カヲルはそのままマサキの車でレイを迎えに高階邸へ行く算段であったが、市内に入ったところでそのレイから電話が入った。月曜日はまだ休みだから、今夜は『お泊まり』させて欲しいというのである。
今夜の高階邸はミスズやユカリ、リエもいる。徹夜態勢のガールズトークに突入している様子が目に見えるようだった。カヲルもお泊まりすれば?というレイの提案を鄭重に断って、カヲルはマンションに帰ることにした。
途中、大学に寄ってユイ博士に報告を入れに行くというので、結局カヲルも同道した。マサキは「やめとけ、二人して胃に悪い思いをすることはないぞ。車で待て」と言ったのだが、立ち会った者の責任として最後まで付き合うと言って押し切ったのである。
あらかじめマサキが連絡を入れていたとは言え、あれほどエネルギーに満ちた女性が、ゆっくりと蒼褪めていくのを見るのは確かに辛かった。しかし、最期の言葉を伝えるのはそれを直接に聞いた自分の役目だと思ったのだ。
碇ゲンドウの言葉を伝え、遺品を引き渡す。状況が状況だけに、まともに葬儀もできるかどうかわからないが。
「あなた方にも…迷惑をかけたわ。ごめんなさい。暫くはゆっくり休んで頂戴。リッちゃんのほうも、もう大丈夫。上のほうに話は通ったから、これからは誰憚ることもなく研究に打ち込める環境が整えられるわ。
…本当に、いつも無茶なお願いばかりして、ごめんなさいね」
いつも凜とした声が、少しだけ震えていた。
車に戻ったとき、マサキが無意識に心窩部を押さえていたカヲルを見て、「だから言ったのに」という表情を隠しもしないのには少々むっとしたが、全くその通りなので言い返すことはしなかった。
自分のすべきことを、自分がそうと信じてやったのだから、その結果には自分で責任を取る。…それだけだ。
「…まあ、何というか…勁い女性だな」
しみじみと、マサキが呟く。カヲルとしても、それ以外の感慨が出て来よう筈もなかった。
マンションに帰ってみると、灯りは点いていたが中は静まりかえっていた。
帰る前にレイの外泊と、カヲルは今から帰る旨はメールしておいたが、どうやら読まれたふうがない。
一日山の中を歩き回ったカヲルほどではないにしても、多事多端であったことについてはタカミも同じ筈だ。とりあえず留年を免れたことだけでも、ほっとして寝落ちしたところで不思議はない。だから声高に呼び立てることもせずに入ってみると、案の定リビングで転寝していた。
場所がいつも座を占めているソファではなく、ローテーブル脇のラグの上だったから…一瞬倒れているのかと思ったが。
「…原因は、これか」
ローテーブルの上で丁寧に解ほどかれた包みは、洋酒入りの上品なチョコレートだ。そしてすぐ傍にミネラルウォーターのボトルとコップが鎮座していた。
タカミは自分では決して買わないし、知らずに貰ったとしても大概、苦笑いしながら包み直して誰かに譲ってしまう。それを、わざわざチェイサー1まで用意して挑戦したところを見ると…贈り主の見当はついた。
箱の中はチョコ二つ分ほどのスペースが空いている。耐性がないのは知っていたが、たかが二つでここまで見事に落ちるとは。昨夜の紅茶に落とされたブランデーの量がいかに計算されたていたかが解る。
「…さすがに怒るかな?」
味見、という言葉が頭を過ぎったが、タカミだけでなく、露見したらレイにも叱られそうな気がしたのでとりあえず諦めた時、栗色の頭がわずかに揺れた。
「…あぁ、おかえり。カヲルくん」
緩慢に身を起こす。ひとに心配させておいて、ひどく悠揚した所作に…微妙に腹を立てたカヲルが敢えてこともなげなふうを装って訊ねた。
「ただいま。これ、美味しそうだね。僕にもくれる?」
「…え?…ああ…あ、待って、これは駄目!」
瞬時に醒めて飛び起きる様子が可笑しくて、カヲルは文字通り腹を抱えて笑ってしまった。
「嘘だよ。そんな、後でレイにも叱られそうなことはしないって。とりあえず、進級確定おめでとうって言っていいんだろう?」
「あ、うん、そうだね。ありがとう」
飛び起きた拍子にテーブルの天板に足をぶつけてしまい、これ以上ないというくらいきっちり目が覚めたらしい。しかし少し零れてしまったミネラルウォーターを拭くためにクロスを取りに立とうとして、ふらつく。
「…あれ?」
転びはしなかったものの、タカミ自身が相当怪しいと思ったのは確かだ。壁伝いにゆっくりとキッチンまで移動した。
「大丈夫?」
「…いやまぁ、ここまで足にくるとは思わなかったね。いたむものでもないし、一個ずつホットチョコレートにでもして飲むほうが無難かも…」
タカミが真剣に考え込む。カヲルは必死に笑いを堪えながら言った。
「何もそこまでしなくたって…僕にくれる、っていう選択肢もあると思わない?未成年が食べたからって、別に法律には抵触しないらしいよ?」
「でも駄目」
常になく強硬なのが、却って面白い。揶揄われていることにどうやらまだ気づいていないのも。
クロスを取ってリビングに戻ってきた頃にはふらつきはおさまっていた。
「そういえば、レイは今夜女子会でお泊まりだよ。どうせメ―ル見てなかっただろう」
「あ、そうなんだ」
零れたミネラルウォーターを拭きながらの返事は、いまひとつ頼りない。カヲルは少し意地の悪い笑みをして、さらりと言った。
「レイが一緒でなくてよかったね。…まだついてるよ、ルージュ」
「…っ…!」
反射的に口許を押さえた一瞬の後、タカミの顔は見事に朱を刷いた。
「成程、状況了解。…既遂かぁ。ちょっと吃驚だね」
「…カヲルくんっっ!!」
さすがにタカミの声が跳ね上がる。
「ついでに一ついいこと教えておいてあげるよ。赤木博士って…昔はともかく今はほとんどメイクってしてないらしいよ。ミスズちゃんが言ってた。多分口許もカサつき防止のリップスティック塗ってるだけだって。研究者って荒れた生活してんだろうに驚異的、って褒めてたな」
カヲルが笑いながら言った。
「…で、結局ホットチョコレートなんだ」
カヲルがシャワーを終えて出てきたとき、リビングは暗かったが、書斎の方には灯りが点いていた。
書斎の扉は開いたままだったから、馥郁たる香りがリビングまで漂っている。
髪を拭きながら、雑然とした書斎に足を踏み入れる。デスクの上では複数のディスプレイと複数のマシンが稼働しており、少し後方に退いた位置に置かれたスリムワゴンの上に、マグカップが載っていた。芳香の正体だ。
色合いからすると、マグにたっぷりの温められたミルクの中に、1個だけチョコレートが投入されているらしい。小さなマドラーが入ったままだ。
「味見していい?」
駄目、といわれるのを承知でカヲルは言った。だが、意外に軽く「どうぞ」という返事が返ってきて、却って驚く。
「ありがと」
マドラーで軽くステアして、一口ほど含む。
「…限りなくミルクに近いよね、これ」
正直な感想は、至極まっとうな反応で報われた。
「眠る前のミルクは身体にいいらしいよ?」
「…そうらしいね」
マグカップを置いて、カヲルは凄まじい勢いで文字列が流れていくディスプレイを見遣った。
「明日から行くの?研究室」
「うん、許可貰ったし。大丈夫、今度はちゃんと出席日数は保持するから」
「もう春休みでしょ」
「そういえばそうだ」
声を上げて笑う。その笑いをおさめ、視線と手元を忙しく動かしながら、タカミは言った。
「僕にどれほどのことができるかわからない。…でも、やってみたい。面白いからね。それが、あのひとの助けになるんなら…これほど嬉しいことはないよ」
静かに、カヲルは問うた。
「…覚悟は、できてる?」
タカミはふと、一旦手を止め…柔和な光を湛えた緑瞳を伏せる。だが、ややあってゆっくりと顔を上げ、もう一度画面に視線を戻して言った。
「…うん、多分ね」
ただ穏やかな微笑がそこにある。そこに置いた僅かな間は…今はただ至って静かな幸福感の中にいるタカミでさえ、決してマサキが危惧したことに思い至っていないわけではないことを証明していた。
…ほらね、もう子供じゃないんだから 。
その横顔をしばらく眺めていたカヲルは、声を立てずに笑った。
「じゃ、おやすみ」
邪魔をしても悪いだろう。そっと踵を返したカヲルは、しかし椅子が軽く軋む音に振り返った。
タカミが椅子を返し、カヲルを見ていた。…声をかけようとして、かけそこなって。どうしたものかな、と考え込んで停まってしまったのが手に取るように判る。カヲルは敢えて問わず、ただ俟った。
ややあって、いつもの穏やかな微笑はそのまま、タカミは少し寂しげに…といって悪ければ、何か申し訳なさそうに言った。
「…僕は…あの人の傍に居たいと思うんだ。いつも、そしていつまでも…それが、叶う限り」
やっぱりそうか、とカヲルは思った。マサキが憂う程、今のタカミは弱くない。マサキが言うほど先の話ではなくても…この平穏がいかに脆いものか、タカミは理解している。
…そして、覚悟している。だから、カヲルが言えることはただひとつ。
「そのために、あの闇の中から戻ってきたんだろう?…だったら、迷うことなんてない」
タカミは頷いた。今度こそ、翳りのない微笑で。
「ありがとう。おやすみ、カヲル君」
カヲルは書斎の扉を閉めると、自分の寝室へ足を向けかけて…ベランダから見える街の姿を硝子越しに見た。夜も更けて、灯りが徐々に少なくなっていく街を。
カヲルとて、自分に何が出来るのか、まだ判らない。しかしただ、自身の力の能う限り、この平穏を守っていきたい。永遠ではないとわかっている。しかし、”それが叶う限り”。
カヲルは、ブリジット・オーレリアがネフィリム達に遺したという言葉を唇に載せた。
「『I’ll be by your side,always and forever…』…か…」