複製コピー。それを初期化イニシャライズした者の力とクリアに感応し、増幅、収束する。本来量産機に持たせるためにゼーレが開発していたもののマテリアルサンプルであろう。一体、こんなものを何処から掠めてきたのやら。
 空間をわたって量産機の直上へ現れ、最大の力で忌わしい怪物の頭や肩口を切り裂く。もう、何度繰返したかすらわからない。・・・だが、いつの間にかそれをまだるっこしいと感じている自身に気づいて、カヲルは慄然とした。
 持てる力を存分に揮うことに、愉悦に似たものさえ覚えていたからだ。・・・そして、それを制限していることに対する微かな苛立ちもまた。
『駄目だ』
 思わず手が止まる。だがその時、既に量産機の一体を肩口から両断していた。飛散する緋色の中を降下しながら、カヲルは一瞬その両眼を閉じて頭を振った。
 白と鮮紅色の肉塊がのたうつ、緋の泥濘の中に降り立つ。胸の悪くなるような光景の中で、しかしその身には紅瞳のほか一点の紅もついてはいないのが却って凄惨ではあった。
 祈るような、どこか哀しい紅瞳で初号機を眺めやり、カヲルは槍を握る手に力をこめた。
 痙攣を続ける肉塊の中に埋もれた、機械部分・・・・ダミープラグを見定める。しかし槍に力を伝えた時、奇怪な音を立てて再成がはじまった。
 踏み込みかけたが、既に再成組織がプラグを巻き込んでしまったのを見て後方へ飛び退すさる。
『きりがない・・・・・!』
 取り返しのつかないことになる前に、シンジを現実に引き戻さねばならない。だが、今の彼にカヲルの声は届かなかった。直接接触できれば状況は変わるかもしれないが、今は量産機から初号機を守るので手一杯。
『シンジ君・・・・僕の声を聞いて・・・・・!!』

 ボックスのグリーンランプが点灯するのを確かめて、ミサトは非常開閉用のレバーに手をかけた。だが、電源が回復したのであろう。思ったよりするりと扉が滑った。
 一歩入ると、制御室内の灯りが点く。
 ちょっとした階段教室のような制御室の造りが、何処かぼんやりした照明に照らし出される。排水は最下段を僅かに浸す水位でストップしていた。
「・・・・・・コントロール渡すったって・・・使えるの、ここ?」
 排水が終わった部分は、一応乾燥していた。シートはさすがに座れる状態ではなかったが。
 目の前で黒々とした穴をあけている監視窓は、ディスプレイを兼ねていた。但し、電源が落ちている上に完全に粉々である。あの時、狂った模擬体の腕を爆砕した衝撃で破れてしまったのだ。本来水に浸かることのない筈の制御室が浸水したのは、この大穴の所為であった。
 侵食をうけた模擬体が浸かっている実験室は、本来天井を越える水位がある。だが今は、暗い水面が制御室の床と同じ高さに広がっていた。
 ミサトが何気なくワークステーションのキーボードに手を触れると、小さなBeep音がして全てのワークステーションが一気に起動した。それと同時に、暗い水面にオレンジ色の波紋が疾る。
「・・・お、驚かさないでよ!」
 ひどくゆったりとした・・・一定のリズムを持って細波が広がる。無数の同心円の中心に、彼は立っていた。
 暗い水面に立つタカミのシルエットを、細波が放つ淡い光が一瞬ずつ照らして広がっていく。
「ごめんごめん。早かったね」
 そう言って笑ったタカミの姿を認め、一瞬かすかな違和感を感じた。だが、その違和感の正体まで考えていられるほど、余裕のある状況でもない。
「あと20秒で、FCSを5番端末に回す。急造で申し訳ないけど、一応量産機の足止めくらいはできると思うから・・・子供達を援護してやって」
「FCSを組み直したっていうの!?この短時間で!?」
 ジオフロント内の対使徒戦用火器はレーダーシステムを破壊されてほとんど使用不能になっていた筈だ。生き残っている部分を再構成してFCSを組み直したとすれば、恐るべきスピードである。
安全弁セイフティバルブが一緒だから、カヲル君もよっぽどの事がないと激発したりはしないと思うけど、なんせ量産機は数が多い。ちまちま壊すのにも我慢の限界があるだろうから・・・・」
安全弁セイフティバルブってシンジ君のこと?」
「他にいないでしょ。彼が地表にいる限りは、ジオフロントを新地さらちにしちゃったりとかはないと思うよ・・・一応。確かにそうしてしまったほうが早く確実に量産機を殲滅できるけど、それだけはやりたくないんだよ、あの子は。
 地表に連れて出たのにしたって、あるいは・・・そうならないために、彼にいて欲しかったのかも」
 流石に言葉を奪われ、ほんの僅かな間の沈黙。
「・・・わかったわ。作戦部長の面子にかけて、量産機の足止めくらいはしてみせるわよ」
 そう言ってワークステーションのディスプレイに目を落とした・・・・・瞬間、ミサトが息を呑む。
「さ・・・・榊君!?」
「はい?」
「『はい?』じゃないわよ!! ここに映ってるの、一体何!?」
「ごめん、あと7秒待ってくれないかな。ボックス内のカメラ映像からなかなか切り替わらなくて・・・・」
「そうじゃなくってっ!! 12Aの映像って、これ・・・・!」
「うん、見た通りのシロモノだけど」
「見た通りも何も、なんであなたがもう一人いるわけ!?」
 プリブノーボックス内の模擬体の挙動を監視するためのカメラ映像。そのひとつ、Section-12Aの番号を振られた画像には、模擬体のひとつが映っている。だがよく見ると、カメラはその肩の上あたりでゆらめく銀色の髪をも捉えていた。模擬体に刺入された管に寄りかかって、髪のほかは微動だにしない。
 その時、先刻の違和感の正体に気づく。そう、今水面上に立つタカミは昔と同じ、栗色に近い髪で長さも以前会ったときのままだ。衣服もまた、よく見れば白っぽいスタンドカラーのシャツと地味な色のスラックス。
 一方、水面下のほうはどうにもサイズがあってなさそうなNERVの制服を着込んでいる。先刻まで話をしていたのは、間違いなくこっちの筈だ。
「どっちも僕だよ。接触するとどうにも動きがとりづらくなってね。分離した自己イメージを実体化させただけ。こうしてみると僕は、結構“榊タカミ”であることに執着してたんだな」
「実体化・・・・?冗談でしょ」
「正確には違うかも。一番語弊のなさそうな表現を用いるなら・・・・自己イメージが脅かされたんで、それを現実に、実体として固定したと思ってもらえば。まあ、あれだね。意地と根性の塊。なんなら翼でも生やしてみせようか?」
「生やすなっての。・・・・これもATフィールドの応用?もう、なんでもありね」
「葛城さんたちの言うATフィールド・・・あれはあれで、言葉的には間違いじゃないんだけど・・・本来は、もっと広範囲に及ぶ力なんだよ。一口で言えば、具現する力なのさ。
 その昔、『光あれ』の一言で世界に光をもたらした父なる方の力・・・僕らはその一部分が使えるに過ぎない。でもカヲル君も言ってたように、リリンにだってある力なんだ」
「それこそ冗談でしょ!?」
「僕らほど意図的に使えるものでもないし、あまり汎用性もないかもしれないけど。つまりね、自分が『こうありたい』と思ってたり、自分がこうだと規定してしまってたりすると、だんだんそうなっていくでしょ。あれだよ。
 ・・・ヒトは、自分で自分をつくっていくんだ。好むと好まざるとに関わらず、ね」
 確かにその時、ミサトは胸の奥に痛みを感じた。

「よいこで、いたいの?」        

「どうして?」

        「本当に?」

 かつて、自分の中で繰返した疑問。だが、思考の迷路に捕まりかけたミサトを、Beep音が引き戻した。
「FCS1、待機状態。葛城さん、あとよろしく」
 ミサトは表情を引き締め、コンソールに両手をついてディスプレイを睨みつける。
「・・・・任しときなさいよ。作戦部長の手並み、見てらっしゃい!」

 シンジは、ターミナルドグマでカヲルの苦鳴など聞いていない。
 覚えているのは初号機がフィードバックする、残酷な感触だけ。だがそれは、シンジを追い詰めるに十分だった。
 その感触が今、その苦鳴を伴ってシンジに返ってくる。

『何故、殺した』      

      『同じ、人間だったのに』

 シンジを責め苛むのは彼自身の声。自分気にかけてくれる者より、自分気にかけている者を択んだ彼を・・・・・誰が赦したとしても、彼自身が赦せなかった。
「自分にはなにもできない。何もしないほうがいい。そうすれば誰も傷つけずに済む」

 かつて自分を閉じ込めた迷路に、シンジは再び入り込んでいた。

「ホントは自分が傷つきたくないだけのくせに
他者から与えられる幸福をただ待っているだけのくせに」

 自分の声で聞こえた囁きに、シンジは半狂乱になって頭を振った。

 悲鳴が聞こえた。
 ゲンドウの手の中の奇怪な組織を目にしたときに失せた表情が、今また彼女の白い貌に揺らめいていた。
 誰の声。誰の悲鳴?
 記憶を手繰る。
 ――――――あなた、誰?
 いつも何処か自信なげな、暗い色の瞳。
 ――――――何、泣いてるの?
 薄ら笑いで周囲を拒否し続け、激発することでしか自らの意思を示せない子供。
 承認の欲求、遺棄される恐怖。誰かと正反対の、あるいは同質の。

モウ、イヤダ。

 

モウ、イヤダ。

ナニモミタクナイ、ナニモキキタクナイ

ナニモシタクナイ

ナニモ・・・・・

 ――――――駄目。生きることをやめないで。
       父に忌まれたわたしの子供達よ、生きることをやめないで。
       父があなたがたに課した呪いも、いつかわたしが解いてあげる。
       その日まで、幾千幾億の屍を土に還そうと・・・・生きることを諦めないで!!

 彼女は、その紅瞳を見開いた。

  1. FCS・・・・・fire control system. 火器管制システムor射撃管制システム。