南海の風神 Ⅴ

 宿下がりしていたアニエスが薬石効なく病没した頃から、アンリーが街へ降りてくる回数が減ってきた。
 神官府内でもアニエスの逝去をきっかけにまた反ツァーリ感情が高まり、衛視寮1の神官を中心にかなりざわついているといった意味のことをアンリーが呟いていたのは、ルイもレオンも知っていた。アンリーは一時期そういう雰囲気に耐えかねて頻々と神官府から出てきていたのだが、どうやら今度は逃げも効かないらしい。
 ようやく出てきたと思ったら、ひどく沈み込んで顔色もよくないときたものである。
 だからまた数日、アンリーと会えない日が続いた後…とりあえず、神官府の方へ行ってみようというルイの提案に、レオンは即座に賛成した。
 ルイとレオンは連れ立って神官府に赴いた。
 かつての国都エルセーニュ。南面する入り江に守られたよい港、その北の平地に市街地が広がる。神官府はそのエルセーニュの北東に位置する丘陵の上にあった。
 碧空にそそり立つ白亜の神殿群は壮麗だ。エルセーニュ北東から東側の丘陵には神殿やそれに付随する建造物が建ち並び、その端は断崖絶壁、そして海に接する。
 神官府の東端…海に接するひときわ大きな神殿が本殿だ。その背後は切り立った崖、その下は波が逆巻いている。近くに島影もないのにそこはおそろしく潮流が激しい。エルセーニュの東が不可侵領域とされるのは神域だからというだけではない。実直に、危険なのだ。海神の恩威と峻厳を示すかのように、良港と難所が隣り合っているのだった。
 シェノレスの王統は「大侵攻」の際に根絶やしとされ、その城は完膚なきまでに焼き砕かれた。今は草木生い茂る廃墟となっている。しかし神官府は降伏し存続を許されたため、その壮麗な神殿は焼かれることはなかった。
 それは、神官府が祭祀にあたる者というより職能集団としての色彩が強かった所為もある。祭祀は当然の役割として、神官府は医術や土木・建築・航海術など、生活に即した技術者の養成機関としての役割を担ってもいた。そういった技術は巷間で世襲もされているが、より高度な技術については神官府各寮がその集積・研鑽・継承に当たっていたのである。占領された後、無血開城した筈の神官府で神官が大量に捕縛された事件はあったにしろ、ツァーリはその仕組みにまで手を付けることはしなかったのだ。
 例外が衛視寮である。本来は国王府の兵と共働し、国土全体の警備・防衛の任に当たる部署であった衛視寮は徹底的に解体・形骸化され、現在は神官府内の警備として配されるのみであった。その上、衛視寮の神官が武器を携行して市街に降りることは原則として禁じられている。
 街中でおおっぴらに武器を携行出来るのは、ツァーリから派遣される総督の麾下、総督府の兵士だけであった。
 だから、ルイとレオンが石で舗装された階段を半ば程まで昇った時にすれ違った…神官衣を纏ったその人物が、その帯に剣を吊ったままであることに気付いたルイは一瞬ぎょっとした。
 思わず立ち止まり、振り返る。ルイが何に驚いたかを察知できなかったレオンが不思議そうにルイを見た。
 ルイの見間違いではない。あれは剣だ。
 帯剣しているのは衛視寮の神官と相場は決まっているが、衛視寮の神官でなくても帯剣したまま市街へ入って、ツァーリ兵に見つかりでもしたら一悶着は避けられない。よくて没収、悪ければ没収ついでに暴行を受ける。さらに運が悪ければ殺されかねない。更にその最悪の事態に陥ったとしても、文句も言えないのだ。
 まさかと思うが帯剣していることを忘れているのか。大人相手に大きなお世話とは思うが、気付いてしまった以上声をかけるべきだろうか。そう考えたとき、その神官はふいと道を逸れて草の中の道とも言えぬ道へ足を踏み入れた。行ってみたことはないが、そういえばこのあたりから神殿の海側へ抜ける道があった筈だ。やっぱり大きなお世話だったか。ルイは頭を掻いた。
 頭髪を紅い布で包み、長身で、整った顔立ちの神官だった。
 すれ違っただけの相手にどうしてこれほど気を取られたものか、少し考えてルイは思い至る。そう、アンリーに似ていた。
 大神官の係累なら、衛視寮ではなく神官府本殿に籍を置いていそうなものだが…。
「どうしたんだ、ルイ?」
 硬直してしまったルイを不審に思ってか、レオンが声をかけた。それで、我に返る。
「ああ、大したことじゃない。行こうか…」
 そう言って歩き始めようとしたルイは、視線を戻しかけてもう一度動きを止めてしまうことになる。
 先程の神官が、ふと立ち止まってこちらを見上げていたのだ。ルイと、レオンと、どちらを見ていたのかは判らない。あるいは両方であったか。
 ごくわずかな時間だった。神官はすいと視線を逸らして草深い間道を進み、灌木の間にその姿を消してしまう。だがルイは無性に腹立たしくなって、翻した視線の先、本殿のシルエットを睨みつけた。
 何なんだ、一体。
 何か、自分の知らないところで品定めをされたような心地悪さがあったのだ。アンリーの様子がおかしいことといい、本殿は何かろくでもないことを企んでいるのではないかと勘繰ってしまう。自身も神官のくせに本殿に懐疑的な姉の影響かも知れないが、ルイはどうにも神官府本殿というところに理由のはっきりしない反撥を覚えていた。
「ルイ?」
「…大丈夫だ。行こう」
 ここで考え込んでも仕方ない。そう思って足を進めた。
 しかし、本殿で会えたのはリシャールだけだった。
 リシャールはすっかりこの国に馴染んだレオンの様子に口許を綻ばせたが、来訪の理由を聞いてその表情を曇らせた。
「…アンリーはいない…。ひょっとして、また禁を冒して海神窟へ行っているのかも知れないな」
「海神窟!?」
 半年前の一件で、ルイとアンリーをはじめとする悪童共は神官府から大目玉をくった。神官府の禁を冒したのだから当たり前なのだが、長老の小言を首を竦めつつ聞いていたルイ達と違い、アンリーはただおとなしく叱言を受けていたというより、超然たる沈黙を守っていたようにしか見えなかった。ただそれが、決して父が大神官であるということの甘えからくるものではないことを、ルイと叱っている長老だけが感じていた。
 アンリーの意識は神官府の禁がどうとかという域を軽く飛び越えてしまっていた。…もっと遠い何かを見ていた。
 アンリーは一体、あの海蝕洞で何を見てしまったのだろうか。
 レオンが生活の中に溶け込む過程では、そんなことなど忘れ去ったように年齢相応な表情さえ垣間見せていたアンリーが、再びあまり出て来なくなったのは…てっきり神殿から出して貰えないからだと思っていた。それが、海神窟とは。
「あれから、時々様子がおかしかったんだが…」
「あれから?」
 海蝕洞での一件のことではない気がしたので、ルイは思わず問い返した。
「…ひょっとして、さっきの衛視寮の神官と何か関係ある?」
 根拠があったわけではない。だが、ルイはリシャールが硬直してしまったことで答えを得てしまった。
「いや、私もよく知らないんだ…。ただ、近々アンリーには役目が降りるかも知れない。多分そのことで、何か思うところがあるのかも。
 ここの所…ずっとなんだ。朝早く出て行って、夕方遅く帰ってくる。何かを探しているのか、いつも帰ってきたときはひどく疲れきっているんだ。…あれでは遠からず、身体を壊してしまうよ」
「何かって…リシャールさんも知らないのか?」
「…海神窟で探すとすれば…いや、分からない。ともかくも、いい加減止めさせないと身体がもたないだろう…」
「…?」
 ルイは暫時リシャールの俯いた顔を見つめていたが、不意に身を翻した。
「ありがと。…それじゃ。行こうぜ、レオン」
「あ、うん」
 つられて、レオンも身を翻す。ルイの視線が気になったのか、それとも自分で思うところがあったのか、リシャールに一瞥を投げて。
 石段を駆け下りながら、レオンが言った。
「…どうする?行ってみようか」
「……」
「ルイ?」
「あ、ああ。うん、行ってみよう。どうせまた落磐でもないかぎり、ばれりゃしないだろ」
「どうしたんだ?」
「…ん…いや、どうも、リシャールさんて苦手だ。時々何考えてるか分かんないや」
 石段を下りきり、船着き場へ向かう道すがら、ルイは栗色の髪を掻き回しながらぼやいた。
「何考えてるかわかんないってのはアンリーで慣れてるつもりだけど、あのひとの場合何か不気味なんだよな」
「…よくわかんないな」
「俺にもわかんないよ」
 あっさりとそう言い、ルイは髪を弄るのを止めた。
「とりあえず、アンリーを探すことを考えよう。おれたちの手伝えることがあるかも知れない」
 程無く船着き場に着いた。桟橋を渡って、船着き場の一隅にその舟はあった。
 打ち棄てられた小舟をもとに、ルイが双胴船カタマランに仕立てたのだ。子供なら三人くらいは乗れるか、という代物だが、指南と材料の提供をした船大工の老爺が手放しで誉め讃えた、たいへんな船であった。
 いい天気である。漁を抜きにして、船で沖へ出るのもこういう日にはいいだろう。そんなことをルイが考えたとき、レオンが何気なく言った。
「…でもルイ、昼から時化しけるよ」
「ばか言うなよ、こんなに天気いいのにさ。何でそんなこと分かるんだ?」
「えーと、何でって言われると困るんだけどさぁ…何となく」
「変だな、お前」
 レオンは頭を掻いた後、あっさりと言った。
「…やっぱりそう思うか?」
「…お前な…。まあいいや、少しここで待ってろ。水と食料を調達してくる。今から出たんじゃ、風の岬に着くまでに昼をまわっちまうからな」
「うん、分かった」
 ルイを見送って、レオンはふと、湾の外を横切る数隻の厳めしい船を見た。
「…漁の舟じゃない…あれは…」

***

「…そりゃ多分、ツァーリ総督府の軍船だろう」
 洋上。櫂を持つルイが少し不機嫌になって言った。
「何で、よその国の軍船が大きな顔して港を突っ切るのさ」
 ルイの櫂を持つ手に、力がこもった。
「…今、このシェノレスがツァーリの支配下にあるからさ」
「え…?」
「爺さんのそのまた爺さんの頃に、ツァーリはたくさんの軍船でこのシェノレスに攻めてきたのさ。爺さんのそのまた爺さん達は必死になって戦ったけど、負けた。王家は根絶やしにされたし、神官府はその力を削られた。今この国を治めているのは、ツァーリからきた総督なのさ」
「…えーっと…」
「細かいことはおれも知らない。…何度か奴らを追っ払うための戦いがあったみたいだけど、皆潰された。…そうしてその度に、奴ら締付けを厳しくしやがる。
 そう言えばアンリーの奴、この辺の話はまだ、本当にざっくりとしかしてないな。まぁ、聞いて面白い話でもないけどさ。…あぁ、おまえ、総督府の兵士に絡まれないように気をつけろよ? 怪我させられても文句言う先がないからな」
 細かいことは知らないと言いながら、ルイはこの歳にしてはこの国の立場に詳しいほうである。レオンは、シェノレスという国が置かれた立場を、理屈よりもこのルイの表情から読み取った。
「…まあ、この際こんなこたぁどうでもいい…んだが、雲行きが怪しいな」
 ふいに、ルイは話をかえた。だがそれはこの際大事なことでもあった。先刻まであんなに天気が良かったのに、俄かに雲が張り出してきたのだ。
「…すごいな、お前。何で分かったんだ!?」
「あ、いや、えーと…だから、何となく。海神窟って、まだ遠いのか?」
「あそこに木の生えた大きな岩が見えるだろ。あそこを回り込んだらもうすぐだ。出来るだけ早く着けるように頑張ってみるけど…お祈りでもしててくれ。出来れば船を寄せられる辺りまで、時化たりしませんようにってな。もし大きいやつだったら…最悪、帆柱が折られる。時にお前、泳げるよな?」
「…嵐の海で泳いだこと無いから何ともいえないなぁ…」
 それほど粒は大きくないが、雨が降り始めた。持つ櫂のないレオンは律儀に祈りの所作をしてから、遠く水平線を見る。風の匂いを嗅ぎ、ルイの示した岩と、来た方を眺め遣る。すこし考えるように首を傾げてから、得心したようにルイを振り仰いだ。
「多分、大丈夫だと思うよ。風が吹き始めるまでには、もう少し間がありそうだ…」
「そいつは有難いな」
 何でわかるんだ、という問いが無益なのは先程のやりとりで十分に理解できたので、ルイはそれ以上突っ込まなかった。
 ――――――海神の加護。そういう言葉が確かに一番妥当なのだろう。
 神官府の御託はルイにとって胡散臭さしか感じないが、レオンの感覚は信頼に足る。

***

 レオンの祈りが効いたのか、風が吹き始める前にルイは舟を小さな入り江につけることができた。
「本当に間に合ったな」
「だから言っただろ?多分、そんなに長いこと吹かないと思うよ。ただ、雨は結構強いかも。それより、とりあえず雨が避けられるとこ、探そうよ」
「そこの洞へ入ろう」
 船から背嚢を引っ張り出し、二人は岩に囲まれた狭い砂浜の奥…岩陰とさえ見える小さな洞穴へ飛び込んだ。
「ここも支洞かな…」
 背嚢を担いだまま、ルイが穴の中をぐるりと見廻す。周囲は夕方のような暗さとなり、雨のあたらない場所まで入ると自分の手許さえ見えにくい。奥の方は全くの闇だった。
 入り口付近では岩肌を滝のような水が流れ落ちている。
 岩や砂を打つ雨の音は耳を聾するばかり。
「なんか凄い音だなー!」
 雨音に負けまいとレオンが声を張り上げる。だがその時、ルイの聴覚は雨とは違う何かの音を捉えていた。
「…何の音…」
 何も見えないと解っていて、思わず天井を振り仰ぐ。その瞬間、地が揺れた。
「しまった…!」
 わずかに明るい洞の入り口を、雨に混じって小石が落ちる。ルイが何が起きているのかに気づいた次の瞬間、轟音とともに滑り落ちてきた巨石が入り口を塞いだ。洞穴の中は闇に閉ざされ、耳を聾する雨音が一瞬にしてかき消える。
 レオンが声にならない悲鳴をあげた。岩を押し退けようと入り口へ駆け寄るレオンを、ルイが間一髪襟首を掴まえて止めた。崩れる岩に巻き込まれたら痛いでは済まない。
「莫迦、今行くな!」
 連鎖的な崩壊音はしない。おそらく上の方にあった大きな岩が雨で緩んで滑り落ちた格好だろう。それにしても、さほど大きな穴ではなかったとはいえ岩ひとつで完全に塞がれてしまっていた。
 音は止まったと判断したルイが手を離す。レオンは一度その場にぺたりと座り込んでしまったが、手探りで崩れた岩を探り出す。岩を押し退けようとして、少し情けない声をあげた。
「だめだ、動かないよ!」
 真の闇の中、天井から滴り落ちる水滴の音だけがしている。ルイはそれを聞きながら、深く吐息した。
「…レオン、そっちじゃない」
「え?」
「多分こっちだ。多分、ここは海神窟に繋がっているんだ」
「…落ちついてるね、ルイは」
「二度目だからな」
 既視感のある光景。たった半年前だ。あのときも、こんなふうにして閉じ込められた。そして、レオンに出会った。
 二人は胚嚢に入れていた角灯カンテラに火を入れ、奥へ向かって歩き出した。少し行った頃、雷のような音がした。…だが、雷にしては長すぎる。また落磐だ。
「この雨で崩れやすくなってるんだ…」
 ここが禁域とされる原因のひとつは、確かにこの崩れやすい地形にある。だが、今度に関して言えば…この岬にいる何かが、自分に用があって、わざと出口を塞いだような気がする。いや、用事があるのはレオンか?
『何が、起こる…?』
「ルイ、何か音がするよ」
「なに?」
「ほら、耳を澄まして…確かに、この奥だ」
 レオンの言葉に、ルイは足を止めて耳を澄ました。
「…何か…」
 擦過音だ。金属と金属の…やすりか何かで、金属を削っている?
「誰かいるのか…アンリーなのか!?」
 闇の彼方へ向けて、ルイがどなった。擦過音が止まる。ややあって、足音と一緒に灯火が岩壁の一面をぼうっと浮かび上がらせた。
 灯火がその姿を現したとき、薄闇に順応したルイ達の目には灯火の主がよく見えなかった。
「…ルイ…?どうしてここが…」
 ややあって目は慣れたが、前にその声で正体が知れた。
 アンリーの姿は酷いものだった。灯火の下ですら、その顔色は病人以外の何者でも無く、手は傷だらけだった。
「アンリー、どうしたってんだ…」
 アンリーは考えるような沈黙を置いて、すっと洞の奥へ灯りを向けた。
「こっちへ。あと少しだから…」
 ルイとレオンはアンリーの後に続いた。洞は少し下りになり、格子扉に行き当たって終わっていた。そこへ至る途中に分岐があり、アンリーはどうもそちらから入ってきたらしい。
 格子はそう密なものではない。だが、太く頑丈で錆び付いていてもびくともしない。
「この…格子は…」
 アンリーが灯火をかざした。思わず、ルイは声を上げそうになる。格子の向こうは一面、緋色の水で満たされていたのだ。
「岩からしみでた水が溜まっているんだ。赤いのはおそらく岩の中の何かが溶け出したんだと思う」
 いつもと変わらぬ、淡々とした口調。
「…アンリー…ここは何だ?この格子は…」
「────150年前の、石牢。ツァーリ大侵攻に際して最後まで抗った〝風神アレン〟が、時の宰相ヴォリスによって幽閉された場所だ」
 ルイはぎょっとした。…だとしたら、ここには。
「何だって、こんな…」
「聞いたんだ。…ここだって。だから、来てみた。本当だった。この向こうにいるんだ。だから、僕は会って訊きたい。何故、アレンはあらゆる犠牲を払ってツァーリに抗ったのか…」
 アンリーは、世辞にも子供らしくはない。暗褐色の眼は、いつも醒めきって物を見ていた。だが今は違う。ルイが見た暗褐色の底には、静かな炎のようなものが揺らめいていた。むしろそれは、灯火を受けた紅榴石ガーネットの色彩にも似ていた。
「そのために…ずっとここに通い詰めてた? ってか、聞いたって、誰に?」
 その問いに、アンリーははっとしたようだった。
「ルイは、覚えてない…か。〝風神アレン〟が、いたんだ。あの日、海蝕洞に。崩れる船から僕らを引っ張り出したんだよ。あの人が、教えてくれたんだ。あの人も、レオンの声が聞こえたって…だから、来たって…」
「ちょっと待てアンリー、何か話、変だぞ…」
 風神アレンと呼ばれた神官が生きていたのは150年前のことだ。たった今、アンリー自身がそう言った。どう考えても話が矛盾している。だが、アンリーは至って静かだった。双眸の底に炎を揺らめかせて、それでも至極冷静に封印された扉に挑み続ける。錆びた扉の鍵…というより封印は存外堅牢で、アンリーの足下にはいくつかの工具が転がっており、扉には新しい傷がいくつもついていたが、とても開きそうにはない。
「…入るのか」
「そうでなければここまで来た意味がないよ」
 ルイは絶句した。言い伝えが本当なら、ここは事実上の、〝風神アレン〟の墓所…!
 〝風神アレン〟。
 その名は今のシェノレスでは英雄とされ、また禁忌にもなっている。シェノレスに最後まで抗った英雄でありながら、神官府からも破門扱いとされ、賊として処刑されたからだ。
 ツァーリの手前、決しておおっぴらに称揚されない英雄。
 アンリーが何を思って言い出したのかは知らない。だが、アンリーがこんなに何かに執着するところなど、見たことがなかった。
 ルイは溜息ひとつついて格子扉に歩み寄り、工具を袋ごと拾い上げた。
「…退いてろアンリー。もうお前、ふらふらじゃないか。俺がやってやるよ。おまえ、こういうのはあんまり得意じゃないだろ」
 そう言って、格子の前へ出ると、工具袋の中からいくつかの道具を選び出す。レオンが身を乗り出した。
「手伝うよ」
「ああ、じゃあ手許照らしといてくれ。…こういうのはな、アンリー。いくら錆び付いてるからって力尽くじゃ開かねえよ。なんで最初っから俺を呼ばねえかな」
 終いには愚痴のような口調になってしまう。アンリーは、微かに笑みを浮かべて言った。
「ありがとう…」
 程なく、軋るような音がした後に発条ばねがはぜて、錠前が扉から滑り落ちた。
「ほらな」
 灯りを掲げ、ルイが格子扉を開いた。灯りの届く範囲全て、一面の緋色。
「何もない…?」
 見渡して、ルイは首を傾げた。少なくとも、灯りの届く範囲には何も無い。紅い水はルイの足首を沈める程度である。工具と足先で水深を測りながら、ゆっくりと進む。レオンが灯りを掲げてそれに続いた。
「うわ!」
 レオンの声と水音に、ルイは神経を尖らせた。
「だ、だいじょうぶ、蹴躓いただけだよ。なにか硬いモノがあって…あ、壇があったんだ」
 水の中に座り込んでしまったレオンは、立ち上がって蹴躓いた辺りを片手で探った。
「何か載ってたのをひっかけちゃった気がしたんだよね…ああこれだ。何だろ、これ」
 紅い水の中から引き上げられたのは、一振りの短剣だった。…見事な黄金造りだ。ルイにはそれ以上のことはわからないから、アンリーに渡す。
「黄金造りの短剣は…第一級の戦士に対する最高葬礼…誰かが、以前ここに来たんだ。…そして、この短剣を被葬者アレンに捧げた…」
 アンリーはその短剣を受け取り、じっと見ていたが、やおら抜き放った。
「…シェノレスの造りじゃない…これは…ツァーリの…」
「何…?」
「間違いない…ツァーリの造りだ。それに、この細工。これだけの黄金を自由にできる種類の人間…」
 レオンは、自分の見つけたものの重大さが飲みこめずに、二人の顔を代わるがわる見ていた。
 アンリーは視線を牢の奥に投じて言った。
「そこだ…!」
 アンリーはもはや足下など寸毫も気に掛けずに奥へと足を向ける。アンリーが手にした角灯が描く光の輪が、岩壁を照らし出す。その下に…!
「…柩…?」
 岩で作られた、蓋のない柩。その中にも紅い水は溜まっている。むしろ、岩から染み出た水が柩の中に溜まり、そこからあふれ出て床を満たしているようだった。
 柩の存在は、風神アレンの死後ここに立ち入った人間の存在を示していた。
 …誰だ。シェノレスの人間ですら知らなかったアレンの幽閉場所を知り、なおかつこんな見事な黄金の短剣を死者のために捧げることのできた人間。そして何よりも、逆賊とされたアレンに第一級の戦士に対する最高葬礼を恐れ気もなくやってのけられる立場の人間…。
 アンリーの歩調はいささかも緩まず、蓋のない柩の側に行くと、怯むことなく灯りをかざした。そして、小さく吐息する。追いついたルイがそれを覗き込んで、思わず立ち竦んだ。
「…うそ…だろ?150年…150年だぞ!?」
 〝緋の風神〟アレンはそこにいた。息絶えたときとおそらくは寸分たがわぬ姿で。
 赤い水の中、緋の風神と言わしめた緋色の髪がたゆたっている。その表情には、苦悶、悔恨の類いはなかったが、安らぎの彩もまたなかった。
 ルイはぞくりとして、目を離した。
 床を満たす赤い水は、アレンが死んだ後程なく溜まったものだろう。そしてそれば、150年の長きに渡ってアレンの姿を生きていたときそのままに留めた。だがルイにはそれが、彼を生かし続けた真正ほんものの血潮のように思えて…改めて寒気を覚えた。
 壁の一隅が、ふとルイの目にとまった。
「…字だ」
 ルイは近寄って、アンリーから貰い受けた灯りを寄せた。
神官文字ヒエラティックだ。おれには読めないよ」
 アンリーに灯りが渡る。アンリーはその代赭色の…おそらくは血で綴られた…文字をなぞるようにして、ゆっくりと読み上げた。

されど 篝火は消えず       
一木燃えつきて その勢揺るがざるなり

西の風砦 久うする能わざる  
いずくんぞ緑砦のみ 滅びざらん… 

 風砦とは風の国、つまり聖風王の国シルメナをいい、緑砦とは、森の中に王城を構えるツァーリを指す。つまりかつて世界を救った聖風王の国すら、その栄華は長いものではなかった。どうしてツァーリだけその繁栄が長続きするだろうか…後半の大意はこうである。
 少年達に、前半と後半の書き手が異なっていることがわかっただろうか。だが、後半があたかも返歌のように書き加えられたものであったことなど、今は何の関係もなかった。
 ルイとレオンはこの意味をその時点で完全に理解することはできなかった。ただその呪文めいた響きを、心に刻まれたのみである。そしてその文字を見つめ、アンリーの訳を口のなかでくり返しているうちに、水音に我に返った。
「アンリー!?」
 アンリーが、壁に縋るようにしてその場に膝をついてしまったのだ。
「どうしたんだよ?」
 抱え起こそうとして、ルイは硬直した。アンリーは限界近くまで歯を食いしばっていた。その眼からは、涙が零れかけている。その手は掌に爪が食い込まんばかりに握り締められていた。
「アンリー、アンリー、一体…」
 彼は答えなかった。ただ歯を食いしばり、肩を震わせながら落涙する。その涙が赤い水面に小さな波紋を描くのを見ながら、ルイは立ちつくすしかなかった。
 アンリーは何かを感じたのだ、ということは分かっていた。だがこのとき、その何かを悟ることまでは、ルイ達にはできなかったのである。

─────この半年後、アンリーは“海神への奉献”という形でルイ達の前から姿を消した。

END AND BEGINNING
  1. 衛視寮…警備にあたる役目の神官組織。