言いたいことなんかない。ただもう一度会いたい。
Beautiful World
「いってきまぁーす!」
「あー、気を付けてな。特に交通安全。張ってるぞ、この時間」
「わぁってるわよ喧しい!」
ドアの音にアルピーヌ・ルノーのエンジン音が被る。全く、相変わらずミサトさんは動作に無駄がない。なさ過ぎというべきか。…有り体に言えば、そんなに慌てなくていい時間に起きれば良いのに。
エンジン音が遠くなるのを聞いてから、僕はゆっくりと眼を開けた。
眼に映るのは、見慣れた天井。そう、ここはもう、数年前から僕の部屋。身を起こせば、整然としたその室内が視界に飛び込む。
殺風景というわけではないが、無駄なもののない部屋。
階下へ降りかけて、ふと気付く。今日は何曜日?ミサトさんがあれだけ急いで出る時間に、僕はまだこんな格好で…。
階段を降りる足をすこし速めて、すこし混乱した頭の中で日付を探る。
「おぅ、おはよう。済まんね、休日だってのに朝からばたばたしちまって」
キッチンから朝食のいい匂い。シンクの前で洗い物をしていたそのひとは、手を止めて半身ほど振り返り、ひどくのんびりとそう言った。ぼさぼさの長髪を無造作に後ろで括っている。一般世間的には十分イケメンと称される容貌なのに、残念な無精髭。
休日。そうだ、今日は火曜日だけど祝日で学校は休み。
「おはよ、加持さん。その休日に、ミサトさんはお仕事?」
「ああ、基地航空祭だってさ。大変だねえ」
そう言えばそんな話も聞いたような。僕はタオルを取り、洗面所へ足を向けた。なんだか頭がぼうっとしている気がして…少し目を覚まそうと思ったのだ。
洗面台の鏡に映る、銀髪の人物。紅い瞳。中学…?いや、高校生くらいか。かすかな違和感。思わず鏡に手を触れる。当然ながら、返ってくるのはひやりとした硬質な感触。
「俺ももう出るから、ゆっくり食べてくれ…?」
鏡の前で固まっている僕を見て、加持さんが外しかけたエプロンを片手に足を止めていた。すこし、怪訝な…というより、心配そうな顔。
「…どうか、したのかい。カヲル君?」
「何でもないよ。ちょっとまだ目が覚めきってないみたいだ…」
嘘じゃない。だからとりあえず顔でも洗おう。
顔を洗いながら、僕は記憶を反芻する。
僕はカヲル。渚カヲル。十年ばかり前に東のほうで起きた大災害で被災し、親も住むところも喪った。親の知り合いだという葛城ミサトさんに預けられ、今はここ…遠く離れた本州の西の果て、瀬戸内海に面した穏やかな街で暮らしている。
ミサトさんは、この近くにある航空自衛隊基地の教育隊教官。僕の亡くなった両親というのも自衛官だったらしいから、知り合いというのは仕事上の知り合いと解釈して間違っていないのであろう。…何分にも、被災したのは十分物心ついていた年代の筈なのに…その記憶は曖昧なもので、推測に過ぎないが。
そして、そのミサトさんの…世間的には内縁の夫と見做されるであろう立場にいるのが、この加持さん。彼もまた元々は自衛官だったらしいけれど、今は農業法人に就職して目の前の広大な干拓地で野菜を作っている――――。
終わりなき円環の世界での、幾度目とも知れぬ目覚め。それは、穏やかな中にも唐突にやってきた。
今回のそれが、硝子管の中とか、荒涼たる月面に置かれた棺とか…そんな殺伐とした朝でないことを、僕はとりあえず何者かに感謝した。
僕の様子がおかしいと感じたのか、すこし心配そうな加持さんを玄関から押し出すようにして見送り…用意された朝食を摂る。
相変わらず遠巻きなんだから、あのひとは。まあ、約束通り「渚司令」じゃなくて名前で呼んでくれるだけまだましか。
…とは言っても、きっとあのひとはそんな約束、憶えちゃいないんだろうけど。
キッチンの片付けを済ませると、僕は靴を履いて外へ出た。程近くにある自然観察公園へ足を向ける。
ここら一帯は干拓地だ。今、僕が住んでいる家のある周辺を含めて本来全部を農地にする筈だったのが、時代の流れであまり利用されなかったらしい。そのまま四半世紀以上放置されていたらしいけど、何年か前、その一部を野鳥保護を名目にした自然公園にしたのだ、という話は加持さんから聞いていた。
そうはいってもちょっとしたテーマパーク並みの広さはある。
一周2㎞以上はあるという湿地を巡る遊歩道を歩きながら…陽光溢れる春の朝を感じる。清爽な風と鳥たちの囀り。
God's in his heaven ― (神は天にいまし) All's right with the world! (すべて世はこともなし)
破壊されつくし、赤一色に染まった荒涼たる風景はそこにない。かつてあれを浄化と呼んだ者たちもいた。…彼らは何処へ行ったやら。まあ、興味もないが。
いま此処にあるのは生物たちの、混沌たる営みの世界。
おそらく、僕は時々ここへ来ていたのだろう。道を憶えている。いつも淡水池に張り出して造られた東屋で一休みして帰る。それが休日の朝の日課。
東屋に着いた。僕はさらに池のほうへ張り出したウッドデッキに出る。周囲に誰もいないのを確認してから、腰の高さほどの柵に手を掛けて飛び上がり、手すりに腰掛けた。
池の上を渡ってくる風は、すぐ隣に汽水 1 池と干潟があるから風向きによっては潮の匂いを運んでくる。その風に包まれながら、鳥の声を聞くのが好きだった。
池に張り出した柵の上に上がるなんて、見つかれば叱られるのは承知。でも、これが密かな娯しみなのだ。殆ど唯一の贅沢といっていい。僕は片脚の靴先をフェンスの横木にひっかけてバランスをとりながら、目の前に広がる穏やかな水面を眺めた。
この静穏が壊されなくてよかった。
今朝確かめたカレンダーの日付は2000年9月13日を大きく経過していた。…この世界ではセカンドインパクトは起こらなかったのだ。
シンジ君が望んだ、エヴァのいない世界。
彼は、〝エヴァに乗らない幸せ〟をみつけることはできただろうか?
エヴァが存在していてもいなくても、僕はこうしてここに在る。そしてただ、世界を俯瞰する。僕はそういう者だから。
ふと、目をあけると、一羽のコサギ 1 が淡水池の対岸に舞い降りるところだった。
ああ、綺麗だ。僕は漫然とその姿を見ていた――――――――。
その時。対岸の小径、葦の揺れる狭間に水色に近い銀色の髪を見た気がした。葦原に遮られて、見えたのはそれだけ。でも、見間違いようがない。
――――――まさか!
思わずバランスを崩す。横木にひっかけていた靴先がはずれてしまったのだ。
その一瞬、突如として背後からもの凄い力で羽交い締めにされた。
危ういバランスは容易に崩壊し、僕は仰向けに倒れる。しかし背に当たったのはウッドデッキの硬い感触ではなかった。ついでに、「ぐぎゅっ!」とも「ぎゃっ!」ともつかない…胸郭を突然の外力で圧迫されたと思しき苦鳴が聞こえた。
あ、敷いちゃったなこれは。
僕はすぐに横に転がって跳ね起きた。だから僕の下敷きになった、パークレンジャー 1 の制服を着たそのひとは…わりあいすぐに上体を起こした。咳込みながら四つん這いになってしまったけれど。
しかしそのまま立ち上がる元気はなかったようだ。四つん這いのまま咳き込みながら吹っ飛んだ帽子を探している。
「う、げほげほっ! あ、危ないじゃないか…」
危ないのはそっちでしょ、背後からいきなり羽交い締めなんて…と思わずツッコミそうになったが、僕は口を噤んだ。この場合、悪いのは僕だから…素直に謝るに限る。
「ごめんなさい、あの、大丈夫ですか?」
見つけた帽子を拾い上げて、差し出す。だが、その顔を見て思わず僕は呼吸を停めた。
「あ、ああ、有り難う…じゃなくて! 駄目だからね、フェンスの上に座ったりしちゃ! 池に落ちたらどうするの。結構深いんだよ、ここ」
立ち上がると、僕よりも背が高い。でもその面差しと、ちょっと伏せがちな眸と、相変わらず柔らかそうな髪。
――――――シンジ君?
左胸のネームプレートを見ても、一瞬確信が持てなかった。
明らかに僕よりも歳上。二十代も半ばくらいだろうか。相変わらず線は細いけど。根っからインドア派に見えてたのに、まさか自然公園のレンジャーなんて。待てよ、ここは国の管轄って聞いてるから、ひょっとして普通に公務員やってたところへ中央の人間関係が面倒臭くなって出向してるとか?
「今までにも時々フェンスに上がってたでしょ? ビジターセンター 1 から見えてたから知ってるんだよ。君、目立つから…」
少々テンプレなお説教をすこし俯き加減に拝聴しながら、僕は混乱した頭の中を懸命に整理していた。
あり得ない事ではない。無限の円環の中で、五年十年のズレはむしろ当然といえるだろう。この数ループほどは、ゼーレ絡みで僕は起こされる日付を調整されていた筈だから…。
加持さんとミサトさんがあんまりにもそのままだったから、僕は今のいままでうっかり失念していた。こういうことだってあり得るのだと。
本当に心配そうなシンジ君。相変わらず人が好いんだから。その顔の位置は、僕よりも高い。自然、すこし姿勢を下げて僕の顔を覗き込むような格好になる。何だか変な感じだな、と笑ってしまいそうになって、慌てて口を引き結ぶ。
それよりも。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、はい、すみません。もうしませんから…あの、これで失礼しますっ!」
頭を下げるふりでシンジ君の傍をすり抜ける。もっと話がしていたいけど…今は駄目だ。
今見失ったら、いつ出会えるか。
淡水池をぐるりと迂回すると、結構な距離がある。それでも僕は走った。
言いたいことなんかない。ただもう一度会いたい。それだけだ。
この美しい世界で、もう一度君に逢いたかった。