衛兵第三隊の隊舎。
シェノレスとの戦がようやく終わったばかりである。戦の爪痕もさることながら、終戦直前にイェルタ湾岸を襲った津波でツァーリ軍は甚大な被害を受けた。衛兵第三隊はその湾岸に居ながら難を逃れた数少ない隊の一つであり、隊士は事後処理のために奔走しなければならなかった。
そんな中で、隊長であるエルンストが倒れてもう三日目である。普段は風邪一つ引かないだけに、突然発熱し危篤状態に陥ったことは…重用され始めた第三隊を妬んだ第一隊か第二隊の者が一服盛った所為ではないかという不穏な噂すら流れていた。
隊長の宿舎は一応別棟になっている。隊長の代理で出仕した王城から戻ったばかりの副隊長・ディルが額を冷やすための雪を桶いっぱいにとって入ると、牀の傍らに付き添っていた人物が立ち上がった。
濡れ光る鴉の羽のような黒髪を、肩の少し上で切り揃えた女性である。年の頃はディルと同じ、おおよそ二十代後半と見える。右眼を両断する古い傷痕は、視力が失われているわけではないから隠しさえしていない。ただそれは凜とした美貌に一種の凄味を与えはしても、決して損なってはいなかった。
姓はなく、ただセレスとだけ名乗る。本名ではないらしいが、そんなことは第三隊では珍しいことではない。ディルと同様副長の地位にあって、戦時中は第三隊がイェルタ湾へ派遣されている間の留守を守っていた。
衛兵隊第三隊は、かつて国王が王城に食客を置いていた時代の名残である。親衛隊としての第一隊や、その予備隊である第二隊とは根本的に違う。当然身元に規定は皆無、流れ者も多く、荒っぽい生活をしてきた者がほとんどである。隊長のエルンストからして元はといえば西方から流れてきた人間で、出身ときたらさらに不詳。そんな中でも由緒ある武門と思しき身のこなしを備えた、しかも女性は十分に異色な存在ではあった。
「…様子は?」
ディルが短くそう尋くと、セレスは一度牀に視線を落としてから無表情に首を横に振った。
「悪化しない代わりに、回復もしていない。薬も一向に効いた様子がない」
「…このまま熱が下がらなければ…時間の問題ってのは、本当…なのかな」
ディルの声が心細げに先細る。ディルはエルンストが一隊士であった頃からの仲間であり、エルンストの頑健ぶりを誰よりも知っているだけに、前代未聞な状況に動揺を抑えきれない。副長という立場の重さも承知していて、なるべく毅然と振る舞うようにしているのだが、周囲に一般隊士がいないとつい泣き言が出そうになる。
「雪、ありがとう。ディルも休んでおきなさい。隊長が回復するまで、仕切るのはディルの役目だ。この上ディルにまで倒れられたら、隊が機能しなくなる」
セレスは冷静だった。その役回りは情報収集・作戦立案とどちらかといえば参謀に近い。故に副長としては同格だが隊長代理は基本的にディル、というのは隊内の常識だった。それでも、常の落ち着きぶりからセレスのほうが年長に見られることもあったのだ。
冷静というより全ての感情を無理矢理に塗り込めているようにも見えるが、いま彼女の貌にあるのは、疲労の彩だけであった。それを見たディルは自身の失言に気付いて思わず口許を抑える。
不安を抱えているのは自分だけではない。むしろ、エルンストの突然の病臥に最も動揺しているのは彼女であろうことぐらい、セレスの入隊の経緯を知っているディルにはよくわかっていた。
おそろしく気丈で、決して表に出さないが。
「今夜、泊まるんだろ。薪…まだあるよな。追加は外に積んどいた。…セレスこそ、無理するなよ」
ディルはそう言って、桶を戸口に置いた。
***
『駄目かな、これは』
エルンストは薄れかけた意識のなかでそう思った。
何度目覚めたのか、何度眠ったのか、もう分からなくなっている。今が夜なのか昼なのかさえわからない。
身体が、まるで自分の身体ではないようだった。異様に唇が乾く。横になっていてさえ、眩暈がして身体を揺さぶられているような気がする…。
決して平坦な生き方をしてきたわけではないし、傷を負って死を意識した事とて一再ではない。だが、よりによって自分が病気なんぞで死ぬタマだとは思ってもみなかった。
こんな熱を経験するのは久し振りだ。
王都ナステューカに逢着し、衛兵隊に身を置いて暫く経った頃だ。エルンストは妖物が出る、と噂になった館の調査に出向くことになった。衛兵隊へ入ったばかりの頃、世話になった友人が森で殺されたのだ。王都の森に出る妖物に憑り殺されたのだという。
広壮な庭園を持つ、廃屋と紛うばかりの古い館。そこで確かに、出逢った。鴉羽色の髪、深い碧眼の妖精に。
彼女は館の守人だった。領域を侵し、旧主の手に在るべき財を持ち出した賊を捜していた彼女が、エルンストを賊の一味と勘違いしたのも無理はなかろう。後からわかったことだが、実際に賊は第三隊の中にいたのだ。エルンストにしたところで、友人を殺されて冷静な判断を欠いていたところへ非凡な太刀筋で斬りかかられ、彼女を頭から下手人と決めてかかっていた。
幾ら頭に血が昇っていたとはいえ…不意討ちでもなく、斬り合いの末、しかも女に喉元へ刃を突きつけられるなど、およそ初めての経験だったと思う。
その直後に起きた事故のために首を落とされることは免れたものの、傷を負って熱を発し、エルンストは他ならぬその妖精の手当を受ける身となったのだった。
セレス。
エルンストは彼女の持ち物に彫られた名前を読んでそう呼んだ。実は読み間違えていた事を知ったのは随分と後のことだったが、彼女はその名で呼ばれることを望んだ。彼女がかつて心通わせた旧主は理由あって王都を離れている。その旧主に、彼女の生存は伏せられていたのだ。…館を離れるべきと思いながら、彼女はそれを果たせずにいたのだった。
結局…友人を殺したのもセレスが捜していた賊であったことがわかり、協力してそれを討った後、セレスはその財物―櫃に納められた剣と環―を取り戻す。
その後、彼女は一度姿を消した。しかし程なく…衛兵隊第三隊の新しい隊士として参入してきたのには流石にエルンストも度肝を抜かれた。いくら腕が立つといっても、無茶な話だ。実直に、色々な意味で危ない。
しかし、最終的に…彼女が決然と宣した言葉を、エルンストは受け容れた。
『私は何も約束できない。でも今はあなたの傍に居る』
逢いたいが、逢うわけには行かない。そんな旧主への想いを完全に断ち切れた訳ではないのだろう。だが、エルンストはそれでも構わないと言った…。
あれから、何年経ったのだろう。
『済まなかったな…』
額に触れている幾分体温の低い指先を感じながら、動かない唇に載せようとしたのは謝辞、あるいは謝罪。
こんな形で別離れなければならないのは、不本意だ…
闇を溜め込んだ深い淵の中へ、意識が吸いこまれようとした一瞬。頬が、ひどく思い切った方法で冷やされる。熱に茹だっていた身体が驚いて、遊離しかけていた魂を引き戻した。
「エルンスト!」
「……?」
奇跡的に、重い瞼が開いた。目に飛びこむ、緩く波打つ金褐色。纏わらせた雪片が暖炉の炎で照らされている所為もあろうが、いつにも増して豪奢に見える。
双眸の若草色を認め、それが誰なのか認識しても、エルンストはしばらくぽかんとしていた。枕許に散乱する雪の冷たささえもこの際は意識の外。
――何でこいつが此処に?
「しっかりしろ、それとも熱の所為で神経までやられたのか!?」
どうしても返事をさせたいらしいが、喋りたくとも口の中はカラカラに乾いている。おまけに口を開けるにもひどく億劫だ。その時、水を含んだ海綿が軽くあてがわれ、唇と喉を湿らせてくれた。乾ききっていた口許に水分が与えられた所為か、何とか発音することができた。
「…サー…ティス…?」
ただ、声はみっともなく掠れた。
「そうだ、俺だ。俺が分かるんだな?…ここが何処だか分かるか?」
「…ナステューカ…第三隊の兵舎…何で…サーティス…?」
問われるままに掠れ声のまま応えた後、思わず眼を見開く。懐かしむ程時間が経っている訳ではない。だが、その人物が何故此処に居るのかがエルンストの中で巧く繋がらなくて、言葉を探す。だがその様子を見たサーティスは軽く息をついた。常に揺るぎない自信に縁取られた双眸の、色彩だけは柔らかい若草色がふっと和む。
「上等だ。…いいか、お前は少々質の悪い熱病にかかったんだ。だが俺が必ず治す。…とりあえず、今はこれだけ飲め」
怒鳴るというにはほど遠いが、飲まなければ椀の中身をそのまま口に流し込まれかねない剣幕であった。らしくないな、何を慌ててるんだこいつ…と、熱ですこしぼんやりしていることを自覚しながら、エルンストは身を起こした。
…正確には身体を起こそうとしたら、視界が回転しておもわず眼を閉じた。
「いきなり無茶するな」
「寝たまま飲めるか。お前が飲めって言ったんだろ…寄越せよ」
肘で半身を起こして、眩暈がおさまるのを待つ。どうにかもう一度眼が開けられたタイミングで、伸ばした手に椀が渡された。前にも何だったかで飲まされた気がするが、相変わらず凄い色と匂いだ。
「急ぐな。噎せるぞ」
「…莫迦言うな、ゆっくり賞味してたら却って噎せそうだ」
「ま、減らず口が叩ければ問題はないか」
流し込むようにして飲みこむ。苦いとも辛いともつかない壮絶な味にまたすこし目が覚めた。気付け薬かと思った程だ。
「…不味い」
正直な感想は、冷えた巾で額を拭われることで報われた。それがセレスの手であることに気づいて、手を重ねる。少し体温の低い、繊麗な指先。先程口許を湿らせた海綿をあてがってくれたのもこの手。
「…よかった」
セレスの声が僅かに揺れている。ああ、心配掛けてしまったんだな…そう思って、エルンストは謝辞を口にしかけたが、巧く言葉にできずに吐息になる。
「不味い?横着言うな。あたりまえだ、薬なんだから。ついでに水も飲んでおけ」
「そうだな…なんか喉渇いた」
口の中に残った苦味を、差し出された椀に一杯程の水で更に流し込み、思わず息をつく。今飲んだ薬がそんなにすぐ効くわけもないのだが、何か身体が楽になった気がしてまた急に眠くなった。
『…帰って…きてたのか』
それを口に出すことが出来たかどうか。
闇を溜め込んだ淵ではなく、温かい水の中で揺蕩うような安心感の中で…額に触れる手の心地好さも相俟って、エルンストは再び眠りに引き込まれた。
***
セレスは眠ったエルンストの額に手を触れたまま、暫く視線を落としていた。
そのセレスの横顔を、サーティスと呼ばれたその青年はこれも暫く黙してただ眺めていたが、髪に纏わる水滴をややぞんざいに拭いながらセレスに声をかける。
「大丈夫、助かる。もともと獣並みに回復力のある奴だ」
二〇代から四〇代までどうといわれても納得できそうな風貌で、有り体に言えば年齢不詳である。艶の良い髪は緩く波打っており、やや暗めの色調でありながら光線の加減でかなり豪奢な印象を与える金褐色。若草色の双眸は、理知的な水の冷たさと、風の奔放さが同居していた。
「…ありがとうございます…殿下」
サーティスは微かな苦笑を閃かせた。
「殿下は勘弁してくれ、セレス。…俺も君をセレスと呼ぶ。それでいいだろう」
その言葉に、彼女はふと顔を上げる。
だが、涙を滲ませたセレスの目許を直視出来ずに、サーティスは薬種を収めた箱を整えるふりで視線を外した。それに気づくことのないまま、セレスがサーティスに向き直る。
「…あなたが王城に関わることを忌避されているのは存じ上げております。…でも…もう…あなたしかいらっしゃらなかった…」
声は感情を極限まで抑えていた。だが、もう一度俯いた頬を、一筋の涙が伝っていた。
誰が、この女性と第三隊副長・セレスが同一人物だと分かるだろうか。王都の者は噂する。第三隊のセレスは、戦斧や戦鎚が雑然と置かれた中に突き立てられたレイピアのようだと。だがいまサーティスの前で細い肩を震わせているのも、間違いなくセレスだった。
溢れた涙を隠すために顔を覆ったのが、さらに涙を誘い出す基となる。頽れそうになるセレスをサーティスはそっと支えて椅子に導き、座らせた。
「礼を言うのは俺の方だ、セレス。よく…知らせてくれた。こいつとは西方以来の腐れ縁でな。諸々、借りもあるからまとめて返すいい機会だ」
そう言って、濡れているかのような艶を放つ鴉羽色の髪に手を置いた。
かつてよくそうしたように、その髪を指に絡めたくなる…そんな衝動を、サーティスはさらりと頭を撫でて身を離すことで抑え込み、薬箱を手に取った。
「薬を調えたら、また来る。マキを寄越すかも知れんが。とにかく冷やすことと、少々無理にでも水分は摂らせるんだ。…いいな?」
「はい…」
飛び立ってしまった鳥。別の腕の中で咲いた花。手を伸べることは許されないと理解っている。だから…セレスに気づかれないように深く息を吸って、頭巾の蔽いを再び引き上げると扉に手を掛けた。
――――だが、その直後。サーティスはがたりという重い物音に思わず足を止める。
***
エルンストが仕事に復帰したのはわずか三日後だった。
快復したエルンストが、礼物を携えてその館を訪ねたのはそれから半月ばかりが経った頃のことである。もう少し早く訪れるつもりが、倒れている間に発生した案件を整理するのに存外時間をくってしまったのだ。
王城を囲む森の中には、多くの館がある。王都の森に居館を持つことは一種の社会的象徴であり、相応の地位と格式を維持出来る者だけが許されることであったが、ミオラトの僧院のように、昔は王宮として使われながら現在は僧院兼獄舎という変遷を経た建物があり…また、住む人もなく狐狸の巣と成り果てた館もある。
あるいは、昔日の面影は失っても確かに人の息遣いを感じさせる館も。
エルンストの目的はそのひとつ。大方の人がその名も忘れてしまった館である。
館に近づくと、蹄の音に気づいたか十代半ばと見える一人の少年がエルンストを出迎えた。黒い髪と、くりくりとした大きな緑の瞳。至って整った顔立ちをしていたが、可愛らしさよりも溌剌とした印象の方が先に立った。
「いらっしゃい、隊長さん。サティならテラスだよ。…その子、預かるね。水と飼い葉、あげてもいい?」
「…あ、ああ。有り難う」
予告はしていないし、その少年とも初対面の筈だ。しかし訝るどころか毎日訪れている客人を迎えるかのような気軽さで手を差し出され、エルンストは言われるままに乗騎の手綱を少年に預ける。
何処かで遭っただろうか?
侍童にしては主君を愛称(しかも敬称抜き)というのは妙だ。前に此処へ来た時は、年老いた館守が一人いただけだったから、エルンストは少々面食らった。しかし、そうしていても仕方ない。少年が馬の首を優しく撫でながら親しげに声をかけつつ厩のほうへ連れて行くのを見送って、とりあえずはテラスへ足を向けた。
此処に来るのは久し振りだが、勝手はわかっている。
いまだ蕾の固い桜の木のある庭園は、いつかと同じように鬱蒼と草木が繁っている。知らなければとても人がいるようには見えなかっただろうが、そこを通り抜けると、手入れされたテラスが見えた。
そこに佇立する者がある。纏う衣服は自由民と大差ないのに、端正といっていい立姿であった。
空へ手を伸べている。
その手の中から、一羽の鳥が飛び立つところだった。
「・・・・サーティス」
鳥は少しぎごちないふうで数度羽撃きを繰り返した後、空へ舞い上がる。金褐色の髪が、そのちいさな翼が起こす風で微かに揺れた。
「そいつ…怪我でもしたのか?」
「放してやったのは随分前だが、馴れてしまってあまり遠くへ行かん。…困ったことだ」
館の主は椅子に腰をおろした。そして、微かに笑ってエルンストにその若草色の双眸を向ける。風のように奔放で、水のように冷静なその色彩は、確かにかの王太子と似通ってはいたが…受ける印象は全くの別物であった。
「相変わらず、人間離れというより獣並み、いや獣以上か…たいした回復力だな、エルンスト」
開口一番、挨拶としては遠慮会釈もない。しかし言われる方も慣れているから全くこたえない。むしろ、胸を張らんばかりである。
「おう、それだけが特長だからな」
「結構。調子は戻ったらしいな」
館の主は完爾としてエルンストに椅子を勧めた。
――――颯竜公レアン・サーティス。先王カスファーの末弟。西の国シルメナの王族の血を引いているという点で、王太子アリエルと似たような立場にあった人物である。
だが、彼はアリエルとは違った。颯竜公の称号を受けたばかりの13歳の時、実に思い切りよく王都を出奔してしまったのである。そして長く西域で暮らした。エルンストと最初に出会ったのもこの時期である。
この館はもともと先々代ニコラ王に嫁したサーティスの母、アスレイア・セシリア妃に下賜された館である。当然というか、サーティス一人が住むには十分すぎる広さがあった。
本来は館守の老人…家令であるエクレス翁ひとりで保守するのは困難な規模だ。エクレスも相応の齢になったこともあり、現在はそのために数人の使用人を入れているという。さしあたり館を維持する程度だということだが、実際、サーティスの本来の身分からすれば侍童といわず衛士を含めた相応の数の使用人・近侍を置いているのが普通だ。むしろ、いまだに西方で独居していた頃とそう変わらない隠者のごとき生活をしているから、主の絶えた館に主人顔で棲んでいると周囲から勘違いされるのである。
そのサーティスが館に人を入れることに重い腰を上げたのは、高齢になったエクレスへの配慮という面が多分にあったであろう。財物狙いの野盗に侵入された一件をエクレスが気に病んでいたし、辺境にある森の庵というならともかく、これほどの邸となれば主人が不在でも館を維持するには相応の人員が必要…という至極真っ当な結論に至ったらしい。
先程の少年が飲み物の支度をして現れる。きびきびとした所作で茶を淹れるとエルンストに勧めてくれた。
少年…敏捷で利発そうな面差しだったし、屋外でも立ち働くためか脚衣を穿き、着ている服も丈としては男児のものだったから…エルンストはてっきり少年と思っていたが、そうではなかった。
「マキ、ここはもういいぞ」
サーティスの言葉に、客へ向けてぺこっとお辞儀して何やら忙しげに奥へ引っ込んでしまったが、一連の所作を見ていてあることに気付いたエルンストは驚きのあまり暫く口がきけなかった。…少年ではなく、歴とした少女だったのだ。
「サーティス、お前…西方じゃ歳上の女ばっかりだったが、存外…わっ!」
最後まで言い終える前に、サーティスの手首が素早く翻って水差しの水がエルンストの頭上に降り注いだ。
「この野郎…病み上がりの人間に何すんだっ!」
頭から水滴を滴らせながらエルンストが吠える。
「安心しろ、これぐらいでぶり返すようなタマなら俺が診るまでに黄泉路へ旅立っているさ。…言うに事欠いて、何て事を…」
苦り切ったようなサーティスの表情に、エルンストはきょとんとして問い返した。
「何だ、違うのか。俺はおまえの趣味の幅が広くなったのかと…」
「莫迦抜かせ、あれは…マキは愁柳からの預かりものだぞ」
「…愁柳?」
懐かしい名を聞き、エルンストはびしょ濡れになった頭を軽く振った。
「…もう、何年前になるかな。北の山脈の間道で、雪に半分埋もれていたのを見つけたもんだから、ノーアへ連れていったんだ。あのあたりで治療するといったら愁柳の処しかない。ま、いろいろあったが…行くところがないというから、引き取ることにしたのさ。あのままノーアに預けたってよかったんだが…本人の希望でな。苦労と勉強がしたいんだと。
大したおてんばで鼻っ柱も強いが、愁柳が実娘同様に鍾愛していて…ちょっと泣かせてもあの佐軍卿から絞め殺されかねんのだ。努、怖ろしいことを言うな」
肩をそびやかすサーティスの仕草に思わず笑う。
「へえ、あの御仁がね…」
かつての竜禅皇太子愁柳。ノーア公女ナルフィリアス=ラフェルトと添い遂げるためにその地位を放擲した後、公的にはシュライと名を改めている。その雷電の如き剣捌きと用兵手腕から、西方諸国に紫電竜王と畏れられた武人は、いまや佐軍卿として揺らぐことのないノーアの重鎮である。
見た目は至って温雅そのもので、その手に剣を握ることさえ実際に目にしていなければ信じ難いほどにもの柔らかな人物だが、その剣の技術はサーティスでさえ一目置くほどである。故国を離れるに際して右腕に傷を負ったことから握力は左の半分ほどしかないが、剣の冴えには些かの刃毀れもない。先頃、公女との間に男児をひとり儲けたというが、どちらに似ても北方民を震え上がらせる武人になるだろう。
――――エルンストは、竜禅皇太子であった頃の彼の許に、食客として身を寄せていた時期があった。
「利発な子だ。よく気がつくし、何か教えれば教えた以上のことを身につける。ああいうのを一を聞いて十を知るというんだろうな。…あぁこの前の、おまえさんがぶっ倒れた一件からこっち、セレスにもよく懐いて時々修練の相手をしてもらってるようだ。あれも忙しい身だろうに、妹が出来たようで楽しいらしい…」
サーティスが浴布を放り投げる。受け取ったエルンストが髪を拭いながら得心したように言った。
「そうだったのか…それで最近、時々いないんだな」
「〝そうだったのか〟ってお前、気づいてなかったのか…?」
サーティスが愕然としたのを、エルンストが不思議そうに問い返す。
「何を驚いてるんだ。第三隊の机仕事なんてディルとセレスがいなかったら回らないぞ。知ってるだろ?自慢じゃないが、おれは机仕事に関して言えばサインするしか能がない。あいつらが忙しいのは俺の所為だから、ちょっとした不在までとやかくいうのは憚られてなぁ」
そう、からりと笑ったものである。サーティスがこめかみを押さえた。
「…そういう奴だよ、おまえは。まあ、ある意味…有難い上司ではあるな」
「何だよ、何か問題あるか?」
「…いや、ない。気にするな」
気を取り直すようにサーティスが杯に透き通った紅の酒を満たす。エルンストにしてみればサーティスが何処を問題にしたのか今ひとつ不明瞭ではあったが、セレスが妹のように思っている娘、と聞いて…好奇心に駆られて訊ねてみた。
「苦労と勉強か…えらくしっかりした娘だな。苦労…のほうはお前について行けば次々と降ってくるだろうが、勉強ってのは何を教えてるんだ?」
「何か引っかかる言い方だが、まあいい。
そうだな、種々雑多としか言い様がないな。地理、歴史、天文、文学、算術、シルメナ語、リーン語、シェノレス語、龍禅をはじめとする西域語。政治、経済、戦略と戦術、本草学、医学、剣術、槍術…その他諸々。
とにかく何にでも興味を持つ。…物覚えがいいのは確かだから、教えていても実に楽しいしな」
だが、サーティスが言い終える頃には、エルンストはすっかり頭を抱えこんでいた。
「…それだけのことを…あの子が?」
「語学はもうほぼ俺と同じ水準だな。達者なものだぞ。大陸中、何処へ放り出してもおおかた言葉に不自由はなかろうよ。本草学と医学はまだ途中だが…」
「…そんだけ修めりゃ、宮廷書記官でも務まるんじゃないのか?」
「そうだろうな」
そう言ったサーティスは、いっそ誇らしげでさえあった。
「王城の内外でたむろしてる徒飯喰らい共よりは余程ものの役に立つだろう。俺が大陸中連れ回した所為で知識と経験が結びついてるしな。
まあ、別に俺はマキを宮仕えさせるために教えた訳じゃない。あれにはなにやら遠大な計画があるらしいからな。全てはそのためだそうだ。…俺には教えてくれんがな」
「へえ…」
宮廷書記官級の知識と経験を溜め込んだ少女がめざす『遠大な計画』とやらに見当がつかなかったエルンストとしては、不得要領ながら曖昧に相槌を返すしかなかった。
「ま、それはさておき…だ」
サーティスはエルンストに酒杯を勧めて言った。
「…サーレスク大公が、身罷ったそうだな?」
「俺はイェルタ湾岸にいたから、細かい話までは知らないぞ」
「そう警戒するな。ただの世間話じゃないか。…会ったことは、あるんだろう?」
「役儀上…な。いや、正直に言うと、以前リオライから頼まれてすこし剣を教えてた時期もある」
「そういえばヴォリスの坊やに懐かれてたんだったな、お前」
「おいおい、今や宰相閣下だぞ。坊やはないだろ…とはいっても…ははっ、まだ俺も構えてないとつい名前で呼んじまうが」
エルンストは苦笑いして杯を乾すと、ふっと嘆息を漏らす。
「…サーレスク大公…まるで冬の陽のような御仁だったが、まさかあんな思い切った命の使い方をする人とは思わなかったよ」
陽光の破片を集めたような髪と、瑞々しい若草色の双眸。穏やかな微笑の下に、恐るべき決意を秘めた王太子。
――――その想いは、間違いなく成就したのだ。
「聞いた。あくまでも正式な和議の早急な締結を主張し、自室で喉を突いたそうだな。
自棄でもあてつけでも、況してや絶望でもなく…自身の令旨1に遺詔としての効力を持たせ、あの坊やが戻ってくるまでシェノレスとの和議を破棄させないために…敢えて自らの命を絶ったと。王族としての権利を剥奪されてからでは遅いとは言え…よくもそこまで計算ができたものだ」
「…間の悪いことに、その直後だったんだ。リオライが生きていると分かったのはな。おまけに、幽閉されてたミティア嬢は、それを殿下に知らせようとして…サーレスク公邸へ駆けつけた。そこで、現場を見ちまったらしいんだ」
先に明言したように、当時イェルタ湾にいたエルンストはその現場を見た訳ではない。しかし、深窓の令嬢が直面するにはあまりにも凄惨な場面であったろうことは容易に想像できた。
「…最悪だな」
「爾来、近侍も迂闊に声がかけられない様子だって話だ。無理もないさ。その上、最近になってまた雲行きが怪しくなってきやがった」
「何だ、またあの家に何か問題が持ち上がったか」
「…ミティア嬢が命を狙われている」
「ほう…?
宰相家のミティア嬢といえば、今上陛下から入内の打診まで受けているというのに、別邸に引きこもってしまったのは…サーレスク大公アリエルの子を身籠もっているからだと、もっぱらの噂だな」
そう言ったサーティスの…いっそ冷笑的な光を湛えた眼を見て、エルンストはちいさく嘆息をついた。
エルンストも今は『颯竜公レアン・サーティス』が王都を出奔するに至った事情は知っている。サーティスがヴォリス宰相家絡みの話で反応が冷淡になるのは仕方ないと理解ってはいても、妙齢の娘が名誉に関わる噂をたてられているのだ。もうすこしましな反応というのはないものか。
「…ま、噂の真偽はおいとくとして…。
リオライが死んだと思われていた二年間。その間サーレスク大公の味方と言えば文書館の司書長とミティア嬢くらいしかいなかった筈だ。噂になったところでそれほど不思議じゃなかろうよ。それに、別にいいじゃないか。どっから見たって似合いだしな」
「だが噂が真実なら…生まれてくる子は、私生児の烙印を免れんだろうな」
「俺に言わせりゃちゃんと母親がいるだけ幸せなもんだ。身分のある人間ってのは、面倒なもんだな…」
何分にも彼自身は嬰児の時に岩だらけの山中に棄てられていた身の上であり、そういう感想に落ちつくのである。嫡出だの庶出だの、正直なところどうでもいい。
「それより問題なのは、何だって今、ミティア嬢が狙われにゃならんのかということさ。下手人の正体はおろか、誘拐されかかったのか、害されかかったのかさえよくわからんのだ。警護する側としては緑砦の中とはいえ郊外の別邸から、王城にほど近い本邸に戻って欲しいところだろうが…部屋に引きこもったままリオライにさえ会おうとしないんだそうだ。それがまたリオライからしてみると心痛のタネでな」
ふうっと息を吐き、エルンストは背凭れに背を預けて星が瞬きはじめた空を窓越しに仰いだ。
「もう日暮れかよ」
「夕食ぐらい食って行け。部屋はあり余ってるから何なら泊まっていっても構わんぞ。ここへ来ることなんて、訪問先には事前通告なしでもセレスには言ってあるんだろう?」
「な、何でそこにセレスが…!」
「そう耳の先まで赤くなるな、こっちが恥ずかしくなる。…だがな、エルンスト」
それまでの、揶揄って愉しむような口調と表情が…突如として氷点下まで温度を下げる。
「彼女には、エリュシオーネ…ケレス・カーラの名で縛ることはしないと言ったが…俺は、彼女を諦めたつもりはない」
昏い水面のように静かでありながら、挑みかかるような凄絶な微笑。エルンストが思わず呼吸を停める。
「忘れるな。お前が彼女を泣かせるなら、俺は遠慮なく奪っていくぞ」
杯を掲げて昂然と宣言する友人を見つめ…ややあって、エルンストは詰めた呼吸の下からようやく声を絞り出した。
「…サーティス…!」
何か、言葉を継ごうとしていた筈だった。だが、そのまま視線をはずして杯に口を付ける。沈黙の後、やはりようやく絞り出したような声ではあったが、それはエルンストが最初に言いかけたこととは明らかに別のことだった。
「択ぶのは…セレスだろう」
それを聞くと、サーティスはさもつまらなさそうに目を伏せて酒杯を傾けた。
「ふん、うっかり揶揄うこともできやせん。あれの性格は俺だってよく識ってるさ。真に受けるな、この野暮天め。
…で、夕食だが。食っていくのかいかないのか」
先の挑みかかるような表情など、幻であったかのような緩さである。そうだった、こいつはこういう奴だった…そう思いながらエルンストが口にしたのは…単純明快な答えであった。
「食う」
――――それほど豪勢な晩餐であったわけではないが、マキと呼ばれた少女が甲斐甲斐しく給仕してくれた。
時折、少女がエルンストを興味深そうに見ていたのに気づいてはいたが…客人が珍しいのだろうとエルンストは気にも留めなかった。目が合うと、にこっと笑って身を翻す。軽やかな身のこなしとつやの良い黒髪が、初夏の空を舞う燕を思わせた。また、軽捷な中にも隙のない所作は相応の体術を修めていることを覗わせるし、利発そうな少女ではある。実はあの愁柳の娘だといわれてもうっかり納得してしまうだろう。
食事が終わってしみじみとエルンストが言った。
「食事ってのは、美味しいものなんだよな」
「情けないことを言うな。一体お前、兵舎で何を食わされてるんだ?」
「…不味いものさ」
他に、言い様がなかった。食事など腹が膨れれば何でもいいという連中と生活していると、舌など食えるモノか食えないモノかを判別できればいいという貧しい感覚に支配されるものらしい。
「ところで、先の話だが…サーティス、おまえひょっとして彼女が命を狙われなきゃならん理由を知ってるんじゃないのか?」
「…どうしてそうなる」
「いや、なんとなく」
「俺は命を狙われているという話自体が初耳なんだが」
「でも、その可能性は考えてただろう」
食い下がるエルンスト。サーティスはやれやれというふうに吐息するが、エルンストのほうも困り果てたように頭髪をかきまわし、唸るように言った。
「何か知ってる事があれば言ってくれ、頼むから!
何だかよくわからんが、今回の件は何か変なんだ。何か、大事なことが隠れたままのような気がする」
「知ってる事…といってもなあ…」
サーティスは結局エルンストが諦めて席を立つまで質問をかわしきり、言質を与えなかった。
「…嵐になりそうだな」
星の消えた空を仰いで、エルンストは眉を寄せた。勝手知ったる厩へ廻り、いつでも出立できるように支度された乗騎の手綱を解いた。
「冬の嵐か。タチが悪いな。…どうする、うちでやり過ごすか?」
「いや、戻ろう。今から馬を飛ばせば何とか本降りになるまでに帰り着けるだろうから」
サーティスは騎乗するエルンストを見送って言った。
「…まあ、お前が少々雨で濡れたからといってどうこうなりはすまいが…セレスにあまり心労をかけるな」
ついこの間の事がある。エルンストは憮然として応えた。
「…真摯に聞いとくさ」
***
エルンストを送り出した後、しばらくテラスで空模様を見ていたサーティスの頬に水滴が落ちかかる。
暫くすると本格的な雨となった。屋内にはいって扉を閉めたとき、最初の稲妻が走る。
「…派手だな」
「あれ、お客さん…帰っちゃったの?挨拶しそこねたなぁ」
ひょこっと居間に顔を出した者がある。マキだった。
「ああ…ご苦労だったな、マキ」
灯火を手燭に移したとき、屋敷全体を震わせるかのような雷鳴が轟く。
「ひどい雨になっちゃったね。泊めてあげればよかったのに」
「そうしようと思ったんだが…まあ、あれで忙しい奴だからな。…それに、野暮天の癖に時々変なところで勘がいいんで困る。襤褸が出ても不味いから、無理に引き留めなかったのさ」
「うーん…そうだねー…」
サーティスの脳裏でエルンストの困憊した声音が甦る。二度目の閃光がサーティスの顔を蒼く照らし出した。少し物思わしげなその横顔を見上げ、微かに眉を曇らせてマキが言った。
「…どうしたらいいのかな?」
だが、サーティスは少女の憂色を笑殺するように少し悪戯っぽい表情で、その黒髪を軽く撫でる。
「…まあ、ほかにもいろいろとあってな。もう少し考えるさ。それよりどうした?雷が怖くて寝そびれた訳じゃあるまい」
「まさか! ちゃんとテラス閉めたか、心配になって見に来ただけ。サティに任しとくと、時々忘れるじゃない」
「わかったわかった。ちゃんと閉めたよ」
「はい、よろしい。それじゃ、おやすみなさい」
くるりと身を翻し、マキが暗い廊下を恐れ気もなく律動的な歩調で自室へ足を向ける。
サーティスはそれを見送ると、手燭を持って暗い廊下を渡り、自室にはいるとそれをランプに移そうとして…消した。今あまり考え込んでも、ろくな答えはでてきそうにない。眠ってしまうに限る。
雷鳴が鼓膜を打ち、ほぼ同時に閃光が網膜を灼いた。
「知っていること…か。知らない方が心穏やかでいられることだってあるんだぞ、エルンスト…」
サーティスは目を閉じた。何度目の閃光が、瞼を貫く。
***
「そもそも、ミティア嬢がリオライにすら顔を見せなくなった辺りがおかしいんだよな」
衛兵隊の本部…といっても、第三隊のそれは第一・第二隊と違って王城のすぐ傍にあるわけではない。『緑砦』と言い倣わされる王城の森、そこを比較的真っ直ぐに縦断する南からの街道がある。それが森に入って初めて枝分かれする地点、そこを扼するように開かれた練兵場の隣に、兵舎と一緒に建っていた。
ある意味、南からの侵攻に対する最初の迎撃地点という要衝ではあったが、平時においては胡散臭い連中をまとめて放り込んでおく場所、という位置づけだった。実際、王城から離れているから規律は至って緩く、時折問題も起こす。そのため過去、何度か解散が取り沙汰されたことさえあるというが、それでも今まで命脈を保ってきたのは、ひとつには汚れ仕事を押しつけるために残しておかれたという側面があった。
王家に準ずるヴォリス家、しかも養女とはいえ宗家令嬢の命が狙われているとあっては、衛兵隊が動くのが普通だ。本来なら第二隊、どうかすると親衛隊とも呼ばれる第一隊が当てられることさえあるのだが、両隊を端から信用していないリオライは第三隊をその任に充てていた。
第一・二隊からは相当な反撥があったようだが、言うまでもなく、隊長エルンストに対するリオライの全幅の信頼あってのことだった。
しかし、とりあえずヴォリス別邸周辺に警護は配したものの、ミティア自身が人を近づけさせないためそれ以上の警護はできないのが現状であった。その上、狙っているのが誰か、という点においても、全く捜査が進んでいない。
エルンストが頭を抱える所以もそこにあった。
「…私が邸へ行きましょう、隊長」
そう言い出したのはセレスである。
「身籠っておられる女性の回りに、武装した兵士を何人も配そうというのがそもそも無茶です。邸周囲の警護は今のままに、私が行って彼女を警護しましょう。今のままでは、暗殺団が大挙して押しかけてきたならともかく、身の軽い刺客が窓から忍んだ場合に防ぎようがありません」
「…お前のいう通りだな。俺でもそうする」
エルンストが降参、というふうに大きく息を吐いた。セレスが苦笑する。いまでこそ衛兵隊の隊長職にあるが、その警護を出し抜く側に身を置いていた時期もあるのだ。
「ミティア様のほうは、今は他に手段がありません。さしあたって私に任せていただけますか。宰相家を敵に回す者など、数え上げればキリがありません。動機にもよりますが、一度の失敗で諦めるかどうか。ですから、襲撃事件の検証をもう一度丁寧にやってみる必要があります。ヴォリス別邸の人間には私が訊いておきますから、隊長達は周辺の不審者の洗い出しをお願いします」
「わかった。一回で諦めるほどさっぱりした奴らとも考えにくいからな。やっておこう」
「…それと、しばらくは別邸に詰めきりになりますから、報告は文書でさせていただくことになると思います。宜しいでしょうか」
その刹那、セレスの怜悧な美貌が微かに翳って…深い碧がわずかに伏せられる。
ここのところ、セレスの顔色が良くない。エルンストは何かがざわつくのを感じたが、ここは衛兵隊の本部だ。他にだれもいなかったとしても、下手に気遣うようなことを口にすると、セレスは甚だ機嫌が悪い。隊長が部下の体調を気に掛けるのは当然だろうと言うのだが、そこに関してセレスは頑なであった。
『セレスは強いですけど、体力面でどうしたって不利はありますよ。でもそこを言われるの、やっぱり嫌なんじゃないですかね。そこは汲まなきゃ、隊長』
…などと、以前ディルあたりから知ったふうなことを得々と講釈されてから、気をつけて触れないようにはしていた。セレスは隊舎でなく、すぐ傍にある診療所を兼ねた民家に寄留してそこから通っている。オリガというそこの内儀は彼女の係累だから、不調があるならまず彼女に相談するだろう。
――――況して、自身の身体頑健なことに傲って、つい先頃セレスを含めた周囲に多大な迷惑をかけたばかりのエルンストに気遣われたくはないに違いない。
だから、気には掛かっていたものの…エルンストが口にしたのはとりあえず仕事のことだった。
「それも了解した。何とも、扱いづらいな。野郎共と斬り合いやってたほうがまだしも気が楽だよ。
…頼む、セレス。おまえならお嬢さんの態度も少しは柔らかくなるだろう」
エルンストの言葉にセレスがわずかに相好を崩す。
「ありがとうございます。では、洗い出しの件…よろしくお願いします」