地球から出るには、一般人なら軌道エレベーターの優雅な旅、というのが通り相場だ。しかし軍関係者の場合マスドライバー・シャトル 1での打ち上げという選択肢があった。軌道エレベーターよりもはるかに早く衛星軌道のステーションへ到達できるという利点はあるのに何故軍人限定かというと…ひたすらに乗り心地に問題があるからだ。
有り体に言えば、射出時の加速度は訓練を受けた者でも相応の覚悟が必要なのである。
面倒なことに連邦軍には、オンオフに関わりなく鍛錬の一環として月への移動はマスドライバーシャトルを利用すべしという悪習が存在した。
でも今回は療養休暇なんだし、のんびり軌道エレベーターの旅を楽しませてもらってもバチは当たらないよな。そう思っていたシラセは、治験プログラムのスケジュール表にきっちりと書き込まれた行き帰りの交通手段に暗然とした。…なんと、ご丁寧に官舎をでたところから軍用空港へ無人タクシーが手配されており、その後ろには疑うべくもないマスドライバーシャトルの便名が明記されていたのである。
「マジかー…」
戦時下ではあるまいし、便数だってそう多くない。こんな急に、よく席がとれたものだ。段取りの鬼とでもいうべき上司の手腕にシラセは思わず天を仰いだ。
固定装具に固められているとはいえ、この足に宇宙速度 2は凶悪だろうなあ。
上司のオフィスを退出した後、真っ直ぐに帰ってきた官舎でそんなことを考えながらさして多くもない荷物をスーツケースに詰めてしまうと、とりあえず思考を些か強引に月面リゾートへ振り向けることにした。
タブレット型の情報端末を手に取って、スプリングの良くない官舎備え付けのリビングソファに身を沈める。
カ・アタ・キルラ。…インカ神話の月の女神の名を冠した月面コロニー。リゾート施設が集中していることで知名度が高い。水をふんだんに湛えたルナグラス型 3の風光明媚な居住区は、確かにその向きではあるだろう。まさに天上の楽園。ひたすらキラキラとしたイメージを伝えるコマーシャル動画を流し見しつつ、シラセは吐息した。
クントゥル医療センターは、その中でも高重力から低重力エリアにまたがる広い区画を持ち、制御重力の医療転用の研究をしているらしい。民間研究所ということにはなっているが、軍とも提携している。上司経由で話が流れてくる訳だ。
やめた、考えるだけ無駄だ。とりあえず楽しもう。
タブレットをおいて、そそくさとベッドに潜り込んだ。寝付きには自信がある……。
***
ふと気が付くと、シラセは広い空間に立っていた。
上は雲ひとつない蒼穹。彼方は見渡す限り鏡のような水面。その間をつなぐように、大樹が聳え立つ。風もないのに枝葉は揺れ、幽かな歌をうたっていた。
その根元に、ひとりの青年が立っている。
大樹の歌に耳を傾けるように軽く眼を閉じていたが、ふとこちらを向いた。
多分、自分と同年代。背格好も同じくらいか。暗い色の髪だ。そこも同じ。…だが、こちらを見たその両眼の虹彩は特異なものだった。蒼と黄色、オレンジが混ざっている。いわゆるアースアイと呼ばれる形容しがたい眼。
青年がシラセを見据えて口を開く。
――――彼女は何処に。
勘弁してくれよ。そろいも揃って、こんなポンコツ軍人に何を期待してるんだ。俺に出来ることなんてそう多くないんだ。お前こそちゃんと働けよ。ちょっとぐらい、俺を休ませてくれないかな…
そう愚痴ったのが聞こえたのか聞こえていないのか。青年が幽かに眉を顰めた―ー―。
***
「大丈夫ですか?」
声をかけられて、シラセは眼を開けた。だが、眼を開けたはずなのに何も見えないことに一瞬だけ慌て、そこで気が付いてアイマスクを取る。
「えーと……」
隣の席にいた少年が心配そうに覗き込んでいた。そう、ここはもうマスドライバーシャトルの中だった。少年のおさまりの悪い髪から軍帽が今にも離れそうにふわふわしているところをみると、もう衛星軌道に到達しているのだろう。
シラセにはマスドライバーの凶悪な加速度を心待ちにする趣味はなかった。ええい寝てしまえとばかりに搭乗して着座するが早いかアイマスクをしていたら……いつの間にか寝てしまったらしい。
「重力圏抜けてからも微動だにしないから、ちょっと心配になって。もうすぐ月ですよ」
「あー…そりゃすまなかった。…気にしないでくれ、熟睡してただけだから」
「はあ、そうなんですか。却って悪いことしちゃいましたね」
「いや、丁度良かった。最近イマイチ夢見がよくないんで、起こしてもらってよかったよ」
そう言って、座席の前に設置されたモニターに触れた。
仮想窓の景色が表示される。星の海に浮かぶ、蒼い宝珠…地球の姿がそこにあった。海の蒼と陸の黄色からオレンジ、そして雲の白。シラセはそこに新鮮な感動を覚えるほど感受性が豊かというわけではなかったが、地球の姿にそれなりの感慨はある。
すくなくとも、小さく吐息する程度には。
しかし少年のほうは、シラセの態度をマスドライバーの加速度さえハンモックの揺れ程度にしか感じていない所為だと誤解したらしい。
「慣れてるんだ、流石ですね」
「まさか、訓練程度だよ。ええと…?」
「キアヌ=カイ・メレ曹長です、シラセ大尉」
柔らかそうな金髪を浮きかけた帽子に押し込んで、きっちりとした敬礼をしてみせる少年に、シラセは思わず苦笑いを返してしまう。
「あー、俺、いちおう休暇なんだけどなー…」
「ははっ、そうでしたね。でもどのみちカ・アタ・キルラの宙港まではまでご一緒させていただくんだし、なんてお呼びしたらいいですか?」
「フツーにシラセ、でいいさ。階級とか面倒くさいだろ?」
「では、ぼくもキアヌで結構ですよ。あらためて、よろしくおねがいします!」
少年が愛嬌のある褐色の顔をほころばせる。元気いいなぁ。羨ましい。そんな年寄り臭いことを考えながら、シラセはいつの間にか配られていた機内食のパウチ入りオレンジジュースを開封すると喉奥へ流し込んだ。不味いとは言わないが、風情のないこと夥しい。これが軌道エレベーターの旅なら、クラッシュアイスの入ったオレンジフレーバーのアイスティーをグラスで飲めたのになぁと思いながら、ふと気づく。
……自己紹介、したっけ?
***
カ・アタ・キルラの宙港。
「あのな、君は俺の従卒ってわけじゃないし、ここまでしてもらう訳には…」
「いえいえ、気にしないでください。女性とお年寄り、それと怪我人には親切にするものだって、昔から言うでしょ?」
決して小さくない自身のバックパックを背負ったまま、キアヌがシラセのスーツケースを軽快に引いて行く。シラセはその後をゆっくりと…というか、若干遅れ気味に追従していた。
シラセは到着フロアの手荷物受取所でコンベアからスーツケースを取った際、下ろしたスーツケースをうっかり装具に当ててしまった。手荷物受取所は低重力エリアだからそこまでの衝撃ではなかったはずだが、当て処が悪かったのか一瞬声が出ないほどの痛みに襲われた。
思わずスーツケースに縋ったまま凍り付いていたところに声をかけてきたのがキアヌだったという訳である。痛みはすぐに引いたし、歩行にも差し支えはなかったのだが、キアヌが荷物を持ちましょうと言ってくれたのだった。
しかし…終始きびきびとした動作なのは感心だが、親切にしてくれるというなら補装具をつけた人間の歩行速度にも配慮してほしいところだった。
受取所は低重力エリアだったが、そこを出て到着ロビーに接続するコンコースからは標準重力だ。装具の補助があるとは言えやはり通常の歩行よりも遅れ気味にはなる。
「…キアヌ、すまん…もうちょっとゆっくり歩いてくれると有難いんだが」
こうなれば恥かきついでだ。正直に言うと、キアヌがはっとしたように立ち止まった。
「うわ、ごめんなさい。ぼくったら気が利かなくて…」
恐縮するキアヌに、シラセは鷹揚に言った。
「ありがとう。本当に大丈夫だよ。キアヌこそ出頭の時間とかあるんじゃないのか?いちおう軍務なんだろ?」
「軍務と言えば軍務なんですけど、ぼくまだ学生ですから、学校の実習なんです。衛生科なんですよ。今日の処は今日中に実習施設に到着を申告して、指示をもらうだけですから。出頭時刻にも余裕あるんです。軍病院というわけではないんですけど、提携してる研究施設付属の療養所があって、今回の実習地ってそこになるんですよ。
あっ…と、こういうのって、本来は喋っちゃ駄目なんですっけ」
キアヌが慌てて口を覆ってから、笑って頭を掻く。
「まあ、学生とはいえ…本来は任務内容を部外に喋っちゃ駄目だよな?」
どうにもどこかで聞いたような話だ。思わず確認したくなったが、シラセはその点に関して敢えて口を噤んだ。〝軍人として良識ある対応〟について…講釈を垂れたその口で訊くことではないだろう。
「…キアヌ、ここでお別れだ。感謝してるよ。縁があったらまた会おう」
そう言ってキアヌの癖のある髪をくしゃりとやってから、キアヌが引っ張っていたシラセのスーツケースにやんわりと手をかけた。
すると少年は、気分を害したふうもなく荷物から手を離し、陽光のような笑みで敬礼をしかけ…はっとしたようにそれを手を振る動作に切り替えた。階級を気にするな、というシラセの言葉を一応尊重してくれるらしい。
「そうですか…では、失礼します。シラセさん、くれぐれもお大事に」
――――To be continued
- マスドライバー…電磁カタパルトで飛行体を宇宙にまで打ち上げる方式。大気のあるところでは諸々キビシイが、それでもロケットを打ち上げるよりはコスト的にマシ、という話らしい。ただし大砲の弾丸に乗るようなものなので、乗り心地にはいろいろ問題ありそう。
- 宇宙速度…人工天体をある条件のもとで宇宙に飛行させるときに必要になる速度のこと。第一宇宙速度、第二宇宙速度、第三宇宙速度がある。 まず、第一宇宙速度は地球表面すれすれを人工衛星として飛行するために必要な速度で、約7.9 km s-1 である。 次に、第二宇宙速度は地球の重力を振り切るために必要な速度。第一宇宙速度の√2倍であり、約11.2 km s-1 である。地球からの脱出速度とも呼ばれる。最後に、第三宇宙速度は地球表面から出発して太陽の重力を振り切るために必要な速度で、約16.7 km s-1である。出典:天文学辞典、https://astro-dic.jp/
- ルナグラス……京大と鹿島建設が月や火星で重力を生み出す巨大施設「ルナグラス」構想を発表したのが2022の話。なかなか夢のある話である。ご興味のある方は此方。