Scene 1  Summer Suspition


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world Ⅱ」


 窓の外は、梅雨明けしたばかりの苛烈な陽光。しかし、その研究室は空調が効いて適度な涼しさを保っていた。
 壁は書棚で占領され、いくつかある机もワークステーションのスペースを除けば書籍やファイル、クリップボードで埋め尽くされている。有り体にいって雑然としていたが、それをものともせず…というより居心地好さそうにくつろぐ猫がいる。
 入口のドアが開く音に、小さな黒猫がすいと頭を上げた。
「やぁカスパー、おはよう」
 そう親しげに話しかけられ、入ってきた青年をひたと見つめてぴんと尻尾を立てた。
 声こそあげないが、細い尻尾をゆったりと動かしながらそろりそろりと近づく。
 しかしそうする間に、青年の腕は棚の上から勢いよくダイブしてきたロシアンブルーに占拠されてしまった。足下には三毛猫がじわりとまといつく。
 甘え損ねた黒猫が、落ちつかなげにその場で足を踏み換えた。
「メル、今日も元気そうだね。あ、頭の上は流石に勘弁してくれないかな。痛いから。せめて肩。バート、少しバテてる? ほら、カスパーもおいで?」
 腕に飛び込んできたロシアンブルー…本当の名前はメルキオールと長いので大概メルと省略されている。それを肩に載せたまま、青年が自身に割り当てられた机デスクの椅子を引いた。
 パソコンを起動している間に続き部屋からのドアが開いて、クリップボードに挟まれた書類を一山抱えた小柄な女性が現れる。
「あら? 榊さん。今日はもう授業終わりですか?」
「あ、おはようございます伊吹さん。今日は1限だけですから。それと、明日から暫く来られないから、片付けられるだけ片付けて帰ろうと思って。リツコさんはまだ講義?」
「ええ、先輩も一応今日は1限だけの筈なんだけど。冬月先生のところに寄るっていう話だったから、まだ話が長引いているのかも。…ところで、重くない?」
 伊吹マヤは結局肩にメル、膝にバートを載せ、左腕にカスパーを抱いている格好の青年をまじまじと見て言った。空いた右手で辛うじてマウスは操作できるが、これでは全く身動きが取れないだろう。
「ははっ。実は少し重たい…」
 青年が苦笑する。それでもしきりに甘える3匹の猫を適当にあしらいながら、右手だけで器用にキーボードを操作していた。
 ―――――伊吹マヤは、昨年の夏に赤木リツコが「人工進化研究所」から更迭された際、尊敬する先輩であったリツコを陥れるような形になってしまったことから心を病んだ。結局自身も研究所を辞めることになって、暫く入院もしていたのである。
 しかし、その後研究所そのものが消滅してしまい、更迭、追放の憂目に遭ったリツコが破格の待遇でこの大学に招聘されるに及んで、マヤとしても愁眉を開くことになった。
 彼女自身はリツコに合わせる顔もないと思っていたのだが、助手として働かないかと声を掛けられ、泣きそうになりながら一も二も無く馳せ参じた次第である。
 研究室にいたのはほとんどが以前の研究所のスタッフであったが、ひとりだけ…全く見たことのない人物がいた。それが、彼である。
 榊タカミ。まだ学生だが、学部が違う。何故ここに?と思われても仕方の無いプロフィールであるが、テクニカルスキルでいえば並み居るアシスタント達がこぞって白旗を揚げるレベルだ。
 志望はAI研究だったが、家庭の事情で医学部に転向させられた…という話には、それなりの説得力があった。
 しかし「実は赤木先生に弱味を握られてて、ここの仕事ってほとんど無料奉仕ボランティアなんですよ。僕もまだ学生で不定期にしか来られないし、好きでやってるんだから文句ないですけどね」などというおまけを、しかも笑いながらつけられては、どうにも何処まで本当なのか怪しくなってくる。
 もう一つ言えば…他の研究生が居る前では「赤木先生」で通しているのが、先刻のように時折「さん」付けとはいえファーストネームで呼んでいるし、リツコもまたそれを許しているようなのだ。
 正直なところ、微妙に面白くない。だが、入院加療とリツコの復帰でかなり落ち着いたとはいえ、今でも時々襲われるパニック障害の発作で動けなくなったところを何度か助けられてしまっては積極的に嫌うこともできなかった。
 タカミが流石に3匹分の重さにしびれを切らしてとりあえずメルとカスパーを下ろしたとき、膝の上のバートがぴくりと耳を立てた。続いて2匹も。
 ドアの音に2匹がドアの前に殺到する。バートだけはそのまま、物憂げに目を閉じた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 帰ってきたリツコにマヤがすっと近寄って、ファイルケースとバッグを受け取った。冬場であればコートを脱ぐ手伝いまでしそうな勢いであったが、この季節ではノースリーブのカットソーだけだ。
「ただいま。あー、疲れた。あら、今日は早いわね」
 赤木リツコはじゃれつく2匹を軽く撫でてやりながら、定位置にいるタカミに声をかけた。
「座ったままですみません。こういう次第で」
 タカミがキャスター付きの椅子を少し後ろに引いて、膝の上の猫を見せる。
「あら、バルタザール。今日は愛想がないわね」
「若干バテ気味なだけだと思いますよ。暑いから。…D63の追試ファイル出来てます。あと、こないだの宿題、一通り終わって例のフォルダに入れてますから後で確認をお願いしますね」
「早いのね。随分と」
 少し驚いたように、リツコがスリープ状態のパソコンを起こす。指定のフォルダを開けていくつかを斜め読みしながら…OK、と溜息混じりに言った。
「明日から暫く来られないから、すこしは頑張っとかないと」
 色よい返事に、タカミが柔らかに笑む。リツコは数日前に聞いた予定を思い出して、少しだけ…遠い場所に視線を預けた。
「そう…だったわね。…あの子達は元気?」
「お蔭様で。世の中夏休みですからね。少しは遊びに出してやらないと」
「そういえば小中高は今日が終業式ですね。大学うちは関係ありませんけど」
 マヤが備え付けの小さな冷蔵庫からアイスコーヒーを出して、愛用のコースターと一緒にリツコの机に置く。
「ありがとう。ああマヤ、あなたもきちんと休暇は取ってね。すこしは外も慣らしていかないと」
 リツコの言葉に、マヤがさっと表情を翳らせる。
「すみません、先輩…ご迷惑ばかりかけてるようで…」
 第3研究棟の最上階はワンフロアまるごと大学側から赤木リツコに供与されている。そしてそこが、いまのところマヤが一人で動ける限界だった。広い場所や、不特定多数の人間が往来する場所ではいまだに 発作を起こしてしまうマヤは、再就職してこのかた、事実上ここを住所としていたのである。
 そんなマヤの状態も折込済みで、リツコは再就職を提示してくれた。ここは研究棟としての機能上、厨房や浴室など数人が泊まり込めるほどの設備が整えられている。
 だからここから一歩も出られなかったとしても然程問題は無かったが、いつまでもこの状態に甘んじているのが良くないことは、マヤもよく理解していた。
「…ああ、ごめんなさいね。そんなつもりじゃなかったの。無理はしないで? 少しずつ、慣らしていきましょう。焦っても良くないわ」
 マヤの様子にリツコが少し慌てたように補足した。
「はい、ありがとうございます…」
「僕で良かったらお手伝いしますよ。いつでも声かけてください」
 そう言って、榊タカミが物柔らかに微笑む。その微笑が以前どこかで見たような気がするから、マヤの胸中をざわめかせる。
 そう、ひどく穏やかで、年齢不相応に落ち着いていて…そして怖ろしい。

 以前、マヤはちょっとした買い物に出ようとして、建物を出た数メートルで動けなくなったことがあった。まだ一人で挑戦しないようにと注意は受けていたのだが、いつまでもそれではいけないと思ったのだ。
 心臓が破れるかというような動悸に苛まれ、蹲ったマヤの肩に、誰かが触れた。
『大丈夫。すぐに収まります』
 その瞬間…短期作用性の抗不安薬、それもかなり強い部類のものが直接血管に投与されでもしたような、有り得ないほどの劇的な変化があった。かえって、そのことに恐怖さえ感じる程に。
 顔を上げると、あの物柔らかな微笑があった。
『ね、大丈夫でしょ? …買い物なら僕が出てきますから、すこし上で休んだら』
 そこには一欠片の悪意どころか、底なしのお人好しの姿しか見ることは出来ない。なのに、何故こうも静かな恐怖を感じてしまうのか。
 症状と考えることは可能だった。むしろ、それが一番妥当とも言えた。だが、同じような状況で他の研究生やスタッフ、リツコがいてさえ、その時のような劇的な変化を経験することはなかったのだ。
 だから、それが怖ろしいのか? その微笑の既視感と相俟って、昏い疑問がこびり付いて離れない。それを口にすべきなのかどうかも。
 その日、「宿題」を残らず片付けて…榊タカミが慌ただしく退出していったあと、マヤは遂に意を決して口を開いた。
「先輩、少し…聞いていただきたいことが…」

「夏期講習?」
 終業式直後の開放感も何処へやら、中3受験生の面々は配布されたばかりの無情な案内文に疲労倍増という顔で机に突っ伏していた。
『がんばってねー!私は別件で仕事入ってるから、付き合ってあげられないけど』
 仕事が入っているという割にはえらく上機嫌で、持ち上がり担任の葛城ミサトがHRホームルームを締めて行ったのは15分ばかり前のことだ。
「ふうん、大変だね。ごめん、僕とレイは予定があるから」
 カヲルにさらりと言い放たれ、シンジ、トウジ、ケンスケがさらに深く沈み込む。
「何や、お前等も付き合わんのかいな」
「まあ…渚の成績なら講習なんて無用だろうけどさー」
「その、綾波も大丈夫なの?」
 控えめにシンジが問うてみる。中3ともなれば成績上位者は遠慮無くその名を張り出され、カヲルやアスカはその常連というより上位争いに名が取り沙汰される。しかし、レイについてはそういう話には名前が出たことはない。だから、概ね自分達と同じなんだろうと漠然と思っていた。
「…あ、あはは」
 シンジの言わんとするところに気づいて、レイが頭を掻く。
「ああ、レイの勉強は僕が見るから。そこは覚悟しておいてね、レイ」
 こともなげにカヲルが言う。言いたくても普通は言えない台詞というのがある。それを周囲に斟酌することなくさらっと言ってしまうのがカヲルだった。視線で人が殺せるものなら、という眼でトウジとケンスケが睨んでも涼しい顔をしている。
「ある意味…惣流と同類項だよな、渚は」
 ケンスケがぼそりと言ったのを、カヲルは丁寧に無視した。
「…それに今回は、成績がどうとかよりも家の都合なんだよ。保護者から呼び出されてるんだ。…それも、うるさいほうから」
 そして、幾分憂鬱そうに額へ落ちかかる髪をかきあげた。
「家?保護者?お前、親戚がおったんかい」
 この兄妹に係累がいるという話は初耳だったから、トウジの声が跳ね上がる。シンジは一応そのあたりの事情を知ってはいたが、カヲルがつけた註釈にはたと手を拍つ。
「…ってことは、榊さんじゃなくて高階医師せんせいのほうか…そりゃそうだよね、呼び出すも何も、榊さんは一緒に住んでるんだし。今欧州ヨーロッパだっけ? いいなぁ、夏休みに欧州旅行か」
 シンジはそう言って暢気に羨むが、レイとしては素直に笑えなくて…造作に似合わぬ苦笑いで控えめにたしなめる。
「また、カヲルったら…そこで碇君にさえ判っちゃうくらい態度に出るってのもどうかと思うんだけど…」

 やっぱり、叱られるのだろうか?
 大学からの帰り道。伊吹というあの研究助手の病気のことも、それがどのあたりに端を発しているかも、理解ってはいる。
 自分がとんと無芸な身で、そのほとんど唯一と言っていい特技が他者の役に立つなら、タカミとしてはそれを使うことにそれほど抵抗を感じない…しかし。
『極力、使うな。そして、絶対に使うところを見られるな』
 …というのが、ネフィリム―星を渡る程の寿命を持った、使徒Angelと呼ばれる地球外生命が、現生人類リリンと融合した姿―としての特殊な能力に関する、高階マサキからの厳命である。
 まあ、それで五十年以上もゼーレから隠れ逃げおおせた実績を思えば決してないがしろにするつもりはない。

『俺達は現生人類リリンの社会では絶対的少数派マイノリティなんだ。ネフィリムとしての能力を使わなくても、俺達は生きていける。可能ならコトを荒立てたりはしたくない。このまま穏やかに過ごしていけるなら、それが一番いいはずだ。
 喧嘩して負けるとは思わないが、無傷って訳にもいかないのはこの間の件でよく判っただろう』
 囚われたカヲルをネルフの手から取り戻すための一戦で、危うく右腕をもっていかれかけたマサキが言えば、その説得力は十二分にあった。
 タカミとて、積極的に現生人類と事を構えたい訳でもなければ、能力を顕示したいという欲があるわけでもない。しかし、大切だと思う人々のために、自分がなにかを成すことが出来るなら…。
 いや、違う。伊吹という助手のことを、彼女赤木リツコがとても気に掛けているから…タカミ自身がその心痛を少しでも和らげてあげたいから、出来ることをしたい。
 至って利己的な理由なのだ。…それは理解っている…。
 もう二度と、逢ってはいけないと思っていた。
 自分は彼女のAI研究を捩曲げ、ぶちこわしにしたのだ。
 彼女と、彼女の母親が作り上げようとしたAI。生まれることが出来なかった彼女の弟の名を与えられ、MAGIの下位インターフェイスとして、ヒトとMAGIを繋ぐ筈だった。
 『胡蝶の夢』。イサナはそう評した。その時は自身がAIであることを露ほども疑わず、自身がどうやったら成長出来るのかをひたすらに模索していた。そして、「生きろ」という至上命題に対して、最終的にハードウェアからの離脱という手段に行き着いた。
 彼等の言う『使徒』を制御し、またエヴァを操縦するダミーシステムの基とする…そんな目的がなければ、AIタカミにもおそらく違った選択があったに違いない。
 ゼーレ、ネルフの目的のために利用されることをAIタカミは拒否した。その偏向バイアスは、記憶がなかったとはいえ、他ならぬネフィリムとしての意識が生んだことは否定できない。
 自分が間違ったことをしたとは思わない。その時はそうしなければならないと思ったし、この身体に戻った後もそれを悔いたことはない。間違ったとすれば、もっと最初のところ。
 開発途上のAIとの融合などという、全く以て説明不能な事象を引き起こしてしまったことだ。
 ネフィリムとしての自分が、AIタカミの在り様を捩曲げた。…その一点において、まだ自身では整理がついていないのだ。
 …それなのに、それらすべてに蓋をして…まだ夢を見ようとしている自分が度し難い。
 そんなことを考えていると、ただ歩いていても躓きそうになる。研究室を早々に退出した理由を思い出し、とりあえずわだかまるものを頭から追い出して足を速めた。
 マンションのエントランスで、自分より先に部屋に入っている誰かの存在を感知する。エントランスの端末からセキュリティのログを遡って読み、それが誰なのかを確認する。
「…一体…?」

「お帰りー!」
 タカミを出迎えたのはミスズだった。奥の方に、カツミと、ユウキの姿も見える。
 まず目をひいたのはカツミの髪だった。元来、バートと呼ばれていた頃から黒髪だったものを、徹底的に脱色している。ミスズもいつもより短く切っていた。
「ただいま…って、えーと」
「多分、タカミが考えてるので正解」
 読みかけの雑誌を静かにリビングテーブルに置いて、ユウキが立ち上がる。
 エントランス端末から読んだセキュリティログには、今朝、タカミが出た後からこの部屋への出入り記録は残っていなかった。それなのに誰かがいるとしたら、出入口を他に作って入れる誰かに他ならない。
「随分とものものしいね。リエさんに通路みちをつくってもらっての来訪とは」
「詳しくはイサナに。カヲルと姫さんが戻ってきたら、リエ姉に連絡する」
「…ちなみに聞いてみるけど、行き先は?」
「済まないけど俺もよく知らない。とりあえず国内。大丈夫、庭先に転移するって言ってたから」
「…了解」
 この問答無用な段取りのつけようが誰の差し金かは言うまでもない。
「相当きな臭い状況…なのかな」
「わからない。ただ、いつ何処で火を噴いても大丈夫な態勢はとっておく、と。碇博士から何かリークがあったらしい」
「きな臭いどころか、火を噴く心配までしなきゃならないレベルか。参ったな」
 タカミが天を仰いで嘆息した。
「大丈夫よ!此処の周りをヘンなのがうろついてたら、とりあえず私が撃ち倒しといたげるから」
 ミスズが胸を張って宣言する。リビングの一隅には既に組み立て途中のライフルがあった。他にケースに収められたままのものもあり、組み立て途中のものと併せても、3丁分は堅いだろう。
 今回はナオキが同道でない所為か、重厚な弾薬箱アーモボックスも鎮座していた。
 すっかり臨戦態勢な仕様の説明を求めるように再びユウキに視線を遣る。ユウキは苦笑を閃かせてそれに応えた。
「ま、とりあえずは様子見…ここがもう見張られている可能性もあるから。
 ひとつには危機回避、もう一つはデコイ猟。釣れれば幸い、そうでなければただの休暇。…まあ、そこまで切羽詰まってるわけじゃない」
「だといいけど…」
「ただの休暇でここまでさせられちゃ割に合わないって話もあるんだけどね」
 張り切っているミスズと対照的に、微妙に機嫌の悪いカツミが落ちつかなげに髪に手を遣る。
「似合ってると思うけど?」
 なにふてくされてんの、と言った面持ちでミスズがカツミの脱色された髪をかき回す。よせやい、と逃げにかかりながらカツミがぼやいた。
「やだよー。何か頭がキシキシしてさ」
「カツミがウイッグやだって言ったからでしょ」
「だからって他人の髪をいきなり脱色するか?」
「だって面白かったんだもん。私だって髪切ったんだから」
 ひとを着せ替え人形にして面白がるのはミスズの悪癖だ。今回の犠牲者はカツミ、ということのようだった。
「とりあえず選定基準は背格好だけだから。顔写真がバラ撒かれてる訳じゃないし、遠目ならコレで十分だろうって」
 ユウキが自身の髪に手を遣る。子細に見ればタカミとは微妙に色合いが違うとはいえ、概ね栗色と表現される髪であった。
 僅かに声を低めて、ユウキに問う。
「危険は?」
「デコイにかかったほうが危険かも。俺達は何となれば脱出方法がある。現時点で積極的に事を構える予定はないし、予想外の事象が起こったら撤退ってのが基本のプランだ。これでいいか?」
 いつものおっとりとした微笑でタカミの危惧を払う。心中快々として納得したとは言い難かったが、タカミはとりあえず頷いた。
「じゃあ、カヲルくん達が戻ったら出発か。さて、レイちゃんは欧州ヨーロッパを楽しみにしてたみたいだし…どうやって誤魔化そうかな」

 大学病院のロビー。
 高い天井からは、天井近くに緩く張られた生成の帆布を通して外光が差し込む仕様になっていた。夏の強い日差しは、布に当たって柔らかな光を投げている。冬になれば、布は取り払われて暖かな陽光がロビーに差し込むのだろう。
 大学病院の外来は基本的に紹介制だから、普通の総合病院ほどごった返してはいない。それでも、不安げな顔を俯けて待っている人々の姿は、何処の病院もかわるものではない。
 そんな人々の中に紛れて、赤木リツコはロビーのソファに座を占めて和らげられた陽光を見上げていた。
 場所は知っていた。案内を乞うほどのこともない。既に目的の場所には行って、当人と一言も交わすことなく退室してきたところだった。
 言葉を交わせる状況ではなかったから。
 『アダム』の組織片を現生人類リリンに取り込もうとした結果。その不適合。目指したものが何だったのか、既に余人に理解できない領域にまで踏み込んでしまった結果がそこにあった。
 取り込んだ組織は思い切った手段で切除された後で、それでも生きてはいる。しかし、回復の見込みが立っていないであろうことは容易に想像が付いた。
 少しだけ驚いたのは、自分がそれを目の当たりにしてしまっても…何も感じることができなかったことだった。
 自分を散々利用した挙句、弊履のごとく捨てた男だ。自分もまた、ついて行くことに疲れてしまった。
『…それは僕に、『碇ゲンドウを殺すな』と言っているつもり?』
『…そうね…できるなら殺さないで…』
 第3新東京を追放されたあの時も。そして今も。…自分はまだ、憎むことができないでいた。哀れむことも出来なかったが。
 ここに収容されていることを知ってはいたが、今の今まで足を向けることは出来なかった。
 それが、あの男に心を残していることを自覚したくなかった所為かも知れない…と何処かで思っていた自分を、リツコは嗤った。
 逆だったのだ。あの男のあんな姿を見てしまっても、なにも感じなくなった自分を見つけることが…多分、怖かった。
 だが、それも終わったことだ。
 人間の心は結構丈夫に出来ているな、と至極紋切りな感慨で胸の中にわだかまる霧を振り払い、リツコは立ち上がった。
 行き交う人々。その中には当然、白衣を纏った医師の姿もある。その時、リツコの視界を横切った人物もそうだった。
 はっきりと顔が見えた訳ではなかった。しかし、見知った顔であったような気がして、思わず動作を停める。
 ここに居るはずのない人物。しかしあくまでも自然に、その風景に溶け込んでいた。
 追いかけて、声を掛けるほどの行動力はその時のリツコに残っていなかった。そして、そうすべきか否か、躊躇う余地も多分にあった。
 そうする内に、白衣を纏ったシルエットはエントランスの雑踏に消えてしまう。入院棟、検査棟、研究棟との接続通路が交差するあたりだ。何処から来て、何処へ行ったのかも皆目見当がつかなかった。

 春からこっち、忙しい中にも平穏な日々が続いていた。
 自身の中でもいくつかの整理がついて、ようやくここにも足を運ぶことが出来た。

 だが今、その静けさの奥底…自分が預かり知らぬ処で何かが動きつつあるような気がして、リツコはかすかな不安にとらわれていた。