此処よりはるか東方に、ツァーリという国が、あった。
百数十年前の「大侵攻」により、一躍その勢力圏を拡げた国である。王家と、「大侵攻」に大功のあった王弟にその始祖を持つヴォリス宰相家が実権を握っており、両家は何代にもわたり婚姻によって深い血の繋がりを保っていた。
しかし、それにも限界があるのは当然である。「大侵攻」で押さえた周辺国を牽制する人質として、また、新しい血を入れるため、幾度かに渡り周辺国の旧勢力の血筋のものから妙齢の女性が選ばれ、王都へ差し出されていた。
そして二〇年ばかり前、ツァーリの西・シルメナから一人の少女がツァーリへ赴くことになった。
当時のシルメナ王・リュクレスの実妹で、アスレイア・セシリア。十六歳であった。
彼女は当時のツァーリ王ニコラⅡ世に嫁ぎ、程無く一人の男児を生む。だが所詮は側室であり、既に正妃に長子カスファーがあって王太子として政務に携わるほどの歳になっていたから、混乱は起きぬ筈であった。
だがニコラⅡ世が、側室セシリアに対して周囲が危機感を覚えるほどの愛情を注いだことから、話はややこしく、陰惨になる。
側室と言えばまだ聞こえは良いが、何のことはない人質。その人質の産んだ男児にもまた同様の愛情を注がれた日には、王太子カスファーの立場はない。事によるとこの男児を次の王になどと考えるかも知れぬ、という危機感に煽られた。
そんな思惑とは無縁に、セシリアの産んだ男児はすくすくと育っていった。シルメナからセシリアについて来たエリュシオーネ一族の中から乳母が立てられ、長じてその教育ついては乳母の娘であるマーキュリア・エリス=エリュシオーネがその任に当たり、学問から各種武術に至るまで全て任された。
その男児が十歳になった年、セシリアはふとした病がもとで没した。
しかしその分だけ、ニコラⅡ世のセシリアの産んだ子に対する可愛がりようは、傍目にも度を越す寸前になっていった。本人もマーキュリアの教育のもとでその才覚の片鱗を見せ始めたことから、カスファーとその妃レリアの焦燥は限界点近くなっていた。・・・・そこへ、その焦りに拍車をかけるような事件が起こる。
すなわち、セシリアの遺児に対する「颯竜公」の称号授与であった。
「颯竜公」。「護国竜公」とも称される。ツァーリの重鎮たるに相応しい者に対して与えられる称号としては最高級のものである。公子に与えられる称号としてはそう不自然なものではない筈だが、十三になるかならぬかという子供に対する授与は前例がなかった。
カスファー、そしてレリアとしてはいよいよ自分が王太子の位から逐われるのではないかという不安に駆られ、結果的にはこの称号授与がその殺意を固めさせてしまったのである。
そしてまた、この陰惨な図式にさらに悲惨の色合を添えてしまうもう一つの糸がある。レリアの兄…つまり次期宰相であるライエン=ヴォリスの存在がそれだった。
ライエンはどちらかというとセシリアに同情的な、ツァーリ、それもヴォリス一族のなかでも特異な人物であった。エリュシオーネ一族とも親交を持ち、セシリアの遺児の剣技はライエンの指導によるところも大きかった。
そういう事情からセシリアの遺児もライエンによく懐き、兄とも慕った。だから、レリアが毒薬を持ってたった十三の子供を殺しに行ったことに気付いて、必死になって後を追ったのである。
だが、ライエンが駆けつけたとき既に少年は毒をまされており、薬だけでは死なぬと見て取ったレリアは持っていた短剣でとどめを刺そうとしていた。そこでレリアと諍いになり、マーキュリアと少年を庇いライエンはレリアの刃に倒れた。
さしものレリアも、実兄を手にかけたことの重さに決心を鈍らせ、逃げ帰る。この隙に、マーキュリアは少年を連れて王都を脱出し、西方へ逃れたのだった。
***
「おい、ここを開けろ、サーティス!!」
エルンストは血相を変えてその扉を叩いていた。記憶に間違いがなければ、あの症状は…!
「サーティス! おい、聞こえてるのか、サーティスっ」
返事はない。扉はただ、沈黙を守っていた。
「それがどういう薬だか…」
その時。すっと扉が開いた。何のことはない、叩き続けていたエルンストの手が扉の制御盤に当たり、彼の腕力のこと、一撃で壊してしまったのであるが、今のエルンストにそんなことを考えている暇はなかった。
やはり殺風景な部屋だが、寝台の他に白い几帳があった。その几帳の向こうに、ぼうっとした灯りがあるのが分かる。エルンストは几帳をはねのけた。
「サーティス…」
長椅子に半ば横になっていたサーティスは衰弱の色が濃く、全身ひどい汗をかいていた。エルンストのことなど意識に入っていない。若草色の瞳は焦点を結ばす、陶然としているようでもあった。
「しっかりしろ、おいっ!」
エルンストはサーティスの肩に手をかけて、必死に揺すぶった。卓の上の小瓶と杯を見るなりそれをひったくるようにして取り、力任せに扉の外へ投げつけた。
「この莫迦野郎!…お前みたいな…お前ほどの奴が、あれがどんな薬か…どんなに恐ろしいものか知らない訳じゃないだろうが!」
間違いない。この症状は「夢神の賜物」だ。
ケシの散った後にできる花莢に傷を入れて取る液を加工して作るもので、程よい心地好さをもたらし、鎮痛剤代わりにもなる。だが、始末の悪いことに癖になるのだ。「夢神の賜物」の使い過ぎで廃人になった者を、エルンストはアースヴェルテや仕事で出向いた土地で何度か見たことがあった。
先のは、それの禁断症状…!
どなりつけたものの、ようやくエルンストを認識したサーティスの、ひどく追いつめられた眸に気付いて口を噤む。
「…ラ…イエン…」
体温の下がった白い指が、凄まじい力でエルンストの腕を掴んで震えている。その声は涙で揺れていた。
「…!?」
見ていない。…今彼の目に映っているのは、別の誰か…?
「ライエン…待って…重すぎるんだ…僕に…なにが出来るっていうのさ…自分の身一つ満足に護れない、どうしようもない…なのに…どうして今マキまで連れて行こうとする…!」
「サーティス…おい、サー…」
「…先に逝ってしまったのはあなただろう!…勝手だよ…勝手すぎるよ…マキを残して逝ってしまったのは、あなたじゃないか…なのにどうして今…!」
「落ち着け…落ち着けったら!」
完璧な恐慌状態だった。「夢神の賜物」を飲んだのも、一度や二度ではあるまい。全く、下手に利口なのも考えものだ。こんな子供が一体なんというものに手を出したのだ。
人間相手に突っ掛かっている間はいいが、物にあたりだしたら絶対に怪我をする。かと言って今のエルンストにこれがおさまるまで付き合っていられる程の余剰体力はなかった。
「…許せよ!」
少々後に響くだろうは思いつつ、思い切って鳩尾を突いた。以前「仕事」がはからずもこれで済んでしまったことがあるので、一応心配になって脈を診た。…大丈夫なようだ。
「…こいつも一応人間な訳だよな」
寝台のほうに運んでから、全く手のかかるガキだよ、と言いかけてふとそう思った。
『重い…重すぎるんだ…!』
…その叫びの意味が、今ならば分かる。
一度人間の犯した過ち。一人の男が、その愚行を地中深くに書き残した。何のためか。決まっている、人間にもう一度同じ轍を踏ませぬため…!
だが、その書き残された言葉の意味を悟れるものは、今この地上にこの少年一人。他にはいない。この重さに、大の大人でも耐えきれるだろうか。
「マキ」。おそらくは彼が愛したひとの名。そして、彼を支えてきたであろうひとの名。だがもうその人はこの世にいないのだ。
この少年がどこで生まれ、どんな経緯を経てここにたどり着いたのか、エルンストは知らない。だが、その道程が容易ならぬものであったことは想像がつく。忘れるために薬を必要とするほどに深く愛した人の想いは、彼でないひとへ注がれ・・・彼へ注がれる想いは、彼が望んだものではなく…。
「全く…今ほど、俺が莫迦で良かったと思った事ぁねぇぜ…」
泣き腫らした目。薬で衰弱した貌を見て、エルンストは呟いた。常人ならざる知識を持ち合わせていても、その心は常人と変わるものではない。況してや、まだ子供だ。
サーティスが咳き込み、エルンストは我に返った。
「エルン…スト…?」
エルンストは立ち上がって扉のほうへ向き、サーティスの顔を見ずに言った。それは何か、祈祷書の暗唱めいた響きを持っていた。
「『…生まれ変わった緑瞳の鳥が、繋がれた竜を解き放つ』。『風の守護竜サーティス』、お前が救われるときは必ず来るんだ。費やされたものの重さがわかるなら、薬に逃げたりせずに前を見ろ」
あの時、閃いた予感。大体において、こういう抽象的な現れ方をするときはその実現も遠い。いろんな目にあうだろう。苦しいことも、悲しいことも。だが、きっといつか、救われるのだ。それが例え遠い未来であっても、その日は必ず来る…。
「寝てろ。…薬が抜け切るまで起きてくるな」
些かぶっきらぼうにそう言って、後も見ずに部屋を出た。
…見るべきではないような気がしたからだった。