王都暮色深く、雪催 Ⅰ

冬の森、雪催

 ミティアは雪が舞う中、森へ入った。
 白い森に、白い嵐が舞う。館が見えなくなる程の所まで来て、ミティアは初めて足を止め、天を仰いだ。天に向けて、もう何度呼んだか知れぬ名を呟く。だが、涙が絡まり声は声を成さない。
 雪精は冬女神シアルナの娘。風に舞う雪は、冬女神の娘達の、楚々たる輪舞に喩えられる。その光景は美しいが、彼女らは時として戯れにその舞踏の輪へひとをいざない、永劫の国へつれてゆくと言う。
 ――――故に、見入ってはならぬと。
 だが今、彼女はその禁を冒す。いっそ、雪精たちが手を伸べてはくれぬかと。そうすれば、この苦しさからは遁れられる。
 心が、もう…ちぎれそうだから。
 雪風が彼女の懇請を飲みこんだ。雪と同色のショールが煽られる。

***

 大陸暦899年、シアルナ下月(3月)。ツァーリの王都・ナステューカ、王城・国王執務室。
 今年は降雪が多く、シアルナの下月がもう終わろうというのに王都の森は雪に蔽われている。だが今は穏やかな午後の陽が窓から差し込み、若い国王の横顔を照らしていた。
 現国王リュース。リオライの実姉・王太后レリアの生んだ、先王カスファーの第二子。そしてアリエルの異母弟。
 リュースは宰相リオライからの国政報告に質問を差しはさむでなく、ただ聞き入っている。
 講和締結に際し、彼は紛れもなく彼自身の意志によって行動し、王太子アリエルの遺詔継承を宣してリオライ=ヴォリスの執行者としての立場を裏付けた。国王が頓死し、宰相が負傷する中でリオライが迅速に事を運ぶことが出来たのはその御蔭だ。
 実のところリオライは、それまでリュースを父宰相ジェド=ヴォリスの傀儡としか見ていなかった。身体も頑健とは言えず、生母であり宰相の娘レリアが手許から離そうとしない。そのためにいつもその影に隠れている印象が強かったのである。
 だが、15歳の子供なのだ。心の中ではアリエルを兄と慕いながら、周囲を憚り表には出せなかっただけだった。あの日…サレン館へ馳せ着けたリュースの、緊張に引き攣った蒼白な顔は、それを傷みさえ伴ってリオライに刻みつけた。
 新王として登極したリュースは負傷を理由に宰相職を返上したジェド=ヴォリスに代わり、リオライを宰相に任じた。そして戦後のツァーリの舵取りを一任している。事情を知らぬ者からは軍事的政権奪取クーデターとさえ囁かれる交代劇であったために、周囲からリオライの宰相就任は決して諸手を挙げて歓迎されたわけではなかった。リオライ自身はそれを仕方ないことと受け止めていたが、新国王の近習からでさえ漏れ出るその不平不満に一切耳を貸すことなくただ諾を与え続けるリュースの表情は、当のリオライが見ていてさえ、正直痛々しい。
 リオライの報告が終わる。リュースはただ頷いた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
 ――――リオライは儀礼に則った礼をとると、部屋を出た。
 扉の脇で、文官の姿をした人物が控えていた。ユーディナ文書館の元司書長で、現在は宰相たるリオライの補佐として正式に書記官長の任にあるアレクセイ=ハリコフである。
 武辺の多いリオライの部下の中では異色の人物だが、故事や計数に明るいので書記官としては得難く、本人は司書をやっている方が気楽だからと度々断ったのだが、結局リオライの幕僚として働くことになってしまった。
 あなたが宰相として国を背負う間はお手伝いしましょう、と折れたのである。
 戦役の末期、アレクセイはアリエルに武器を供与した疑いで一時文書館に軟禁された。事実としてはリオライがアレクセイに無断で文書館の一隅に置いていた火薬を、これも無断でアリエルが持ち出したのだから完璧な濡れ衣だったのだが…アレクセイとてそこで解放されるまで大人しくしていた訳でもない。
 以前、アリエルが廃園で見つけた古文書は、司書長であるアレクセイに管理を委ねられていた。アレクセイがその解析を続けていて発見した地下通路は、ユーディナの書庫まで続いており…アレクセイはそれを利用して独力で脱出したのである。
 しかも、使われない間に開きにくくなった扉をこじあけたり、木の根に侵蝕されて狭隘になった通路を通り抜けるのにくだんの火薬を遠慮なく使った。その爆音は地下通路を駆け抜けて衛兵隊を驚倒させる。シェノレスの間諜が起こしたテロかと思われたのである。結果として衛兵隊第一隊、第二隊を王都中引きずり回し、サレン館周辺を手薄にした。
 そのため、帰還したばかりのリオライ達は思ったよりも王都で自由がきいたのだが、残念ながら確実に連携出来ていたわけではなかった。そのため、アリエルの自害を止めることまでは出来なかったのである。
「お疲れ様です、リオライ様」
 国王の執務室から出てくるときのリオライの表情ときたら、アレクセイがいつもながらそう声を掛けてしまうほどひどいものだった。リオライが翳りの濃い微苦笑を浮かべる。
 アリエルの死は決してリュースの所為ではない。リュースの態度がアリエルの自害を防げなかったことへの負い目であるなら、リオライとしてもつらい。そもそも、リオライが開戦直後からの2年近い年月を負傷のために空費した経緯がなければ、アリエルをみすみす死なせる事もなかった筈だからだ。
「…リュースにとっては、俺はあまり話し易い相手とはいえん。そんなことは最初から判っているが、全てはこれからだというのにああ遠慮されては…なかなかやりにくいな」
「やぁ、あなたが宰相職を降りられるんなら、私も堂々と文書館ユーディナへ戻れるんですがねぇ」
 リオライの沈鬱を殊更に笑殺するように言ったものの、どうやら冗談事で済みそうもない。アレクセイは表情を改めて天を仰いだ。
「今上陛下は・・・まあ、本当にあのお二方のご子息かというくらい、温和な方ですからね。アリエル殿下が身罷みまかられたことについても随分心痛なさったようですし、無理もないかと。…まあそれと、ミティア様の件…ですかね」
 ミティア=ヴォリス。先代宰相が次代王の妃とするために養っていたが、リオライを介してアリエルと交流があった。聡明な娘で、アリエルに仕掛けられた先代宰相ジェドの罠に気づき、警告を発しようとして軟禁の憂目に遭っている。
 リオライの部下達に救出された直後、彼女はアリエルの身を案じてサレン館に馳せつけ…凄惨な場面に直面した。
 ――――――あの時のことは、アレクセイにとっても忘れようにも忘れられない。
 部屋の入り口に立ち尽くす細いシルエットに気づいてアレクセイは顔を上げた。
 声は発しない。発することは出来なかったのだろう。一杯に見開かれた、肥沃な大地と同じ色彩いろの双眸は、既に零れそうな涙を湛えていた。
 若い娘に見せて良い場面ではない。一体誰が通したのか。サレン館の近習連中の愚鈍さに内心で舌打ちしながら、ミティアを遠ざけようと踏み出す。だが、ミティアはアレクセイの側をするりと通り抜けて、アリエルの傍らに音もなく膝をついた。その裾が、緋色に染め変えられることなどまったく頓着することなく。
 その時、ユアスがようやく追いついて、一瞬息を呑んだ。
 追いついたはいいが、彼女を此処から遠ざけるべきという判断と、とても声をかけ られない空気に挟まれて身動きが取れなくなったのはアレクセイと同様のようだった。そのユアスにどうしたらいい、という視線を送られても、アレクセイとてどうしようもなかった。
 だからミティアが泣き喚くでなく、卒倒するでもなく…ただ静かにその頬に透明な雫を伝わらせながら、黙したまま自らの片袖を裂き、アリエルの頬に散った緋色の飛沫をいたわるように拭う様を…二人して黙って見ているしかなかった。
 ユアスと行動を共にしていたカイが差配したのであろう。階下から館の使用人が上がってくる気配に、アレクセイはようやく継ぐべき言葉を探し当てた。
 あとは家の者にお委せなさいませ。そんなありきたりな言葉を口にするのに、アレクセイは凄まじい労力エネルギーを要したのを憶えている。
 ――――ヴォリスの本邸へ連れ戻されたあとのミティアは、魂の半分を喪ってしまったように食べも眠りもしなくなってしまった。声をかけても返事があることは稀で、それはリオライがおとなっても同様であった。それでいて仮面のように動かなくなった顔の、色を失った頬を思い出したように涙が滑り落ちる。
 リオライとしても、ミティアがせめて静かに過ごせるよう…育った別邸へ戻してやることしか出来なかった。
 リュースは駆けつけたミティアを制止できなかったことについて、いまだに自身が配慮を欠いたと悔いているらしいが…リオライは勿論、周囲の誰とてそのことでリュースを責める者などいはしない。
 誰も止められなかったのだ。
 アリエルとミティアが最後にまみえたのはもう何年も前のことだ。ヴォリスの別邸で籠の鳥のような日々を送っていたミティアに、リオライは外の世界を見せてやりたくて度々連れ出し、友人であるアリエルにも何度か引きあわせたのだった。
 だがリオライの身分を知ったアリエルは、同時にミティアのことも知り…その立場を慮ってリオライをやんわりと諭した。曰く、宰相に疎まれている自分が、王妃に立てるべく扶育されているミティアにこれ以上近づくのは良くないだろう、と…。
 それでもふたりの間で手紙だけは誰憚ることなく交わすことが出来るように、リオライはアレクセイを通じた仕組みを整えた。アリエルに逢うようになってから、それまで人形のようだったミティアの笑みが俄に生気を帯びて美しくなった。それがリオライにとっては単純に嬉しかったのだ。
 それでもあの日…ミティア軟禁の報を受け取ったリオライは、それまであまり感情の起伏さえも表に現すことが少なかったミティアが、父ジェド=ヴォリスの意向にさえ背くほどの勁烈な想いを育てていた事に愕然とした。
 リオライの命でその救出に向かったカイやユアスも同様であったからこそ、ミティアを止めることなどできなかったのだ。それどころか…軟禁を解かれるが早いか、長衣ドレスのまま馬を駆って飛び出したミティアを止めるどころか追いかけるのがやっとであった。やっとの思いで遺詔継承を宣したばかりで、虚脱していたリュースにそのつもりがあったとしても…止めきれるものではなかったのは誰の目にも明らかだったから、それを責める者など皆無であった。

 むしろ、リュースが外祖父たる宰相の意に背くと判っていて遺詔の継承に踏み切ったのは、称賛に値する事実であった。リュースが講和後のツァーリの新王として立てられたのは、継承順として妥当であっただけでなく、講和に尽力した事実が周囲を納得させたからでもあったのだ。

 しかしそれにもかかわらず、国王たるリュースが臣下たるリオライに気を遣っているのは王都では隠れもない事実であった。
 王家と宰相家の相補関係はこの国では常識とはいえ、ここまで偏ってしまうと決してこの国のために良い状況ではない。そのことについて、リオライとアレクセイの見解は一致していた。
 リオライは吐息して中庭の風景に目をやった。薄く被った雪が、穏やかな陽で融け去っている。…陽の当たらない場所を残して。
 リュースの為にも、アリエルの愛したツァーリの為にも、いつまでも自分は王都に留まるべきではない。リュースに宰相として接する度、そう思う。さりとて彼も、講和が成立したとはいえたった15歳のリュースに全てを押しつけてノーアへ帰る訳にも行かなかった。
 王城の宰相執務室へ戻り、山積する案件の山を眺めてリオライは吐息する。
「・・・戦後処理は俺の役目だ。これは仕方ない。事態がここまで拗れたのは、俺が一番大事な時期に動けなかった所為なんだからな。だがその後だ・・・。誰か、リュースを補弼できる人物はいないものかな。
 アレクセイ、お前ずっとナステューカにいるんだし…誰か心当たりはないのか」
 アレクセイは深く嘆息した。
「そんな人がいるなら、私なんかが文書館ユーディナから引っ張り出されることもなかったんじゃありませんか?」
「またそれを言う・・・。お前結構根に持つな」
「私は本来、世俗の雑事に関わりたくなんかないんですよ。文書館の書庫で、本に埋もれて臨終を迎えるのが理想でしてね。ああ、どうしてこんなことになってしまったのだか」
 芝居がかかったほど大仰に慨嘆するアレクセイに、リオライはさらりと言い放った。
「次代宰相になれる人物が見つからなかったら、お前の理想とやらは夢で終わるからそのつもりでな」
 アレクセイが無惨なほど狼狽うろたえる。
「そ、そんな殺生な…。いや、お一人ほど思い当たる御仁がおられないでもないんですが・・・まぁ無理だろうなぁ・・・第一、ご存命かどうかもわかりませんし」
 遠い眼をして呟くアレクセイに、リオライは苦笑する。
「俺も出来ることはするが、お前も自分の理想を叶えるべく頑張ってくれ」
「・・・はいはい、あなたにはかないませんね」
 アレクセイは吐息して言った。

 その時、取次の文官が衛兵隊第三隊からの使者到着を告げる。
 第三隊隊長エルンストは、リオライがまだ少年といわれる頃からの知己である。一隊士であった頃から、とかく奔放な(半分以上は父宰相へのあてつけであったが)リオライの行動を苦笑で見逃してくれた、王都ナステューカでは得難い協力者であった。
 衛兵隊第三隊隊長となった今、ツァーリ軍が壊滅的打撃を受ける中でほぼ無事だった数少ない戦力の統括者であった。即ち、ナステューカにおけるリオライの貴重な機動力である。そのために昨今は目の回るような忙しさである筈だが、大概は隊長エルンスト本人がまめに顔を覗かせた。だから、使者と聞いてリオライは僅かに首を傾げたのである。

 ややあって、執務室に通された副長の 一人・ディルの報告に…リオライは静かに息を呑むことになる。