南海の風神 Ⅰ

 停戦発効のためサーレスク大公領へ進軍したレオン達は、二十名に満たぬと見える部下だけを連れて薄明の丘陵に休戦旗を立てていた人物と邂逅する。
 紫瞳黒髪の青年は、かの王太子と同年ほどと見えた。
「ツァーリ宰相代行、リオライ=ヴォリス。
 王太子アリエル殿下の遺詔、その執行者として…シェノレスとツァーリの和議発効につき、シェノレスのレオン殿に会見を申し入れる」
 遺詔、という言葉にレオンが静かに蒼ざめる一方で、すぐ近くで馬を立てていたアンリーの上体がぐらりと傾いだかに見え、ルイが咄嗟に馬を寄せる。だが、アンリーはすぐに鞍の前輪に手をかけて立てなおした。
「…見るがいい、ルイ。あれが…ヴォリスの後裔、ツァーリ宰相の嗣子、北方の民サマンが“雪女神シアルナの猛き守護獣”と称え畏れる傑物だ。
 …やはり、生きていたな…」
 低く、唸るようなアンリーの声に…ルイは一瞬、背に氷塊が滑り落ちるような感覚を味わう。だが、それ以上を詮索するような時間ときでも場所でもなかった。
 やはり、生きていた。
 その言葉にはいくつかの含みがある。生きているはずがない事実を、アンリーが知っているということ。そして、あるいは生きているかも知れないという予測ないし予感。…つまりは。

 ――――――殺したはずだった。だが、殺し損ねた。

 アンリーが大神官リュドヴィックの耳目であり、手足たることをルイは知っている。戦の障害となるであろう者を、大神官が排除しようとしたとしても不思議はなかった。そして、実際に手を下すことになったのがアンリーだったとしても、ルイにとっては驚くには値しない。
 ただ、今までアンリーがそれに何らかの感情を示したことはなかったと思う。
 アンリーはそもそも感情の起伏が少ない。子供の頃からそうだった。海神に『奉献』され姿を消した後、開戦直前になってルイとレオンの前に姿を現した頃にはそれが更に顕著になっていた。
 常に冷静で、容赦ない。それが他者との軋轢を生んでもまったく頓着しない。全てはシェノレスの悲願成就のため。
 だが、王太子の遺詔執行者として現れた青年を見たアンリーは、明らかに動揺していた。
 カザルで、風の中にあり得ない血の臭いを嗅ぎ、蒼褪あおざめよろめいた時のように…。

 ――――政治向きのことはほぼアンリーの管轄と認識していたから、ルイはあまりツァーリの内情について詮索したことはない。ただ“雪女神シアルナの猛き守護獣”リオライ=ラフェルト・・・・・の噂は聞いていた。
 ツァーリ宰相の嗣子でありながらノーア大公の猶子であり、銀姫将軍シアラ・センティアーナルフィリアス麾下の優秀な武人。その戦場はこれまで概ねギルセンティアから北であったから、直接にまみえるのは今日が初めてだ。ツァーリ宰相の嗣子という立場からすればとっくにシェノレスとの戦の陣頭に立っていてもおかしくはなかった男だが、今までそんな話を聞いたことはない。
 それが何故なのか、ルイは知らない。
 ただ…海の上にいる以上は負ける気はしなかったが、陸戦となると相当に厄介な相手であろうとは踏んでいた。だからこそ、シェノレス軍はカザルを制圧してから陸戦部隊たる騎馬隊の編成までには相応の時間と手間をかけたのだ。
 “雪女神の猛き守護獣”と称え畏れられた男はただ出て来なかったのではなく、実は今まで出て来られなかったのではないか。そうなった事情に、間違いなくアンリーは関わったのだ。
 その出来事は、この冷徹な大神官の代理者、海神に身を捧げ全ての感情を海神宮に置き忘れてきたかのようなかつての幼馴染みに、小さからぬ楔を打ち込んでいたに違いない。
 津波がカザルの足下を洗い、対岸のツァーリ陣営を壊滅に追い込んでいた頃、アンリーは一度熱を発して倒れている。水が退き、出陣の準備をする間には回復してこの進軍にも同道したが、ルイには到底本復したようには見えなかった。
 休んでいろと喉元まで出掛かったが、そうもいかない事情と本人にまったくその気がないことから結局止め損ねた。戦が終わればいくらでも休ませてやれる。あともう少しだ。そう思って、制止の言葉を呑み込んだのだ。

 だが今、ルイはそれを後悔していた。

***

 これが「海神の御子」として祀りあげられた男か。
 リオライは進み出た黒髪の青年を見た。
 陽焼けした黒髪を無造作に後ろで括っている。堂々たる偉丈夫というわけでもなければ、一見して神懸がかったふうもなく、際立った美貌でもない。むしろやや人好きのする童顔といえるが、褐色に灼けた顔のなかで深い色彩いろの眼はつよく真っ直ぐにこちらを見る。確かにある種の力を持った眼だ。
 嵐や、先の津波を予言したりと「海神の御子」たる所以の不思議も為すらしいが、何よりその場にいる者を高揚させ、一つにまとめ上げる力がある。リオライはそう直感した。
 この和議が成立すれば、シェノレスに主権が戻る。シェノレスの王統は断絶しているから、遠からずこの男が王として推戴されるだろう。戦で常に先陣にあったという男が王宮の最奥に祀りあげられるとは不憫なことだが、おそらく彼らに他の選択肢は無い。
 すぐ傍に控えている二人。その内の一人は、間違いなくシェノレス軍の統括者ルイ=シェランシアだ。名実ともにシェノレス海軍の屋台骨、船戦ふないくさの巧者と定評がある。
 そして、もうひとりは神官。位階はつまびらかでないが、あれがおそらく大神官リュドヴィック直属だ。あの緋の髪からすると、あるいは大神官の血縁者かもしれぬ。
 大神官家には時々「血の緋色」の髪を持つ者が出ると聞いた。ツァーリに嫁した大神官の妹・アリエルの生母たるアニエスも、王都に残された肖像画を見る限り見事な緋色だったらしい。
 大神官の指示だったかどうかはさておき、開戦直前にアリエルをナステューカから脱出させようと試みたのはこの人物ではないか。

 そして、あの日…ギルセンティアにいたのも。 

***

 2年前だ。リオライは国王を説得する材料を得るために天嶮ギルセンティアを越えてノーアへ向かっていた。
 ギルセンティアを越えるには危険を伴う時期ではあったが、そんなことは百も承知であった。その際にリオライの部下に混じって随行したのがマティアスである。本来アリエルの近侍衛士で、サレン館に残ることを許された数少ないシェノレスの人間であった。
 サレン館に配された者のほとんどが宰相の息が掛かっており、言ってみればアリエルは館の中でさえ監視されていた。
 シェノレス出身の近侍からすれば、宰相の嗣子たるリオライは友人面をしてあるじを監視する宰相の差し金でしかなかったことぐらい、リオライにもよく解っていた。リオライがサレン館を訪れる度に、マティアスに名状し難い視線を向けられて…有り体に言えば以前から辟易していたからである。
 そのマティアスがノーアへの随行を希望したのは、本人の言を借りればアリエルの窮状を打破するために北へ赴くというリオライを見定める・・・・ためだった。

 つまるところ信用されていないという訳だが、実のところリオライはアリエル以外の誰から不信を買おうが、まったく頓着していなかった。そもそも軟禁されたあるじを置いて近侍衛士が出歩くなど言語道断な筈だが、それを指摘する気にもなれなかったのだ。
 だが、生真面目な近侍衛士の行動に別の意図があるなら確かめねばなるまい。
 リオライの随行となると、ナステューカからの脱出が容易になる。見定めるというのが口実で、あるいはそれが狙いかとも思った。アリエルはいまのところ軟禁で済んでいるが、場合によってはこのまま謀殺される可能性もあると考え、国元シェノレスへ助けを求めるために王都からの脱出を図る…というなら、リオライとしては噴飯ものだが筋は通る。
 リオライが見たところ、現王カスファーはシェノレスとの戦が起きてしまった後も、アリエルを王太子としての公的な立場からは遠ざけはしたが害そうとまでは考えていない。そこへ持ってきて、近侍衛士に内通と解されかねない行動に出られては、却ってアリエルの身が危うくなる。リオライとしては監視する意味もあったのである。
 しかし、マティアスの理由は他にあった。
 そのことがわかったのは、ギルセンティアを縦断する街道に入ってからのことであった。

 ギルセンティアは天嶮といわれながら、場合によっては軍を進めることも出来る道が整備されている。ただ、悪い時期に強行すれば遭難もありうる難所ではあった。まさにその悪い時期を承知で踏み込んだのだから、相応の用心はしていたつもりだった。だが、王都ナステューカを出てギルセンティアにさしかかっても余裕のない表情でひたすらに随行ついてくるマティアスを見ていると、どうにも一度話を聞いておかねばならないと思い、リオライは小休止の間に思い切って問うてみることにした。
 街道から少し離れた見晴らしの良い雪渓。直属の部下達の前ではしにくい話である可能性を考え、リオライはマティアス一人を連れてそこへ移動したのだった。だが、その途中からマティアスの顔色がみるみる変わっていった。微かな怯えすら見せて雪渓を見廻し、すぐに街道に戻るよう言い募った。
 不審に思って周囲を見廻したリオライが雪渓の上に人影を認めたのと、マティアスが叫ぶのとがほぼ同時だった。
「待ってくれネレイア!…この御仁を討ってはならない!」
 両手を広げてその人影とリオライの間に立ったマティアスの背に、長弓ロングボウの箭が突き刺さる。鏃は突き抜けた。人影からの距離とすれば、恐るべき弓勢だ。鏃から緋色の雫を滴らせながら、それでもマティアスは倒れず、リオライの姿勢を下げさせて蔽い被さった。
「海神宮はアリエル様を見棄て給うのか!?…アニエス様の御子ぞ…!」
 天へ向かって直訴するかのようなマティアスの叫びは、血泡に遮られて叫びにならなかった。
「マティアス!」
 リオライはマティアスを岩陰へ庇おうとしたが、そこへ移動するまでに第2射が来ると警戒してかマティアスは頑として動かなかった。血をまとわりつかせた口許に鬼気迫る笑いを浮かべて言い放つ。
「…貴様を庇ったのではないぞ、ヴォリスの裔よ。このまま戦を続ければ、あの方は…見せしめとして殺される。にえだ。それが昔からのツァーリ…ヴォリスのやりかた…。だが神官府はあの方を見殺しにするつもりだ」
 二本目の箭がマティアスの身体を貫く。だが、マティアスは倒れなかった。射殺できないとなれば直接的手段に出る。それが狙いだろう。だが、保つわけがない…
「…命に代えても戦を終わらせろ。貴様にはそれが出来るのだろう」
 膂力で人後に落ちるとは思っていなかったが、リオライは手負いのマティアスの腕を払いのけることが出来なかった。
 その間にも、雪渓の人影は次の箭を番えている。雪風に、緋色が散った。布で包んでいたと思しき射手の頭髪が、風にほどけたのだ。
 風に舞う、血の緋色。
 マティアスはネレイアと呼んだ。波の下の者ネレイア。古くは海神の眷属を意味した。…転じて、海神に献じられた人身御供を指すという。…やはり、神官府の細作!
「やめろ!」
 マティアスと、射手と、どちらに向かって叫んだのかリオライにもわからなかった。だがリオライの叫びと、弓弦ゆんづるの音は同時だった。
 箭は奇妙な音を立てて飛び、明後日あさっての方向へ飛んだ。直後、破裂音。
 リオライは慄然とした。
 雪壁で火薬を破裂させる。その狙いに気付いたのだ。
 雪崩だ。雪煙が怒濤となって頭上から叩きつける。その時マティアスの腕が力を失い、リオライがマティアスを引き摺って岩壁に身を寄せようとしたとき、白い奔流がリオライを呑み込んだ。
 ――――憶えているのは、そこまでだ。
 雪渓を滑り落ちた大量の雪に押し流され、かなり下まで滑落したらしい。だが、幸いなことにリオライは押し潰されることなく比較的浅い場所に埋まり、窒息を免れたところをエルウに発見された。だが傷を負い、記憶を失い、2年間を無為に費やすことになってしまったのである。
 結果的に、神官府の目的は成就されたと言っていい。
 マティアスは助からなかった。
 神官府の細作が近くにいることは察していたのだろう。そして、三国同盟の存在に気付き、それを暴くべく動いていたリオライの暗殺に動くことをマティアスは予見していた。そしてそれを阻止することが、アリエルを護ることになると信じて行動した。
 シェノレスの国益を措いてでも。

 結論から言えば、マティアスの憂慮は杞憂と呼ぶべきものであったろう。神官府の意図を看破していたところまでは確かに正鵠を射ていたのだが、カスファー王にかつての王弟ヴォリスほどの冷徹さはなく、アリエルはシェノレスがカザルを橋頭堡にして長期戦の構えをとってからも殺されることはなかったのだ。
『貴様を庇ったのではないぞ、ヴォリスの裔よ』
『…戦を終わらせろ。貴様にはそれが出来るのだろう』
 宰相家のもといとなった王弟ヴォリスは、かつてノーアを不平等な盟約のもとに予備兵力として組み入れ、短時日の間に武力と詐術と謀略を以てリーン、シルメナ、シェノレスの三国を制圧した。「ヴォリス」の名は今でも…殊にシェノレスでは怨嗟の対象と聞いた。それでもマティアスは…その身を挺してリオライを護らねばならなかったのだ。
 マティアスはシェノレスの民である前に、アリエルの近侍衛士たることを択んだ。つまりはそういうことだ。
 その最期の言葉を思い出すにつけ、リオライは暗澹とする。戦を終わらせることはできたが、アリエルを護ることはできなかったのだから。
 マティアスの血を吐くような負託に、リオライは応えられなかったのだ。
 そのマティアスをも、緋の髪の使者は容赦なく射た。彼には彼の覚悟があっただろう。憎むのは筋が違う。

 大侵攻の時代、最後まで激烈に抗ったシェノレスの神官がいた。緋の風神アレンと呼ばれ、エルセーニュ陥落後も同志と共に孤島に立て籠もって徹底抗戦の構えを見せた。人質を取られて最終的には投降したものの、審問に立ち会った王弟ヴォリス殺害を企図して処刑されたといわれる。

 ――――――あるいは彼もまたその裔かも知れぬ。