西方奇譚Ⅲ

西方奇譚

 確か母が病死したときも、こんなには悲しくはなかったように思う。
 目の前で消えようとしている命。絶対に失いたくないものであるのに、それをここに留める力は、自分にはなかった。
 無力だとわかっているから、声が涙声になる。終いには何も言えなくなって、ただ体温の下がってきた細い身体を包みこむ。
 抱きかえす指先に既に力はない。もう重いであろう瞼をうすく開けて、辛うじて囁くような声で彼女は言った。
『泣いては駄目…前を…前だけを見つめ、あなたの道を歩んでください…それでこそかの風…風の守護竜!』
 彼女の愛した人はもうこの世にいない。そんな彼女をこれ以上この世に留めようとするのは、罪であろうか。
─────ライエン…マキを連れて行かないで!
 心の中で、そう叫んだ。
 しかしその祈りが届くことは、なかった。

あの女ユンファの狙いは本来、刺客の抹殺よりシェンロウがのこした“レガシィ”にあった」
「何だ、焦って損した」
「勿論それは比較すれば、の問題だ。手下どもやイェンツォ郷の者へのしめしもあるし、面子にかけて殺す気だったことには変わりない」
「…げっ…」
 二人は、長い廊下を歩いていた。板を天井にも壁にも張り巡らせ、まるで横にした煙突のようだ。おまけにその張り巡らされた板というのが、尋常な代物ではない。鉄とも違う、ひどく硬い板だった。
 だが、先刻の言葉通り、いい加減驚くのに疲れていたエルンストはもう一々驚こうとはしなかった。
「正確には、シェンロウも守護者の一人に過ぎなかった。私はシェンロウの死を看とり、“レガシィ”の鍵を受け取った。それがこれだ」
 サーティスは立ち止まるとペンダントをはずした。えらく時代がかかっている。嵌め込まれた宝石の奥に、小さな四角と直線が組み合わされた複雑な模様が見えた。
「…これがなければ、あの光を呼び出せない訳か」
「飲み込みがいいな、そういうことだ」
 ペンダントを首にかけ、サーティスは再び歩き出した。
「“レガシィ”と呼ばれるモノのことは、イェンツォ郷のなかでも知っている者がいないわけではないが、その理解に多少歪みはあるな。その実体を知るのは代々の“ラオ”…守護者だけだ。さらにその“レガシィ”を蘇らせたものだけが、継承者レグナンツァーと呼ばれる」
「“レガシィ”ってのは生き物なのか!?」
「そうであると言えばそうであろうし、そうでないと言えばそうではないかも知れない。だがいずれにせよ、ツァンフェイやユンファ如きの手に負える代物ではなかっただろう」
「だがそいつらは執拗にそれを欲しがった。何故だ?」
「正体を知らなかったからさ。…その重さを知らないからこそ、無邪気に欲しがることができた。こんなモノを…!」
 サーティスの表情には、憎しみに近いものがあった。
「…待てよ?話を元に戻すが、あんた自分は継承者だと言ったな…継承者だって事は…あんた、その“レガシィ”とやらを生き返らせたのか!?」
「…そうだ」
 サーティスの表情がすうっと冷える。
「シェンロウにこれを渡され…私はここを訪れた。そしてその謎を解き、“レガシィ”を立ち上げ…遥か昔の伝言を受け取った。そして私はそれからある時期を除いてほとんど休む暇もなく“レガシィ”との対話を続け、さまざまなことを知った。
 …だから、死ねなかった」
「…何?」
「死にたい程つらいことがあったけど、死ねなかった。私は継承者レグナンツァーだ。一千数百年を経て、はじめて“レガシィ”を蘇らせ、今現在唯一使役できる人間だ。その命を軽々しく閉じるな…と、シェンロウに言われた」
「サーティス…“レガシィ”とは何だ?」
 たまりかねたように、エルンストが尋いた。
「“レガシィ”とは…太古いにしえの記憶。一千数百年前に何があったのか…それより前に一体どんな世界がこの地上にあったのか…その克明な記録の集積体だ」
 このとき、大陸暦にして八〇〇年代の後期半ばである。一千数百年前と言えば、明らかに、大陸暦以前の世界…!?
 廊下が壁に阻まれたとき、サーティスは立ち止まった。
「これが…“レガシィ”の正体だ」
 白い指が壁の一点に触れる。突き当たりの壁が音も無く裂けた。
「……!?」
 思わず息を飲む。そこは、今までの廊下以上にエルンストにとっては奇異な空間が広がっていた。
 がらんとした部屋に、一つの奇妙な椅子。その向こうに、書机ほどの板が壁から張り出していた。サーティスがその板に歩み寄り、一点に触れる。…と、その板に無数と思える指の先ほどの正方形の列が浮かび上がった。
「操作卓…とでも言えばいいか。“レガシィ”との対話はこれを通じて行う」
 聞いたことのない名詞ことばばかりであるにもかかわらず、エルンストの意識はサーティスの言葉を理解した。
 サーティスの指が操作卓の上を滑り、ぱっと室内が明るくなった。操作卓の向こうの壁に白い長方形が現れる。だが、“継承者”は何か説明を加えるでなく操作を続けた。
 やがて、その長方形は黒く変わる。同時にそこに今まで見たこともない文字が浮かび上がった。その周囲にいくつも同じような板が浮かび上がり、見たこともない光景を映し出す。文字ばかりの板と、光景を映し出すものとがあった。
「…“レガシィ”が作られた時代の文字と映像だ。字そのものがかなり変わっているが、文法に根本的な違いはない。…変化していないんだが、私はこれを解読するのに三ヶ月かかった」
『俺だったら一生無理だな』
 心中独りごちて、エルンストは吐息した。
「一つの文明の滅亡を見届けた、ひとりの男がいた。…その男はその文明が持っていた全ての知識をこの“レガシィ”に憶えさせ、永い冬を生き抜くことができないままその生を終えた」
「永い…冬?」
 さながら筝を奏でているような、だが余りにも速すぎる指の動きと裏腹に、“継承者”はゆっくりと言葉を紡いだ。
「そう、冬だ。それも我々の祖先が自らの愚行によって招来した、滅びの冬…。その男は冬の到来を予測し、冬を越すベくこの地下壕を建設し、“レガシィ”を召使いとしてたった独り、この地の底に籠もり…人々の滅びを見ていた。
 見て、その愚行の全容とその報いを記録におさめ…春を待ち侘び、ここで死んだ。…そこにいる」
 エルンストはぎょっとして飛び退いた。部屋の一隅、部屋の正面に向かって右側の壁際…サーティスの指し示す椅子の上には、干からびた、その昔人間であったものが乗っていたのである。
「…なんてこった…きれいにミイラになってやがる…」
「湿気に弱い“レガシィ”のため、この部屋は常に一定の温度、湿度を保つような仕組みになっている。もっとも、その機構を管理しているのは、“レガシィ”自身だが…。その環境が、腐敗より乾燥を先に進ませた。その結果だ」
 見たこともない衣装を身に着け、背凭れに背を預けたミイラ。そのうつろな眼窩は、無念、悔恨の類いよりも静かな悲哀だけを湛えているようだった。
「あのペンダントは、この男の持ち物だってか」
 エルンストはピンときた、といしか言い様の無い径路を経て気付いた事を口にした。サーティスがそれを肯定する。
「死ぬ二日前に…待ちきれなかった男は無理を承知で外へ出た。そしてひとりの老人にこれを託した。それが最初の“老”だ」
「…つまり、その時に既に、“レガシィ”の中 に託されたものを理解できる…文字を理解できる人間はいなかったって事なのか」
「その通りだ」
 サーティスの声に抑揚は少なく、その表情は何処か疲れたような翳りに覆われていた。
「だからこの男は…いつ現れるか知れない継承者にメッセージを…遠い過去からの伝言を残していたんだ」
 画面を流れ続ける文字の列を、読むのではなくただ眼に映しているサーティスの顔からはいつの間にか血の気が失せていた。僅かに唇を震わせ、何かを振り払うかのように頭を振ると、ひどく鳥肌の立った自分の肩を抱いて操作卓を離れ、後ろの壁に寄りかかる。
「だが、一人で背負うには余りにも重すぎる…」
 蒼ざめた唇から紡がれる言葉は、ひどく頼りなかった。息づかいがやや荒く、その額には冷汗が滲んでいる。
「おい、お前大丈夫か、顔色が…」
「重い…重すぎるんだ…! 負いきれるかこんなもの!自分一人のことだってどうにもならないっていうのに!」
「サーティス!!」
 言葉の終わりあたりは、すでに声は裏返っていた。糸の切れた傀儡のようにサーティスがその場に崩れ落ちるのを、エルンストは間一髪抱きとめた。

***

 雨が、降っている。
 小さな盛り土と自然石を置いただけの墓標。その前で、サーティスは何日もそこに座り込んでいた。
 自分の館を命からがら脱出してから、自分の未熟と無力ばかりを知らされる日々であった。そしてついには一番失いたくなかった存在までも、彼の手の届かないところへ行ってしまった。自分のために、擲たれた命。失われた命。どうして。何故。
 ───あなたがご無事で良かった…。
 ───後は私が引き受ける。マキ、早く!
 ───泣いては駄目…前を…前だけを見つめ、あなたの道を歩んでください…
 あなたたちの命なんていらない。いずれ擲つ命なら、その命の尽きるまで自分の側にいて欲しかったのに…。
 いつの間にか、シェンロウが後ろに立っていた。
『継承者サーティス』
『シェンロウ…』
『私は、私が生きているうちにお前に会えたことを誇りに思うよ。お前ならばきっと、あの伝言を聞くことができる。一千年以上の昔、あの男が一体何を伝えたかったのか…きっと悟ることができる』
『シェンロウ…知ってどうする?…それが、何か意味のあることなのか…?』
 シェンロウは暫時の沈黙を置いた。
『お前にではないだろう。…お前の生きている、この世界にとって意味のあることなのだよ、おそらくはね。…それが、お前に意味をもたらすかどうかは、お前次第なんだ』
 サーティスはシェンロウの言ったことをまるごと理解したわけではない。だが、彼が立ち上がったとき、彼は“レガシィ”へ足を向けていた。

***

 エルンストは何度目かの寝返りを打ち、何十度目かの溜息をついた。
 溜息の後、息を殺したような数秒。やおら毛布をはね退けて起き上がると、罪の無い毛布を鍛え上げられた拳で殴りつける。
「…っだーもう! すっきりしねェなっっ!!」
 広さだけならむしろ、この広さは贅沢ですらある。だがあくまでそれは広さだけに話を限ればのことであって、そこは余りにも殺風景であった。
 床・壁・天井…全て、あの廊下と同じ材質のものから出来ている。その一隅に、寝台とおぼしき―少なくともエルンストは寝台として使っている―シロモノが座を占め、その側には引き出しや扉のついた机のようなものもある。当然、寝台の上には毛布があるのだが、それ以外何にもない。
 まるで、岩牢にブチ込まれたような気がしてゾッとしないのだ。
『…否』
 エルンストは頭を振った。この部屋がどうだ、ということではないなと自分で気付いたのだ。
 確かに温かみがあるとは言い難い部屋であろう。普通の人間なら気がおかしくなることもありうるだろうが、窓のない部屋などアースヴェルテの岩窟で少年時代を送ったエルンストにとってはたいした脅威とはならない。・・・というか、そもそもそういうやわな神経を持ち合わせていたのではアースヴェルテの刺客は務まらない。
 それに、特に敷物を敷いている訳ではないようなのに寝台に適度な弾力があるおかげで、寝心地は決して悪くない。
 …問題は、そんなことではないのだ。
 あの時、倒れかけたサーティスは支えようとするエルンストの腕を振り払うようにして後ずさった。
『サーティス・・・』
『こんな筈じゃ…なかったんだ…こんな事まで言うつもりじゃなかった…済まない…あと…暫く…独りにしておいてくれ。この部屋を出て右側の壁を触れれば、もう一つ部屋がある。そこで…休んでいてくれ。…もう少し…落ち着いたら、今地上で起こっていることを話すよ。
 …頼むから…独りに…』
 それは、何かを保つためのギリギリの線であることをエルンストは悟った。尋常でない顔色と冷汗が気にかかったものの、放っとくに限る、と彼は判断したのだ。
 だから彼はおとなしく、言われた通りの部屋に入って横になった。…だが、どうにも気にかかって眠るどころの騒ぎではない。
 初めて会ったときから、尋常な奴じゃない、とは思っていた。
 容貌と、内面との年齢的ギャップはさておき、大陸暦以前の世界のシロモノをああも自在に操ってしまう頭脳。…元来小利口なタイプの人間は余り好きになれないエルンストだが、この少年だけはそういうレベルを簡単に飛び越してしまい、一種畏怖めいたものまで覚えていた。
 先刻の言葉はその端的な現れであったのだ。
『サーティス。お前、本当にここの人間なのか?異界の者じゃないだろうな?』
 サーティスには一笑に付されたが、自分の予感を疑うくらいなら自分の眼を疑うエルンストである。あの少年が、何かとてつもないものを背負っていることを、言葉でなくして悟っていた。
『重い…重すぎるんだ…!』
 “継承者”でなく、“サーティス”が発した、心からの叫びだった。
 ずたずたにされ、押し潰されかけた感情。その最奧から、何かが叫んだ。それはサーティス自身にほかならぬ。おそらくは彼自身が築いた精神の城壁の奥に、彼はいるのだ。…城壁はひび割れ、崩れかけている。それが外へ向かって崩れればよし、だが万が一にも内側へ向かって崩れたとき、その奥にいる存在は押し潰されるだろう。
 …その跡に残るのは、無残な抜け殻。
 悪寒に襲われ、思わず身震いした。
 エルンストが彼にかかわったのは、掟に基づいて“イェンツォの老”に保護と、アースヴェルテへの連絡を依頼するためだった。あくまでも仕事の為であった。それが何でこっちのほうが向こうを気にせにゃならんのか…と思わなくもない。
 “老”の名がイェンツォでは別の意味を持っていたとしても、それは本来エルンストには関わりなきこと。“老”は通常、刺客としての第一線を退いた者達が務めるが、シェンロウのようにその土地で別の、いわばまっとう・・・・な仕事をしている場合も少なくないからだ。
 だが、向こうもいろいろ骨を折ってくれているようだし、何よりあんな追い詰められた表情で、あんな台詞を口にされた日には、見捨てたらさぞかし後味が悪いだろう。・・・というか、エルンスト自身、そんなことができる奴がいたらひとでなしと面罵するに違いない。
 大きく息を一つ吐いて、色の淡い頭髪をかき回すと背を壁に預ける。
『継承者サーティス…風の守護竜!』
 弱い雷に打たれたような感覚を覚えた一瞬。言葉は、口を突いて出てきた。間違いない。いつもの「予感」である。
 エルンストには、しばしば未来が見えた。それは明確な映像であることもあるし、戯画化され、抽象化されている場合もある。それがおそろしく鮮明に、頭の中に閃くのだ。…的中率は十分の十。つまり、今まで外れたことがない。
 これが、都合良く閃いてくれるなら世話はないのだ。だが、いつ現れるか分からない上に、今まで一度だって他人も、自分も救えた例がない。おまけにいい予感など滅多に現れてくれない。
 悲劇的な場面を恐れて、エルンストはそれを回避すベく幾度となく事態に干渉した。…だが、一度として何か良くなったことはなかった。関われば関わるほど残酷なかたちで、その場面はくり返されたのだ。
 ・・・・彼の眼前で。
 この、能力と言うにはあまりにも制御不能な力がどこから来るモノか…エルンストは知らない。嬰児の頃にアースヴェルテに遺棄されていた身の上では、問い質す相手もあろうはずがないのだ。
────喉の渇きを覚えて、エルンストは寝台を滑り下りると入ってきたほうの壁の前に立った。音もなく、壁が裂けて薄明かりに満たされた廊下が眼前に現れる。
 しかし、あの顔色はどうしたというのだろう。それに、ひどい汗だった。伏せがちな双眸は僅かながら濁りを呈してすらいた。何かの病でなければ良いのだが。
「…病…?」
 歩き出しかけたエルンストは慄然として立ち竦んだ。違う。あれは病などではない。エルンストは過去、ああいう状態を呈した人間を何度か見たことがあった。あれは…!!