Spirit away …神隠し。「Spirited away」で千と千尋の神隠しの英タイトルでもある。現代ではこっそり連れ出す、の意もあるらしい
開け放たれた窓。ベッドと机しかない部屋の中は、ただひとつのことを除けば整頓も行き届いていた。
机の上にあったものが、風に吹き散らされたか。大小様々なサイズの反古紙の裏に描かれたクロッキーが散乱している。スケッチブックも一冊だけ置かれていたが、使われないままただの画板代わりに使われているようだった。
彼女が扉を開けたその動作で、部屋の中の空気が動いて紙片が舞う。
静かに身を屈め、散乱した紙片を一枚一枚丁寧に集めると、部屋の一隅にある箱に収める。
夫は帰ってこなかった。
たったひとり、ようやく帰ってきた息子は、思い出したようにこうやって同じ主題を描いては棄てていた。息子は父の傍にあることを望んだが、南極に赴く前から鉛筆を握る手は父と同じ研究ではなく画を描くほうが多かった。
それを喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか。
柔らかな、流れるような、時に激しい筆致で描かれるのが、それが翼を備えていなくても天使なのだとわかるのは何故だろう。
もともと饒舌とは言い難い息子であったが、事故後、何とか日常会話程度が成立するようになったのは割合最近のことだ。
運動能力を回復するためのトレーニングに黙々と通う―今はそれが仕事だから―息子に、この主題について訊いてみたが…明確な答えは返ってこなかった。
まだメンタル面が不安定だから事故に関することについてはなるべく刺激しないように、という医療担当者からの注意事項が頭を過ったから、それ以上を訊ねることは憚られた。
――吹き散らされた画を集め終わると、いつものように箱におさめる。
箱はずっとこの部屋に置いてあるのだが、息子が手を触れた様子はなかった。興味がないのかも知れないし、触れたくないのかも知れない。かといって、敢えて部屋の外へ放り出すほどの嫌悪感を持っているわけでもないようだった。
ただ一度、その時も棄てるつもりであったらしいクロッキーを拾った時。今考えている立体造形のイメージに近いから、使わせて欲しいと頼んだら…僅かに怪訝そうな表情とともに、それでも「どうぞ、構いません」という返事が返ってきた。
立体に起こすことで、息子が見たものが何だったのか、息子に何が起こったのかを知ろうとしたのだと、彼女は自分の作業を振り返る。
それが成功したとは、正直言って思えなかった。
ただ、造形としての完成度はオファーのあった個展に出せるレベルにはなったと確信できたから、出品したのだ。…それが、思わぬ副産物を生んだ。
展覧会で出会った天使のような少年―まだ少年と呼ばれる年代と見えたが、そうでないようにも見えた―を見たとき、彼女は確信した。
ああ、これだ、と。
よくも、こんな有様を「重機の事故」で言いくるめたものだ。
途中でへし折れた白い柱の上に、カヲルは座していた。かつてここには氷に覆われた大陸があり、曳航・陸揚げされた潜水艦を収容するための大きな建物が建っていた。…すべて蒸発してしまったが。
セカンドインパクト。死海文書の記述に従えばそう呼ばれたであろう現象の、凄まじい爪痕。実際には予測されたよりも規模は小さく、世界規模の影響もあるにはあったが世界地図が書き換わる程の破局1の呼び水とはならなかった。故にニア・セカンドインパクトと呼びならわされる。
その時点で、碇ユイのように死海文書の無謬性に疑問を持った者がわずかながらいたのだが、結果として不都合な真実に眼を閉ざし続けた老人達の軌道を変えることは出来なかった。
今も封鎖区域となっているそこは、この世のものとも思えぬ光景が広がっている。
南極大陸はここから見える水平線ぎりぎりまで大きく後退し、そこにあるのはひたすらに紅い海。その紅い海の中に林立する白い柱は無論、人の手になるものではない。何で構成されているのかすら皆目見当のつかない脆い岩。
紅い空は昼とも夜ともつかぬ薄明に支配されている。
ここは逢着した惑星に生命の種子を蒔くための培地。そこにあるすべての生命を排し、己の痕跡のみを植え付け残す為の生命のエゴイズムの具現…。
こんなことまでしなくても、僕らはこの惑星で生きていける。
今のカヲルはそのことを知っている。だが、ほんの十数年前のあの瞬間は…自身をも消し去るしかないほどの絶望に蝕まれ、この地獄を作り出してしまった。
完璧なものをゼロから作り出す。そのために、今あるものをすべて壊す。星を渡り、生命を新たな土地で紡ぐために送り出された種子に与えられた能力だが、その行使は絶対的な義務ではない筈だった。
今そこにあるものとの調和。言うは容易い。…異質なものである以上、軋轢は免れぬ。同質なものの間にあってさえ、葛藤は避け得ないのだから。
――――それでも、もう…逃げたくはない。
『お前仮にも医学生だろ。杖の要否ぐらい自分で判断しろ』
そうマサキに言われて、結局杖は持たずに授業に出ていたタカミは、午後の大学構内をゆっくりと横切っていた。
あれから二日経っている。骨に問題はなく、荷重痛はない。足関節各靱帯にも損傷が見られない以上、大仰に杖を持つのも憚られたからではあるが、やはり距離を歩けばそれなりに痛みが出てくる。だんだんと歩容が左脚を庇うかたちに傾いていくのを自覚していたが、さしあたってどうしようもない。
研究室、今日は行けないって言っといて良かった。
もし、『榊タカミ』がネフィリムとして旧ネルフ米国支部の捕獲対象になっていた場合…迂闊に研究室に近づけば赤木リツコ博士に迷惑を掛けることになる。詳しいことがわかるまで、研究室には近づかないのが妥当だろう。
まあ、もうひとつには…この怪我を見られたくなかった。
リエに派手な叱責をくらうまでもなく、自分がネフィリムとしてはやや脆弱なのはよくわかっているつもりだった。まず、物理障壁としてのATフィールドの展開からして下手なのだ。外傷の治癒も実直に現生人類並。 拳闘家骨折 2に代表されるように対象物を自身の能力を超えた力で殴れば自身が傷つくのは現生人類にもある現象だが、恣意的にATフィールドを展開できる存在…ネフィリムとしてはまずありえない。実際、剣崎キョウヤとやらに一度跳ね飛ばされたタケルは、巧く受け身を取れた所為もあろうが全くの無傷なのだ。
何とかしなくちゃなぁ…
そんなことを考えながら歩いていた。その足が、思わず止まりそうになる。
通用門のすぐ脇だ。特に入念な出退チェックがあるわけでもない。一応守衛詰め所はあるものの、見るからに怪しい風体というわけでもなければ咎めだてされることはまずない。
そこに、あの男がいた。
初対面のダークスーツの印象が強すぎて気づくのが遅れた。今日は歳相応に、まあ大学生といっても不自然ではない格好をしていたが、サングラスだけはかけていた。
これといって特徴のない顔立ちで、先日のダークスーツのままでもいずれかの学部に出入りの業者、ないしは大学病院へ行くつもりの医薬情報担当者に見えなくはないだろう。サングラスさえ外せば、だが。
ただ、今日は行き交う学生達の中に立っていてそれほど違和感がない。
足を止めれば注意を惹く。歩調を緩めながら考えた。忘れ物でもしたフリでUターン、というのもありだろう。第一、今この脚では走れない。…まあ、走れたところでさして速くはないし、持久力もないのはわかっているが。
どうすべきか。
端から逃げ腰なプランしか出て来ない自分に軽く失望しながら…人通りもあり、大学構内といういわば往来で真っ昼間から人攫いでもないだろうという至極当たり前なことに気づいてそのまま歩き続ける。
うわ、こっち見てるよ。
背中に冷汗を感じながら、歩調は変えない。男が徐にこちらへ歩を進めてくるのを視界の隅で捉えながら…ポケットの中で拳を固めた。
「榊君…? どうしたの、その足?」
距離を詰めてきた男と丁度対角、ほぼ同等の間隔。あまりにも突然で、思わず声が裏返りかけるのを寸前で抑えるのがやっとだった。
「わ、リツコさん!?」
声を掛けてきたのは、リツコだった。どこかの学部で講義を終えて自身の研究室へ戻る途中というところだろう。
「何吃驚してるの? …っていうか、また怪我?」
「…あ、はい。ちょっとぶつけちゃいまして」
ぶつけた対象はすぐそこに居ますけど、と言いそうになって呑み込む。視界の隅に捉えたその「対象」はさすがに足を止めていた。
「骨に異状はありませんし、もう2、3日もあれば気にならなくなるとは思います。でも例によって後見人から『授業に出るなとは言わないが、暫くあまりうろうろするな』って言われちゃいまして。すみません、しばらく研究室はおやすみさせてください」
「それは構わないけれど。…微妙に跛行3出てるわよ。まだ痛みがあるんでしょ」
「長く歩くと疲れるだけですよ。持って帰れる仕事があったらお預かりします。見ての通り、身動きできないわけじゃありませんから」
両手をぱたばたと振って笑う。リツコは釈然としないふうに微かに首を傾げたが、それ以上深く追及することなく言った。
「…そう、有り難う。急ぎの課題があったら後でメールするわ。でもまあ、ちゃんと治してから出ていらっしゃいね」
「すみません…」
リツコを見送った後、男の姿が消えているのに気づいてふっと息を吐く。さすがに、往来でコトを起こすほど無分別ではないらしい。
結局、赤木博士に怪我のことがばれてしまった。リツコに告げたマサキの台詞はそのままなのだが、意味合いは微妙に違う。剣崎キョウヤについてある程度はっきりしたことがわかるまで、あまり単独でうろつくなと言われたのだ。強がっているように見られただろうか。でも、本当にそれほど痛むわけではない。ただ、彼女を危険に巻き込みたくないだけなのだ。
歩き始めて…ふと、背筋に氷水を浴びせかけられたような感覚に立ち止まる。自分が話をしていた人物に対して、例の男が何らかの干渉をしてくる可能性に思い至ったのだ。即座に赤木研究室のセキュリティを呼び出す。問題なくリツコは研究室に戻っているし、周囲におかしな動きはない。
安堵の吐息をつきかけて、不意に背後から頸部を極められ慌てる。
「やーっぱり隙だらけねェ。全く以て遊び甲斐があるわ」
「リエさんっ! 天下の往来で何してくれてんですかっ!?」
背後から全く動けないほどに完璧に固められて、タカミが慌てる。リエがかなりの長身なものだから、まともに頸部を極められればタカミの踵は浮いてしまう。だが、リエが笑いながら腕を解き、半分浮きかけた足は地を踏んだ。
大学の門を出たところだ。まさに天下の往来なの
だが、リエは全く斟酌しない。それなりに人通りもあるから、行きかう人に微妙に笑われてもいた。授業を終えて脱出しようとしたところを苦手なサークルの先輩に捉まってしまった不幸な後輩、という構図にまったく無理がない。
「サキが呼んでるわよ。剣崎キョウヤの方はユウキ達でトレースしてるから、あんたはこのまま私の車」
腕を解くタイミングで耳許に囁かれ、タカミの表情が一瞬だけ凍った。歩き出したリエの後について歩きながら、声を低めて言った。
「…ひょっとして今度は僕が囮ですか」
「そういうわけでもないんだけど。ドイツ支部の一件で顔バレしたのは確かなようだわ。赤木博士の周辺を調べたら名前は出るし、出た名前が『高階』に繋がってれば勘繰られて当然っちゃ当然なのよ。
まあ、一度失敗してる上に碇博士の手前があるから、この間みたいな強硬手段に訴えたりはしないと思うけど…ね」
少し離れたところに白のロードスター4が駐めてあった。タカミがたじろぐ。
「ひょっとしなくても…リエさんの運転?」
何を今更、というようにリエが問い返す。
「〝私の車〟って言ったでしょ。何、アンタもミッション動かせたっけ?」
「そういえばそう聞きましたね、はい。…いえ、動かせないことはないですけど…他人にロードスターのハンドル握らせるつもりないでしょ、リエさん」
タカミの背を冷汗が伝った。確かに無事故無違反には違いないが、運転技術に関してリエは葛城ミサトと同類項である…。
タカミがリエの運転に軽く眼を回しつつ高階邸に到着すると、レイがリビングで両眼に涙を溜めたままユカリ特製・ホットチョコレートを啜っていた。
「レイちゃん!?」
その声にレイが顔を上げたかと思うと、徐に溜めた涙を零し始めるから…タカミが慌てる。状況を察したユカリが厨房から燕のような素早さで滑り出ると、レイの前に焼き上がったばかりのチョコレートブラウニーの大皿をたん!と置いた。
「話はあとっ! タカミはさっさとサキんとこ行って! とりあえずレイちゃんは食べる!」
「う、うん…」
ユカリの剣幕に恐れをなして、というよりリエに首根っこを掴まれて引き摺られたというのが正解であったが、ともかくもタカミはリビングを通り抜けて廊下の奥の書斎へ向けて歩き出した。
「…リエさん、お願いですから猫ツマミはやめて…苦しいですから。あの、ひょっとして…」
レイの様子からろくでもない推測に行き当たって、タカミが背に冷汗を感じつつ斜め前を歩くリエに問う。リエは小さく嘆息してからタカミの襟首を放した。
「いー勘してんじゃない。…惜しむらくはコトが起きる前に警告が欲しかったわ」
タカミが頭を抱える。
「…やっぱり行っちゃったのか、カヲル君…しかも、レイちゃん置いて? うわぁ…」
「最近大分落ち着いた感じだったし、無茶はしないと思ってたのにね…参ったわ」
頭痛を堪えるような表情のリエ。
「それで、僕が召喚くらったわけだ。うう、嫌な予感しかしない…」
「つべこべ言わずに行ってらっしゃい。私の役目はここまでだから。こっちも忙しいのよ」
そう言い放つとくるりと向きを変えて歩き出す。左手で空間を薙ぐと、廊下の真ん中に闇色の扉が楕円形に開いた。長径2.5mほどであろうか。まるでそのまま廊下の続きを歩くようにその扉の中へ歩いて行く。リエがそこへ入ると扉はかき消えた。
相変わらず鮮やかなものだ。座標さえおさえていれば自由自在というのが羨ましい限りだが、リエ曰く「それなりに疲れる」ので本当に急いでいる時しか使わないというのが彼女の弁である。
彼女に出来るということは、得手不得手はあるにしても理屈としてはネフィリムであれば誰でも出来る筈だが…そんなことを考えかけ、そんな場合ではないのに思い至ってタカミは足を速めた。
書斎の扉をノックするとすぐに応えがあった。
扉を開けると、よく整頓された部屋の中央に置かれた重厚な書斎机にマサキがいた。…とびきりの渋面で。窓際に立っていたイサナはいつもと何も変わらなかったが。
「ごめんなさい、サキ…あの…」
「…謝るところをみると、お前気づいてたな?」
横目で睨まれ、とりあえずタカミは平謝りする。
「本当にごめんなさい。でも、まさかカヲル君がレイちゃんを置いていくなんて思わなかったんですってば! カヲル君のことだから、僕らには言ってくれないかもとは思ってたけど…」
タカミの反応が100%予想通りだったらしく、マサキが深く嘆息してゼスチュアで椅子を勧める。
「まあいい、お前をカヲルの処に住まわせてるのは、何もお前にカヲルを監視させるためじゃないんだからな」
「…面目次第もないです」
「…と、すると…タカミもやはり、あの天使像の元がシュミット大尉だと?」
イサナが問うた。
「僕らの場合、あの紅珠を見ただけで…なんとなく先入観にとらわれそうな気もしますよね? でも、レイちゃんがあの後、図録をじっくり見た上でカヲル君に似てるって言ったっていうことは…先入観を排したうえで、やっぱり似てるんだと思います。
カヲル君には、僕に似てるんだろって誤魔化されましたけど」
「原因と結果が逆なんだな。嬢ちゃんならそれで誤魔化せたろうが…シュミット大尉を構成していた細胞からカヲルが生まれた。そのカヲルの複製だったときの形質を引き摺ってるタカミが、シュミット大尉に造作が似るのは当然なんだ。髪や虹彩の色までは影響されなかったようだがな」
「そうしようと思ってそうなったわけでもないんですが」
タカミが栗色の前髪を引っ張りながら言った。些か緊張感を欠いた述懐をさらりと無視して、マサキが言った。
「だとすると…剣崎キョウヤは南極でシュミット大尉に何らかのかたちで遭遇し、しかも覚醒したあともそのことをある程度憶えていた。そして、碇博士や『高階』に関わり3を持つ『榊タカミ』がシュミット大尉だと誤解したという可能性もあるか」
「完全無欠の人違いですね。やっぱり警備システムに潜り込んだのがバレた訳じゃなかったんだ」
「落ち着き払って論評してる場合じゃないぞ。どうにも繋がらん。なぜ今なんだ」
そう言われると、タカミにも説明のしようがなかった。
「問題はもう一つある。剣崎キョウヤが結局何者なのかということだ」
窓のフェンスに取り付けられた鳥の餌台に止まっている小さな野鳥。その挙動を漫然と見ていたふうだったイサナが、口を開いた。
「…まあ、そうですよね」
タカミが吐息する。イサナが冷然と続けた。
「〝碇司令と同じ感じ〟がして、〝外見的な年齢の進みが不自然〟…というだけでは、判断材料としては不十分だ」
「…僕が召喚くらった理由って…じゃ、本当はそっちなんですか? カヲル君がジオフロントからの脱出を多少強引な方法で試みたときに、僕の『仮面』を通してリロードしたシュミット大尉の記憶。…当事者に訊くのが一番って?
…でも、サキ…」
ひどく言いにくそうなタカミを、マサキが一旦片手を上げて制した。
「お前の言いたいことは解るつもりだ。カヲルに直接訊くべきだ、というんだろう」
「…はい…」
タカミが俯く。…『仮面』を通してリロードされた記憶は、あくまでもカヲルがカヲルになる前のものであって、タカミのものではない。思い出してしまう事は仕方ないが、意図的にそれを再検索することにはタカミとしても強烈な抵抗があった。
「わかっちゃいるんだが…」
マサキが嘆息する。
「カヲルの奴、俺に対してはあの辺、妙に意固地だし…真っ正面から訊いてもまともな答えは返ってきそうにないから、あの日も敢えて突っ込まなかったんだ。それがこんなことになるとはな」
少し俯き加減だったタカミが顔を上
げた。
「…多分あなたもわかってると思いますし、あんまり聞きたくない話かもしれませんが、敢えて言います。シュミット大尉は〝サッシャ〟にかなり強い負い目…負債…巧く言えないんですけど、そういうものを抱えていたんです…。それはもう、心がちぎれそうなくらい。カヲル君の態度って、ある意味その裏返しだと思うんです」
「〝サッシャはもう何処にもいない〟って言ったのにな…」
マサキは天を仰いだ。
「カヲル君だって、サキがそう言った意図をわかってない訳じゃないと思います。
カヲル君自身、『シュミット大尉』と自身が=だとは思ってない。でも、≠でもない。…ただ、それをまだ納得するには時間が要るだけ…」
タカミが懸命に言葉を探す。マサキは静かに椅子の背に凭れたまま聞いていた。
「それが皆を守るために必要なことなら、僕はやります。でも、必ずカヲル君は帰ってくる。レイちゃんがここにいるんだから。その時にカヲル君からちゃんと説明して貰うのが一番いいと思うんです」
ようやくそう言ってタカミは顔を上げた。
「もうすこしだけ…待ってあげることはできませんか」
必死の形相、といえば言い過ぎであろうか。
僅かに蒼ざめながら返答を待つタカミを見ながら、マサキの浮かべた笑みは多少苦さを含んではいたが、返答は明快だった。
「いや、この話はなかったことにしてくれ。そうだな、俺の了見が間違っていた。
さしあたってはあのストーカーと米国支部から引っ張り出せる情報の解析から始めるさ。そろそろユウキたちから連絡が入る頃合いだ。
お前はタカヒロ達と合流。以降はリエの指示に従え。米国支部に探りをいれる」
リエが『忙しい』と言っていたことの意味がおおよそ掴めたタカミが頷く。
「了解です」
「いいのか?」
タカミが出て行った後の書斎。今までに集まった資料に目を通すマサキの前に、淹れたての紅茶を置きながらイサナが問うた。
「何が?」
マサキの反問に、イサナの方が少し困ったように口を閉ざす。それを見て、マサキが先刻よりも苦さの抜けた笑みを口許に閃かせた。
「…あぁ、タカミの奴も言うようになったな。やるなってことを裏でコソッとやっちまうタイプだと思ってたら、真っ正面から意見とは。まあ、少しは図体に中身が追いついたってトコだろう。いい傾向じゃないのか?」
「サキ、そうじゃなくて…いや、それもそうなんだが」
マサキは紅茶を一口飲んでから、常になく歯切れの悪いイサナを面白がるように低い笑声を立てた。だが、ふっとその笑みを消し、呟くように言った。
「タカミの言うとおりだ。もう少し、待ってやるべきなんだよ。
カヲルが何でも一人で片付けてしまおうとするのは、ある程度仕方がない。長年の癖はそうそう抜けるもんじゃないさ。
あいつには誰も居なかった。たったひとりで、しかも気の遠くなるような時間を生きてきたんだ。ようやく大切なものができて、それを護るために戦おうにも…背中を預けるべき相手も、片腕と恃むべき者もいなかった。だから、ひどく極端な方法にならざるを得なかったんだ。
俺にはミサヲやお前がいてくれた。有り難いことにな。そんな俺に、上から目線であいつにものを言う資格は…本来ないんだよ」
少し寂しげでさえある微笑を浮かべて、マサキは言った。
- カタストロフ…① 自然界および人間社会の大変動。変革。 ② 劇や小説の悲劇的な結末。破局。
- 拳闘家骨折 …中手骨頸部骨折の通称。ボクサーが相手を殴った瞬間に受傷する場所、という意味合い。職業ボクサーに限らず、無謀なアマチュアが自身の能力を超えて硬いモノを殴った場合も起こりうる。酔っ払って壁を殴っちゃったとか。
- 跛行…はこう、と読めば歩容に異常があることを示す医学用語。ちょっと古い言葉遣いの小説を読んでいると、びっこ、とルビふってあることもあるけど…こっちは現在差別用語らしい。
- ロードスター…マツダの2シーター。やっぱり白は特別色らしいけど、あのフォルムで黒いとイマイチなのでリエさんは白に乗って貰いました。真っ赤、というイメージでもないしなぁ。