王都暮色深く、雪催 Ⅳ

冬の森、雪催

 サーティスは、居館にエルンストを招いて酒肴を並べたものの、しばらく本題に入ろうとしなかった。
 疑念は当初からエルンストの裡に巣喰っていたが、そこに全く根拠はなかった。しかしサーティスがこの件に関して何かを知っている、というのは…至って漠然としてはいたが、エルンストにしてみれば言わば確信のようなものだったのだ。
 ただ、今のエルンストはこの男の王都ナステューカにおける微妙な立ち位置を知っている。役儀とはいえ…否、役儀だからこそ無遠慮に踏み込むのは憚られた。サーティスも何のかのといってはぐらかしてきたが、ヴォリスの東別邸からの帰りという場面を抑えられたことで、とうとう肚を括ったらしい。

 だから、エルンストは辛抱強く待った。ややあって、空になった杯をもてあそぶ手が停まる。視線を杯に落としたまま、サーティスが重い口を開いた。

「…丁度、お前さんが熱病でぶっ倒れた頃の話だ。マキが、薬草採集に出て怪我人を拾ってきた」
「…それが、ミティア嬢…?」
「名を聞いたとき、よほど助けなければよかったと思ったよ。…まさか、ヴォリス家の人間とはね」
 このときのサーティスの表情は、少なからず毒を含んでいた。
「おまけに、その怪我というのが問題だった」
 左の手首を右手の指先で掻き切る仕草に、息を呑むエルンスト。
「手首を切っていた。明らかな自殺未遂だ。館のなかでやると家人に見つかると思ったんだろう。それでわざわざ森へ入って実行に移した訳だ」
 エルンストは蒼ざめた。思い詰めているとは知っていたが…まさか、そこまでとは。
「…別邸の者は失踪の一件を、宰相閣下の怒りを恐れてすぐには報告しなかった。でも、いよいよ肚を決めて報告しようとした時になってミティア嬢は館に戻った。…そんなところか?」
 エルンストの洞察を、サーティスは態度で肯定した。
「館にいたのが三日程だから、恐らくは…」
「…となると、ミティア嬢が命を狙われているというのは…」
「これが面倒臭いことに、そこも嘘じゃない。…というより、本当の目的は誘拐だったんだろう。マキが彼女を見つけたとき、彼女は誘拐さらわれかかっていたんだ。あれが機転をきかせて追っ払い、ミティア嬢を乗せてうちまで馬を走らせて事無きを得たんだ。ありのままを言えば、誘拐さらわれかかってたお嬢さんを助けてみたら、本人は自分で自分を傷つけていた…というところだったのさ」
「なんていうか…凄い行動力バイタリティだな、あの子は」
 そんな場合ではないと解っていても、エルンストが思わず微笑う。生来なのか養父の薫陶か…あの娘はおそろしく明敏軽捷に動き回る。咄嗟の判断力も確かで、見た目よりもはるかに思慮深いようだ。
「…思いつきで厄介事に首を突っ込むなといつも言ってるんだがな」
 しかしその機転がミティアを救ったのだ。エルンストの笑いをやや居心地悪げに流し見たサーティスが、切り替えるように天井を仰いでから口を開いた。
「行き掛かり上、後追いなんて真似だけは思い止まらせた。…まあ実質、マキが説得したようなものだがな。ところが、彼女が私の館にいるところを誰かが見ていたのか、困った噂になってしまった」
「…“懐妊”…」
「そうだ」
 サーティスは軽く息をついて、雪催の曇天にむかって葉を落とした枝々が描く線を漫然と双眸に映した。
「私の素姓はともかく・・・・・私がここで医者稼業をしている事は、それなりに知られているからな。最初は王城周辺に住む自由民から宮廷勤めをしている者達へ、それからその主人達へ…そんな経路を辿ったのだろう。
 やんごとなき身分の令嬢が、人知れず、胡散臭い医者のもとを訪れる。かんぐられて当然だ。元々、それに近い噂はあったからな。その噂に変な信憑性がついてしまって、気がついたときには彼女はすっかり王太子の子を身籠もったことにされていた」
「…胡散臭いって…自分で言うかよ。しかし、あんたはその誤解をあえて解こうとはしなかった。何故だ?」
 エルンストの鋭角的な視線を、サーティスは瞼で遮ろうとして失敗した。仕方無く、白々しく視線を逸らして偽悪的な苦笑を閃かせる。
「仕方ないだろう。…彼女の中では、それが真実なんだから」
「サーティス!」
 サーティスは笑みを引っ込めて軽く手を挙げ、声を荒らげかけたエルンストを制した。
 エルンストもその一瞬で語気の槍をおさめた。
「…なあ、サーティス。俺だって一応、お前のこの国での立場くらい理解ってる。
 俺を…信用してくれないか。お前が望むなら、お前の名は決して表沙汰にはしない。教えてくれ、サーティス。何故あのお嬢さんはリオライ…誰よりも信頼していた兄にすら会わなくなってしまったんだ?一体何が起こった?」
 サーティスはゆっくりと、そして淡々と切り出した。
「少なくとも、お前さんが想像してるであろう最悪・・の事態…彼女が例の賊とやらに狼藉を受けて望まない懐妊をした、って話ではないんだ。
 彼女は身ごもってなどいない。だが彼女にはどうしても赤子が必要だった。…かの王太子が逝去した後、彼女の魂をこの世に繋ぎ止めるには…生まれる筈の無いその赤子が必要だったのさ」
「……!」
「彼女はその嘘を知っている。嘘と知りながら、その嘘を信じることで自ら正気を保とうとしている。生きて、その子を育てねばならない…と…。
 正直なところ、俺の理解の範疇を超えている」
 サーティスが深い溜息で一旦言葉を切る。
「生まれることが叶わぬ以上、赤子の命はそう長くはない。だがその赤子が消えるなら、彼女もまた、今辛うじて保っている心の均衡を失うだろう」
「あのお嬢さんの心は…もう壊れかけていると?」
「ある意味でそうだ。だが、まだそれを俯瞰する能力を残している。いっそ狂ってしまえば楽になれるのに、それを自身に許さない…ある意味、怖ろしく強靱といえるだろう」
「…じゃあ、リオライを避けた理由は?」
「宮廷における宰相の複雑な立場を、彼女は分かり過ぎるほど分かっている。この上、話を拗らせてはいけない、自分がただ受け容れさえすれば万事おさまる。しかし今はまだ受け容れかねていることを、決して宰相に悟られてはいけない…そう、思ったんだろうな。
 至って利発な娘なのに、哀れなほど厳格に躾けられた結果だろう」
 エルンストの見間違いでなければ、その時のサーティスは確かに…いたましげな色彩を浮かべていた。
「…受け容れる?複雑な立場?」
「悪意なきが故に一番始末におえぬ御仁とのことさ。今はあの坊やが唯一人こうべを垂れねばならん相手…」
「それってひょっとして…今上陛下のことか。それと、入内の話…」
 サーティスがやや毒を含んだ微笑を浮かべる。
「ひょっとしなくても…他にいるか?
 入内要請は事実だ。ミティア嬢への手紙でな。お嬢さん本人の同意を得て見せてもらった。あの・・レリアの息子にしてはおそろしく遠慮深い…だが、少々思慮には欠けるな。手順を間違ったばかりに、あのお嬢さんを狂気寸前まで追い詰めてしまったんだ」
「あの今上陛下がか…?」
悪意無きが故・・・・・・に、と言っただろう。…それだけに面倒だ。
 国王が、臣下たる宰相におそろしく気を遣っている様子が周囲にもわかるようじゃ、流石にまずい。それをあの坊やも理解っているはずだ。況してや国王と宰相の間にげきが生じているなんて思われれば…」
 サーティスはもう一度天を仰ぎ、何かを見定めるように眼を細めた後、大きく息を吸って…吐き出した。
「なぁエルンスト。この件、セレスに預けてやってはもらえないか」
「セレス、に…?」
 いきなり思いも寄らないところに話が飛んだことと、向き直ったサーティスの…何処か痛みに耐えるような表情に、エルンストは思わず声を失った。
「ヴォリスの坊やに説明が必要だろう。穏便におさめるには…最終的にあの坊やにしかるべく取り計らってもらうよりないんだからな」
 この男がひどく云いにくそうに…言葉を撰ぶ為に間を置くなど、見たことがない。そのことが、微妙に合点のいかない部分に関してエルンストの反問を封じていた。
「ええい、云ってしまうが…ミティア嬢を助けるに当たって、セレスもその場にいたんだ。彼女なら巧く説明することが出来る。内々でのほうがいいだろうが、彼女セレスが宰相に直接話ができるよう、お前から計らってやってくれ。
 あのお嬢さんを助けてやりたいと思うなら…それが、一番いい」
「サーティス、お前…」
 不意に、サーティスの目許が険しくなる。
「誤解するな。俺自身はツァーリが、宰相家がどうなろうと知ったことじゃない。ただ、マキがな…。あのお嬢さんをなんとか助けてやれないかと必死なんだ。
 …言っただろう。あれマキを泣かすと、後が怖い」
 そこまで言って、ふと苦笑を閃かせる。韜晦に長けたこの男にしては、下手な笑いではあった。いつも鈍いの野暮天のと揶揄しているエルンストにさえ見透かされてしまうようでは。
 今のサーティスは、紫電竜王しでんのりゅうおうの逆鱗に触れることより、あの溌剌とした少女の緑瞳が曇るのを回避したがっているようにしか見えないのだ。
 …ただ、そこを今指摘してもろくなことにならないだろう。エルンストはそこに関して口を緘することにした。
「その代わりといっては何だが…お前にはくだんの〝タヌキ〟についての情報を渡そう」
「件の…? ひょっとして、ミティア嬢を誘拐さらおうとした奴らか!」
「マキの奴、ミティア嬢を助けるときに賊どもから馬を一頭、馬具ごとかっぱらっていてな。馬具それから素性を調べてみたら面白いことが判った。あの坊やには妹御のことで心痛の最中だろうが、存外大事おおごとになりそうな雰囲気だ。
 お前の部下連中もそろそろたどり着く頃だろう。ここから先は、お前の仕事だ。巧く掴まえろよ?」

***

 雪の舞い落ちる曇天の下、どれくらい立ちつくしていただろう。ミティアはもう長いこと、別邸を囲む森の中に立って雪の帷帳カーテン の向こうを凝視みつめていた。
 今朝方、セレスが第三隊からの連絡を受けて館を離れた。わかっていたこととはいえ、その時が訪れたことを知って身を竦ませたミティアに、セレスは改めて事態を委ねてくれるよう説き、ミティアはそれを了承した。

 それでも。

 短い冬の陽が傾き始めると居ても立ってもいられなくなった。何ができるわけでもない。…否、今の自分にできることは、逃げずに向き合うことだけだ。そう思った時、ミティアはそっと館を抜け出た。
 遁走にげるためではない。セレスから真実を聞いたリオライがここを訪れる時、一番最初に出迎えるため…この静謐を抱いた森の小径で待つために。

 あの日は、全てから逃げようとした。心がちぎれそうな痛みから逃げたくて、此処で雪精の輪舞に手を伸べ…連れて行って欲しいと懇願した。しかし、雪精達がその手を取ることはついになかった。代わりに現れたのは容赦のない現実。

 近づく蹄の音に、ミティアはゆっくりと顔を上げた。

 雪の帷帳カーテンの向こうで、漆黒が舞う。茫漠たる白銀の向こうから、リオライ騎影シルエットが現れる。セレスを伴っていた。この寒空にまともな防寒具といえばショールだけというミティアの姿を認めて、セレスが顔色を変える。
「どうした、ミティア?何もこんな日に、そんな薄着でわざわざ迎えに出ることはない」
 リオライが下乗し、いつものように優しく手を伸べた。しかしミティアは一歩後退さがり、纏ったショールをぎゅっと握りしめることで兄の手を拒む。決意を秘めた双眸は、滲んだものを落としてしまわないよう…懸命に見開かれていた。
「ミティア…?」
「兄様…」
 ゆっくりと息を吸い、ミティアは深々と礼を執った。硬い表情で顔を上げると、口を開く。
「兄様…ご心配をかけて、申し訳ありませんでした」
「ミティア様、そのことは…」
 セレスが非礼を承知の上で敢えて遮ろうとしたのは、白さを越えて蒼白なミティアの顔色を慮ったからだった。
 告げなければならないこと。だがそれは、こんな場所で、こんなかたちでなくても良いはずだった。もうかなり長い間、戸外へ立っていた筈だ。これ以上は、いくら覚悟を決めるためとはいえ身体を損なう。
 しかし、ミティアはセレスの言葉を軽く手を挙げることで制した。
「ごめんなさい、セレス。でも、こうでもしないと…躊躇ためらってしまいそうなの。私、勇気がないから…」
 そして、精一杯の微笑を向ける。その微笑に、セレスは口を噤んだ。
 真っ直ぐに顔を上げ、はっきりとミティアは言った。
「兄様、国王陛下はわたくしのような者に勿体なき御諚を下さいました。…兄様のお許しがあるなら、私は陛下のもとに参ります」
「…それで、いいのか?ミティア」
 リオライが問う。ミティアが、ただ立っていることにすら奥歯を噛み締めていなければならないほどの力を要しているのを察していたが、敢えて問うたのだ。
「はい…私が…私自身が、それを望んでおります」
 リオライはミティアの腕を捉えて引き寄せると、自身の腕の中に包み込んだ。
「ミティア…!どうしてそんなに…すべて一人で抱えこむ!?」
 冷え切ったミティアの指先が、ゆっくりと兄の袖を掴む。
「私は元々、そのためにヴォリスの家に養われていた者です」
「関係ない。今のヴォリスの当主はこの俺だ。お前の望むようにしてやれる…親父殿が何を考えていたかなんて、俺の知ったことじゃない。お前はもうそれに従わなくていい。それでもお前は、それを望むというのか?」
 リオライが穏やかに諭す。だが、眼には涙を溜めたまま、微笑みさえしてミティアは言った。
「…兄様、お嗤いになりますか。力なき身で不遜なことではありますが…私は、あの方・・・が遺されたものを護りたいのです」
 流石に、リオライが呼吸を呑んだ。
「…ツァーリの国法では、王妃が必ずしも共同統治者としての資格を得るわけではありません。ただ、閣下もご存じの通り…ヴォリスの家から立后された場合は例外です」
 ミティアの覚悟を正しく伝えるために…セレスは敢えて補足した。リオライは頷き、改めてミティアを見る。
「…その通りだ。準王家たるヴォリス宗家から立后された場合、その妃は王族に準ずる扱いとなり、相応の手続きを踏めば1国王と同列の共同統治者として認められる。
 だがミティア、お前は本当にそれでいいのか?」
「リュース様は…とてもお優しい方です。ご自身もあまり頑健とは言い難いお身体で、あの方に託されたものを懸命に守ろうとなさっている。…それをお支え出来るのであれば、私もまた…ながらえる意味を見いだすことができましょう」
 後は肩を震わせるばかり。何度もその唇を開きかけて、嗚咽に堰かれて声にならない。セレスはいたましげに視線を伏せた。
「わかった、とりあえず屋内なかで聞く」
 リオライはそういう台詞でミティアの言葉を遮った。
 ミティアはようやく口を噤み、俯く。…と、不意にその瞼が閉じられた。
 緊張の糸が切れ、頽れかけるミティアをリオライはそっと支える。自身の外套マントの止め金をはずすと、ミティアを包んで抱き上げた。
 ミティアの唇は蒼い。
「閣下、ミティア様は…」
「気を失っただけだ。だが、体温が下がりすぎている。セレス、邸の者を呼んでくれ」
「はい」
 扉を叩くと、セレスが声を上げるまでもなく青ざめたゼレノヴァ夫人が飛び出してきた。
「ミティア様!あぁ、お探ししていたのですよ。また外へ出ておいでだったのですか」
「部屋を暖めろ。ミティアにとこを。俺が部屋まで運ぶから」
「はい、只今! …若様は大丈夫ですか、お顔の色が…」
「俺はノーア育ちだぞ?これくらいの雪がこたえるか。それより、早く!」
 段々と鋭角的になる当主リオライの声に、ゼレノヴァ夫人が畏れをなして奥へ走る。
 暖められた部屋の長椅子にミティアを横たえて後を侍女に委ねると、リオライはミティアが気が付いたら声をかけるよう言い置いてそこを出た。邸の者から別室にも火が起こしてある旨を聞き、そちらへ足を向ける。
 その部屋はすでに暖まっていた。暖炉で火が踊る。卓の上には温かい飲み物がすでに用意されていた。それで身体を内側から温め、窓の外に視線を移した。
 風は概ねおさまっていたが、空は暗灰色の雲に埋められ、辺りには黄昏が迫っていた。
 窓辺に寄り、その白い輪舞の向こうに何かを探すように…リオライは空を仰ぐ。

 リュースがミティアの入内を要求したところで、王都では既定のことという認識が大勢たいせいを占めているだろう。だが、リオライは今この時期に言い出した理由までははかりかねていた。
 しかし今日…エルンストの仲介で、リオライはミティアの警護を依頼していたセレスに面会を求められた。そのセレスから、誘拐未遂事件とその前後の事情を聞かされ、初めて納得がいったのである。
 生まれるはずの無い赤子はミティアの魂を繋ぎ止めたが、リュースには焦燥を与えた。リュースはミティアの産む子が私生児とされることを危惧したのである。出産する前にミティアを王妃として迎えることで、生まれてくる子を後嗣とする。…それが、ミティアの入内に言及したリュースの真意だった。
 本来なら、リュースはまずリオライに話を通すべきだったのだ。しかし、リオライに対して国王たるリュースに遠慮があったことが災いした。リュースにしてみれば、噂を基に後嗣にまで言及するのは憚られたのだろうが、それを私的な書簡という形で…先にミティアに伝えたことが…ある意味事態を複雑にしたといえる。
 そうなるべく育てられたミティアに拒める訳はなかった。国王となったリュースからの書簡となれば、それはいくら私信といえど、ミティアにすれば勅命に等しい。また、その認識がリュースには欠けていたことも混乱の一因だった。
 その時、鄭重に入室の許可を求める声があり、リオライは我に返って一も二もなく諾を与えた。
 セレスであった。
 リオライの前に片膝をつき、まだ少し融けた雪を纏いつかせた頭を垂れる。
「護衛をうけたまわっておきながら、この失態。申し訳ありません。一時よりかなり落ち着かれたのですが、まだ時折、混乱される時があって…邸を出る前、目を離されぬようゼレノヴァ夫人にはお願いしていたのですが。
 …責任は私にあります」
「莫迦を言わないでくれ。君のおかげですべてが分かったというのに…。俺から礼を言わねばならないほどだ」
「…恐れ入ります」
 セレスはもう一度、深く一礼した。だが、頭は上げないままだ。
「…だが、やはり、その…ミティアを手当てしてくれた人物のことは教えてくれないのだな」
「はい。…セレスの命に賭けて、申し上げられません。真実を閣下にお伝えすることをお許し頂く為、私はその方に関しての完全なる守秘をお約束いたしました」
 本来、第三隊の者にこのセレスのようなタイプの人間はいない。金で動き、金が切れれば平気で裏切る。すべてがそうだとはいえないが、傭兵にそれ以上のものを期待してはならないというのが言ってみれば常識であった。
 彼女の物腰はむしろ、由緒ある武門の…。
「セレス、君は一体…」
 そう言いかけたとき、扉の外からゼレノヴァ夫人の声がした。
 ミティアが目を覚ましたらしい。リオライは、今敢えて訊くことでもないと思い直して扉に手を掛けた。
「セレス、ミティアは本気なのだな?」
「…はい」
「…王命だからと諦めて従うのではなく…王妃という共同統治者の立場で、リュースを補弼したいと?」
「かつて、ミティア様の心は闇に沈む寸前でした。幻に縋り、自らを欺くことでその均衡を保とうとなさったことも事実です。
 しかし今、サーレスク大公殿下が一命を以て護ろうとなさったものを、力の能う限り護り続ける決心をなさることで…ミティア様は遂にご自身を闇の中からお救いになりました。
 閣下からは…儚げにお見えになるかと思いますが…芯の勁い方です」
 リオライは苦い微笑を浮かべた。
「俺もそれほど勁くはないさ。やらなければならないことが山積していたから、目を背けていられただけだ。情けないことに…な。そのくせ、目の前のことを片付けるのにばかり躍起になって、今までミティアの悲しみも、苦しみも、どうしてやることもできなかった。
 ――――昔、この館の中からミティアを連れ出して、アリエルに引き合わせたのはこの俺だ。この豪奢な鳥籠から、一時なりとも出してやりたかったんだ。実際、アリエルと話しているときのミティアはとてもいい顔をしていた。
 だが、それも…ただ俺の自己満足だったのかも知れない。却って苦しめる結果になったのかも…」
 自分がひどく埒もないことをつらつらと並べている気がして、リオライは一度口を噤んだ。
「…心が壊れるほどに深く傷つくものなら、最初から逢わせなければよかったとお思いですか?」
 リオライははっとして、セレスを見た。レイピアのようなこの女性の深い碧眼は、その時静かな悲嘆を湛えていた。推し測ることさえ厳格に拒むような、静寂しじまの歎き。
「…そうだな、それこそ…傲慢の謗りを免れまいな…」
 ゆっくりと、リオライは深く息を吐いた。
「…済まないが、もう暫くミティアについていてやって貰えるだろうか。エルンストには俺からことわりをいれておく。俺には何も出来なかった。これからどうしてやればいいのかも、実の処よくわかっていないのかも知れない。今はただ、あれの望みのままにさせてやりたいと思うだけだ。
 俺に出来ることはなんでもする。だからセレス、あの子を、支えてやって欲しい」
 リオライがそう言うと、セレスは一瞬呼吸を停めたようだった。
「…差し出口をお赦し頂いた上、勿体ないお言葉です、閣下」
 彼女が完全に儀礼に則った動作で、彼女自身の心の揺れを隠したのを、リオライは察した。
 ここで訊くべきなのかどうか。リオライは迷ったが、口を開いた。ここは訊かなければ、彼女は言い出せない。そんな気がした。
「セレス、何か…?」
 案の定、意を決したように…セレスが顔を上げる。
「閣下…」
 一度、言葉を切った。そして、振り絞るように言葉を紡ぐ。
「…赤児は…いるのですよ。後は、ミティア様からお聞きになって下さい」

***

 第三隊は俄に忙しくなった。ミティア=ヴォリスの誘拐を企てた者が潜伏している場所が浮かび上がってきたのだ。やはり、主人のいなくなった館を活動の拠点として無断借用していた。
 ディルから受けた報告は、エルンストがサーティスから得た情報と完全に合致していた。
 東のリーン。西のシルメナと共にシェノレスを後押しし、ツァーリの軛からの解放を果たした国。しかしそれから二月と経たぬというのに内紛が起こっていたのである。
 条約改正によって大侵攻以前とほぼ同じ権利を取り戻したリーンだったが、余勢を駆ってツァーリ東方の領土を切り取ることを主張する一派と、ツァーリとも融和し国力の回復に努めるべきとする一派、さらにはその中間とが一触即発の緊張を高めていたのであった。
 そのうちの一派が、内紛の制圧にツァーリの力を借りようとした。
 数代前にツァーリへ猶子として連れてこられたリーンの公子の裔を頼り、ツァーリ国内へ入り込んだまでは良かった。ただ、王城の森に与えられた館を維持するのもやっとだった公子の裔…イグナート伯には、国王・宰相への謁見を願い出ることが出来るほどの立場も器量もなかったのである。その情報には十分な価値があったにもかかわらず、それを巧く利用できなかった。
 挙げ句の果てにリーンから渡ってきた者達が独断で宰相家の娘をかどわかし、無理矢理宰相の目をむけさせるというおかしな方向へ話が転がってしまい、しかも失敗。震え上がったイグナート伯が自邸に引きこもって一族郎党で蜿々と鳩首凝議していたという次第であった。
 エルンストは第三隊を指揮してイグナート伯以下、とある廃館にいたリーンからの使者の身柄を抑えてリオライに報告した。
 リオライはそれを丁寧にねぎらった後、一旦エルンストを隊へ帰した。しかし暫くして、その日のうちに再度の呼び出しをかける。
 応じて出仕したエルンストは、執務室ではなく私室の方へ通された。
 暖炉で踊る焔をその紫水晶の双眼に映してエルンストを待っていたリオライの表情、そしてその日の奇妙な経過を考えた時、エルンストは自分が呼び出された理由におおよその見当をつけた。
「…〝衛兵隊〟でなく、〝俺〟に用事…なんだな?」
 リオライが口を開く前に、エルンストは言った。そうすることが必要だと感じたからだ。
「見透かされたか」
 リオライは、苦笑に似たものを閃かせようとして…失敗しくじった。卓の上に置かれたその手は固く握りしめられ、微かに震えている。
「…まったく、嫌になる。親父殿のやり方を心底嫌ってたつもりなのに、いざ自分が同じ立場になると、考えつく手段がとことん卑しくなるんだからな」
 そう唸るように言って、奥歯を噛み締める。言わねばならないことを絞り出す為に、凄まじい労力エネルギーを要しているのがエルンストにも判った。
 …だから、敢えて言った。
「今、戦乱となればおそらく泥沼になる。その芽は摘まにゃならん。…んなこたぁ俺でも理解るさ。そこで思い煩うな、リオライ。お前は、ただ命令すればいい。それがお前の責務だろう…ツァーリ宰相・リオライ=ヴォリス」
「エルンスト…」
「俺がこんなことを言うのは意外か? お前は、知っているんだろう。俺が何者か。
 …だから、呼んだ」
 今は真っ正面から軍が動かせる時期ではない。その余裕はない。しかし、戦の火種は国の事情に斟酌することなく燻るものだ。リオライの苦衷を、エルンストは理解していた。
 数年前になる。ツァーリのシードル卿が中心になって隣国シルメナの王位継承に絡む謀略を企てた時、エルンストはセレスを隊から外してその企みを妨害させた。しかし本来、エルンストは謀略そのものを否定するつもりはない。憎まれようが怨まれようが、それで流れる血がより少なくて済むならそれを是とする。そういう考え方があることを知っているし、そういった需要のもとに成立する生業なりわいもまた、存在するのだ。
 棄てられた岩山で、エルンストはそのためのやいばとしての技術を仕込まれた。今はその立場を離れたが、その知識と技術まで棄てた訳ではない。
「その通りだ…」
 リオライはすこし青ざめながら、傍らの書机の上にあった紙に数行の文字を書いた。だが、二つ折りにしたその紙をエルンストに差し出した時、そこに逡巡の色彩いろは無い。ただ、冷徹な宰相としての貌があった。
怪狼エルンストエルンスト・デア・フェンリスヴォルフ…順番は問わん。しかし、確実に、全員を」
「期日は」
「十日以内」
「承知した。ではその間、隊をディルに預けていいな?」
「承認する。…本当ならセレスも帰してやりたいところだが」
 エルンストは笑った。
「聞いてる。そこは気にするな。ミティア嬢はこれから大きな責任を負う立場になる。その警護は衛兵隊としての責務だろう」
「…そう言ってもらうと、多少気が楽にはなるな」
 リオライが大きく吐息する。

「セレスには…本当に感謝している」

  1. レリアはこの時点で王太后であるが、カスファー在位中にこの手続きを踏んでおらず、共同統治者としての立場を獲得してはいない。