篝火は消えない Ⅰ

 海は、血生臭い喧騒けんそうに満ちていた。
 数多の軍船が入り乱れ、波の上には敗者のむくろと砕けた船や武器が散乱する。
 衝角1で横腹を貫かれた船が、浸入した海水の重さにはぜ割れる。その悲鳴にも似た音が波を圧し、憑かれたような鬨の声、櫂と船体の苦鳴を鉦鼓の放つ号令が貫く。
 潮の香は血と鉄と焼け焦げる木材の臭気に打ち消されていた。
 およそ地獄と紛うほどの光景で、その一艘の周りだけ…戦場の匂いとは一線を画していた。同じ戦場にあって、そこだけ常に風が吹いているかのような清爽さがそこにあった。
 その船もまた、次の獲物へむけて大きく回頭していた。
 両舷から水面を叩く櫂は、その数を思えば奇跡とも思えるような一糸乱れぬ動きで、舳先に立つ者の衣髪をたなびかせるほどに急速な回頭を実現していた。無論、その者が平衡を失うことはない。まるで、大地に立っているのと変わらないほどの平静さであった。
 黒い髪を無造作に背で括った二十歳ばかりの青年である。海戦に慣れたシェノレスの民の軍装は概ね軽装ではあるが、彼も例外ではない。堅実な造りの片手半剣バスタードソードを携え、簡素な胸甲を身につけるほかは盾さえも持たぬ。
 彼の視線が動く先に、また一艘のツァーリ軍船があった。甲板には装甲に身を固めた兵士が密集していたが、その武具を生かし切れぬままに無防備な船腹を敵艦に晒しそうになり、慌てて回頭するところであった。しかし、シェノレスの軍船のほうが圧倒的に機動性に優れていた。
「前へ!!」
 小柄というわけでもないが、周囲を圧するほどの偉丈夫でもない。ただその声はよく通り、それほどの大音声を上げたわけでもないのに、シェノレスの軍船から一斉に鬨の声があがった。
 鉦鼓から放たれた前進の号令とともにシェノレスの船は速力を上げ、凄まじい勢いでその衝角をツァーリの軍船の横腹に叩き込んだ。
 全長からいえばシェノレスの船はやや小型とはいえ、強靱な衝角を相応の速力で突き込めばツァーリ艦とてひとたまりもない。突っ込んだ方にも相応の衝撃はくるが、黒髪の青年は微動だにしない。薄い笑みすら浮かべている。
 十分な損害を与えたとみるや、青年は手にした剣を後方へ振る。
 それは後退の指示へ連動し、船は全速で後退した。相応の推力が必要なはずであるが、シェノレスの船の動きは早かった。
 混乱しつつも白兵戦へ持ち込もうとしていたツァーリ兵を寄せ付けぬまま、ついに衝角が船腹から引き抜かれた。ツァーリの軍船にあいた穴に大量の海水が浸入し、あっという間に船体が傾く。
 すかさず数本の火矢が打ち込まれる。油を入れた小袋が一緒に射こまれるものだから、容易には消えない。
「・・・レオン、もう少しさがれ。矢の標的まとになるようなものだぞ」
 右舷、少し下がった位置で長弓に矢をつがえていた青年が、弓を下ろして穏やかに諌めた。蝕の月を思わせるような緋色の髪は、レオンよりもややきっちりと括られている。
 こちらは、軍装の下は略式とはいえ神官衣である。位階はつまびらかでないが、「海神の御子」レオンを補佐する、神官府に属する者が纏う衣であった。
 最初の火矢を打ち込んだのは彼であった。最初の一矢で敵船の指揮官の足下に炎を射込み、第二射でその指揮官を射倒し、第三射は鼓手を斃した。おそろしく無駄のない動作であった。
 神殿の奥に佇立する神像のような整った顔立ちで、冷静というより冷徹な印象を与える。だがその口調は、補佐する対象への忠告というより無鉄砲な友人を案じる者のそれに近かった。
「わかってるよ、アンリー…よし、もう一隻!」
 レオンが見定めた獲物に向けて、船が再び前進を始める。今度こそ、自ら乗り込むつもりらしい様子を見て取り、アンリーと呼ばれた青年がやれやれといった風に、左舷・・・丁度反対側にいる戦士に声をかけた。
 栗色の髪を短く切り揃えた、これもレオンと同年代と見える青年である。だが、長大な翼付槍コルセークをいとも軽々と手挟み、軽装鎧に包まれた堂々たる体躯は、シェノレス船団の実質的な統括者たるに相応しい威厳を持ち合わせていた。
「ルイ、頼む」
 アンリーが発した言葉は短かったが、ルイはその意図を正確に理解していた。
「全く・・・総大将が真っ先に斬り込むかよ。仕方ねぇな・・・」
 翼付槍コルセークいて舳先に立つレオンへ近づく。言って諾くものでない以上、行動で止めるしかないのはいつものこと。・・・そんな軽さがあった。
「おい、レオン・・・」
 いつもの光景。それを視界にいれたことで、一応の安堵を覚えてアンリーも次の矢をつがえる。・・・その時、嫌な音がした。
 アンリーの弓弦が前触れもなく切れ、跳ねた弦が彼の額を撃った。衝撃は大きくなかったが、額が切れて流れた血が彼の視界をわずかに遮る。
 即座に拭ったが、何より急速に広がっていく黒雲の如き何かに突き動かされ、アンリーが狭められた視界をレオンとルイのほうへ向ける。
 ――――――叫んだ。
「伏せろ!」
 アンリーの声とほぼ同時であったろう。レオンの右肩に短い矢が突き立った。
 レオンの身体が大きく傾く。
 ルイが腕を伸ばすが、一瞬及ばない。
 水音は、殺到する敵船の櫂の音にかき消された。

***

 ツァーリがシェノレスに侵攻し、王族を根絶やしにして属領となしたのは、百六十年以上前のことである。
 大陸の要衝とはいえ小国に過ぎなかったツァーリが、電光のごとく周辺四国を制して一躍大国にのし上がったその戦いの時代は、後に「大侵攻」と呼ばれた。西のシルメナ、東のリーン、いずれもあっという間に制圧され朝貢国として細々と命脈を保った。そんな中で、最後まで激烈に抵抗したのが南のシェノレスである。
 結果として王族は女子供にいたるまで鏖殺、神官府は国王の輔弼機関としての権限を奪われた。職能集団としての神官府は存続を許されたが、リーンやシルメナよりもはるかに重い朝貢義務を負わされることとなる。
 しかし2年前、その神官府を統括する大神官・リュドヴィックが、一人の青年を「海神の御子」として押し立て、挙兵した。
 総督府を襲撃、当時の総督を梟首して駐留軍を追い払うと、シェノレスの島々に点在していたツァーリの拠点を次々と潰し、船団を駆って北上したのである。
 総督府襲撃の鮮やかな手際といい、速やかな船団編成といい、明らかに相応の年数をかけて準備された挙兵であった。
 シェノレス群島からツァーリ南岸までのいくつかの要衝を丁寧に叩き潰しながら、
イェルタ湾を形作る半島の突端にあるカザル砦を占拠したのが一年前である。
 この一年…海で、カザル砦の周辺で、数度の衝突があった。シェノレスがカザルを中心に半島の南半分を占領し北上のための橋頭堡として着々と兵站を整える一方、ツァーリとしてもそれを押し戻すべく躍起になってはいたのである。
 シェノレスが陸戦のための準備を調えてしまえば、半島基部から国都ナステューカは指呼の間。津波の如きシェノレスの勢いを殺ぐためにツァーリが画策したのが、この合戦における「海神の御子」レオンの捕縛である。
「…うわ、ほんとに当たったよ」
 軍船が群れる海域をすこし離れた岩礁。ツァーリの正規軍とは軍装の異なる二つの人影があった。そのうち、やや小柄なほうが呟いた。
「当たるさ」
 もうひとりは腕組みしたまま、こともなげにそう応えてはるか先の戦場を見つめたまま動かない。
「必ず当たる。・・・そして、此処へ来る」
「あんなに寄ってたかってつつきまわされてますけど?つかまる前に串刺しになっちまいそうな気がするんですが」
「『海神の御子』ってのがウソか本当か知らないが、あの神官府が旗印に押し立てるつもりで育てたんなら、それなりの教育は受けてるだろ。・・・たとえば、乱戦の中で船から落ちた時どうするか」
「どうにかなるもんですか、隊長?」
「待ってりゃ判る」
 総大将を失ったシェノレス軍が、撤退を始めている。算を乱して潰走、というていではないようだが・・・
 隊長と呼ばれたほうが、不意に腕組みをといて岩礁を一歩降りる。岩礁を叩く波音とは明らかに違う音を捉えたからだった。
 よく焼けた腕が、波の下から岩角を掴む。血の色を纏わらせてはいたが、力を十分に残していた。
「・・・ディル!」
 ディルと呼ばれた小柄な青年が、クロスボウを構える。隊長は一動作で岩角の前まで飛び降りると、その人物が上半身を現した瞬間、その頚部に長剣を擬した。
「・・・シェノレス軍の総大将、レオン殿とお見受けする」
「・・・・!」
 顔を上げる暇もあらばこそ。彼の腰にはいまだ抜かれぬ短剣もあったが、抜く機会は失われていた。無造作に括られた黒髪から海水が滴り落ち、その表情は隊長からは見えない。
「俺はツァーリ衛兵隊第三隊隊長、エルンスト。シェノレスのレオン、不本意だろうがご同道願う。おとなしく従ってもらえれば、殺しはしない。・・・できるなら生きたままで、というのが上層部うえの希望なんでな」
 青年が奥歯をかみ締める音が、ディルには聞こえた気がした。・・・無理もなかろう。
「まずは上がられよ」
 言われるままにゆっくりと水から上がり、岩礁に片足をかける。ディルはその動きをすこし離れた場所から凝視し、装填済みの弩で狙いをつけていた。
 ――――――一瞬。
 青年がいまだ海中にあった片足で力の限り水を蹴上げ、エルンストの顔へはねかける。その動きのままに板発条いたばねが返るように身を翻した・・・海へ。
「隊長!!」
 ディルが構えていた弩を投げ出して駆け寄ろうとする。だが、海へ帰ることは叶わなかった。エルンストが目を閉じたまま横薙ぎに彼の胴を払ったのだ。真剣なら完璧に胴を両断されていた踏み込みだったが、振るったのは左手の鞘であった。青年の身体が凄まじい勢いで岩礁に叩きつけられる。
 撥ねられた水を切り裂いても減衰しない剣勢をまともに喰らえば、たとえ革鞘であろうが無事に済むわけがない。
 飛散した水が再び海面を打った時、黒髪の青年は微かな苦鳴とともに動かなくなった。
 ディルは用心深く青年に近づき、意識を失っていることを確かめて小さく吐息した。
「相変わらず莫迦力の上にケモノみたいな勘ですね。どうやったら目ぇつむったまんまでここまでできるんです。あー、こりゃ肋骨あばらいってる。敵方とはいえちょっと同情するな」
 エルンストは濡れた顔を無造作に袖で拭って目を開くと、居心地悪そうに唇を歪めた。
「人聞きの悪いことを言うな。下手に手加減なんかしてたら殺られてたのは俺だぞ。こいつ、あの状況で短剣を投げてきやがったんだ。海神の子かどうかは知らんが、やっぱり只者じゃないな」
 水飛沫の中、閉眼のままそれを感知して長剣で防御できるあんただって、十分人間離れしてますよ…と言いかけたが、ディルは自分の仕事を優先させた。背嚢から油紙に包まれた玉を、胴火から火縄を引っ張り出すと、玉から出ている導火線へ着火する。
 火の点いた玉を岩礁の天辺てっぺんへ放り出すと、猛烈な勢いで煙を吐き出した。
「変わりますかね?流れが」
 風にたなびく狼煙の帯を見上げながら、ディルがつぶやいた。
「さてね、俺にはわからんよ」
「敵の総大将を捕えたのに?」
「わかるもんか」
 エルンストの表情は苦々しい。とても、押しまくられている味方に起死回生の朗報をもたらした者のそれには見えなかった。
「どうにも、イヤな感じがする。俺は最悪の事態を避けようとして、最悪の選択をしてるんじゃないかって…」
 ディルは不得要領といった顔で首を傾げたが、諦めたように視線を天へ放りあげた。
「ま、考えても仕方ないですよ。とりあえずお高い上層部の鼻を明かしてやったわけだし、ここは素直に喜びませんか?」
 捕縛の報が届いたとみえ、味方の陣から足の速い小舟が来るのを眺めやりながら、エルンストは大きく息を吐いた。そうだ、考えても仕方がない。
 「海神の御子」レオンを捕えたのは確かに自分だが、彼の身柄がどうなるかはエルンストの関与できる領域を越えていた。…国同士の駆け引きなぞ、所詮は衛兵隊第三隊の容喙できる話ではないのだ。…ならば、自分は自分にできることをするしかないではないか。伏したままの「海神の御子」を見ながら、エルンストは呟いた。
「お前に怨みはないがな。…俺たちも生き残らにゃならん。悪く思うな」

***

『今度の出撃・・・戦闘になれば、間違いなくおまえは狙われる。暗殺に近いやり方で狙われる危険さえ、考慮すべきかも知れない』
 アンリーの言葉は、いつもと変わらず冷静で、容赦なかった。
『私たちはカザル砦を手にした。兵站は整備できたし、切り札を切る準備も仕上がっている。ツァーリはもう、後がない。なんとしてでも押し返そうとするだろう。しかし、海戦でまともに私たちとやり合ったところでよい結果にならないことは、幾ら何でもそろそろ理解している頃だ』
『海戦で重装兵繰り出したって、海の藻屑になるってのにな。こりん奴らだよ』
 ルイのいれる茶々にも、アンリーは笑わなかった。
『だから、やり方を変えてくる。もしくは、変えるべきだと考える者が出てくるだろう。それが、ツァーリ軍の総意でなかったとしても。イェルタの海岸線に布陣する連中の中に、現状を正しく察知したものが一人でも居たら・・・そう結論するだろう』
『・・・俺を斃す、か・・・偉くなったもんだよなぁ。俺、なんにもできないけど』
 笑った。・・・自嘲でもなんでもない。そのままだから。
『莫ー迦。おまえはそれでいいの。力仕事は俺で、面倒ごとはアンリーに任しとけ』
 ルイが笑ってレオンの黒髪をかき回す。半端でない膂力だから、悪ふざけでも結構痛い。
『そうは言ったってさぁ・・・』
『レオン、海神の御子。・・・海神の加護を約し、あかしする存在。おまえの存在そのものが、シェノレスには必要だ。だから・・・狙われていると分かっていても、おまえを陣頭から下げるわけに行かない』
 アンリーの声の調子は変わらないが、顔はわずかに蒼い。それは、アンリー自身が口にしていることをどう受け止めているかを如実に語っていた。
『いいよ、アンリー。俺は大丈夫だから。みんなもいるし』
『・・・まっとうなやり方で来るとは限らない。今この瞬間にも、暗殺者を送り込んでいる可能性も絶無ではない。あるいは、捕縛を目的としているのかも。おまえの、海神の御子としての名を貶めることが目的ならば、尚更』
 さすがに、鼻白む。
『・・・今更、陣頭に立つこと自体そんなに怖くないよ。でも、とりあえず俺にできることって?』
 アンリーは言葉を切った。言うのを躊躇うようにも、考えているようにも見えた。
『死ぬな。・・・何があっても、どんなことになったとしても、私たちはおまえを助け出す。・・・信じて待て』
『アンリーの約束には千鈞の重みがあるな。・・・わかった、がんばってみるよ』
『こら、俺もだぞ。わすれんじゃねえ』
『ルイがいうといまいち重みが・・・』
やかましい!』

***

 そんな緊張感を欠いたやりとりを、一種の懐かしさをもって思い出していた。
 レオンは、口の中に残る潮とも血とも知れない味にむせ返り、咳き込んだとたんに脇腹の痛みで目を覚ました。
 その痛みで海に落ちてからのことを思い出し、それから現在の状況に気がつく。
 暗い、石造りの床。熱を持っている矢傷にはひんやりとした空気が心地良くはあるが、湿気が高いのであまり快適とは言い難い。三方が石壁、残る一方は鉄格子で塞がれ、面した廊下はやはり暗い。しかし、視界には入らないが近くに灯火があるらしく、薄ぼんやりと様子がわかる。
 辺りに人間の気配はない。
 身を起こし、右肩の傷を確かめる。咄嗟のことで均衡バランスを崩されて転落したが、決して深くはない。既に血は止まって乾きかけている。
 一連の出来事を反芻する。乱戦の中、船から落ちたら一旦戦線を離脱し、態勢を立て直す。その判断に誤りは無かったはずだ。この場合、深く潜るというのが一番妥当だった。アンリーもそれがわかっていたから、ただ、シェノレス軍が浮き足だって潰走するようなことにならないために尽力したはず。
 なのに、おれのこの無様な恰好はなんだ。
 自慢ではないが、自分が水の中で方向を見失うなどということはあり得ない。すべては、安全圏と踏んだ岩礁に小規模ながら兵力が伏せられていたことが間違いの元だった。位置としては戦線よりもシェノレス側からすれば後方、ツァーリ側からすればわずかに敵陣へ突っ込んだ場所であった筈。だから、大きな兵力が伏せられなかった。視認できたのは二人だったが、いたとしても小隊規模であったに違いない。水から上がる前によく周囲を確認していれば、こんな無様なことにはならなかったのだ。
 予測されていた、というより、謀られたという線が濃い。討ち取れたら幸い、もし海へ落ちた場合の行動が読まれていたとしたら、合点がいく。果実をとるために広げた網の中に自分から転がり込んだわけだ。
「莫迦か、おれは…」
 拍動痛をもたらす肩の傷を悔し紛れに抑えつけ、唸る。
 まさに、アンリーが憂えたとおりのことが起きたのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。殺されなかった、ということは、使い途があってのことだろう。
 使い途。交渉の道具以外にはありえないが。…だとしたら、かならずこの石牢から出される時があるはずだ。
 絶対に、生き延びる。そして、シェノレスへ帰る!
 冷たい石壁に背を預けて呼吸を整える。機会はあるはずだ。その時のために今は力をためる…。

  1. 衝角…軍船の船首水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装。